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2018.11.30

【芝居】「ねこはしる」KAKUTA

2018.11.23 13:30 [CoRich]

豊橋、水戸を経て、まつもと市民芸術館 小ホールで1ステージ。90分。まつもと市民芸術館で行う子供のためのイベント「チャオ・バンビーニ」が猫をテーマにしたさまざま、そこに組み込まれた一本として、 2004年の初演2006年の再演から12年を経て、子供向けの音楽劇としてリニューアル。

ひ弱だった子猫、兄弟たちと離れ、野原にある小さな池に一匹だけ泳いでいた小さな魚と遊ぶうち、走り回り笑うようになる。が、その池が見つかり母猫は兄弟たちにその魚を捕らえるよう、競争させる。

ロビーでのさまざまな子供向けイベントのおかげか、舞台上にも客席にも多くの子供たち。元々の初演再演はもうすこし静かな朗読というスタイルで、スタイリッシュだった印象があるけれど、今作は完全に子供向けの音楽劇というスタイル、子供が泣こうが騒ごうがわりと大丈夫な強度で進む物語。

舞台上にも何席か座布団席。じっさいのところ、固定された客席にじっと座らせるよりもまつもと市民芸術館の人気企画・空中キャバレーのようにほぼ全員を平場においても面白いと思います。何をするかわからない子供と考えるとそれはそれでリスクだとは思いつつ。

「落ちこぼれの僕」という少年を語り部として置き、物語全体をくるむように。親友ができて強くなり、しかしその友人を捕食する側という抜けられない生まれついての業に。じっさいのところ、男の子にとって前向きで元気が出る物語とは言いがたい、実は複雑な感情の物語だとは思うのだけど、もしかしたら、子供がこれから数知れないほど出会っていく理不尽さとの折り合いのつけかた、ということなのかなと考えたりするワタシです。

多田香織、出てきた瞬間、高泉淳子の山田君を彷彿とさせてきっちり弱気な男の子を造形し走りきり当たり役の予感。子供のネコを演じた吉田紗也美は弱気から元気への細やかな変化を丁寧に。友だちとなった小さな魚を演じた添野豪は物語の中心にずっといつづけられる力。大人になったネコを演じた谷恭輔とのややBLな感じ、あるいは異儀田夏葉と桑原裕子のデュオも楽しい。

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2018.11.27

【芝居】「贋作 桜の森の満開の下」NODA MAP

2018.11.16 19:00 [CoRich]

坂口安吾の「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を下敷きに夢の遊眠社が上演、再演や新国立劇場での上演、歌舞伎での上演を経ての五回目の上演。ワタシは初見です。

鬼と人間が明確に別れていた時代。飛騨の王は三人の飛騨の匠を捕らえ、二人の娘のためにミロクボサツを掘るように命じるが、三人は身分を偽った別の男たちだった。
謀反が起こり飛騨を倒し彫り上げた化け物によって戦乱が収まる。大仏開眼によって国を治めることを願う新たな王だったが、自分もまた謀反を起こされることを恐れ周囲を鬼だと名指しして迫害を繰り返す。

力を手にしてのしあがった王、その時代の変化の中で持ちあげられ迫害される男。それを翻弄する妖しい魅力を持つ女の存在。迫害される側としての「鬼」が権力の構造の中で生まれていく過程と、それとは別に人の心に巣くう残虐さの表出としての「鬼」の存在が対比されるように描かれるのです。

翻弄される側の男・耳男を演じた妻夫木聡は翻弄されるある種の弱さとはいえるけれど、このパワフルなキャストの中での存在感は惜しい。翻弄する姫を演じた深津絵里は天真爛漫と残虐さのアンバランス、人の中に巣くう鬼をしっかりと体現。謀反で勝ち昇った王を演じた天海祐希は迫力と身のこなしの美しさ。もう一人の職人を演じた古田新太は時にコミカルさもきっちりと。

為政者が自分のために歴史を書き換えることに躊躇が無いことはもしかしたら初演では歴史の一ページという反省だけど、それを現実のものとして目の当たりにしてしまった私もまた、現実と地続きだということの絶望を感じるのです。

