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2025.06.30

【芝居】「ENCOUNTERS with TOO MICHI」THE ROB CARLTON

2025.6.12 19:30 [CoRich]

京都を拠点とする劇団の新作。東京では5回目だそうだけれどワタシは三鷹に続いて2回目。6月15日まで赤坂RED/THEATER。80分。

とある小さな島国の政府・シチュエーションルームに集まるプレジデント、セクレタリー、ジェネラルたち。島の上空に国全体を覆うほどの大きさの円盤状の未確認物体が飛来している。プレジデントは非常事態を宣言するが、物体からは何のコミュニケーションや攻撃がなく、目的が一切不明で、膠着状態に陥る。世界中でここだけに飛来しており、世界は注視している。
何も起こらないまま、コミュニケーションも攻撃ということもないままそのまま数ヶ月が経つ。国民の緊張感は薄れむしろ日照がないことで政府への不満が高まる。世界の注視ももうされなくなってしまった。

つまりは「未知すぎとの遭遇」というタイトル。確かに映画「未知との遭遇」だって意図がわからないまま飛来した飛行物体が、みたいな話ではあって、しかもTOO MICHの音感がTOO MUCHに似てて、音だけなら違和感がなく巧く名付けたものです。 物語としては、この膠着状態は終盤まで全く動かないのだけれど、これがどういうことなのか、という種明かし的なことはさらっと(それとはわからないように)序盤で早々に種明かしをしてあって、舞台の大部分は細かくすれ違う会話から生じる笑いを駆動力に進みます。序盤で一度丁寧に説明するから終幕はさらっと種明かしするだけで爆笑を生む、というのは巧いなぁと思うのです。

最後の最後で伏線を張っていたオチを回収した上、さらに「猿の惑星」かと思いそうなどんでん返しがすごい。

プレジデントを演じた森下亮はイノセントで誠実な造型と、時々鋭く突っ込む瞬発力で魅力的な人物を作り上げます。 ジェネラルを演じたボブ・マーサム(村角太洋)はおそらく役者の降板に関してもっとも忙しかっただろうなと思います。もしかしたら多くのセリフを背負うコトになってるんじゃないかと夢想します。

事前のパブリシティなどではメンバーの2人+客演の2人での上演を予定していたようですが、メンバー(村角ダイチ)が舞台は降板し、当初予定されていたプロフェッサーを調査のためこの部屋の外の現場に居るということにして、音声での出演というかたちになっていますが、わざわざ言われなければ気付かないほどに自然に構成されているのはたいしたもので。前作もそうでしたが、わりとかっちりしたスーツや制服を着た「働いている人」の現場でのコメディというのもありそうでなかなかない感じでスタイリッシュなのです。

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2025.06.29

【芝居】「Girls' Rush」スクランブル

2025.6.12 14:00 [CoRich]

2019年の「Men's Rush」(未見)と対をなすという劇団スクランブルの新作。90分。6月15日までシアター711。

結婚を考える富豪の女。恋人の男は返事が曖昧で延ばし延ばしになっている。女は過去に恋人と関係のあった女たちを集めて、男の全てを聞き、縁を切ってほしいと考えて女たちを一つの部屋に集める。

一人のモテ男に渦巻く愛憎戦記ともいうべきさまざま。初恋の人、学生の時に恋に落ちた教師、初めて同棲した女、若く諦めない女、心の隙間を埋めるため割り切った関係の女と、男の成長に寄り添った風な「歴代の」女たち。もうなんとも思ってなかったり、過去の想いが再燃しそうになったり、まだ粘り続けていたりと想いのグラデーション。一人の男を取り合う(取り合わない)女たちの構図ではあるんだけど、男の友人なるイケメンと、初恋の女の現在の恋人で思うあまりにここに紛れ込んだ空回りするイノセント(な男)という二人の人物を加えることで女たちのベクトルが一人にむかう放射線状というよりは乱反射してドタバタになる、といった感じに組み立てられています。 お嬢をサポートし暴走をたしなめる使用人を除けば、今作の登場人物は気持ちがいいほど自分の欲望に忠実ですし、男のことを告げ口すれば金が貰えるという甘言にいとも簡単に乗っかったり、紛れ込んだイノセントにしたって、恋人を守りたい一心だけど方向が間違いがちといったぐあいに、良くも悪くもペラペラに造型されているのだけれど、その関係をめまぐるしく変えながらこの時間の中にこれでもかと詰め込むことで立体的にみえてくるという不思議。

