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2024.06.30

【芝居】「黒い太陽」M²(M2)

2024.6.2 15:00 [CoRich]

先の大阪万博をめぐり岡本太郎が太陽の塔を引き受けるまでと、母・かの子の半生を描く110分。千穐楽。

大阪万博の開催が近づいている。万博のプロデューサーの一人・丹下健三は岡本太郎にも依頼し、小さな美術でもいいから万博に展示をだすよう、事務局も巻き込んで依頼する。ハンパク(中国新聞)の声渦巻く中、腰巾着といわれながら丹下が設計した大屋根。太郎はその中央に突き破るような大きな塔を建てるという。
太郎の母、かの子は良家の娘だったが、一平に見初められ結婚するが、すぐに一平は家に戻らないばかりか金も入れず、貧しい日々を送る。そんな中でもパリに行く夢を語り、或いは何人かの愛人たちとも一平とも同居して暮らすようになる。

当時の音源(風かもしれない)が流れる開場中。半円を描くような舞台、奥には天井から紐で形作られた円柱、その上にはもう一つの輪。岡本太郎が当初渋っていた万博に参画するまでの過程を丹下健三や事務局の人々と共に、また太郎の母の結婚から太郎が育った家庭を並行して描きます。

個々の物語として岡本かの子の半生(文春オンライン)、あるいは万博の大屋根をあとから突き破るような塔を作った話などを断片的に見聞きしていたりはしたけれど、それを一つにまとめあげて岡本太郎というたぐいまれなる天才が生まれ、花開くまでを、太陽の塔の背面にある「黒い太陽」を母への追憶を象徴のように据えて描く事で、時間軸を含めた奥行きのある見応えが生まれるのです。

岡本太郎を演じた豊田豪は、ともすれば史実の「お勉強」になりそうな物語をパワフルときにコミカルな人物を現出させる確かな力。もう一つの柱となる母親・かの子を演じた内海詩野もまた、別のベクトルで、人たらしで愛嬌があって可愛らしくという二人の愛人と夫との同居どころか欧州旅行などという荒唐無稽に説得力も役者の一つのちから。事務局の若手を演じたモハメディ亜沙南は、若く熱意とセンスのある若者をきりりと美しく。役名が瀬戸内晴美(物語には出てこないけれど、岡本かの子との交友がある瀬戸内寂聴の本名)なのはご愛敬。

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2024.06.24

【芝居】「service day」スクランブル

2024.6.1 19:30 [CoRich]

もともとは横浜・東京の二拠点での活動をしている劇団らしいのだけれど、わたし的には初めての横浜外での公演。6月2日まで小劇場楽園。90分。

縛りあげられ拷問されている男。殺し屋たちに仕事を割り振っている手配師だった。組織が壊滅させられて、復讐を企てる男女はハードボイルドとプロフェッサーと名乗っている。狭い部屋に次々と集められる人々は、手配師から仕事を割り振られていたそれぞれが殺し屋だが、復讐を企てる二人に牽制され、手配師のトドメをささないとこの部屋から出られないという。しかし、どこか手を下しづらく、押しつけあっている。

ビニルシートで壁を覆い、脚立やパイプ椅子などが無造作に並ぶ部屋。拷問とか殺人とかがおこりそうな、そんな狭い空間のワンシチュエーション。親子三代にわたる殺し屋だったり、カニバリ(人食い)だったり、格闘、車、爆薬、料理、なぜかバスルームといったそれぞれの「殺し屋の持ち味」があって、まあそれが必殺技だったり、なにかのこだわりを持っています。正直にいえば、家族の三人の物語を除いて人々のベクトルが違い過ぎて対立の構造になりづらく、たった二人を残り総掛かりで対抗しないのはなぜか、なぜ彼らの間にこうも長い間の緊張感が持続されるのかという入口で引っかかってしまうワタシです。なにか重大なことを見逃してるのかなぁ。

代わる代わるのそれぞれの持ち味が本人は大真面目なのにどこかコミカルだったり、これだけの悪党どもなのに、子供が人殺しをするのは止めようとしたり、憎めない人々で、やはりこれはコメディであって、ほぼ全員が出突っ張りの90分でちゃんと濃密をつくったり緩めたりの空間をつくるのはたいしたもの。「最高の暇つぶし」をモットーに掲げるとおり、実際のところ観劇あとに何も残さない軽さが持ち味で、もしかしたらそれは(ワタシは観たことないけれど)かつての浅草の軽演劇とよばれたものに近いのかなと思ったり思わなかったり。違うか。

