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2025.02.12

【芝居】「メモリーがいっぱい」ラゾーナ川崎プラザソル

2025.1.24 15:00 [CoRich]

「川崎市市制100周年記念事業 若手演劇人によるプラザソル演劇公演」と冠がつく120分。2月2日までラゾーナ川崎プラザソル。

島にひとり暮らしている父親に婚約している男を会わせるために島に戻る女。顔見知りばかりの小さな島、初めてあった女の父親は、娘の笑顔だけを最優先にプログラムされたロボットだった。

ほぼ出落ちかと思わせた、コミカルなロボット描写から始まり、女が生まれたばかりのころにロボットであることを隠してすんでいたころから、娘の成長に従って友達ができ、やがて父親がロボットだということがわかっての軋轢を生みながらも地元のコミュニティに受け入れられていく過程を中心に描き、生まれたばかりのときに父親がなくなりその幼馴染がまだ試作品だったロボットを持ち出して父親としたいきさつ、娘が成長して島を出て婚約者を連れ帰るまでを目一杯詰め込んで軽いタッチの、しかし濃密な物語を描きます。なんだったら映画にでもできそう。

幼い頃から娘を愛し続ける父親はずっと気持ちは変わらないままなのに、娘にしてみれば無邪気にかっこよく思えていた幼い頃から、思春期になり恋人ができて干渉しがちな父親を疎ましく思い、さらにこの庇護のもとに居続けてはいけないと島を出ていくまでは、あくまで「強くありつづける父親の姿」だけれど、婚約者を連れて戻ってきて、結婚する頃にはむしろ老いている、という時間軸の早回しが絶妙です。人間ではこうはいかないけれど、進歩が著しい技術だからこそ、たかだか30年弱でもう補修用部品もアップデートもできなくなりつつある、という絶妙な設定がそれを可能にするのです。

父親を演じた豊田豪のやけにパワフルでコミカルであり続けるのがすばらしくて、荒唐無稽な物語をしかし力技で牽引するちから。おもに前半で経緯を語る老婆を演じた内海詩野のコミカルな語り口が軽快。 父親の幼馴染を演じた加賀美秀明とその妹を演じたモハメディ亜沙南はこのSF的な設定の背骨をシリアスめな語り口でささえるちから、「代車」の家事ロボットを演じた緑慎一郎そのSF設定をコミカルに彩ってたのしく、それなのに終幕の感動を掻っ攫うのです。すこしズレた会話のスナックママを演じた廣木葵はしかし、娘の上京の後押しという重要な役でもあって。 娘を演じた大山りき、その幼馴染を演じた伊藤圭太、遊佐夏巴は年齢の振れ幅がが楽しく、それなのに繊細。とりわけ伊藤圭太の小学生がやけに可愛らしく楽しい。

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2025.02.02

【芝居】「Yes Means Yes」serial number

2025.1.19 14:00 [CoRich]

2025年1月期のTBS日曜劇場でも注目される詩森ろばの新作は夫婦の間の性的合意をめぐって。1月20日までスズナリ。105分。

子どものいない共稼ぎのパワーカップル。ともに穏やかな日々を過ごしている。 毎週金曜日は「夫婦の日」の営みがルーチンになっているが、スウェーデンで成立した「YES MEANS YES法」を報じるテレビを夫が突然消したことに妻は違和感を感じて、その夜をやんわり断ったが、 翌日、夫は食事から外出まですべてを完璧にお膳立てして、夜、妻の「疲れている」の言葉を夫は「明日は日曜日だよ」と遮って求めてきた。 妻はそれをレイプと感じる。

穏やかな日々を暮らす夫婦の、セックスにまつわる(外から見れば些細な)違和感やすれ違いをきっかけに、女性が感じてきた、あるいは受けてきた性にまつわるトピックを中盤で、終盤では夫婦が前に進めるかもしれないスタート地点に立つまでを描きます。 5人の役者で構成されているけれど、あくまで女性ひとりの語りを中心に、ほかの男性5人で夫や、過去に関わってきた男たちを描き出す形で、女性から見える性の風景。

中2の時に吹奏楽部顧問に突然キスされたことを誰にも言えなかったこと、その影響で高校はすべての交際を「秒で断り」やり過ごしたこと、 大学生になり上京して付き合った男は「私を動物にしてくてた、自意識が溶けるような気持ち」にしてれて好きだったが、なあなあに転がり込んでバイトも授業もおろそかな上に、借金のカタに友人に恋人を抱かせるようなクズだったこと。 就職し仕事一筋のなかで、偶然週末に同じ映画をみたことをきっかけに付き合うようになった同僚と結婚して穏やかな日々を暮らしてること。 女性なら誰でも経験することなのかはわからないけれど、男からどこか対等に扱われていないことで「ひどい目にあっても仕方ない」という低い自己肯定感を内面化してしまった、ということ。 現在の夫との暮らしは穏やかだけれど、(程度の差こそあれ)、それでも対等でないと感じる違和感を丁寧に描くのです。

そんな日々の中、メンタルクリニックで出会った少々無遠慮な若い同性愛者の男と話し、彼が過去に母親からの性的虐待を受けたことを告白されて、「それに比べれば私のされてきたことはたいしたことがない」と閉じ込めようとする女に、閉じ込めてはいけない、声に出すべきなのだ、と内面化された規範の呪縛から抜け出すきっかけを受け取るのです。

単に男を断罪するだけではありません。分量こそ少ないけれど、男の側の「理由」も。 たとえば現在の夫の側の視点は終盤で。夫もまた(種類の違う)低い自己肯定感で、金曜日は「受け入れてもらえた」安心感であり、マッチョイズムに起因したものではない、とか。あるいは、母親からの性的虐待を受けた男からは、男の性被害者はまた、異性間であれば「能動的である」という女とは違う呪縛があることとか。 ともかくたくさんの要素を隙間なく詰め込んでいる感じで濃密なのです。

終盤、夫婦の会話。妻は自分を大切にするために、感じた違和感を率直に話し、「NoをNoといわなければいけないということを誰も教えてくれなかった」といい、夫もまた正面に向き合って会話するのです。 「金曜日の営み」をぎこちなく始める二人は、互いに「していいこと」を声に出して確認し、声に出して反応しあって、歩み始めるのです。 あまりにぎこちない二人の会話はまるでコントのようだと感じてしまうほどなのだけれど、ベースとなる信頼がじつはまだ構築されていなかったことを認識した二人にとっては大真面目で、このぎこちない会話が、すべての始まりの一歩で、言葉がなくてもコミュニケーションやコンテキストが共有できるようになる関係はそのずっと先にあるものなのです。 たとえばこれが初体験同士の二人なら、微笑ましいと感じる会話なのに、結婚して何年も体を触れ合ってきた二人が「ここから始めなければいけない」ことに気づけて、二人で歩くことを決めたことは、希望を見せる終幕なのです。

意地悪ないいかたをすれば、この会話、すべてYESで進んでいるのだけれど、 そこでどちらかがNOを発した時にどう折り合えるか、からが始まりなのではないか、と思うけれど、それはまた次の話で、最初の違和感を語り合えたことが最初のNoなわけで、きっと折り合える、と言うことなのでしょう。

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