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2019.08.30

【劇作家大会】60分で世界を描くPart1 -高校演劇コンクール作品への挑戦

2019.8.16 12:00

大分に続いて間を開けず、信州・上田で開催の日本劇作家大会2019上田大会。

駅からほど近く、大きなショッピングモールの喧騒に隣り合いながら、ほどよく静かなサントミューゼ、環状の回廊のような空間に劇場や会議室を繋ぐ施設。ドーナツの空間にあたる中央は開放された芝生敷き、回廊も半分は屋根だけだったり足がつけられる親水池のような場所。ゆったり、ぜいたくにつくる空間なのです。

少々受付に手間取り、サントミューゼのプロムナード(回廊)で行われた開会式のテープカットならぬ蕎麦カットをちら見、音を聞きながら。

タイムテーブルはわりと迷うものが裏表になっていたりして、去年の「フートボール〜」で急に高校演劇熱が高まったワタシ、高校演劇を主題にしたセッションの一つ。60分という長くはない時間で物語を描くということは構造としてどういうことかという座学と、ブレスト的に断片を書き出して物語に紡ぎあげるというワークショップを組み合わせた3時間。ワークショップ的なものだということはパンフにも全く記載がなくて、参加して初めて参加型と気づいて躊躇しつつ。

学校教育の中で演劇を置く意味を解くこと、それは表現のちからでもあるけれどむしろ「人の話を聴く力」から「友達を、ひいては自分を尊敬し好きになる力」を醸すのだという位置づけ。物語を描くためには才能はあるにこしたことはないけれど、すくなくとも教育の中であれば「才能は分析でき」それは「論理的で優しい」もの、ものを創るときにうまく行かなかったとしても人格否定ではなく「なぜできないのかと分析」でき、それは高校卒業後の自分が得たいことを得るために「分析できる大人=スペシャリスト」を見つける手がかりになる。それは漠然と夢を叶えたいと願うだけ、あるいは応援するとか無理と切り捨てる根拠のない愛(もちろん感謝すべきもの、と一言加え)に囚われずに、進む道を手に入れる武器になるのだという一連の流れ。教育、とりわけ大人になりつつある高校の現場でどういう意味があるのかとわかりやすく。

続くグループワーク、ごく短い時間の中で枠組みを与えつつ、グループ名を決めさせ、あらかじめ示した要素を提示してグループで順に出し合うことで起承転結の要素をつくることを体感させます。輪になったメンバーが順に与えられたことに思いついた言葉を加えていくことで物語をつくるという流れが楽しい。うまくつくられていて、状況を示す「起」は1割、その状況が少しづつ変わる日常の振れ幅を描く「承」が実は8割ぐらいを占め、そこまで来た振れ幅よりは圧倒的に大きな変化が起こる「転」と、それによって初めの状況からどう変化したかを示す「結」が合わせて1割という割合の話。ハリウッド曲線と呼ばれるとか、あるいはこういう物語の構造に注目することで、印象批評という理不尽がさけられるはず、という成長途上の子どもたちを守りつつ成長させるための目配り。それは、おそらくは高校演劇の大会の現場で審査員による「印象」だけで批評がされることへの危惧であって、子どもたちをきちんと成長させる正しさに満ちた視線。

3時間でわりとクタクタに。単に観て消費するだけのワタシだけれど、物語を作り、芝居を作り上げる力を教育するということはどういうことか、という確固たる視線の一つを体感できたのは新鮮な体験なのです。もっとも、宿題として与えられた2日目以降でリーディングやワークショップの題材にするための短編の提出は、ごめんなさい。提出せずじまいでした。

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2019.08.29

【芝居】「月がとっても睨むから」Mrs.fictions

2019.8.12 17:00 [CoRich]

去年残念ながら公演に到らなかったタイトルを、再挑戦。12日まですみだパークスタジオ倉。120分。

塾帰りの男児、高校生だった女に一週間誘拐された事件、戻ってきた男児は「改造」を受け、大人になり錦糸町の帝王として夜ばかりでなく、雇用から福祉に至るまで街全体を発展させていた。ある日、男がオーナーとなっているラブホテルの清掃員としてやってきた女が、かつて自分を誘拐した女であることに気づく。