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【芝居】「きなこつみ物語」きらら

2024.6.1 16:00 [CoRich]

熊本の劇団のツアー公演。再演のようですが、ワタシは初見。 70分ぐらい。王子スタジオ1。

ショッピングモールの団子屋。店頭にはきなこを山にして団子を刺してうるのが名物。失恋してバイトを始めた大学生の男。同じシフトのおばさん2人。普及し始めたスマホやまだ牧歌的なtwitterを休憩時間に面白がったり、モール側の社員は各テナントを監視したり客からのクレームが降りてきたり。隣のラーメン屋の朝礼は屈強な男たちが3年後の自分を語ってたり、若い女子バイトにご執心の常連客がいたり。

小さなテナント団子屋を舞台に、客とモールの他の人々の日常を積み上げて描きます。毎日のように顔を合わせていて馬鹿話はしても、人懐っこいおばさんたちだったとしても、実は本当のことは言えていない距離感。職場にしても友達にしても何もかもあけすけに開示するわけではない、ほどよく心地の良い距離感な人々。

モールの「レジさま」だったり本社の「赤メガネ」だったり、若いバイトにご執心の「アロハさん」だったりと、ピリッとする事件は起こっている日常は受け流しているように見えても、澱のように溜まるストレス。 さらには話してなかったけれど、友人の自死直前の電話に出られなかった後悔とか、スーツ男に礼儀正しく親切にされて返せなかったもやもやとか、いい子と悪いことが折り重なって。 後半、初めて三人で飲みに行くシーン、しかも店じゃなくて缶チューハイを公園で、といういつでも離脱できるような距離感が微笑ましくて、私の隣りにありそうな風景で。砂山を蹴り飛ばしたってストレスが雲散霧消するわけではなくて、でもたぶん少しは心が軽くなるような感覚。

そんな時代もあったねと、思い出す10年前の風景、あの時の人はどうしてるかなと思っても、積極的に探すわけではないていどの距離感だけど、間違いなく自分の中に残っているかもしれない風景の一つをコンパクトに語る心地よい小品。街の喧騒、風景を役者たちが「口三味線」で音をいれるのも持ち味、どこでもありそうな風景をどこででも上演できるコンパクトでポータブルな座組もとてもよくて、あちらこちらで上演されてほしい一本なのです。

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2024.06.18

【芝居】「べつのほしにいくまえに」趣向

2024.5.25 18:30 [CoRich]

去年のオノマリコフェスの中でワークショップとして一部が上演された同名作を、フルサイズにして上演。120分。5月26日までスタジオHIKARI。

戸籍を廃止して、同性婚や友人との自助共助のための婚姻を「ケア婚」とする法改正の議論のなか、話し合うワークショップ「ほかの星」。同性愛者、世論を知りたい政治家夫婦、祖母の介護のためにケア婚したい孫など、が集う。
法改正がなされ、その施行前夜。法改正で変わることを期待する人々、イタズラ心をもった妖精。

同性婚だけでなく親族や友だちも含めた自助と共助を目的とするケア婚とする法律改正があったとする未来の決定直前を描く前半と、その法律の施行直前を描く後半の二部構成。前半は去年のワークショップで上演されたものを継承する感じで、いろいろな立場の人々が集い、話し合う場面。話し合いの場に「当事者として」参加することを望まれ、本名とは別の名前で名乗るといった運営の形は、自分にはあまり経験が無くて吾妻ひでお「失踪日記」での自助グループを思出すワタシですが、おそらくは作家自身がどこかでやっているか経験しているかもしれないと思わせる細やかさは、当日配られる用語集にも現れます。 同性婚、あるいは同性愛を隠しての婚姻生活、祖母の介護のためと考える孫、同性愛とも違って「拾ってきた」男を含めて共同生活を始めたりするような人など、「ケア婚」という新しい制度を自分が生きるための、生活するための足がかりにしたいという切実さを持った人、あるいはそれを立場に生かそうとする政治家を加えて。その制度の説明とさまざまな立場からはどう見え、どう使えるか、どう懸念があるかを示します。

