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2018.08.29

【芝居】「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」ホエイ

2018.8.25 18:00 [CoRich]

2014年初演作を再演。27日までアゴラ劇場。90分。

複式学級の中学校の教室、教師は中国かぶれ、中国にくれてやりましょう、国歌国旗反対、朝日新聞最高、政府最低、でも校長の失踪は隠蔽している。
教室ではオカルトめいた遊びが流行っていて、何かが見える、ということを言い出していたり、心の隙間に悪い物が取り憑いていると非難したりしている。

子供と大人の境界、遊びとコミュニティが曖昧に同居する複式学級。中国かぶれな若い女性教師に多少の違和感ありつつも、平穏な日々にみえる、ささいなキッカケが暴発する場面を描きます。 背後霊のような推しがそれぞれにという起点はありふれたごっこ遊びだけれど、そこから見えざるものが見えてしまう、ということが共有されて集団ヒステリーのような状態に。それはやがて一人を貶めるイジメの様相、そこから抜け出す方策を必死で考えるなど、まだまだ子供に思える中学生でもそれぞれの立場を必死で守ろうとするコミュニティの萌芽があるのです。

お化けのようなものがみえる、ということが実際に見えているのか、それともある種の同調圧力によってそう云っているだけなのかは台詞だけではわからないけれど、すくなくともこの集団においてはそれが真実として共有され、反論できない状態に。大人と子供の境界たる中学生の未分化さだといえばそうだけど、実際のところ私たちの日常に地続きに感じるワタシです。シーソーゲームよろしく、そっちに付くべきといえばあっというまにバランスが変化すること、残った一人を叩きのめすこと。そこから逃れることの難しさもまるで私たちの写し鏡のように感じるのです。

そういう集団ヒステリーのような危うさを見かけた教師、逆に子供たちの作り出した、「悪の子供」と「心の透き間」という物語に乗っかるのです。心を無くせば対抗できる、とあっさり子供たちを掌握して、催眠術やブレーメンの笛吹よろしく、心を操るのです。序盤では中国かぶれという半笑いに造型されたコミカルなものが、全員に行き渡ってしまう、そのスピードの速さを描く説得力なのです。

コミカルで荒唐無稽な物語と笑うのは簡単だけれど、あちらとこちらの両極端になりがちなわたしたちは、この女性教師のような扇動に、いつ乗ってしまうかもしれない、という恐怖にふるえるのです。

初演の記憶は相変わらず曖昧なワタシです。終演後にロビーで耳にしたのは、終幕の終わり方の変化。初演では、すんでの所で止まった暴走が再演では止まらず、より救いの無い物語に変化したようです。

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2018.08.28

【芝居】「て」ハイバイ

2018.8.25 14:00 [CoRich]

2008年2009年の上演作。劇団10周年として、隣の劇場で「夫婦」を同時上演するという企画公演。9月2日まで東京芸術劇場シアターイースト。そのあと、高知、長崎、兵庫。

対面の客席の中央に舞台という構造は変わらず。二つのパートに分かれている物語の構造の切れ目で、ベッドやちゃぶ台あるいは柱や屋根を模したフレームを動かすことによって、客席から観た左右を入れ替えるように作られています。

ワタシの記憶(と今まで書いたワタシの文章を読み返した限り)では今までの上演では無かったこの工夫は、 実に効果的で見事。屋根の方向まで変えることで、おなじことを同じ時間軸で見せているけれど、視点を変えているということを物理的にも、物語の視座という点でも変えていることを明確でスマートにみせているのです。 物理的な視点が変わることは明確にメリットで、たとえ端の席に座っていたとしても、たとえばベッドの祖母、祖母に向かい合う人々の表情の両方がどの観客にもちゃんと見える、というのは地味だけれどほんとうに凄いことなのです。それは、何でもないシーンの、物語には何も寄与しない要素だとしても、見えないことそのものが初見の観客のストレスになるということはもっと知られていいことだと思います。

