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2025.02.27

【芝居】「なにもない空間」劇団チリ

2025.2.22 17:00 [CoRich]

立川の劇団チリの「即興labo」と題して、メンバーを替えての二回公演。ピーターブルックの言葉をタイトルに。120分。

1)文字三つ:ひと文字ずつ発して単語にする。
ごく簡単なウオーミングアップとして。

2)双子エチュード:二人(=双子)が一人の人格として一文字ずつ発話し、もう一人と会話を繋げる。
このまえ も見たタイプの。

3)スピットファイア:二人の会話、後から一人が時々肩を叩き単語を入れられたら、その台詞をいわなければいけない。
肩を叩いて言葉を入れる側が、会話を混乱させるようにするか、成立させるようにするか。

4)二人の秘密:爆弾犯の二人、二つの爆発キーの仕草やセリフの縛り、シチュエーションは提示し、会話をしながら爆発キーを見つけられたら勝ち。
エチュードそのものというより謎解き的に勝ち負けが明確にあるゲーム性が最も大きい一本。エチュードは場を成立させるための媒体のような存在。

5)自分会議:二人の会話、一人はあと二人と脳内会議を開く。
アニメでよくある脳内会議的な。エチュードしている役者の頭の中で起こっていることを「ひらいて」見せているよう。

6)回想エチュード:会話をしている二人、他からカットインして、過去の回想を積み上げる
これも前回あったもの、ということはわりとこの団体ではオーソドックスな。

7)ペーパーズ:客からの紙、単語をひいたらそれをいわなければいけない。
これが一番盛り上がる、ということなのでしょう。同じ単語でも言い方一つで持って行き方が変わる楽しさ。

いくらかは稽古をして、設定やルールの面白さと役者の瞬発力に依存する「即興」の上演形態。立川という場所で実力派の役者たちを交えて定期的に稽古や公演という場を持ち続けるということの重要さ。できあがった物語を紡ぎ上げるわけではないので、参加するメンバーが一定しなくても、不定期だとしても稽古場という場を維持することができるというのがメリットで、きっと長く続けることで醸し出されてくるものがある、という気がします。

役者がどれだけ語彙を持っているかということが残酷なほど見えてしまう序盤はまさに、クオリティの半分は役者に依存するということが露呈したけれど、後半その役者もきっちり持ち直したのはたいしたもの。

とはいえ、「即興」を公演として出し物にするというのは奇跡が起こることがある反面、クオリティを維持することを明確に担保することが出来ない難しさがあるというワタシの気持ちは変わりません。それでも毎回とは行かなくても通ってしまうのは、ブラジリィー・アン・山田という人が培ってきた多くの役者たちとのつながりゆえの組み合わせの妙ゆえ。あるいはだいぶ前に小劇場で活躍していた役者をずいぶん久しぶりに拝見出来るある種の同窓会的なワクワクがワタシをこの場に引き寄せているのでもあって、もしかしたらまんまと主宰の思うつぼ、ということなのかもしれませんが。

櫻井智也のメタな視点でかき回す凄み、おがわじゅんや・竹原千恵の役者の地力、身体表現より台詞を主体とするこの場に中林舞が居る面白さ、(ピンチヒッターとして入った)中川智明をまた見られる嬉しさ。

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2025.02.24

【芝居】「Come on with the rain」ユニークポイント

2025.2.8 19:00 [CoRich]

静岡県・藤枝で活動するユニークポイントの新作。白子ノ劇場に変わる新劇場・ひつじ(穭)ノ劇場で。2月11日まで。70分。

医師の夫と専業主婦の妻。夫の学会発表のついでに寄ったベトナムの避暑地・ダラット。韓国人は多いが日本人は少ない町。 たまにはと安い宿に泊まり帰国の日、台風の直撃でフライトの予定が崩れ、宿のロビーにいる。妻は近所のカフェで出会ったバックパッカーの女をつれてくる。 女は教師だが半年以上休職しているが、長く一人旅を続けている。 宿にはオーバーステイの不法滞在の日本人がいるが、ホテルのオーナーと中が良く自由気ままに暮らしている。久しぶりの日本人に喜び、 近所の名物店に誘い、店をみてくるとロビーを出るが、外は嵐だ。