前半の法律成立の数年後という後半は、その立場の人々が法律施行前夜にどういう思いを抱き、どう行動するかを描くのだけれど、シェイクスピア「夏の夜の夢」を枠組みに使って、あちこちでいろんなことが同時進行的に起こることを鮮やかに描きます。このやり方はとても上手く機能していて、もしかしたら発明なんじゃないかと思う私です(もちろん過去に例があるのかもしれないけれど)。 それは、イタズラ好きの妖精ロビングッドフェロー(パックではなく)が起こした、奇跡というか魔法というか。政治家の男は実はゲイで、夜の街をさまよい歩く妻であるとか、介護される祖母はやけに陽気で酔っ払いだとか、政治家秘書に扮したべらんめえ口調の豆の花もまた妖精であるとか、人々のもう一つの面が見えたり、自分の中で腹落ちさせる離婚などの決断とかが特別なその一夜が起こることの奇跡が夢のよう。

序盤で劇場までの凄い坂から導入し、坂道が多い横浜なのに坂道グループに無いとか、野毛や伊勢佐木町といった地名をまぶしつつ、後半ではその界わい、木が多いということは掃部山か野毛山か、みたいに目に浮かぶのは横浜で上演する意味がしっかり。劇場の外側にある窓の外のテラスで走り込み、そこから室内に入る動線も新鮮です。ワタシが観たのはソワレ(夜公演)だけれど、昼間はどう見えていたんだろう。

チラシの中央に書かれた「人が誰かと共に生きようとする時、その誰かが恋人とは限らない」と言う言葉、今作のケア婚(同性婚の議論を止めるためじゃないか、という批判的な視線も含めて)やアセクシャル、過去に描いたポリアモリーなど、いろいろな「共に生きる」をギュッと濃密に、しかもエンタメに昇華した作家を追い続けようと改めて思うワタシです。

アセクシャルなヘレナを演じた大川翔子はそれゆえ、フラットな視座をきちんと。ロビングッドフェローを演じた和田華子はかき回す勢いがよくてワタシ的に今まで(そう多くは観てないけれど)ベストアクト。ボトムを演じた海老根理は誠実さの説得力。コーデリアを演じた梅村綾子いろいろな面倒を引き受ける力強さというか頼もしさが凄いけれど、社会的立場としての男に生まれたかったという細やかな造形。とりわけ凄いのが後半のべらんめえ口調の豆の花を演じた前原麻希で、トリックスターのようでもあり物語を駆動するちから。

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2024.06.15

【芝居】「飲める醤油」あひるなんちゃら

2024.5.18 18:00 [CoRich]

あひるなんちゃらの新作、80分。5月19日まで駅前劇場。ずっと続いている上演回ごとの音源販売は行列になるほどの人気でうれしい。

ずっとゲームをしていた男は実家に戻り醤油蔵の社長になる。醤油を作る工程の秘密を見学したりする。社長の弟は同僚の窓際の男に会社の乗っ取りを誘われる。窓際の男は新しく来た上司の女に恋心を抱いたりする。社長の妹は子ども食堂をやっているが、小4だと嘘をつく女が訪れる。醤油蔵では新製品、「飲める醤油」を開発していて、それは成功するが、飲んだときの記憶がなくなり発売できない。子ども食堂でもその飲める醤油を飲んでみたりする。

いくつかの場面をつなぎながら、普通の会話のようでもあり、妙なことを突然言い出したり、SF風味だったり。結局のところ、「飲める醤油」なる、とても美味しいのに飲んだらその時の記憶がなくなるという液体NS(Nomeru-Shoyu)を巡るようなそうでもないような。緻密に組み立てられてるのに緩く見える会話が、リズムや間を含めて続き、ずっと聞いていたくなるのに、物語としてはわりとどうでもいい、という唯一無二の持ち味を楽しむのです。作家自身も書いている通り 独白の長台詞がわりと多めに挟まるのは、この作家にしては珍しい今作の特徴で、それでも緩く見える会話劇という骨格の印象が薄れないのはすごいことだなぁと思うのです。