いくつもの美しいシーン。大きな木に大量の桜吹雪、あるいは長いテープ状のものを自在に伸縮させてフレームを切り取るような効果を出したりも印象深い。舞台前面にしつらえられたスロープを上ってくる役者、なるほど「地面の下」に眠るものたちが再びこの世に現れて物語を語るよう。

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【芝居】「さよならはここにいる」こゆび侍

2018.11.16 12:30 [CoRich]

こゆび侍の新作。18日まで王子小劇場。120分。 町全体で引っ越しを決めて期限がまもなく。ニュータウンへの移住が進みつつあるけれど移住の有無すら決めていない女。 昔からの書道教室だった家で高校生の頃はあまり書道は好きじゃなかったが母親が姿を消し娘が跡を継いで教えて年を重ねてきた。教え子の一人の男子高校生が事故に遭い葬儀のあと戻ってくるとその教え子が居る。この家からは出られないのだという。

消えていく町にある書道教室の部屋を定点にして描きます。子供の頃からずっと住んだ家、離婚して女手ひとつで育ててくれたけれど結局は底に一人残され、恋人もいないままに歳を重ねて来た女の10代、30代、40代を行きつ戻りつしながら描きます。町は消え、この家は出ていかなければいけないのに、この場所を離れがたい強い気持ち。この家を離れがたい気持ちは30代の時に通ってきていた今は亡き教え子の存在。亡くなったあとしばらくこの家にふいに現れ二人だけですごした緩やかな時間、現れなくなった今も忘れられない女の気持ち。

幽霊が現れるファンタジーという描き方ではあるけれど、彼女にとってだけ、ココロの様々な要因からそう見えたかも知れない、と言う程度には抑えが効いていて、ファンタジーに頼り切った物語ではなくて、むしろ主人公の女の子の動きを細やかに描くのです。

ネタバレかも

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2018.11.23

【芝居】「魔法少女的ゾンビ」ムシラセ

2018.11.11 18:00 [CoRich]

ムシラセ、久々の本公演。11日までシアターミラクル。70分。

オーディションによって選抜され、代替わりしていくアイドルのオーディション。とりわけ伝説として語られる初代の人気は今でも凄かったが、引退後は表舞台に出てこなくなった。製薬会社が主催し、薬によってアイドルに変身する、というアイドルで、オーディション会場に集まる人々はぱっとしない。

伝説の初代の存在と、薬によって変身するアイドルということが徐々に語られる物語。オーディション会場に集まる人々が一癖も二癖も。可愛いけれど地味な女だったり、どう考えてもおばさんな女が経済的な理由と子供に見せたくて応募しているということだったり、ぶりぶりなアイドルっぽい女が実は魔女だと中学生になって騙されて引きこもった過去、あるいは恰幅のいいオジサンだったりと、ちょっとアイドルに見えない人々のあれやこれやの序盤。それぞれに背負っている物語はあるのだけれど、正直にいえばちょっとキャラクタが強いというかいかにも作られた感じではあります。それは「いろんな人々がいる」ということを描くことが重要な場面だということは後半でわかってくるのです。

序盤ではあまり現れないスタッフは冷たいを通り越して感情を無にしているとおもうほど。 中盤から後半にかけて、台詞で明確というわけではないけれど、彼女こそが伝説の初代のアイドルで、表舞台から姿を消していていること、薬によってアイドルになるのだという背景、それはもしかしたら死という結末や抜け殻のようになってしまうかもしれないという怖さ。フィクションなのだけれど、現実に私たちが目にしているアイドルのありかたの残酷さの映し鏡のようでもあるのです。

初代アイドルがスタッフになっているのはその辛さを繰り返させないためだというダークさと、オジサンでもアイドルになるという過ぎるポジティブさという骨格が力強い構造なのです。 オーディションが終わった後日談的な終幕近く、まあわりと速い段階で判るオチではあるけれど、出落ち感含めてそういう風体の役者の圧倒的な力で寄り切った感はあります。演じた山森信太郎の説得力と可愛らしさのギャップの面白さが際立つのです。スタッフを演じた渡辺実希はこういう冷たさが似合う役どころ、アイドルだった姿も透けて見えるのもまた説得力。

  

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2018.11.22

【芝居】「トリガー」ユニークポイント (演劇と映画って何が違う?)