子供の頃、少年が好きな女性、いわゆるショタオタの手にかかりながらも成長し町を牛耳るようにまでになった男。誘拐した女はその罪の意識が払拭できないまま各地を転々としていて。その二人が出逢うところから始まります。序盤では余裕に溢れた男が全てを許すといいながら、しかし内心ではそれが許せないか恐怖を未だ持っていたことが自覚されるのです。「改造」(その実は性的にいたずらされた、ことが匂わされますが)されたことで、幼くして性的行為を経験して、倒錯的に根拠亡く万能感を得てこの地位を得た、ということに今さら気付いてその万能感が崩れるのです。逮捕と刑務所を経験した二人、先に出所した男は後から出所する女を迎えるのは、赦したのか、それとも何かの覚悟なのか。

さまざまな「赦し」の物語だという読み取りが多く見受けられます。なるほど、この男女もそうだし、あるいは交通事故で恋人を亡くしながら相手の遺族に金を送り続けるために超人的なバイトを続けている女という二人の関係もまた、認められなくても「赦されるため」に行っていることだし、誘拐を行った女の父親が向上を潰し、娘に合わないままタクシー運転手を続けているというのも傷を心に負ったまま「赦されない」ままの人生を送っている人物なのです。

女性が男児に対してとはいえ性的暴行には違いない出来事。語り口こそ軽いけれど、扱う事象は相当に深刻で軽々しく扱えるものではありません。男児が万能感を持ってしまったという一種の倒錯がその深刻さをオブラートに包み錦糸町の夜の帝王というコミカルな序盤を支えるけれど、それがオブラートだったということをわざわざ自覚させる落差、抑えた描き方ゆえ見逃しがちだけれど、その深刻さを丁寧に描こうという姿勢を感じるワタシです。

「性癖」とどう折り合いを付けて生きていくかという物語でもあります。対象の男児自体には手を出さず、同好の士の間だけで妄想を密やかに楽しんで居たはずのショタオタのコミュニティ。その中の一人が性的な暴力という犯罪に手を出してしまうこと。犯罪者自身も深い後悔をずっと背負い続け、あるいはその周囲も漫画家や刑事などになり、それが自分だったかもしれないと背負い続けること。年を重ね性癖が治ったのか押さえ込んでいるだけなのかは明確に語られていないけれど、すくなくとも各々が社会と折り合いを付けて生きてきているのです。犯罪は許すべきではないけれど、程度の差こそあれ誰にでもある治らない性癖とどう向き合い飼い慣らして生きていくか、ということ、じつはこれもまた深刻なテーマなのです。 錦糸町の帝王を演じた岡野康弘は、このちょっと過剰な昭和感を伴った造形がコミカルで楽しく、しかし怯える人物を繊細にも。誘拐したショタ女を演じた真嶋一歌は影を背負い続ける人物の厚みをきちんと。やたらとバイトする女を演じた山崎未来は軽薄さすら感じる調子の良さの中に潜む生真面目さ。

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2019.08.26

【芝居】「福島三部作 第二部 1986年:メビウスの輪」DULL-COLORED POP

2019.8.10 18:00 [CoRich]

福島と原発をめぐる3つの時代を描く「福島三部作」の第二部(1)。2時間。いわきのあと、28日まで東京芸術劇場シアターイースト、その後大阪。終演後のトークショーは白井晃。

公金の不正を糾弾し町長になった男。元は反原発の活動に携わっていたが、稼働から15年経った原発は町に雇用や補助金をもたらし止めることは選べなくなっていて、安全性を御旗に補助金を更に町に引き入れることを期待される。

1986年、チェルノブイリの事故のあと原発事故が大きな影響を起こすことを人類が目の当たりにした瞬間。たまたま大きな事故が起きていないため「日本の原発は安全だ」という神話を唱える以外の言説が封じられ、原発を止めるよりは補助金を当てにしたほうが望まれるという現実。