モテ男を演じた左良拓司はもの凄く声が良くて、モテ男に数段の説得力。それなのに筋金入りなダメ男な感じも楽しい。 彼女へのヤキモチから潜入した男を演じた中根道治は、卒アルと比べて出席者を確認みたいなシーケンスを序盤で繰り返したり「空回りする誠実さ」が巧いし、未だ実家住まいとか甲斐性無しとか物語にそれほど貢献しないような情けない要素を山盛りで背負うように見えてしまうというのはルッキズムだけれど、楽しい。金持ちの女を演じた環ゆらは金はあるけど浮世離れという昭和の女優のような造型なのに、結婚に関してだけ目の色変わるというのは役としてどうなんだと思わなくはないけれど、本当に乙女で可愛らしくてこの振り切りが素晴らしいのです。 初恋の女を演じた犬吠埼にゃんは、恋人の潜入した男とのバカップルのままの持続力の凄さに加え、昔の恋人を思い出す瞬間の表情の解像度の高さ。使用人を演じた岡本みゆき、いくらなんでも70歳は老け役に過ぎるとは思うけれど、唯一の常識人で謎の力を操るという謎めきがたのしく。

これまでの彼女たち(磯村アコ=恩師、中島玲奈=初めて同棲、竹内もみ=割り切った関係、新菜鈴果=若い女)を衣装で色分けしているのは戦隊ヒーローっぽく判りやすく認知能力落ちがちで助かるワタシです。青はクールの奥に欲望、橙はヤンキー風で本当に想ってる、白のフラットに割り切り、茶のこれから!というカラーコードかしら。若い男を演じた山石卓人はいろいろクールだけど抜け目ない、序盤の可愛らしさとギャップの楽しさ。

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2025.06.27

【芝居】「シホウドウセキ」日本のラジオ

2025.6.5 14:30 [CoRich]

日本のラジオの新作、95分。6月8日までインデペンデントシアターOji(王子小劇場)。

6年続く4つの暴力団の抗争に手を焼く警察は、極秘裏に各暴力団の幹部を集めて話し合いをさせて落とし所を探ることを決める。

2019年の「暴力団版ナイゲン」(未見) に続くというノワール会議劇、だといいます。「朝ナマ」風に登場した人物たち。正方形のテーブルの四辺に4つの組の代表者と、その後ろに警察の担当とのペアにして、組同士、警察同士、ペアの暴力団と警察同士が互いに潰し合ったり、なれ合ったり。舞台奥には国会議員、警察のエライ人、ビルオーナーが並び、残り三辺を客席が囲んでその真ん中に菱形に置かれた机で繰り広げられる攻防劇を眺めるのです。

元々の最大の勢力、元カタギの新しい形の対抗勢力、取り入ろうとする弱小の新興勢力、様子をうかがう最大勢力からの分派。対抗勢力を抑えようと新興勢力をけしかけたことに端を発する抗争が長引いた末の話し合いは、それぞれのメンツと引き際をめぐっての丁々発止。やったやられたをメンツを潰さず解きほぐすのは容易ではなくて、誰が始めたかを責めることを諦めても、ダメージを受けたところへ勝ったところが補償するのではどうかというのも、「負け」を認めることで潰れるメンツをどうするかで結論に至りません。金よりは引責を持ち出して、きな臭さは一段深みにはまり、この抗争をそれぞれの組の内部抗争に利用したりコレに乗じて密輸というシノギを警察に見逃すように頼んだりと、整理されたんだか混乱が進んだんだかわからないまま。

このカオスな状況を解決するのは、四つの組をまとめて警察が監視できるようにするためにひとつのビルに入居させるという無茶な案で、この場に唯一いる「カタギの民間人」に全てを押しつけるという無茶振り。マンガのように荒唐無稽な案の筈なのに、微妙にありそうな話に感じさせるリアリティだし、物語がすとんと落ちる気持ちよさ。

