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2025.05.30

【芝居】「あるアルル」やみ・あがりシアター

2025.5.6 17:00 [CoRich]

やみ・あがりシアターの新作。北とぴあ・ペガサスホール。125分。5月6日まで。 公演期間中に上演台本の無料公開までしてしまう心意気。

いろんなことで、起こりがち・ありがちなことを言い当てることを得意とする「あるある仙人」を名乗る男。一日一回昼ちょうどに「あるある」をひとつ「授かる」のだという。それには真実が込められていて、結果、自分の知りたいことにたどり着けるのだという能力は高校生の頃から友人たちの間では知られていた。
行方不明のゴッホの左耳といわれるホルマリン漬けを闇取引でヘマをしてなくしてしまったが、その行方を知りたいと、久しぶりにあるある仙人に会いに行くが、6年前に自殺した、弟子でもあった妻のことをずっと考えてマンションに閉じこもっている。

亡くなった妻のことを考え続けている仙人、仙人を許していない妻の母親、闇取引のブツを探している闇バイト、美大生の妹を応援しようと怪しげな取引のブツを盗み出したフリーターの姉、売れないシュールコントの芸人と売れたいマネージャー、脳外科の医師とセフレの看護師といったひと癖ふた癖な人々が入り交じり、ご神託ともいえるほどの「あるある」を「授か」ろうとすることで起こるドタバタを通して、「授かった」ことばで人生が変わったり、やがて妻もかつて関わっていた闇バイトが物語の起点につながっていきます。

「あるある」と南フランスの地名「アルル」をベースに、その地で暮らしたゴッホを人々が奪い合うマクガフィン的なものとして扱い、さらに代表作「ひまわり」を妻の名に、おもいついた「あるある」を顔の周りに貼り付けた付箋はもまた「ひまわり」というタイトルベースでの思いつきの連鎖は面白い。 正直にいえば、このタイトルからの思いつきの連鎖に縛られてしまっているがゆえに物語を描くときに身動きがとれなくなっている感じはあって、「あるある」に縛られているけれど、物語の中での機能は「お告げ」とか「ご神託」みたいなものだし、ご神託でゆるやかにつながる人々のそれぞれの人生が実はあんまり繋がっていないのは惜しいところ。それでもいわゆる端役がなくて、全ての人々に物語があって、それぞれの人生を編み上げて一つの物語に組み上げるのは、やみ・あがりシアターの美点なのです。

売れないシュールコント芸人を演じた大見祥太郎、福原瑞穂の低体温なブレ無さと、売りたいマネージャーを演じた宮崎柊太のコントラストが楽しい。亡くなった妻の母親を演じた川田希のちょっと場末のやさぐれた感はめずらしい気が。美大生を演じたチカナガチサトの元気気合いなキャラクタは眩しい。その姉を演じたさんなぎはコミカルさのまま通底低音のようで頼もしい。

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2025.05.24

【芝居】「逃げろセリヌンティウス」渡辺源四郎商店

2025.5.3 19:00 [CoRich]

5月連休のナベゲン祭りの最後は満を持して畑澤聖悟作の新作で「走れメロス」(青空文庫)をベースにした物語。5月6日までスズナリ。そのあと青森。

メロスは妹の結婚式のために必ず戻ってくると言い残し走って去ってしまったが、残されたディオニス王は人間というものを信じていない。竹馬の友セリヌンティウスは友を信じている。

友をひたすら信じ、という元々の枠組みは残しつつ、孤独を恐れ続けている王に焦点を当てて描きます。当日パンフにあるとおり、芝居など意外に文化に興味と理解があるらしい、というところ を糸口にして物語を紡いだよう。セリヌンティウスは弟子達が牢からの脱出に手を差し伸べるのに友への信頼ゆえにそれを拒否し、王はメロスの帰還を妨害するのは、間に合わず友を殺されてしまったメロスが自分を殺めてくれないかという屈折した心。それは詩を書き、悲劇を上演したいという密かな想いがあって、作者の自分が死んでこそそれが完成するのだとおもっているという、拗らせるにも程がある、というほどの屈折。

王は孤独なままだし、悲劇こそ上演されても、殺した妹や妻を巡る夢に苛まれたり、最終的には王子に殺されてしまう悲劇というベース。 それでも物語が陰鬱にならずに、軽快ささえ感じさせるのは、さまざまな役者が入れ替わりながら役を演じたり、弟子がセリヌンティウスを脱獄させようと何度か訪れる、同じシーケンスを少しずらしながら天丼で重ねていき、あるいは回転中華テーブルに役者を乗せてくるくると向きをかえさせたりと、コミカルな描写がいくつもあるから。 思い悩む男の孤独を、誰もが知っているであろ「走れメロス」の「B面」として、しかも軽いタッチでつくりあげるのは作家と劇団の持ち味だなぁと思うのです。