物語のほうは例によって今まで観たものをわりときれいさっぱりと忘れているワタシですが、二つのパートで視点を加え変えることでその場の出来事が違うように見えてくる、という鮮やかさは最近観た映画の、あのカタルシスにもちょっと近い感じがします。

初めて気がついたもう一つの点、たとえば部屋の外での会話が進行している最中に祖母と次女、次男、その友人や長女といった人々の関心のあり方が陰として示されていて、これもちょっとおもしろい。人畜無害に見える友人が実は次女も長女もなめ回すように関心を寄せていたり、次男ははしゃぐように見える表向きとは裏腹に、床に横たわり実は心が死んでいるような場面が象徴的。

浅野和之の母親は所作といいテンションのバランスといい見事。祖母を演じた能島瑞穂も声の弱々しさと所々踊るようなテンションの高さのコントラスト。父親を演じた猪股俊明はこういう理不尽で何をやり出すかわからない父親を演じさせると実に見事で、しかも時折見せる弱さすらもちょっと腹立たしく見えるのもリアルな造型。

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2018.08.27

【芝居】「5seconds」パラドックス定数

2018.8.19 18:00 [CoRich]

羽田沖の日航機墜落事故(wikipedia) を題材にしたタイトな二人芝居。ワタシが初めてこの劇団に触れて大興奮した日を思い出します。 劇団としては四演め、ワタシは再演、三演と風琴工房による上演に続いての四回め。21日まで風姿花伝。 (1, 2, 3)

舞台上にはテーブルと向かい合いの椅子、電話。舞台奥にもう一組のテーブルとペアの椅子に水差しや小道具など。通常の階段状の客席のほかに舞台上左右端に対面の客席。二人の位置が一度切り替わるのは、席によってまったく片方の役者が見えなくなる、ということを防ぐいいアイディアです。

羽田空港、滑走路直前で墜落した飛行機の機長と弁護士。意図的な逆噴射などの墜落への操作が疑われ、心神喪失で責任能力がない線での弁護を考えていて。弁護団の中でもっとも下っ端、という弁護士の接見。 日本一の航空会社の機長という超エリート。丁寧ではあるけれどエリート丸出し、見下すよう。そのうえ、事故を認識していても、機長として復帰できると信じ切っていて、という、まばらな認知。 二人の信頼関係が作り上げられたかは微妙な感じだけれど、それでもあまりに二人は真っ直ぐに向き合うのです。

強烈なエリート意識に隠れた、心身の病に起因する弱気。それを悟られてはいけないという張りつめた気持ち。ちょっとしたミス操作を副操縦士に直され、自分が追い抜かれると思い詰める気持ちゆえ、一刻も早く着陸の次の動作を自分がなさなければならない、と思いこんだことを告白する終盤のシーンの迫力は変わらず。現場のレバーの状態とエンジンの状態が食い違っていたことを、想像力で補って説明する、というのも作家の一つの語り口。何度見ても、息を呑んでしまうワタシなのです。

ワタシの観た回の舞台上特設席には子供が二人。この行き詰まる芝居に大丈夫かと正直危惧しましたが、思いの外静かでしっかりと芝居見ていて、ちょっと感心したりも。関係者の知り合いかなぁ。

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2018.08.22

【芝居】「レプリカに捧ぐ」牡丹茶房

2018.8.18 19:30 [CoRich]

19 日まで王子スタジオ1。80分。実は初見です。

倉庫のような部屋。女がさらわれて来て目を覚ますともう一人の女が居て、少し前にさらわれてきたのだといい、憔悴しきっている。時々現れる男が持ってくるわずかな食料と、反抗すると暴力を振るわれる過酷な環境の中、数週間を一緒に過ごすうち、二人は友人としての関係を築き始める。
ある日、もう一人の女が迷い込んでくる。この場所のことは知らないようで、男はよく知っているようだ。