子ども食堂を訪れ咄嗟に小4と嘘をついたらそれがすんなり通ってしまって後々後悔する一連の流れ、記憶がなくなるというアイテムが上手くきいて「やりなおす」ことができるというのはどこか温かさを感じるワタシです。ものすごく美味しい飲める醤油というアイテムが、冒険の勇者の転生が語るスライムの味(ダンジョン飯か)とか、宇宙からの未確認生物によってもたらされる謎液体などと自在に物語を膨らませるのも楽しい。

小4と嘘をついた女を演じた松本みゆき、童顔ではあるんだけどもちろん説得力はないのにその嘘でどんどん後悔していく感じがなんか楽しい。恋をする窓際の男を演じた杉木隆幸の自覚があるんだかないんだかな明るさ、見習いたい。社長を演じた日栄洋祐の絵に書いたような人の良さの説得力。恋心を抱かれる若い経理部長を演じた平川はる香のクールビューティさが目を引きます。

「物語はいつでも始められるし、終わらせられる」という独白、作家の自信に満ちた宣言とも取れて、物語を創る人の言葉としてはとても力強くて、これからも楽しみだったりするのです。

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2024.06.09

【芝居】「リンカク」下北澤姉妹社

2024.5.18 14:00 [CoRich]

作演出の西山水木と俳優の松岡洋子によるユニット。 演劇を見てすぐ配信するぶらゲキのエピソード7(spotify, YouTube など)に当たって嬉しいワタシw。110分。5月19日までザ・スズナリ。

ある雨の日、一人の女が首を吊って死のうとするが失敗する。橋の下で暮らすホームレスの女の住処を壊してしまい、女はホームレスを連れて広い屋敷に戻る。
屋敷では息子と二人きりで暮らしている。いい年になった息子は動画配信で稼ぎたいが再生回数は伸びていないのに母親はいつも褒めてくれて、逆にそのせいで進路に迷い続けている。
敷地の一角に建つマンションの最上階では、女の夫が愛人とその娘と暮らしている。かつては4階建ての有名なレストランのシェフだった男は金の卵と言われ上京し就職した会社を逃げ出してレストランに拾われ、そのあと、愛人は娘とともにホームレスのところを拾われ、住み込みで働くようになっていた。先代が亡くなり男が倒れ、愛人が介護していて屋敷にはもどらなくなっている。
屋敷に住む女にはかつてもう一人娘がいたが、弟を助けようとして川の事故で幼くして亡くなっていて、その声を聞きながら長い時間を過ごしてきた。「拾ってきた」ホームレスの女が一緒に暮らすようになる。もう、亡くした娘の陰膳はしなくていいと決心する。

スズナリの舞台側に高さの異なる舞台を左右に造り、中央に音響照明卓側へランウェイのように張り出す舞台。その両側にも客席を設えて、コの字型に。驚きの声を多数見かけました。ここまで大掛かりは初めてだけど、空間を縦に使うといえば、トリのマーク(通称)( 1, 2) を思い出すワタシです。

死のうとしている女に偶然「拾われた」ホームレスが目にした、富裕層の一家の姿。拾った女は幼くして亡くした長女の姿を追っていたり、長男はモノにならない動画配信の日々で迷い、夫は愛人と同じ敷地で次女と暮らしていて。豊かな資産を持ち生活には余裕がある上に広大な敷地にいるからこの危うい関係ばかりでも安定しているようで、積極的にここから抜けようとは想いもしない人々。

いびつな家族の物語を縫い合わせるのが作家が長い間続けている「ジェストダンス」や日本舞踊といった踊りなのです。次女が大学で出逢うのが「一人踊る女」。自分のパワハラで人々が離れていったことを自覚して人目に触れないように一人で踊っているのだけれど、パワハラをしても踊りたいという思い、表現すること自体は止めなくていいし、海外留学という形で見えない場所で踊り続ければよいと肯定するというのは、クリエイターが持つある種の欲望をあまりに肯定的にあからさまに描いていて、少々危ういと感じるワタシです。あるいはさまざまなしがらみを思わせるゴムバンドでぐるぐる巻きにされながらも踊り続けるなども止められない欲望で、なるほど欲望の形は人それぞれ。

どこか世間とは距離がある感じである意味ぼんやりと生きている女、人との境界=リンカクの曖昧さ。共感力が高すぎて、本人のことではないのに人のことで泣いてしまうとか、感情が表に出なかったホームレスだった母娘が人の共感を目にして感情を手に入れるなど、それぞれの人としてのありようが変化していくのです。