構成員であるというだけで、家族とアミューズメントパークに行くだけで逮捕されたり、自分の子どもがカタギの子どもと親友であることを打ち明けられなかったりといった、いわゆる「反社には人権はないのか」を折り込む話が組み込まれていて奥行き。おもにその部分を背負う弱小暴力団の若頭代行を演じた安東信助が飄々とした造型で目が離せません。最大勢力の幹事長を演じた山城秀之の狸親父っぷり、新しいヤクザたる舎弟頭を演じた笹井雄吾のインテリやくざ風、役名のサカキはポケモンのあれか、みたいな楽しさ。千葉の分派の若頭補佐を演じた吉岡そんれいのクセ強のしたたかな感じも楽しい。警官たちもなかなかの癖者で、岡野康弘や古屋敷悠が古くからなれ合ってる感、若く跳ねっ返りな感じもある日野あかり、別県警ゆえの姿勢の違うなれ合いなシオザキなど。ちょっとお花畑な雰囲気の理事官を演じた沈ゆうこの不思議ちゃんな感じのキャラクタは珍しい。政治家秘書を演じた日野あかりは少しカタギ視点で面白がりつつツッコミとして重要な役をしっかり。もっともカタギで、損な役回りを担う國枝大介の悲哀すぎないちょっとコミカルな感じ故に救われたり。

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2025.06.22

【芝居】「秘密」普通

2025.5.31 19:00 [CoRich]

2022年王子小劇場での初演作の再演。6月8日まで三鷹市芸術文化センター・星のホール。130分。

物語そのものは大きくは変わってないし、シンプルにダイニングテーブルと椅子だけという舞台も変わってないのだけれど、王子小劇場から星のホールへと変わったことで、どちらかというと観客からは見上げる感じから見下ろすようになり、三鷹の広い空間にぽつんとあることでより洗練された空間になった印象。そういえばテーブルと椅子もだいぶ「いいもの」に変わってる感じ。

序盤の父と娘のかみ合わない会話が延々続くのは初演どうだったかしら。こんなに尺あったかなと思ったりします。

年老いた両親と若くなくてそれぞれ家庭を築いている子供たち、老いた二人でも惰性というかそれまでの継続で何とか成立していた生活が、母親の入院の結果の父親の一人暮らしによって、バランスが崩れてしまいます。 もう二人だけでは生活は成立しなくなっているのに、なまじ献身的な娘の同居という選択肢を味わってしまったために、施設に入るとかヘルパーを入れるということを嫌がり、子供たちがなんとかしてくれる、というある種の甘え。 おそらくこの両親じたいは同居していた兄弟が面倒をみていてそれぞれの親の老年期に同居したり介護したりということをしてないんじゃないか、と想像してしまうワタシです。 両親揃って実家に置いて、娘が家に戻ると、「もう何も出来ないの」とばかりにすぐに呼ばれて、舞い戻る羽目、というのはある意味ホラーです。母親が退院して近所の夫婦と話して居るときの、部屋の中で頭を抱える娘の絶望感は、俯瞰して見えるこの劇場だからの新しい発見です。 役者としては現れないけれど、孫を物語に織り込むことで出来ることが増えていく子どもと、出来ないことが増えていく老人の対比は残酷なコントラストになるのです。

喧嘩する父母の大声、恐らくは耳が遠くなっている父親、何もかもが初演のときよりももっと身近で日常になっているワタシにとっては息苦しいほどリアルに感じます。なんで日常を金払って観に行くんだという気がしないでもありませんが、箱庭のように客観的に観る体験はそれはそれでどこかワタシの心の平穏に寄与してるのかもしれません。

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2025.06.19

【芝居】「Venus誕生」劇団Venus

2025.5.30 19:00 [CoRich]

小田原の螺旋階段の緑慎一郎の脚本に、横浜の045 syndicateの中山朋文の演出という神奈川の演劇人のタッグなのに、なぜか埼玉の女子プロレス団体アイスリボンによる演劇ユニット Venusによる演劇公演、とは言いながら本物のリングでの迫力などリアリティ溢れる一本。60分ほどだったかと思います。レッスル武闘館にて。毎週末の上演で、5月30日が千穐楽。

設立された女子プロレスに応募してきた練習生たち。リングの上で厳しいトレーニングを続けている。練習後、試合を見に行き、本気のプロレスの試合を目の当たりにする研究生たち。想いがすれ違う。