シャッターで塞がれ、遅れた客は入れない空間での物語。閉鎖された空間で監禁された女たち。序盤は監禁や環境の過酷さ、状況次第では暴力を受ける恐怖という空間の説明に。中盤で女二人だけで助け合おう、あるいは脱出しようという連帯の気持ちの発芽。中盤やや経ってからは、もう一人、なにも知らない女の登場で、この苛酷な状況がくるりと裏側を返して見えてくるのです。

ネタバレかも

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【芝居】「横浜ローザ」横浜夢座

2018.8.13 14:00 [CoRich]

女優・五大路子が毎年ブラッシュアップしながら演じている、横浜の伝説の娼婦の物語、ワタシは初見です。15日まで赤レンガ倉庫ホール。120分。

伊勢佐木町のエレベーターホールを住処にしている老女、かつては人気の娼婦で、白塗りで街を歩き人々も知っている。

広島で結婚し戦犯となった夫を弁護するために横浜に出てくるが、広島に戻らず、レイプに遭いパンパンとして生きていくことを選び取った女の物語。米兵の将校と恋仲になりながらも別れ、生き写しの若者を育てる気持ちを持ちながら一人で生きてきた一代記ですが、女が年を重ねて容姿の衰えを隠せなくなりつつある残酷な時間は重ねて、人々が豊かになり、街にそういう存在がいることを蔑視するようになっていくのです。終盤の台詞、ワタシはいったい誰なのか、ということに集約される人の生きざま。

野毛から伊勢佐木町はワタシの子供の頃はちょいと足を踏み入れづらい怖い場所でした。じっさいのところ、松本から戻って来てから足を踏み入れた感じです。隆盛をほこった繁華街、いろんな人々が入り乱れた場所。 その雑多な街においてもなお、ハマのメリーさん、もしくはローザと呼ばれ、街に出入りした人なら誰もが知る存在。ワタシはまあ、新聞の横浜版でちょっと読んだぐらいのわずかな知識ですが。

コミカルも若い女から老女、白塗りに至るまで一人芝居としては思いほのか(失礼)濃密で、確かに生きてきた一人の女性を描ききるのです。なにが史実かがわかりづらい領域ですが、ドキュメンタリー映像(未見)、いくつかの調査(の引き写し)を読んだ感じでは史実に忠実というわけではなく、わりと盛った話ではあります。

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2018.08.19

【芝居】「真空家族」Nana Produce

2018.8.11 19:00  [CoRich]

19 日までザ・ポケット。120分。

山奥、公園を作ろうとしているが事故が起こり、滞っている。パパ、ママと呼ばれる男女が社会になじめない人々を預かって暮らしている。NPOでクラウドファンディングを立ち上げているがうまくいっていない。
タオルをかぶった女、ギターを弾いて曲に乗せないと喋れない男、俊足で日本記録を持ってる男。
長い間連絡の無かった女の姉が友人とその息子を連れてきた。何もかも見通すよう、 地元の男たちは集会に来ないことを快く思っていない。公園を管理する団体が公園をつくるためにこの団体への加入を勧める。

ありえないシチュエーションとありそうな断片を組み合わせた物語、一癖もふた癖もある人物をきっちりと演じる役者、濃密に作られた舞台で見応えがあるのです。

さらわれてきた女を、さらってきた男が殺そうとした場所、何十年か経ち、二人で住みNPOを立ち上げ社会に馴染めない子供たちを預かって収入を得てるがラクではなくて、地元のコミュニティにもあまり繋がらず、NPOの目玉に公園を作ろうとするが許認可のことを知らず新たな出費が出せなかったり。公園とかNPOとか社会になじめない人のコミュニティは何かのやっかい払いみたいな雰囲気でもあります。

物語の柱となるのはさらわれた女が肉親にも連絡を取らないまま男と日々を暮らしていることで、父親があまりにも怖くて逃げ出してきたと言う背景が中盤で描かれます。久々に連絡してきた姉、父親は介護が必要になり、しかしちゃんとそれなりに余裕のある暮らしをしていて。