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2025.05.19

【芝居】「散華」渡辺源四郎商店・うさぎ庵

2025.4.30 14:00 [CoRich]

東京でのナベゲンのGW祭りの二つ目。うさぎ庵の名義で。90分。5月2日まで。

現代。江ノ島近辺で女と海岸で酒を呑み、女が買い物に行っている隙に自分だけ薬をのんで死のうとしている作家崩れの男。朦朧とする意識の中、津島修治を名乗る男に出逢う。 お互いに死を覚悟していると、鐘が鳴りお互いに入れ替わる。

太宰に憧れる作家崩れの男と、作家になる前に心中騒ぎを起こしている太宰が同じ江ノ島という場所でつながり、時空を超えて入れ替わり、太宰のその後を知っていて憧れているがゆえに、自死を思い直すように説得するおとこ自身が死のうとしてるというパラドックスを起点にするSF風味。 この枠組みに、太宰の方はそのあとに描く「散華」( 青空文庫)、つまり戦争に巻き込まれる賛辞でも断筆でも批判でもなく、日常を描く静かに通底する反戦を描きつつ、作家崩れの男の方には、離婚した元妻と娘の物語が実は太宰の「散華」に絡むのです。

いくつかは読んでいるものの太宰にそれほど傾倒しなかった私だけれど、会社をサボっては時々あるいた藤沢・腰越あたりの風景は良く覚えていて、ああ、あの場所かぁと思い出す数々。なるほど、それこそが「人間失格」( 青空文庫)の舞台だったのだなぁと思うワタシです。 SF風味とはいえ、決してエンタメ色の強いものではなくて、作家というものの自省が交錯する話はあくまでも静かに。娘を残して死んだかもしれない作家、という視点ではもしかしたらこの作家・工藤千夏(twitter)が重なっているのかもなあ、と思うのです。

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2025.05.14

【芝居】「駈込み訴え」渡辺源四郎商店

2025.4.27 15:00 [CoRich]

渡辺源四郎商店が毎年ゴールデンウィークの季節にスズナリで行う公演シリーズ。今年は太宰治をテーマにして、口開けは1日だけの公演。30分に構成した「駈込み訴え」(青空文庫) 一人芝居の上演と、「駈込み訴え」を上演しようとしている高校演劇部の物語60分(第70回全国高等学校演劇大会(ぎふ総文)優秀賞受賞作品)を組みあわせて上演。全体で95分。

駆け込んで来た男、「あの人」は酷い、居場所に案内するから殺してくれ、という。たいして歳も変わらないのに長い間、自分が彼の事を支えてきたのに、あの人はあんなに美しいのに、私のことを卑しめている。「駈込み訴え」(一人芝居)
「駈込み訴え」を上演しようとしている演劇部。部長は気高く、無茶を言う。同学年の演出助手はその無茶に付き合いずっと支えてきて三年まで残ったのは二人だけだった。厳しい縦社会に下級生たちはどんどん辞めている。演出助手は思わず想いを吐きだしてしまう。「駈込み訴え」(青森中央高等学校演劇部)

一人芝居。駈込み訴えを演劇にしたものは幾つかは拝見していますが (1, 2)、 ここまでがっつり原作通りに、しかも一人語りという小説自体のフォーマットに近いものは初めてです。戯曲ではなく小説とはいえ、一人語りの体裁なので、演劇としての上演も多いようですが通常50分程度になるものを30分程度での上演。一人であるがゆえに、濃密で力強い物語なのです。一人で舞台を背負う下山寿音はともかく目力が印象的だけれど、30分目を離せない迫力があります。

青森中央高等学校演劇部。一人芝居のおかげで、「駈込み訴え」がどんな物語なのかが全ての観客に共有された状態での開幕は巧い。それを上演しようとしている演劇部という導入だけれど、傍若無人にすら思える部長(福井来寿々)と、同い年なのにこき使われ支え続けている演出助手(丹羽桃嘩)という構図そのものが実は「駈込み訴え」のキリストとユダの関係になっているということに舌を巻くのです。 とはいえ、裏切ったままとか、殺されるなんて結末にはしないで、虐げられていた演出助手(=ユダ)が、愛する想いと、報われないことの悲哀を訥々と、強く語りかけることで和解につながる終幕の救い。 「最後の晩餐」の構図の模写を示すなど、観客が持っているかもしれない断片的な知識をつなぎ合わせるような細々とした仕掛けもあって、これもまた「教育」の形なのだなぁと思ったりするワタシです。

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2025.05.12

【芝居】「逆光が聞こえる」かるがも団地

2025.4.25 14:00 [CoRich]

劇団としては10回目となる本公演だそう。20代のおわり、いままでのところで作家が「目をそらしてきたこと」を描くのだという115分。4月27日までTHEATER/TOPS。