家族の話、現在の社会の問題などたくさんの物語。さらには、娘を思わせる人形の操り、かと思えば本水を使った豪雨、(山の手事情社の)四畳半を思わせる空間を狭く使う舞踏、日本舞踊、ジェストダンス、あるいはこれも山の手事情社風の無茶振り演出家っぽいシーンがあったりと、ともかく盛りだくさんで、物語も演出も時間の割に詰め込んでいて、満腹で歩けないぐらいにくらうワタシです。

この家で暮らす女を演じた松岡洋子の、世間から乖離してふわふわと浮いているような(チラシでも感じる)説得力。拾われたホームレスを演じた倉品淳子は、距離を詰めたり冷静だったり、あるいは無茶振りのテンション、様々な物語をつなぎ止める背骨のよう。愛人を演じたあさ朝子の、謙虚よりは卑屈に居てしまう立場の解像度。踊る女を演じた永田涼香、ダンスを拝見するのは初めてだと思いますが孤高な感じが印象的。ヤングケアラーの女を演じた桑田佳澄の献身的なありようを自発的に感じさせてしまう説得力。息子を演じた喜田裕也の卑屈な造形が印象的、介護される男を演じた龍昇の、しかし一瞬元気な時代のシーンとの振り幅。

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2024.06.06

【芝居】「雲を掴む」渡辺源四郎商店・うさぎ庵

2024.5.12 14:00 [CoRich]

渡辺源四郎商店のうさぎ庵公演。5月12日までスズナリ、そのあと閉館が発表された愛媛・シアターねこ。105分。

老いたウォリスはかつての夫の姿を見て思い出す。
プレイボーイとして知られる英国王エドワード8世は社交界で米国人女性ウォリスに出逢う。離婚歴のある女性と結婚するため突然退位を決断する。王座を捨てイギリスに再び戻ることはなかったがウィンザー公としてナチスと交流を持ったり、若き日のチャールズとカミラに会ったりという日々を暮らす。

認知症「レビー小体病」を患ったというフィクションを紛れ込ませ、リアルな「幻視」を感じているウォリス、という語り口。 英国王が道ならぬ恋のため王座をすてて離婚歴のある女性と結婚した、いわゆる「王冠をかけた恋」と、チャールズ皇太子、カミラ、ダイアナを巡る英国王をめぐるスキャンダル。第二次世界大戦を挟んで三十年を隔てた二つの物語。

映画「英国王のスピーチ」で扱われた戦前のエドワード8世のさまざまはワタシにとっても「歴史上」の知識だけれど、チャールズ皇太子を巡る戦後のさまざまは、リアルタイムで見聞きしているワタシには歴史というよりはワイドショーで扱われるゴシップとして、自然に覚えているものだったりします。敷衍して考えれば戦前のそれもきっとスキャンダルなんだろうな、というのはたとえばNHK映像の世紀「運命の恋人たち」などでの世間の大騒ぎをみているとわかるわけですが、どちらかでもこのリアルタイムな「下世話な感じ」を感じている世代かどうかで、この物語のとらえかたは変わってくるような気はします。

ワタシより少し上の世代であるはずの作家であることを考えると、もちろん戦争と男女を描くということでもあるけれど、どこかある種のメロドラマの軽さの中に、ヒトラーとウィンザー公を巡る「マールブルク文書」を紛れ込ませたことが「戦争と平和を考える2作品連続上演」の一本として描きだしたことなんだろうな、と思うのです。

ウォリスを演じた山村崇子の老いた、しかし力強い造形。ウィンザー公を演じた桂憲一の洒落者なモテ男の説得力。ヒトラーを演じる大井靖彦がともかく凄くて、人の会話に関係無く横でぶつぶつ突っ込んでたり、やけに艶めいてみえたり。

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2024.06.02

【芝居】「なぜけもののわかさはにがいのか」820製作所

2024.5.6 13:00 [CoRich]

2022年8月に予定していた公演が中止になり二年弱を経ての820製作所としての公演に、高校生キャストを加えて。アフターパフォーマンス10分を含めて130分ほど。5月6日までスタジオHIKARI。