コミュニケーションが巧くとれないような預かった子供たちとの微妙なバランスをなんとか維持してくらしていた中に新たにやってきた男は、慇懃無礼なんでも見通すような不愉快さでサイコパスな人物で、猟銃を手にして企てるのは、コミュニティの一人の女性への好意から直すために足りない恐怖を与えるのだという思い込み。

この山にいる巨大な主、は殺人のような混乱が起こる場所に現れ、おそらくはそれを鎮めて。それは何十年か前に連れ込まれた女が殺されそうになった時にも起きたこと。すこしSFめいた超越する存在が山の中で人々を見ているという描き方は自然への敬意と恐怖の入り交じった、原初的な人間と自然の対峙の在り方で、それはおそらく私たちが忘れつつあるものだ、と思うのです。 とはいえ、コミカルな部分も多く、ちょっとイラっとする人物がこれでもか、というてんこもり。 ママと呼ばれる女を演じた雛形あきこは年齢を重ね全体を仕切るようになった女の説得力でかっこよく。パパと呼ばれる男を演じた浜谷康幸は情けなさが勝る造型、女とのコントラスト。姉を演じた水町レイコは背景を説明する重要な役、苛つき続けて話すというかなり負荷のかかる役どころだけれど、説得力があって、印象に残ります。地元の男達を演じた今井勝法、吉村公佑は、コミカルでがさつだけど、ちょっと女に下心があるのが可愛らしい。

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2018.08.15

【芝居】「お茶と同情 Tea and Sympathy」フライングステージ

2018.8.11 16:00 [CoRich]

ゲイを公言する劇団の新作。濃密でちょっと勉強になるのに楽しく見られる75分。 12日まで。

高校に実習生としてやってきた男は、校長副校長に全校集会の挨拶で自分がゲイだとカミングアウトしたいというが、教職員の会議でそれは伏せておくことになる。受け入れる国語教師もゲイだが学校ではほぼ明らかにしておらず、どちらでも自分で決めればいいと寄り添いながら、見守っている。
養護教諭に呼ばれた教師はそこで保護者に紹介される。シングルマザーといっているが、実はレズビアンカップルなのだという。
実習生は最後の授業で夏目漱石「こころ」をとりあげて無事に実習を終える。翌週挨拶をしたいといって再び学校に現れるが、生徒からホモだとヤジられる。受け入れ担当の教師は生徒たちを強く叱責する。 副校長は同性愛を忌み嫌っているが、レズビアンカップルの保護者に招かれて食卓をともにして、久しぶりに人と食事をする家族を思い出す。

同性愛の愛情のありかたというよりは、同性愛者たちがどう生きて暮らしていくか、今の日本に足りなかったり逆風なものを丁寧に整理してぎゅっと濃縮、箱庭のように全体が俯瞰できる、教科書のような一本。

LGBTに対しての偏見を持つ人々、受け入れる人々それぞれの存在、BLといってそれを「消費」する人々と、若い頃の一過性の未分化な感じ。パートナーシップ制度、パレード、カミングアウトやアウティング。ワタシは知識として知っているだけのさまざまな考え方や行動、受け止め方が本当に無駄なく詰まっているのです。その知識のほとんどは、この劇団に教わっているとも思うのですが。

。 主役となる国語教師は少しコミカルで、アウティングされても困ったなと見せられるぐらいの強さだったり、年齢が高いからこそ、若い同じような人々を全力で守るのだ、という作家自身の矜持にも感じられます。演じた石坂純はその厚みと軽やかさのバランスを絶妙に。 実習生を演じた井手麻渡は若いからこその希望に満ちて何事も乗り越えられるという感じがキラキラとまぶしく、しかもカッコイイ。養護教諭を演じた清水泰子はどっしりとしなやかに、優しい存在をきっちり。

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2018.08.14

【芝居】「九月、東京の路上で」燐光群

2018.8.4 19:00 [CoRich]

関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺にまつわる調査・考察をする同名のblogとそれをまとめた書籍を原作とした舞台化。5日までスズナリ。145分。