実際に存在するプロレス団体の練習場らしき場所。本格的なリングだけれど、客席は一方のみ。ドリンク一杯を手に席につきます。

続編を前提としているであろう物語の序章となる本作は、若い女性たち、女優もプロレスラーたちも交えた青春群像劇的な幕開け。恐らくは団体の社長、コーチ、スタッフ、あるいは対戦相手たちが本物団体、アイスリボンのプロレスラー。練習生が(プロレスラーではない)女優たちなのだけれど、それにしたって、スクワットを始めとするトレーニングは本当に厳しそうに体力目一杯なもの。そのあとは中身は熱いけれど、いたって静かな現代口語演劇的な芝居というコントラストもちょっと面白い。彼女たちが観戦しに行く試合はホントのプロレスの試合なんだろうという迫力(本物の生観戦未経験なので)。これを観て観客が熱い想いを重ね合わせるというのは、よく聴いているラジオパーソナリティがそれまでは推し活がまったく判っていなかったのに突然ハマりまくっているということと合わせて、ワタシもちょっとその気分を味わうようで楽しいのです。

今作ではスパークリングと試合は撮影OKというアナウンスでした。千穐楽となったこの日の最前列は一眼カメラを携えた主にオジサンたちで溢れています。色温度測ってたりと本気で綺麗な写真を撮ろうという気合いに満ちあふれています。芝居もプロレスも見世物であり興業であるということは間違いがないのだけれど、若者たちの汗まみれを見て楽しく思いそれを(報道とは別の意味での)作品にしようとすることのある種のグロテスクさについて改めて思ったりもします。それは女子プロレスだからというわけではなくて、クロムモリブデンの上京初期に秋葉原でチラシを撒いた結果、終演後に王子小劇場のロビーに一眼レフ(当時)溢れたオジサンたちが溢れたあの光景とか、未経験だけどいわゆる地下アイドルとか、あるいは高校球児にしても高校演劇に対してもずっとワタシが抱える違和感なので、じゃあ、なんで芝居という見世物観に行ってるんだと言われるとぐうの音も出ないわけで、その違和感を確かめに行くというのも、もう奇行に近いのではないかと自覚するワタシです。

とはいえ、プロレス試合シーンは確かに心は動くんだよなぁと自覚しつつ。ベビーフェイスで戦うプロレスラーを演じた、しのせ愛梨紗の小さな身体で目一杯溢れる闘志の迫力、(おそらく)タッグを組んだ藤本つかさの頼り甲斐。 昭和プロレス好きのややオタク気質な練習生を演じた松橋ななを、懐かしい名前を連呼してくれたから(作家のセリフとは思いつつ)やけに印象に残ってしまうのです。

今後も続編前提かと思いますが、ちょっと通ってみようかなと思ったりします。

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【芝居】「乱鴉傷(らんあのいたみ)」チリアクターズ

2025.5.30 14:00 [CoRich]

チリアクターズの新作。6月1日までスタジオHIKARI。110分。

行方不明の妹を追って森の中をさまよって、たどり着いた建物で子どもたちに出会う。不死を目指した研究施設で、アンチエイジングのために成長を遅らせ子どものままに留めるという研究をしていた施設だった。

全体に黒で統一された舞台、妹を追う男がたどり着いた先で出会った研究者たちと「子ども」たちは、狂った研究のために共棲しているような隔絶された空間で。 不死を研究している研究者自身は大人なのにすでに不死を手に入れている風なのに少々混乱するものの、大きな問題ではありません。研究者たちはこどもたちを守ろうとしていたり、ハンマーとノミで人の頭をすぐに開こうとす売る天才少女だったり、探している妹に瓜二つな研究の成果だったりと、隔絶されているがゆえにそれぞれの方向が先鋭化され、残っているということ。とりわけ、研究している「子ども」たちを小さな三角錐に入れて動かす感じは、研究対象という風に見えて、ちょっとコミカルな見かけに反して、その対象が人間であるということの怖さを内包します。

という具合に、わりとシリアスなタッチで語られる物語なのだけれど、中盤でインターミッション的に二人の「子ども」がボケ倒すシーンの軽さは観客の心の弛緩でもあり、わりと好きなワタシです。

中場から現れる、エス姉妹とエヌという存在。エスとエヌ一つずつならぴったりあってずっと一緒なのにエスが一つ多いがゆえの不安定な関係というのはちょっと面白い構造に見えています。さまざま、この狂った研究に終止符を打つのは、不死の研究者に対して繰り返し刃を突き立て、しかえすことで繰り返し殺し合う煉獄の救いのなさ。