前半、町長の失脚の混乱を収束するために担ぎ出されたのが、元は原発反対派の男。主流ではなかったけれど、その人望を見込まれ、しかしもう原発からは抜けられなくなっていることが、原発を稼働させつつ危険性を匂わせることでより多くの補助金を引き出す装置として組み込まれるのです。男の内面では矛盾を抱えながら、しかし町の現状を維持し暮らしていくために良かれと思ってそれを受け入れ、「変節」するのです。中盤の「サマータイムブルース」、それを思わせる忌野清志郎っぽい、あるいは自分の内面を隠すための仮面のようなメイク。後半はその「仮面」のまま、もはや彼は人形のように「日本の原発は安全です」と繰り言のように唱えるのです。裏と表がひとつながりの「メビウスの輪」は象徴的なタイトル。

物語の語り部はこの家で飼われていた犬。序盤では晩年を迎え死が近づく時期。後半では死んだ後、この土地にそれまで生きて死んださまざまが見守っているという世界で、変節した男を「土地が」見守るように描くのです。それはチェルノブイリも含めた過去に学ぶこととリンクするけれど、私たちはそれを怠って「日本の原発は安全」だと盲信してきてしまった、と思い至るのです。

犬を用いてちょっとコミカルでファンタジーな要素、あるいは派手な音楽。なるほど、徳永京子、あるいは作家自身が語るように三つの時代に分けて、このパートでは「小劇場という演出スタイル」をなぞるように。三部作それぞれが物語だけでなく、演出のスタイルをも変えて描き出すことが、この豊かな体験を生むのだと思うのです。

愛犬・モモを演じた百花亜希は語り部であるだけでなく、その場面場面の緊張感を自在に操るよう。妻を演じた木下祐子、肝っ玉が据わってダイナミックでコミカル、なかなか観られない大騒ぎが楽しい。町長への立候補を勧める自民党議員秘書を演じた古河耕史は、物静かに見えて言葉巧みに人を操る食わせ物をしっかりと背負い、もはや怪演の領域。眼鏡の有無でキャラクタを豹変させるというのも、いわゆる「小劇場的」なわかりやすさとコミカルを併せ持ち、物語のテンションになるのです。

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2019.08.22

【芝居】「カミグセ短編集 vol.2」関係舎とカミグセ

2019.8.9 19:30 [CoRich]

短編二つで80分。11日までSTスポット。

死神が訪れるが、目当ての男は出かけていて恋人らしい女が具合悪いらしく伏せっている。薬を買いに出かけているというが、女は男が何をしているかは気付いている。「Re:タナトスのガールフレンド」
田舎の絵画教室、締めることになって息子が片付けをしている。昔からの生徒は母親になっていたり、高校生で通っていた女は上京し美大に通っている。甲斐甲斐しく手伝う女も生徒で恋仲になっているが、皆には伝えていない。片付けるうち、もうここには居ない一人のことを皆が思い出す「思い出にニスを塗れ」

「タナトス~」は以前の短編集(1) に含まれていた一本を改訂。死神を名乗る女が死期迫る男を迎えに来るが、恋人の女に出逢ってしまう話。以前とどう変わったか詳細には覚えてないけれど、浮気にギャンブル、ダメな男のことが客観的にはわかっているのに、好きだという女。友達も居らず、自分という存在に真剣に向き合ってくれる死神に心を許し、友達になる、この二人のバディ感がより強く打ち出されているように思います。対比して男の存在は希薄で、ドアのチェーンロックがかかって入れないまま玄関で四苦八苦している男を二人の女が眺めている、というラストシーンも、女二人が主軸、男が希薄という印象を強くします。たしかにこの方が今っぽいかも、という感じ。

「思い出~」は、自殺した女を巡る人々の物語。この教室の先生だった母親は登場せず、その息子は自殺した女と元は恋人。この自殺した女とそれぞれの人々の関係を描く序盤。それは母親となった古株の生徒の子供可愛さと育児の中で数少ない自由を求めるエゴを叱ることだったり、何もないこの土地を出て美大に進むことを後押ししてくれたことだったり、あるいは二人で出かけるほど仲が良かったのに今は先生の息子と恋仲になっていることだったり。