2018.11.11 13:00 [CoRich]

80分の本編を全編上演後、そのうちの3分ほどのシーンを撮影・編集して映画として上演することを通して、演劇と映画の違いを体感するワークショップ的な4時間半。学習院女子大学・やわらぎホール。ワタシはたぶん初見です。

母親が認知症になりその介護のために実家である団地に戻ってきた夫婦。認知症が進み、冷蔵庫や棚を鎖で塞ぐほどになっている。しばらくは妻も長距離の通勤をしながら支えてきたが、家の匂いにたえられないと、東京に戻ってしまい別居が続いている。
上階には子どもの頃から行き来のある親戚の親子が住んでいる。ある日、母親がかつて働いていた施設で育ちお世話になっていたと、教え子が母親を訪ねてきて、その家で介護の手伝いをすることで居候するようになるうち、上階の親戚とつきあうようになる。

まず演劇での上演。
家を離れて親が歳をとり、介護が必要になるという時間の流れと、元々他人だった配偶者から義親をどうとらえるか、世界の見え方の違い。介護の負担が全て外からの収入を絶たれた専業主婦たる嫁に課せられていたかつての時代から、妻が経済力を持ち、むしろ稼いでいるから介護をしないと宣言できる自由を勝ち得たこと、別居し別の男の存在など、やや批判的な視線は混ざる気はするけれど、どちらがより収入を得ているかという絶対的で批判しがたい尺度を物語にもちこむことでそれを封じるのは巧いと思うのです。

母親が徘徊すること止めるため冷蔵庫に巻かれた鎖はかなりショッキングな描写であるのみならず、終盤では母親の死をその時点では明確には語らなくても、その鎖を外すということ(と、ぐらぐらしていた奥歯が痛みとともに抜けるということと合わせて)でごくスムーズそうとわかる、巧い「装置」として働いているのです。

その映像化。
別居した妻が別の男とともに久しぶりにこの家を訪れ、一刻も早く離婚届を手に入れて東京に戻りたい、という後半の場面を。男がある意味壊れる「トリガー」となるこのシーン。

たった3分のシーンを作り上げるために、監督はこの場面に自分の解釈を入れて描くという説明、たとえば夫の背中から妻と男を撮り、二人の背後から夫を取るという枠組みでどういう印象を観客に届けたいかという意図を伝わるようにつくること。あるいは編集を前提にして物語の流れとは関係なく効率のために時間とはバラバラに撮ったり、どの大きさで撮るか、「ちょっと嘘をついて」と言いながら実は立ち位置をかなり大胆に変えたり、怖く見せるためにどの高さの視点から撮るかなどの様々の工夫の数々。カメラからストレージに送り込んだものをリアルタイムでPC編集出来るというテクノロジーがあってこその見せ方、そのスピード感と合わせて、実に面白いのです。

その映像はYouTubeにもアップロードされていて、オリジナルの編集視点を変えたもう一つの編集で違う印象がきちんと伝わってくる、という面白さで、勉強にもなるし、楽しい時間なのです。 -->

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2018.11.14

【イベント】「浅い眠り」(月いちリーディング 2018/11)劇作家協会

2018.11.10 17:00 [CoRich]

劇作家協会が戯曲のブラッシュアップを目的としたリーディングとディスカッションで構成する定期イベント。初めての会場・若葉町ウォーフ。本編70分。休憩を挟んでディスカッションが2時間弱。 戯曲冒頭部(pdf)が公開されています。

人と関わり合いたくない人々を受け入れる村。全ての財産を寄贈し、最低限の関わりだけで維持される共同体を営んでいて、15年が経っている。理想に燃える副村長だが、村長は村の金を持ち出し姿を消している。 新たに入居を希望する二人。姉を探しに来ている女と、わけあり風でぶっきらぼう男。