終幕、ここに来てはじめて舞台中央に現れる大木を背に、探偵イタバシを取り込もうとする黒づくめの男、抱き合うようで恋人なのか、腕を無くしただれかなのか、あるいは妹なのか。カラスのような黒い羽が舞い落ちる中、二人が抱き合う終幕は美しいけれど、悲しく、しかもぎょっとするような怖さが響くのです。

不死となった研究者を演じた上田幸侍は、エス姉妹には舐められがちだが実はラスボスで居続ける存在感。天才少女と呼ばれる研究者を演じた木村涼香はノミとハンマーを持って駆け回る狂気なのにどこか愛想が見え隠れするギャップ。 腕を無くした男を演じた島田朋尚はともかく不気味であり続ける存在感。

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2025.06.18

【芝居】「穴熊の戯言は金色の鉄錆」MCR

2025.5.27 14:00 [CoRich]

MCRの新作。105分。5月28日までスズナリ。

精神科の入院患者・小野。病棟を徘徊していたりする。高校の頃はモテないキャラで自己評価低めで同級生女子・ゆかりがマンガを描いて告白してきても実感が持てないが、手を握った瞬間二人は電撃的に恋に落ち、卒業後すぐに結婚する。 ゆかりは新人賞を取ったが、結婚し生活のためマンガの執筆を諦めて小野とふたりバイトの日々を送るなか、小野は突然バイトを辞めるが、偶然知り合った男に誘われ割のいい闇バイトに誘われ、余裕が出来たゆかりは小野に言い出せないままマンガを再開する。 小野はバイトが殺し屋の手伝いだと認めるざるを得なくなり人格が壊れてゆく。ゆかりが知らせずマンガを再開したことを知っても、再開したかったゆかりにそう言い出せなかったことを謝り責めることが出来ないが、更に無理がたたり、小野は倒れてしまい、そのまま入院する。 病状は好転せず、殺し屋の同僚のことも、医者のことも区別がつかなくなっているが、付き添っている看護師の女のことはずっと同じ人物に見えている。

無頼な振る舞いと一人への想いの混在というか同居が持ち味と感じている作家ですが、今作は無頼な雰囲気こそ唐突とも思える「殺し屋」に残像がありつつも、一人への強い想いがありつづけること、成し遂げがたい現実のありようとの狭間に「押しつぶされてしまった」男の視点と現実を切なく描くピュアなラブストーリーという形に発露しています。決して長い上演期間ではないのに、ネットでは数回通ったという観客まで散見されますが、それも宜なるかなと思わせる仕上がり。

序盤、学生たち、まあいい歳の役者たちの学生服にセーラー服とコントのようで、しかも怒鳴り合うような会話からの告白だったり、コンビニで受ける理不尽な仕打ちだったり、たまたま貸してしまった携帯でヤクザに追われかねない羽目に巻き込まれたり、と本当に怒濤のように振れ幅の大きなコントのようなスケッチと、静かな医者と良くなる兆しのない患者との静かな会話を交互に挟みながら進みます。つか芝居か、というぐらい怒鳴る声の応酬だったり、あるいは静かに丁寧に話して居るけれど言ってることや考え方が怖い人だったりのコントラストなど、ともかく振り幅をもって提供されるのだけれど、やがてそれらが、まるで一本の木から削り出されるかのように冒頭で告白しあったカップルの物語として現れるのです。

語られる誰が誰かわからなくなっていく見当識障害がこんなにも自然に描かれているのが実は凄いと思うのです。いわゆる認知症の代表的な症状で、親にとっての現在進行形、あるいは自分の老い先にありそうなことでもあって物語とは別に迫って感じられるワタシです。今作では恐らくはそう老いているわけではない男の話だけれど、こう見えているのだ、ということがリアルに立ち上がる感じで、調べて頭ではわかっていたことが目の前で自分のこととして体験できることのリアリティの凄み。終幕、それがきわまった挙げ句、他人からはこう見えている、と「判明すること」の切なさが、物語のもつ力以上に切実になるのです。

入院患者の男を演じた小野ゆたかは、自己評価低めでしかし一途な気持ちはありながらもままならない男の切なさ。長く拝見している役者だけれど、代表作といってもいいぐらいに印象的。 恋する女を演じた帯金ゆかりは、本格的な芝居で拝見するのはもう何年ぶりかだけれど、あのテンションと弾けっぷりは双数姉妹や北京蝶々のあの頃のままで本当に懐かし。そこにこの深み、ラストのダンスで泣かされるとは。