物語の核となるのは自殺した女、親友だった女、二人を巡る男の三人にはなっています。自殺の原因は明確には語られませんが、別れ話をして指輪を外して女が出て行くシーンだったり、女二人きりのドライブ旅行が描かれたりと、なんとなく略奪愛だか男の浮気だかといった三角関係がその原因になっているような感じではあります。恋に破れての自殺というのが、母親のエゴをたしなめたり、高校生を力強く後押ししたりと前半では自立して力強い女として描かれているのとギャップというかコントラストが強い人物を浮かび上がらせるのです。皆が思い出した一人の人物が徐々に造形されていくさまが今作の魅力なのです。

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2019.08.21

【芝居】「ファン」ゆうめい

2019.8.4. 18:30 [CoRich]

ビル一棟をまるまるシェアアトリエとしているビルの屋上で60分ほどの「自分語り」な芝居。4日まで、インストールの途中だビル・屋上。

僕の話をします。高校生のとき初恋の人に振られて石を渡しに行こうと思ったり、上京して演劇を始めて今の仲間と出会ったり、なかなかうまくいかない歯がゆさがあったり、男性アイドルのコンサートに一人で行ってもの凄く感激したり。

酷暑の中、昼公演を避けて夜公演に。団扇に帽子、凍らせたペットボトルや冷却剤など至れり尽くせり。かなり開けた視界で空も大きく見える中、ワタシの観た夜公演は時間とともに徐々にくれていく空を借景に。屋上に並べられた丸椅子を観客席にして、コントのようなシンプルな仕立てで、ナイーブな語り口で自分を語ります。

一時期のチェルフィッチュの風味を感じるワタシですが、意識的にそのスタイルというよりは、ゆるい自分語りのスタイルとして行き着いたという感じ。屋上と開けた視界という場所を生かしてテレビ番組「学校へ行こう」ので屋上で叫ぶを目にする序盤のように、観客がちょっとドキドキしたり笑ったりを物語に絡めるのがうまい。実際のこの場所で大声で台詞を叫ぶ、という現実の生活と物語の境界を曖昧にする感じが、イベント感になっていて楽しいのです。普通の街頭劇では街中の人々の反応をも物語の中に取り込むこことになりますが、高いビルの屋上では、町の雑音は聞こえていても叫んだ台詞に対する町の反応は観客から見えることはありません。そもそも聞こえているのかどうかもわからないけれど、こういうシチュエーションなのに反応を前提としない場所、というのは新鮮なのです。

ワタシの観た回ではやや大きな揺れが上演中に。芝居は一時中断し様子を見ながらの再開。ビルの屋上だから揺れが激しいのかそれともそもそも大きかったのかは今ひとつ判りませんが。結果無事だったので、これはこれで、特別な体験として記憶されるのです。

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2019.08.20

【芝居】「ダブルダブルチョコレートパイ(ビター)」肋骨蜜柑同好会

2019.8.3 19:30 [CoRich]

緩やかに繋がる男性だけ、女性だけの二つのバージョンを交互上演。ワタシは女性版だけ。90分。APOCシアター。

地球を失い宇宙船で人々が宇宙を彷徨っている。大富豪が持ってる宇宙船に運良く乗れた人々は食料どころか娯楽まで不安がない。離婚した夫婦が二つの棟を分け男女別々に暮らしており行き来はない。

危機的状況ではあるけれど、生命の危険も無くむしろヒマだけれど抜けられない日常を送る人々。男女が隔離された区画になっていて行き来ができないようになっているという状況で、恋愛とか性愛といった要素がそぎ落とされ、女だけのなかでカリスマ主婦や起業家のマウント合戦、母娘の確執だったり、すこし距離を置いている哲学者や占い師だったり、あるいは甲斐甲斐しく腰低く立ち回るマネージャーだったり。

一人事のような哲学のような考えがあちこちに顔を覗かせ、それはもう地球が崩壊してるのに地震保険を売ろうとしてることだったり、怒ってるか見た目で判断できない人は嫌いだとか、女だけなのにモテOLっぽい造形だったり、男装の麗人といった立ち振る舞いや、こまっしゃくれた幼さを残す哲学者だったり、なかなかに個性的です。