安宿で日本人ばかりで時間を潰す話となれば青年団の名作「冒険王」が思い浮かびますが、携帯のない時代の青年バックパッカーたちを描いた冒険王に対して、こちらはアラフィフアラ還世代でスマホをもち、地位も財産もあったりなかったりの格差というか違うステージにいる人々。裕福で子育てがおわった夫婦、どちらかというと権力側の夫と、専業主婦だったけれど社会と繋がりたい気持ちを持つ妻と。一人旅の女はメンタルを病み離婚し母親との二人ぐらしのなかの束の間の長い一人旅、オーバーステイの男は自由どころか不法滞在と。年代が同じぐらいでも、経済的にも考え方も立ち位置が遠く離れてしまった人々。すべてが金太郎飴のようで同質化している雰囲気だったあの時代と、格差はあれどそれぞれの顔がある現在と。いい悪いではなく、日本という国のありようが変容してしまった、ということを感じるワタシです。

どこか斜に構えた感じはあっても、目の前にけが人がいれば人のため働こうという自然な気持ちの夫、夫に蔑ろにされてきたと感じていた妻が、夫の「二人で穏やかに暮らせればよい」という言葉にキュンとする気持ち。一人旅の女が自分をみつめなおし、詩をかみしめ、味わい、再び前を向くこと。オーバーステイの男は自由で縛られたくなくどこか幼ささえもちつつ、現地の人と交わり、距離感と誠意といたずら心でしなやかに生きているけれど、ちょっと悲しい終幕。 それぞれの人生の一段落、変わること変わらないこと、見渡す周囲の風景で自分をみつめなおすことが、自分が今立っている場所に近く感じるワタシです。ワタシよりたぶんちょっとだけ年上の、劇団・成金天使時代からちょっと見ている劇団とワタシも歳を取ったなとおもったり。

現地人オーナーを演じた古市裕貴は人なつっこさ、ずっと居続ける他人の視線が優しく。夫を演じたナギケイスケはややいけ好かない感じだけれど、終盤での仕事に対する矜恃の格好良さ。妻を演じた西山仁実は秘めていた気持ちを旅先ゆえに解放して先に進める萌芽。オーバーステイを演じた古澤光徳は人たらしのバイタリティが舞台にテンションを。女性のバックパッカーを演じた山田愛は静かに考えていて一歩を歩み出す希望を細やかに。

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2025.02.12

【芝居】「メモリーがいっぱい」ラゾーナ川崎プラザソル

2025.1.24 15:00 [CoRich]

「川崎市市制100周年記念事業 若手演劇人によるプラザソル演劇公演」と冠がつく120分。2月2日までラゾーナ川崎プラザソル。

島にひとり暮らしている父親に婚約している男を会わせるために島に戻る女。顔見知りばかりの小さな島、初めてあった女の父親は、娘の笑顔だけを最優先にプログラムされたロボットだった。

ほぼ出落ちかと思わせた、コミカルなロボット描写から始まり、女が生まれたばかりのころにロボットであることを隠してすんでいたころから、娘の成長に従って友達ができ、やがて父親がロボットだということがわかっての軋轢を生みながらも地元のコミュニティに受け入れられていく過程を中心に描き、生まれたばかりのときに父親がなくなりその幼馴染がまだ試作品だったロボットを持ち出して父親としたいきさつ、娘が成長して島を出て婚約者を連れ帰るまでを目一杯詰め込んで軽いタッチの、しかし濃密な物語を描きます。なんだったら映画にでもできそう。

幼い頃から娘を愛し続ける父親はずっと気持ちは変わらないままなのに、娘にしてみれば無邪気にかっこよく思えていた幼い頃から、思春期になり恋人ができて干渉しがちな父親を疎ましく思い、さらにこの庇護のもとに居続けてはいけないと島を出ていくまでは、あくまで「強くありつづける父親の姿」だけれど、婚約者を連れて戻ってきて、結婚する頃にはむしろ老いている、という時間軸の早回しが絶妙です。人間ではこうはいかないけれど、進歩が著しい技術だからこそ、たかだか30年弱でもう補修用部品もアップデートもできなくなりつつある、という絶妙な設定がそれを可能にするのです。

父親を演じた豊田豪のやけにパワフルでコミカルであり続けるのがすばらしくて、荒唐無稽な物語をしかし力技で牽引するちから。おもに前半で経緯を語る老婆を演じた内海詩野のコミカルな語り口が軽快。 父親の幼馴染を演じた加賀美秀明とその妹を演じたモハメディ亜沙南はこのSF的な設定の背骨をシリアスめな語り口でささえるちから、「代車」の家事ロボットを演じた緑慎一郎そのSF設定をコミカルに彩ってたのしく、それなのに終幕の感動を掻っ攫うのです。すこしズレた会話のスナックママを演じた廣木葵はしかし、娘の上京の後押しという重要な役でもあって。 娘を演じた大山りき、その幼馴染を演じた伊藤圭太、遊佐夏巴は年齢の振れ幅がが楽しく、それなのに繊細。とりわけ伊藤圭太の小学生がやけに可愛らしく楽しい。