ベテラン女優にフックアップされ、大きな作品にかかわるようになってきた脚本・演出家。プロデューサーから次々と仕事を入れられるようになり、自分の物語を描いているだけではアウトプットが枯渇し始めていると感じている。
公演のある日、偶然高校で同じサッカー部に誘い、イジったりして本人も含め盛り上がっていた親友と再会するが、彼は職場でパワハラとされ再就職もままならなず、日雇いのアルバイトも続いていないことを知り、仕事を紹介する。

演劇の世界で認められつつある、まさにノっている男の前に、高校時代の友人が人生うまくいっていない状態で偶然現れることで思い出されたり起こったりするさまざまなことを描きます。 高校の頃に友人をイジり、それが当たり前で盛り上がって楽しかった筈の日々。イジられていた親友の方だって陰鬱な中学校までとは違って友だちもできて楽しい日々を暮らしていたという認識。親友の方はそれを唯一の「成功体験」として、何年ものあいだ、それを再生産する形で職場の後輩や同僚との人間関係を築く唯一の方法だと信じていて失敗し、再就職もままならないなか、作家と再会し仕事を得ることができても同じ失敗をしてしまうのです。それは時代が変わってパワハラやセクハラとされるような人間関係の距離感の取り方を続けてしまっているということだけれど、作家自身のほうは、演劇のプロダクションの現場を通して少しずつアップデートしてきている、という構図。

高校生の頃は作家と親友は同じ認識の上にあって、「イジりイジられ」関係を構築していて、それを両者ともなんとも思わなかったけれど、離れているうちに被害者だった側の認識がアップデートされておらず、加害者だった側が知らず知らずのうちに認識が更新されていたところにあの頃のままの親友が現れ、あの頃の酷さを改めて認識して愕然とするのです。

この構図をベースとして、作家をフックアップしたベテラン女優と新人俳優の稽古のありかたのズレであったり、女優のマネージャーが高校生の同級生の頃に容姿に点数付けしていたことを突きつけられたりといったぐあいに、権力勾配とか人間関係といったものの「普通とされ許容されてしまっていたこと」の時間を経ての変化の数々。創作の現場でパワハラとされることが指摘されることが聞かれるようになった最近だからこそその変化の勾配がキツくて認識されやすいともいえるのだけれど。

全体を通してみると、実のところ、作家と親友のことにしても、ベテラン女優と新人俳優のパワハラにしても問題は何も解決していないし、そう簡単に閉じることの出来ない問題として描いています。枯渇しつつある自分の物語に代えて、親友を「ネタにした」物語で次の新作を走り出してしまっていて、少しの後ろめたさを感じながらも、そのまま走ることしか出来ないということ。終幕近く作家が執筆するテーブルを囲む人々、それぞれの物語。ネタにした親友の影がみえても、それは扉の向こう側に閉じ込めて自分の創作には入れさせない印象的なシーンはほろ苦くて、しかしそれもまた現実なのだろうとも思うのです。 正義感で断罪したりせず、清濁を飲み込んだまま進む、としたことは危うさを感じながらも、作家の正直な気持ちだろうし、その意味で誠実だなとも思うのです。

と言った具合に、わりと重い物語なのだけれどところどころのデフォルメは「かるがも団地風味」。車で迎えに来て疾走する姉であるとか、マンガのようなベテラン女優のたたずまいはクスリとしたり爆笑を生んだり。マネージャーが仕事の一区切りで小さな扉を開けてビールを取り出す仕草を「久米宏」と称するのは、ニュースステーションの最終回だから20年以上前のこと。しかもこんな小ネタで、誰が覚えて居るのやら、と思いつつ喜んだりするワタシです。

作家を演じた板場充樹は苦難はしながらもどこかフラットで居続けていると感じさせるのはイマドキな感じ。無職で現れた同級生を演じた北原州真は無自覚でイノセントな被害者がシームレスに加害側に変わるという難しい役をしっかり。姉を演じた武田紗保は姉御っぽさ、とりわけ弟を想う気持ちの格好良さ。前半で説明を担うディレクターとカフェのアルバイトの二役を演じた百瀬葉はそのダイナミックレンジの広さが印象的。ベテラン女優のマネージャーを演じた北川雅は後半でみせた凛とした強さ。舞台制作者を演じた小澤南穂子はあくまでコミカルで楽しく、新人俳優を演じた内田倭史は観ているこちらが胃が痛くなるような繊細さ。ベテラン女優を演じた宮野風紗音もまたコミカル目一杯だけど、そのなかに風格を醸し出してしまうのがちょっと凄い。

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2025.05.10

【芝居】「寿歌」いいいのいー

2025.4.11 15:00 [CoRich]