いっぽうで向こう側の男たち、たとえば元夫、上司、恋人などがどうしているか、と気になる気持ち。会えないから会いたい、手が届かない人に隣り合う嬉しさ。 全体では、科学者が実験していたネズミが菌を保有したまま逃げだし、男たちのいる区画へ入り込んで何かが起きている、ということが物語のヤマではあるけれど、それよりもそういうシチュエーションの人々のありよう、それぞれが何を考えるかということを描く、群像劇なのです。

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2019.08.14

【芝居】「ゆらぎ、碧い鳥、」チリアクターズ

2019.7.31 19:30 [CoRich]

神奈川県・小田原市を拠点に活動する劇団の公演。100分。4日までSTスポット。

恋人が出て行き、左手が石になっていく女。
大学の絵本サークルで物語を作るはずだった先輩が逃げ、代わりを務めた親友は才能が花開き、劇団を持ち小説も書いて活躍していているが、親友であることには変わりなく接してくれている。SNSで高校生の頃の恋人を見つけ、会おうと盛り上がるが相手が既婚と知り踏み出せない。出て行った恋人が戻ってきて一夜を伴にするがもう何も感じないし、親友の恋人と夜通し歩いたりもする。同じように手が石になる症状を持つという女からの誘いで会うことにするが、一方的に運命的だと共感を押しつけられるようでなじめない。

コミカルなシーンをまじえつつも、全体の語り口は静か。一つの役が複数の役者で演じられたり、同じ役者が複数の役を演じたりという遷移を継ぎ目なくごく自然に重ねます。さらに主役であるユカリという女の高校生の頃と現在の二つの時間軸が細かく入れ替わったりもするので、正直にいえば、特に序盤では見やすいとはいえないつくりではあります。が、ユカリにフォーカスする形で、複数の役者が重なり合うように一人の女性を紡ぎ出すのはホログラムのよう。なるほど、芝居を通して一人の女が浮かび上がる面白さ。

普通に生きてきたはずなのに、ある日突然自覚してしまう自分のこと。 たとえば電車の中で恋人に肩を貸していた女は幸せな筈なのにその目の奥に何もない、それは自分なのだという中身の無さに気付いてしまう恐怖。それまではおそらく不満を感じても封じ込めてきたこと、先輩や親友たちはあの頃から前に進んでいろんな経験をしていろんなものを手に入れているのに、自分は高校生の頃も今も変わらず、しかも、男や親友という存在があって初めて存在できているのだ、ということを初めて自覚することだったりするのです。 一人の女を描いているけれど、きっと誰もがそういう「ホログラム」の一部の何かを持っているのだ、ということに思い至ると、芝居全体が一人の女を描くことの意味なのだと、勝手に腑に落ちるワタシなのです。

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【芝居】「『仮面夫婦の鑑』『リボン・ルーム』」吉田見本市

2019.7.28 19:00 [CoRich]

俳優・吉田電話と女優・中野あきによる夫婦公演と銘打った二人芝居二本立て。7月29日まで新宿眼科画廊地下。65分。「仮面夫婦~」の方は金沢や上田劇作家大会での上演も予定されています。

夫の長期出張中に無断で美容整形した妻、腹を立てた夫は仕返しに自分の顔を不細工に整形して「仮面夫婦の鑑」(作・演出 横山拓也)(1)
首に包丁が刺さった男と、後頭部が砕けた女、死んでいる二人だが、生まれ直して元の世界に戻りたいか、このまま永遠の眠りに就くか「リボン・ルーム」(作 池田美樹 / 演出 國吉咲貴)

「仮面夫婦~」は前半はすれ違いながらも歩み寄ろうとして整形して行き過ぎちゃう二人、「賢者の贈り物」を二ひねりしたようなすれ違いの物語。違和感を解消しようとしたら違和感が増える二人、整形前の美しすぎない妻が好きだった、ということに拘るあまりイケメンの夫が不細工にする行動が斜め上すぎるコミカルさが原動力。話していることは互いのいいことの認め合いなのに。
後半は実際のところ整形の問題はそれほどには関係なくて、妻が家計を支えるためにしたヌードモデルにもやもやする無職となった夫、という構図。男が養うべきというマッチョイズムゆえの負い目と、ヌードモデルにもあんまり気にしていない妻のフラット、どこか家族のありかたのすれ違いのようでもあるのです。