関わり合いを持たず、静かに生きていきたいと願う人々。この村に隠れるように生きている人々。それは実家を継ぐのを嫌い逃げてきた女であったり、風俗で疲れ切ってここにたどり着き副村長の右腕兼愛人として安寧を得ている女であったり、あるいは居なくなった村長に替わりこの村の理想の実現に熱い思いを持つ男であったり。物語は、姿を消した女を捜しに来た妹と、安楽死に手を貸して死刑囚となったが死ななかったがゆえに釈放されたワケアリ男、あるいは取材を目論んで潜入しているノンフィクション作家だったり。

上演後のディスカッションでも多く出てきたのは、それぞれの人々が背負っている物語が徐々に明かされていくさまをつぶさに描いても、ここに集うことで変化していく様子が見えづらいことで、そもそもこれが何の物語なのかが見えてこないと言うことでした。一番変化するのは、逃げてここに住み二股を掛けられた結果妊娠して、会いたくなかった妹と話し、殺される女なのだけれど、必ずしも物語の幹とはなっていなくて、どこか背景の一つになっているような雰囲気があります。実際の上演かどうかわからないけれど、このリーディングでは双子の姉妹を一人の俳優が演じることで「出会うこと」の変化が描きづらい、ということがあるのかもしれません。

潜入した作家がしかし逃げられず、その間に毒をカレーに盛られて、無差別に酷い目に遭うことはサスペンスの要素になりそうだけれど、それも必ずしも物語としての推進力を持たないのも惜しいところ。

この村で行われていることが実は現在の日本の社会を箱庭的に凝縮して、カレーの毒とか安楽死、死刑囚が死ななかったことなどを相似形で描いているという見方が出来そうな気がするけれど、そこまでの推進力には至らないのもまた惜しい。

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2018.11.13

【芝居】「虹をみたかい?」文月堂

2018.11.3 19:00 [CoRich]

4日までMOMO。110分。

子供から高校生ぐらいまで子供を預かり家族のように育てる保育施設だった家。園長は妻を亡くし、自分の娘も施設の子供たちと一緒に同じように育て、いつでもみんなが帰ってこれる実家のような場所だといって育てていた。秋祭りを目指してお芝居を作って上演したり、タイムカプセルに大切なものをいれたりしていた昭和最後の年。
30年が経ち、園長からの手紙で「30年目の誕生日」を兼ねて集まる誘いを受けた入所者だった人々は成長しそれぞれの生活を送っている。手紙を出した後に園長は急逝し、その娘も家を出ていて空き家となっているこの家を売りたいということが伝えられる。

親と離れて暮らすざるを得ない子供たちのそれぞれの事情。ネグレクトや経済的な理由などそれぞれだけれど、その子供たちが30年を経て大人になった姿。子どもの頃の一生懸命さと純真な感じ。養子などの形でこの場所から羽ばたいても、それぞれに成長する過程での生きづらさを経験しています。実の親を反面教師に、「普通の家庭でいい母親になりたい」とか「結婚して幸せになりたい」、あるいは「技術を手にして仕事できちんと生きていきたい」と真剣に考えれば考えるほど、なかなかそうなれない焦りも一方ではあったりするのです。それでもそれぞれに成長して、大人になっていわば里帰りのように集う人々の姿。

物語はこの「里帰り」の人々を軸。それは、この施設でかつて育っていった子供たちが、成長し大人になって、苦労はしたし大出世とはいえないまでも、それぞれの生活を営んでいる人々と、それと対比するように、あの頃はいわゆる「普通で何もかも持っている」人々が、成長して結婚離婚を経験して何物かになろうともがいたり、金持ちだったのに踏み外して這い上がれないままホームレスになったりという人々のコントラスト、ちょっとほろ苦く。

何者かになろうともがく女はまた、この施設のオーナーの娘でもあって、実の娘と施設で預かっている子供たちが同じに扱われることの不満、いえなかった言葉を30年ぶりに発することで溶けていく気持ちでもあって。