1979年初演の名作戯曲と呼ばれるものの一つ。私は 96年のプロジェクトナビ版99年のブリキの自発団版04年の横浜演劇計画版 を観ていて、20年ぶり。80分ほど。平均年齢70歳のキャストで、4月13日までアトリエ第Q藝術。

ゲサク(戯作)という名の男、キョウコ(狂言)という名の少女が核戦争後の地球をリヤカーに道具を乗せつつ旅をしていて、そこに出逢ったヤスオ(耶蘇)という名のエルサレムへ向かっている男と出会い、しばらく一緒に旅をして、別れる、という物語。これを平均70歳のキャスト3名で上演ということ自体が新しいのだけど、映像ではありえなくても、芝居なら少女も青年を出来てしまうというのは判っていても改めてビックリするのです。

やはり私にとっては初めて観た湘南台文化センターでの上演の印象が強烈で、広い空間に降り注ぐ「雪」の美しさには、及ばないのは正直なところ。それは芝居にかけられるお金(時代も)が違うプロダクションの違いということなのだけど今作、その人物の部分をギュッとズームアップして観ている感じで、全体が「寄り」の芝居であることによって、人が激減してしまった世界の中で、しかしそこにも営みがあることがより強調されていて、その分、物語が濃密になったともいえるわけで、これはこれでなかなか味わい深いなぁと思ったりするのです。

ゲサクを演じた井村昂はしっかり者でちょっとスマートな雰囲気。キョウコを演じた伊東由美子は幼さすら感じさせる中性的な感じ。ヤスケを演じた猪股俊明は飄々としてどこかこの世のものではない雰囲気すら。

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2025.05.04

【芝居】「月曜日の教師たち」チーム徒花 (Cucumber)

2025.4.10 14:00 [CoRich]

千葉雅子と土田英生による舞台製作事業グループに、劇作家・演出家でもある岩松了、桑原裕子、早船聡を加えた共同執筆・演出と出演、さらに役者荒澤守を加えた115分。4月15日までザ・スズナリ。終演後公開された桑原裕子のnoteも楽しい。

島の中学校。職員室の外れにある畳敷きの小上がりがある準備室か会議室らしい部屋。特定の教師たちが時々集っている。新しく赴任してきた若い教師は生徒の人気もあって成績も上がって、地元でも評判を呼んでいる。同じ英語の先輩教師は面白くないが、野犬に噛まれたときに若い教師に貰った怪しい塗り薬であっという間に心を許す。美術教師は金がないのに怪しい薬に手を出している。社会科教師は島で唯一の寺の娘で住職の父が亡くなったばかり苦労している。数学教師は養護教諭に恋心を抱いていたが、別の男と結婚すると聞き動揺している。体育教師は妹の娘が教え子だったりするし、姉妹揃って男運が悪い。
若い男の教師の評判を聞いて、地元のテレビ局が取材に来る。

役者としても劇作家演出家としても一癖も二癖もある4人の共同脚本・演出に若手の役者という組みあわせ。 どうやって創作していくのか想像も付かないけれど、なるほど、なんとか一本の話にはなっているけれど、強烈なキャラクターばかりに見どころを目一杯詰め込んであって、実際のところ物語は枝葉が異常に細かく濃密なのに、全体で俯瞰すると唐突で断片な感じなのだけれど、それをねじ伏せるような説得力で押し切るのが楽しく、物語の緻密さというよりは、お祭りとして楽しむのが吉。そういう意味でいわゆる作家が出る芝居「文士劇」なんだろうけれど、普段から役者=出役でもある彼らのそれは、噺家による鹿芝居と呼びたくなる感じ(「はなしか」だから鹿芝居なので意味をなさないんだけど、なんかそういうニュアンスで呼びたい)なのです。

若く爽やかで人気のある教師がそのじつ裏の顔があって、というのが物語の骨子なのだけれど、若い教師の野心に乗っかったり野心にうまく利用されたり、という年上の人間臭い人々の悲喜こもごも。なんせ、岩松了演じる美術教師は金が無くて無心したりしがちなのに、怪しい薬に手をだしたり、桑原裕子演じる体育教師は、妹の娘が教え子で物語の核になるかと思いきやそれは放りっぱなしで、姉妹揃って男に色目使いがちで、しかもそれを利用されたり。千葉雅子演じる社会科教師は真面目な感じなのに時々思い込みで演説っぽくなってみたり、土田英生演じる英語教師は気の弱い男で野犬にも好かれちゃったりするけれど、体育教師の姉と妹両方に手を出してたり。 早船聡が演じる数学教師は、もうモラルの欠片もないイマドキはアウトばかりな性癖で突っ走る無茶な造型。 唯一役者専任として出演した荒澤守は爽やかで人気のある教師なのに、裏の顔の酷さのギャップ。

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