中川智明は、コンビニで理不尽な目に遭っても穏やかで若い部下に対しても言葉は丁寧だけれど、実は殺し屋だし、凄むときの切れっぷりのダイナミックレンジの広さ。教師を演じた堀靖明は穏やかに困らせられる前半に対して、終盤の台詞「見えなくちゃいけないものが見えてない、捨てちゃいけないモノを捨ててる」の強いテンションは彼にしか出来ないぐらいに強くて、このコントラストが演じられる強み。電話を貸してもらう女を演じた加茂井彩音は借金でヘラヘラと酷いことになっていることをあっけらかんと明るく演じるのが、逆に深刻な今を描いてると感じます。高校の同級生を演じた荒波タテオと山川恭平のモテない同級生っぷり、微妙に距離感が違うコントラスト。看護師を演じた小川夏鈴、ともかく可愛らしく、きちんとしていて、なのに実は、という儚さも。

三段に組まれた舞台、黒を基調にした壁にワイヤフレームのように白い線。斜めや縦に所々つけられた白い線は、シーンによって照明の光の縁にぴったりあって実に美しく精緻なのです。

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2025.06.10

【芝居】「ソファー」小松台東

2025.5.18 14:00 [CoRich]

小松台東の新作。大きなソファーを巡る物語。110分。5月18日までスズナリ。

一人暮らしだった父親が亡くなり、兄弟たちが集まる。実家にはソファーだけが残っている。長女はそのソファーの思い入れが強く、処分することができない。その夫も連れてきている。東京に出ている長男は久しぶりに来たが相談なく実家を処分することを決められたことが不満に思っている。再婚た次男は若い妻を連れてきている。
母親は先に亡くなった。夜の仕事で帰りが遅い妻を待つために、父親はこのソファーを買い、ここで待っている。

幕開け、娘は買ったばかりのソファにまたがって寝てる(大人の女性がやっても不自然じゃなく子どもに見えるぐらいに大きいソファーという存在感)、母親は水商売にでかけ、父親が車で送ろうとしている夕方の風景。おそらくは娘から見えているソファと父親を結びつける最初の風景。そこからソファはそのままに、父親が亡くなったあとの子供たちの話し合いと交互に物語は進みます。 長女はとりわけソファに想いが強く、長男次男はそうでもなくて。そこに同席する「他人」の存在が巧くて、長女の夫は序盤の緩衝材、中盤で言うべき点をキリッと言い物語をキュッと締め、次男の若い妻は面白がると言う機能で物語を先に進める駆動力に。

母はちょっと奔放に描かれていて、地元の老舗和菓子屋の若旦那を酔っ払って連れ帰るシーンはわりと強烈です。それでも穏やかに応対する父とのもう、なんだか判らないバランスオブパワーがくるくるとかわる濃密な空間は目が離せません。 父親を演じた佐藤達は木訥で、しかし待ち続ける強い想いをベースに持ちながら、和菓子屋の若旦那を演じた瓜生和成(このワンポイントの登場)のヒールにキッチリ対峙するシーンなのです。

あるいは、母が酔って朝帰りして父と二人けだるい昼過ぎ、もとは同級生だった二人だけれど、卒業後に母は女優を志して上京したけど夢破れて戻り、父は再会して結婚にこぎ着けたとか、今度の同窓会に行くか、いや夜職だから二次会で迎える側だ、というフラットな会話で二人の過ごしてきた長い時間が濃密に描かれます。母を演じた江間直子の華やかだけれど年齢を重ねているという雰囲気が説得力。

そこから続く二人のちょっと性愛的な雰囲気は何かが戻りそうなとても幸福なシーンだけれど、しかし「機能」しなくて、それでも妻が寄り添い抱きしめて戻るかと思った瞬間に娘が帰宅してしまいそこで終わりになってしまうのです。もしかしたら、それこそが最後の二人が恋人的な関係であったかもしれない切なさ。

終盤、長女が恋人を連れ、次男も再婚相手を連れてきて、長男を合わせた家族たち7人が勢揃いする瞬間、もしかしたらこれは存在してない瞬間なのかもしれないけれど、きっとあったはずの、「家族」が幸せに揃う瞬間は記念写真のよう。長女を演じた山下真琴は物語の核をきっちり背負い切ります。長女の夫を演じた今里真は緩衝材のような板挟みのような立場なのに、ここ言うべきというポイントでしっかり言う素晴らしさ。 次男を演じた今村裕次郎はややダサ目に着こなした赤いセータがやけに可愛い。(チラシにある写真のそれを借りてるらしいと、終演後の挨拶で)その妻を演じた道本成美は面白がるという役割に違わぬ奔放に明るい雰囲気が楽しい。