昭和最後の年と平成最後の年、30年を経た二つの時間軸を舞台に交互に語られます。髪型や服での幼さの演出はあるにせよ、実際のところいい歳をしたおじさん、おばさんといった世代の役者たちが演じる子供の頃の姿は、最初は出落ち的な笑いが起きたりもしながらも、やがてどちらの時間でも自然に行き来するのです。それは自分が子供の頃の幼なじみが大人になっても変わらない姿に「見えている」ような、そんな感覚が蘇ったりもするのです。それは目一杯のテンションで年齢を重ねた役者たちが子供を演じることの楽しさでもあるのです。

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2018.11.05

【芝居】「ライク・ア・ファーザー」自転車キンクリートSTORE

2018.10.28 14;00 [CoRich]

自転車キンクリート、ワタシは4年振り。120分。31日までOFF OFFシアター。

就活がうまくいかず踏切で飛び込もうとしていた初老の男を中年の男女が止めた。お礼にとさそわれたのは酒屋のバックヤード。近所の顔見知りが集まり角打ちしている場所だった。酒屋の夫婦はまもなく子供が生まれるため、妻の幼なじみが店を手伝っている。近所のお茶屋の息子はアラフォー独身だが、その幼なじみの美しさに一目惚れするが、シングルマザーと聞いてショックを受ける。
飛び込みを止めた男女の姿は、飛び込もうとした男以外には見えていないようだ。二人は亡くなっていて漂っているといい、普段は見えないが触ると見えるようになるのだという。

恋と仕事と結婚に思い悩む30代という感じだったじてキンが描く物語は初老のくたびれたオジサンだったり、親に結婚をせっつかれる中年男だったりを軸にしながらも、これから生まれてくる子供を待ち不安と親になりきれない男女と、年齢を重ねてからのぎこちない親と子の関係を並べて見せる、実は親子をめぐるさまざまな物語。中年の男女の「幽霊的なもの」というファンタジー要素が物語全体を包みながらも、それぞれの不器用さが時に滑稽にだったり、時に情愛の深さを王道に描くようだったりと、ああなるほど観客も出演者も間違いなく年齢を重ねているのだ、ということを実感する物語になっているのです。

シングルマザーの女は少し不器用でクールな感じ、ギャンブル狂いだった父親のことを許せないままにずっと生きてきたけれど、いじめられっ子で一人見ていたアニメの「魔法の壺」を探していたのだということが見えてきたり、シングルマザーが事故にあうところをその見えなくなった父親に助けられたりと父親に対して許していくのです。あるいはちょっとがさつな独身男は同居する母親が疎ましく感じるけれど、突然倒れ、やはり大切な人なのだと再発見するなど、年齢を重ねたら重ねたなりに親の見え方が変わってくる、ということ。それは決して他人事ではなく自分に迫っていることなのだけれど、まだそれでも実感を伴って、というところまでは育ってないアタシなのですが、それでもずっとそういうことに近い歳になったなぁと感慨も深いのです。

この世のものではない中年の女を演じた歌川椎子はコミカルで楽しく、人に見えないのをいいことにビールケース押さえつけたりハマったりする細かいイタズラが楽しい。中年の男を演じた樋渡真司もコミカルにスタートしちょっといい加減なおやじっぽさの絶妙、終幕に向かってしっかりと背負う父親の物語。踏切に飛び込もうとする男を演じた久松信美はどこまでもいい人、ちょっと巻き込まれる感じも楽しく、「休むに似たり」ついつい思い出しちゃうワタシです。この三人いるとジテきんだなぁとほんとうに嬉しくて。アラフォーの独身男を演じた三浦剛はちょっとがさつだけど親思い不器用さ勝る造型の細やかさ。シングルマザーを演じた内田亜希子は一目惚れされる美しさの説得力と凛とした格好良さ。酒屋の夫婦を演じた渡邉とかげ、花戸祐介はクロムモリブデンの役者ですが、ラブラブな普通に可愛らしい夫婦、そこにちょっと差し入れられる影もちゃんと。