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2025.02.02

【芝居】「Yes Means Yes」serial number

2025.1.19 14:00 [CoRich]

2025年1月期のTBS日曜劇場でも注目される詩森ろばの新作は夫婦の間の性的合意をめぐって。1月20日までスズナリ。105分。

子どものいない共稼ぎのパワーカップル。ともに穏やかな日々を過ごしている。 毎週金曜日は「夫婦の日」の営みがルーチンになっているが、スウェーデンで成立した「YES MEANS YES法」を報じるテレビを夫が突然消したことに妻は違和感を感じて、その夜をやんわり断ったが、 翌日、夫は食事から外出まですべてを完璧にお膳立てして、夜、妻の「疲れている」の言葉を夫は「明日は日曜日だよ」と遮って求めてきた。 妻はそれをレイプと感じる。

穏やかな日々を暮らす夫婦の、セックスにまつわる(外から見れば些細な)違和感やすれ違いをきっかけに、女性が感じてきた、あるいは受けてきた性にまつわるトピックを中盤で、終盤では夫婦が前に進めるかもしれないスタート地点に立つまでを描きます。 5人の役者で構成されているけれど、あくまで女性ひとりの語りを中心に、ほかの男性5人で夫や、過去に関わってきた男たちを描き出す形で、女性から見える性の風景。

中2の時に吹奏楽部顧問に突然キスされたことを誰にも言えなかったこと、その影響で高校はすべての交際を「秒で断り」やり過ごしたこと、 大学生になり上京して付き合った男は「私を動物にしてくてた、自意識が溶けるような気持ち」にしてれて好きだったが、なあなあに転がり込んでバイトも授業もおろそかな上に、借金のカタに友人に恋人を抱かせるようなクズだったこと。 就職し仕事一筋のなかで、偶然週末に同じ映画をみたことをきっかけに付き合うようになった同僚と結婚して穏やかな日々を暮らしてること。 女性なら誰でも経験することなのかはわからないけれど、男からどこか対等に扱われていないことで「ひどい目にあっても仕方ない」という低い自己肯定感を内面化してしまった、ということ。 現在の夫との暮らしは穏やかだけれど、(程度の差こそあれ)、それでも対等でないと感じる違和感を丁寧に描くのです。

そんな日々の中、メンタルクリニックで出会った少々無遠慮な若い同性愛者の男と話し、彼が過去に母親からの性的虐待を受けたことを告白されて、「それに比べれば私のされてきたことはたいしたことがない」と閉じ込めようとする女に、閉じ込めてはいけない、声に出すべきなのだ、と内面化された規範の呪縛から抜け出すきっかけを受け取るのです。

単に男を断罪するだけではありません。分量こそ少ないけれど、男の側の「理由」も。 たとえば現在の夫の側の視点は終盤で。夫もまた(種類の違う)低い自己肯定感で、金曜日は「受け入れてもらえた」安心感であり、マッチョイズムに起因したものではない、とか。あるいは、母親からの性的虐待を受けた男からは、男の性被害者はまた、異性間であれば「能動的である」という女とは違う呪縛があることとか。 ともかくたくさんの要素を隙間なく詰め込んでいる感じで濃密なのです。

終盤、夫婦の会話。妻は自分を大切にするために、感じた違和感を率直に話し、「NoをNoといわなければいけないということを誰も教えてくれなかった」といい、夫もまた正面に向き合って会話するのです。 「金曜日の営み」をぎこちなく始める二人は、互いに「していいこと」を声に出して確認し、声に出して反応しあって、歩み始めるのです。 あまりにぎこちない二人の会話はまるでコントのようだと感じてしまうほどなのだけれど、ベースとなる信頼がじつはまだ構築されていなかったことを認識した二人にとっては大真面目で、このぎこちない会話が、すべての始まりの一歩で、言葉がなくてもコミュニケーションやコンテキストが共有できるようになる関係はそのずっと先にあるものなのです。 たとえばこれが初体験同士の二人なら、微笑ましいと感じる会話なのに、結婚して何年も体を触れ合ってきた二人が「ここから始めなければいけない」ことに気づけて、二人で歩くことを決めたことは、希望を見せる終幕なのです。

意地悪ないいかたをすれば、この会話、すべてYESで進んでいるのだけれど、 そこでどちらかがNOを発した時にどう折り合えるか、からが始まりなのではないか、と思うけれど、それはまた次の話で、最初の違和感を語り合えたことが最初のNoなわけで、きっと折り合える、と言うことなのでしょう。

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