オープニング、クラフト袋でいわゆるイケメン俳優とそうでもないタレントの写真をかぶって出てきて整形前、という感じなるほど。この作品、今までの上演はiaku本体もハイリンドでも「~鏡」だったけど、変わったのかしら。

「リボン~」は生まれ変わりの物語。人に生まれ変わるかさえわからないという設定でもなお、すぐに戻りたいか、あるいはもう戻りたくなくて永遠のねむりにつきたいか。まあただごとじゃない状態でいわば心の準備無しに死を迎えた二人だけれど、この後どうするかの平行線。じっさいのところ互いの意見を変えさせようとしてる、という感じでもないし対立するなら自分は自分で進んでしまえばよさそうなものなのだけど、なんとも離れがたい絶妙な感情の発露、みたいなものが漂う感じがまさに「夫婦公演」らしい。

いちどはつかみ取った次の人生だけど、破って二人で走り出すというのも清々しくてちょっといい。

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2019.08.13

【芝居】「空中キャバレー 2019」まつもと市民芸術館

2019.7.21 16:00 [CoRich]

二年に一回( 1, 2, 3, 4) 、松本でしか見られない祝祭に溢れた一本もいよいよ5回目。休憩20分を挟み180分。7月28日までまつもと市民芸術館 特設会場

開場後のマルシェでは大道芸やサーカス、やがたハメルンの笛吹きのように行列になって入場。いつものようにブランコ乗り・風に恋してハシゴを上がり空中を歩く兵士、それを見ながら空中を歩く許可証云々と揶揄するビスケット兄弟、火吹き男や吠えるライオン、人々の祭り。あるいは白いピエロたちは紙袋を片手にケロケロとうずくまり。やがて、ろうそくの火は空中を逆さに歩く女、ゴムチューブのブランコ、一本の高いしなる棒の上のフラフープや、綱渡りで行きつ戻りつな男女、「怪力男のオクタゴン」の歌。ゲスト・チャラン・ポ・ランタンのアコーディオンと歌で「空中キャバレーのテーマ」。バチカンアミーゴの物語はサボテンがジパングに行く話。スカート姿の大男のバランスボール、カラーコーンのジャグリング、自転車の曲芸など。

マルシェで行われる小さな劇場「シアターGURIGURI」は、仰向けになった男二人が鼻の下あたりに目玉をはりつけ、人形劇よろしくなパフォーマンスの爆笑編、たのしい。

しなる棒のパフォーマンス、高く渡されたワイヤーの綱渡り、自転車の曲乗りや空中ブランコなど圧巻のサーカスパフォーマンスは今年も健在。新たに加わった大男のバランスボールはごくシンプルだけどボールと一緒にバウンドしていくスピード感が楽しい。空中を逆さまに歩く女もちょっと凄い。

ブランコ乗りは少女というよりは大人の女という雰囲気に、全体をこの物語が包むという感じではなくなっていますが、ステージの序章でもあり、雰囲気の背骨であることにはかわりなく。

サボテンがジパングを目指す話は流れ流され、フラメンコ女や、手がかからないサボテン女を自嘲する女海賊に出逢ったりな冒険譚。落ち続けてきた男二人と後から現れたルンペン風の男が繰り広げるおかしな会話はかみ合うようでかみ合わず、それなのに何か楽しそうにきゃっきゃしてるかと思えばこの世には筋書きがあるのに書き換えられたとか哲学的だったりもして、スラップスティックな感じが、永遠に続くようで楽しい。

イベントとしての安定感はもう揺るぎないモノになっていると思います。全編を貫く祝祭感が徹底しています。とりわけ開場中休憩時間にマルシェで販売される酒・つまみが味も素っ気も無いビールと揚げ物、という感じから何歩も格段に進歩したのが嬉しい。同じ劇場内の食堂の提供なのだけど、その場で調理するおにぎりやラップサンドなど、ライブ感で提供するというひと手間は、そのパフォーマンスの世界のひとつに組み入れられて更に祝祭的になるのです。開場中に背負ってビール売ってくれるのも◎(酒のことばかり。すみません)