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2018.11.02

【芝居】「土砂降りボードビル」TCアルプ

2018.10.27 14:30 [CoRich]

去年上田で初演され、今年の夏・松本で2週間の上演を行っての凱旋的公演。105分。上田・犀の角。

短いスケッチ風の短編で構成されたさまざまな物語。殆どは松本公演と同じですが、「女三人の化粧室でのリズム」を「縄抜け芸をする男女、幕が開閉するたびさまざま」に入れ替えています。

松本は古い洋服屋をスケルトンに使ったごくコンパクトな空間。今回の上田の上演はゲストハウスの一階ロビーにあたるところ、普段はカフェ営業で利用している空間ですが劇場としての利用も多く高い天井、固定されたバトンもあったりして、空間としてはゆったり。出演者もほとんど同じ、ほとんどのスケッチも同じですが受ける印象は随分異なります。松本は狭い空間で濃密、それぞれのシーンの入れ替わりが全体の空気ごとがらりと入れ替わる感じだったのですが、広い空間の上田での上演は一つの固定された空気の中でシーンが並んで溶け変わっていくという印象。最初に観たせいか、松本での強烈な印象が残るワタシです。

飲食可能でもあって高い天井に広い空間。実は松本にはあまりないほどよい広さのいわゆる「小劇場」演劇のための空間としてはこの犀の角、よい場所だなぁと思うのです。高い天井から降りてくる階段も巧く使われていて知り尽くした空間を生かす楽しさ。

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2018.11.01

【芝居】「絶望的観測」なゆた屋

2018.10.20 18:00 [CoRich]

女優・ほりすみこが定期的に公演を行うユニットの新作。100分。21日までOFF OFFシアター。

希望する気持ちがあればもしかしたらいける場所。そこに居る占い師に相談すれば願いが叶うという。スーパーで働き、周囲からは地味といわれている女は、そこに偶然たどりつく。波の音のする場所で何をするでもなく、のんびりと過ごしている人々。夫婦らしき男女が中心に、ギターを持った男も横に居てなんとはなしに過ごしている。 偶然訪れた女、そんな女に恋したけれど声をかけられない男、その男の力になりたいと考える幼なじみの便利屋。女の職場の同僚もまた何かを抱えている。

白を基調にしたシンプルな空間、少し緑。椅子がいくつかで広場風の場所。どうやったらたどり着けるかわからないけれど、たどり着ける人にはたどり着ける不思議な空間。そこに居るはずの占い師という噂。何とはなしに集まってお茶を飲んで、お弁当を食べてという緩やかな場所に集う人々。

外からはのんびりとした暮らしに見えるようだけれど、そこに集う人々それぞれに望みがあるのです。しかしその望みにガツガツと向かって進んでいるわけではなくて、それを内に秘めている人々。記憶を無くした夫を見守るためにずっと一緒に過ごしている妻、スーパーで見かける女に恋をしたけどそれをずっと伝えられずにストーカーめいた気持ちを抱えている男。それを応援したいと思っているけれど、ちょっと極端に行きすぎる幼なじみ。あるいは、兄に会いたくてずっと寂しい気持ちを抱えている女。

決して若くはなくて、もう叶わないかも知れないとも考えながら、しかし諦めきれない気持ちを抱えた人々それぞれを温かく、しかし近づきすぎない距離感で見つめるような視線は実に優しいのです。 一つの区切り、次に進んで行こうという気持ちも明るくて、ちょっと切ない感じもして。でもちゃんと前に進んで行くのです。

便利屋を演じた佐藤達は純朴で真っ直ぐだけれど限度を知らず友人を助けるためなら何でもやってしまいそうな危うさ、実はそれがちょっと怖いぐらいでもあって。恋をする男を演じた渡辺裕也は思い煩うところはちょっと可愛いけれど、こちらも一歩間違えればストーカー案件、その危うさとバランス。ずっと見つめている女を演じたほりすみこ、自分のコトがわからなくなった夫をそれでも見守り続ける姿の切なさ。

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