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2025.06.04

【芝居】「楽屋〜流れ去るものはやがて懐かしき〜」しがない会社員は週末だけヒロインを夢見る

2025.5.17 18:00 [CoRich]

劇団Q+所属の女優・美雪( note) による自主公演の旗揚げは 清水邦夫の「楽屋」(戯曲アーカイブ)。 70分ほど。5月18日までカフェムリウイ屋上劇場。

「楽屋」は他での上演を何本か観ています( 1, 2, 3)。 「かもめ」上演中の楽屋に居る女優「たち」の悲喜こもごも。生きること死ぬことを時代を交えながら、しかし女優たちの業の深さが渦巻く濃密な物語。

今作は、鏡前を模したテーブルを上手手前に、ベンチを下手奥にというぐらいごくシンプルにな舞台。舞台の壁に帯状に設えられた金属板に小道具類を貼り付けておくというのはうまい工夫で、とりわけ鏡前の小さな化粧道具類が貼り付けられた状態というだけで、女たちのものがたりという舞台空間を開演時点から醸し出します。小道具類が銀色に塗られ、壁の金属板が銀色のストライプ、でちょっとウルトラマン(円谷プロの所在地近く)を勝手に感じるワタシです。

上演はオーソドックスに違和感なく。訳の年代による違いのあたりのシーンが私は好きなのだけれどそこも実にコミカルに、たのしく楽しめるのです。きちんと丁寧につくられているのです。

この劇場はドリンクを含む形で上演されていますが、久々に伺ったら椅子にカップフォルダーを設えるようになっていました。今作だけなのか、劇場の設えが変わったのかは判りませんが、上演中にカップや瓶を持たせたり床に置いたりして不測の事態が起こることを少しでも防ぐ工夫がありがたい。

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【芝居】「パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。」趣向

2025.5.10 18:00 [CoRich]

2021年初演(未見)、2022年の再演 を経ての再々演は、長野、大阪のツアーを経て、初演と同じ神奈川県立青少年センタースタジオHIKARI。5月11日まで130分。三演とも同じキャスト、作演というのも珍しい。

コロナ禍に集まり、戯曲を持ち寄り読み合わせと感想を言う会に集う人々。クリスマスに公演をしよう、ということになる。

コロナがなくなったわけではないけれど、この芝居のもとになった活動が実際に行われたり、この芝居が作られた2020年21年ごろにくらべると、ほんの数年前だけど、気を遣いながら知り合いだけで繋がって密かにあつまる感じというのはもうずいぶん前のコトのように感じられてしまったりもします。コロナの頃というよりはもっとまえ、それこそ秘密結社とか地下組織のような遠い距離感で、ある種のツクリモノっぽく感じてしまうのは私だけだろうかと思ったりするのです。

いわゆる生きづらさを抱える大人たちが集う、しかし「支援団体」のような明確に与える側・受ける側という立場ではないあくまで私的な集まり。それぞれの生きづらさゆえに、何がキッカケで感情が爆発するかわからないし、人との距離感がバグったり、社会や人々に対する不安をずっと抱えていたりと「普通」とされるひとびとよりも脆弱さをもっていて、それでも場を維持するためのその場に対する「ルール」を明文化することが互いのためという認識があったりという理性的な気持ちももちろんあって、それが併存している危ういバランスの上に成り立っているコミュニティの危うさ。

彼らにとっては「完治」ははくて「病を手なずけ、日々を生きていく」ということも現実で、今作はそうしていく人々を描いています。「演劇の上演がされた」ということこそ成し遂げられてはいるけれど、それもまたゴールではなく、日々を生きていく通過点を描いているのであって、今作は必ずしも物語として腑に落ちる感じが少なめ。それでも、物語としてどうにかなるものではない題材を、精緻かつ誠実に描き出すということで現在の日本の、ある人々をアングルをもって切り取り描き出していて、それも同じキャスト・作演で繰り返して上演していこうという座組の覚悟は大したものだと思うのです。

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