高校生たち、教室や学校でのさまざまな風景。
仲のいい女二人、父親が若い女をつくったこととか、片方の彼氏の頭皮の匂いを嗅ぎたいとか、やらかす欲望はやばいと感じている。
男女、女は苦手な現代文の発表にひとり拍手をした男に馬鹿にされていると感じているし、言葉も人も不正確な定義が信じられず嫌いだが、男は歩み寄る。
男2と女2、園芸部の男は自分が何もしてないからクズだというが同級生の女に声をかけられても断ってしまう。それを目にしたもう一人の女が声をかけるが、実はふたりとも教室では浮いている。
コーチに殴られているが自分を責めている運動部の男が誘われ文芸部の部室を訪れる。文芸部の女は教室では全然目立たない。あとからやってきたもう一人の部員は教室では中心にいる陽キャで人気があるが、二人の部員はある小説のファンだと知り盛り上がっているのだ。
男たち4人、年寄りを襲う通り魔を捕まえようと盛り上がっている。
教室はいつもの毎日のように繰り返しているが、爆発音がおこり、彼らには日常だが、避難所になったり、できることも生徒も減っている。

二人から五人程度の小さなグループの会話を点描する前半。親のあれこれの嫌悪感とか褒められたことではないことをやりたくなってしまう衝動のやばさとか。親しくなれそうだとわかっているのに芽生えたプライドや異性のある種の眩しさが邪魔をして近づけないとか、若くてもこの年齢まで言葉に裏切られた経験の疑心暗鬼とか、教室で見せる顔と目立たないクラブ活動で見せる顔の違いなどいくつもの顔を持ち始めることとか。この年齢に徐々にみせる「けもののわかさ」。

中頃ではは彼らが一同に会する教室の姿。わりと盛りだくさんで、教室のあちこちでおこる小さな会話とか、二人きりなら仲良しでも皆の前ではつっけんどんなツンデレ具合とか、人の別荘に皆で行こうと盛り上がってたり、居眠りしてる友だちを起こそうとしていたり。なにかのものがたりというよりは、教室の日常の風景を人数とダイアログの個数という物量で奥行き深くつくりあげます。

後半はこの教室の風景の同じ会話を繰り返しながら、しかし彼らの置かれている状況がどんどん変化していくのです。日常だったはずだけど、何らかの緊急避難先になっていて戦車を見かけたり隕石と言われているがミサイルかもしれないと不穏な単語があったり、地震のような地響きのなか不安を抱えたり、生徒がだいぶ減っていて学校の外へ「調査隊」がいって絶望的な状態になったり、それは災害と戦争が日常の私たちに入り込んでいるということ、その場所にも子供たちはいて、成長していて、あるいは死んでいて、ということと重なり合うのです。

多くの人数、大量のダイアログ、同じ教室が変化していくことを重ね合わせて地層のように細やかに見せていくという意図はわかるものの、物語にワタシがかみ合う瞬間を逃してしまうとどう見たらいいか判らなくなりかねない危うさを感じるのだけれど、百戦錬磨の作演と役者たち、実はそんなことにはならないんだろうな、とも思ったり。

中央に帯状に舞台をつくり、いわゆる教室の椅子を動かしながら、教室や学校のあちこちを。それを挟むように両側に客席でじっさいのところ真ん中中央に座ったりすると首を左右に振る羽目になりそうなほどワイドなスパンに。私が座った奥の端からは、長い距離で奥行きが作られている町屋を表から覗いているような雰囲気でこれはこれで楽しくて。

いくつかの回に設定されていたアフターパフォーマンス、「私たちも年をとるのか」1988年から2083年までのそれぞれの時代の女子高生7人が突然一同に会して会話する10分間。変わっていると見做されていじめられることは時を経ても対象が変わるだけだったり、あるいは携帯が現れスマホになったり、服が替わったりということに驚いたり楽しんだりする彼女たちは実に眩しい。実は親子だったとか実は教師と教え子だったとか、いう偶然は10分の中ではやり過ぎな気がしないでもないけれど。さっと現れてさっと消える幻のようなこの空間は、演劇を教育に活かす効能として言われる「ロールプレイで他人は他人の考えや行動があることを理解する」というのを絵に描いたようでもあるのです。

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