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2019.08.12

【芝居】「けむりの軍団」新感線

2019.7.20 18:00 [CoRich]

20分の休憩、180分。8月24日まで赤坂ACTシアター、そのあと博多、大阪。

賭場でテラ銭を盗んだ男が逃げ、賭場に連れてきた浪人はヤクザに子分を人質にとられ逃げた男を捕らえてくるように脅される。その国の大名へ政略結婚でなかば幽閉されていた正室だが、同盟を反故にされ家臣たちが姫を救い出す。
木賃宿で浪人は追っていた泥棒を見つけるがそこに居合わせた姫と家臣が大名の追手との悶着に巻き込まれ、機転を利かせて追手を追い払う。姫は城まで送り届けてほしいといい道中を一緒にする。
拡大を続ける大名に目をつけられている寺は政略結婚の姫をだしていた武家との中間にあり新たな疑いを恐れ姫をなきものにすることで戦を起こそうと画策する。

倉持裕脚本、いのうえひでのり演出のタッグマッチの新作。 仕官先を探している浪人の男と、軽口をたたくなよっとした男が出会い、その元軍師や元殿様という背景が徐々に浮かび上がる大人たち。あるいは政略結婚で幽閉されていた姫や救い出した家臣などの若者たち。偶然出会った大人と若者たちが、領地拡大やさまざまな思惑に混乱する中で生き抜いていく姿を描きます。

大小2つの国の争いとその狭間で揺れ動く僧兵たちという背景も生き抜いていくために全力で考え抜いていくこと。物語を通して浮かび上がるのは、「居もしない敵におびえ武力を使う」と「怯えない強さ」という現在の私たちにつながる物語でもあるのです。

古田新太演じる元軍師、池田成志演じる民思う名君という大人たちの力まないバディ感。清野菜名演じる姫、須賀健太演じる忠臣の若者たちの目一杯さ、あるいは国を支えつつ次の世代に託せない母親を演じた高田聖子、脇腹と言われ技はあるのに思うように生きられない早乙女太一など、登場人物たちの厚みがこの芝居の魅力で、39(サンキュー)興行らしく、劇団員たちがその多くを支えているというのもファン感謝な雰囲気なのです。

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2019.08.07

【芝居】「しゃべる機械と逃走犯の男/ピサロ改」サマカト

2019.7.19 20:00 [CoRich]

新作と再演を組み合わせて70分。21日までanima。

やってきた男、そこに居た女。「しゃべる機械と逃走犯の男」
死刑囚、友達ひとり選んで二人で話す時間、ジグゾーパズルとしりとりとか。「ピサロ改」

「しゃべる機械〜」は主をなくした家に居る女性型のロボット、そこにやってきた逃走犯の男のふたりきり。女は感情を理解しようと言葉を辞書的に網羅して概念をつかもうとしている。男はそこにやってきたいきさつをぽつりぽつりと話してみたりする。妻、娘と、殺してないが死んでいた母親を置いて逃げてきたことを振り返るうち、自分を見つめ直すよう。SFっぽいシチュエーションで少しばかり哲学的な会話のラリー、徐々に互いの背景が見えてくる台詞が見事なのです。 女性型のロボットを演じた後藤飛鳥も、やってきた男を演じた内山清人も その台詞をきちんと、という安定感。

再演の「ピサロ改」、すっかり忘れていた(今作に限らずたいてい観た芝居はそうなのだけど)けれど、初演 (1) を観ているワタシです。遊んでるものがジグソーパズルとしりとりに変わったりしているけれど、阿吽の呼吸で二人並んでなんとはなしの時間を過ごすけれど、べったりというわけでもない付かず離れずの距離感がとてもいい、劇団の二人、内山清人と澤唯だから(ワタシが)感じるバディ感とでもいうような雰囲気の楽しさなのです。

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