千歳烏山・烏山の神社に集まる人々。虐殺された朝鮮人を悼むために植えられたとつたえられる椎の木が13本あったがそれが4本に減っていて、オリンピックをめぐるクラウドファンディングへの応募にその復活を求めるものがあったために調査するために集まった。その虐殺の足跡を辿る。
国会議員に自衛官が「国民の敵」と発言し咎められるが、それは確信犯で、シビリアンコントロールを弱めることが正しいと信じている。
烏山神社の椎の木が更に切られ、虐殺の歴史を快く思わない人々が忍び寄る。

関東大震災の時にデマによって朝鮮人・中国人が虐殺されたとする記録を訪ね歩くblog・書籍をもとにして、自衛官のシビリアンコントロールの問題を重ね合わせて描く、いま、ここで再び起こるかも知れない悲劇を現在からの地続きに描きます。名作・CVRから続く報告劇のスタイルなのです。

明確な悪意だけではなく、普通の市民達も震災の不安の中で虐殺する側の輪に加わってしまう集団心理や、一度発せられた公的な誤報はすぐに訂正されてもそれが行き届かないこととなど、あの震災の時に同時多発した悲劇をほぼ時間通り、それぞれの場面を描いていきます。史実として聞きかじって知識としては知っていても、ほんとうに些細なキッカケで起きること、あるいは彼らを守るためのいくつかの救済策が意味をなさないばかりか逆効果になってしまうことなど、起きたことを緻密に描くことで、私たちもいつ加害する側にまわるかもしれないという懸念を直接感じ取ることができるのです。

いぽうで、自衛官とシビリアンコントロールの問題は、虐殺のいくつかの現場で起きた軍による「討伐」と重ね合わせ、虐殺を加速する暴力装置として働く機能があることを描きます。終幕ではフェンスに囲まれた市民たちがシビリアンコントロールを無くした自衛官の暴走、それに追従する人々という形で、私たちが加害される側にまわる恐怖も強い迫力で訴えるのです。

ヘイトする側は、正義と考えて加害する側にまわるのは簡単に始めるのに、ささいなきっかけで自分が加害される側に貶められることを想像できないという両方の側面をきっちりと描いているのです。ワタシ自身がいつそうなってしまうかもしれない、と少し怖くなったりもするのです。現在がそうなってしまわないようにきちんと過去に学び、無関心ではいないようにすること、生き残ったものたちの義務なのだという強いメッセージなのです。ワタシにしたって、無関心を装うことがかっこよくてそれでも大丈夫だった時代は既に過去になっていること、ちょっと自覚しないとな、と思うのです。

議員や正力松太郎を演じた大西孝洋の迫力と少しコミカルな人物造型の圧倒的なリアリティ、自衛官を演じた荻野貴継のマッチョで冷ややかな目線の恐怖かと思えば迫害される側も演じるコントラストもよいのです。

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【芝居】「枳殻の容」TOKYOハンバーグ

2018.8.4 15:00 [CoRich]

5日まで楽園。80分。

大学生で塾の講師のアルバイトをしている女は、紹介されて、Jリーグ選手からコーチになっている男に出会い、やがて付き合うようになる。交際を続け、結婚の話しが出てきたころに、男が筋肉腫に犯されていることがわかる。

当日パンフによれば、他界した作家の親友のことを描いたといいます。謝辞などから察するに、劇中の名前はおそらく現実の人々の名前そのままのようです。物語はその恋人である女性の視点からひとり芝居として進み、出会い、惹かれあい、結婚を考え、しかし闘病生活に入るというゆるやかに流れる時間を丁寧に描きます。

現実の名前である以上、エピソードは拾ってあるにせよ基本的には現実に即したドキュメンタリーに近いのだろうと考えるワタシです。冒頭が「検査の結果」で始まり、当パンに他界した親友の話だとあるので、人物を丁寧に優しく描くことになるし、着地点がどうなるかということもわりと見えていて、見えている流れに乗ってみることができるかどうか、ということが芝居をどう感じるかのポイントになる気がします。

その点において、こういう人がいて、作家(や恋人)は彼の事が好きで、その死をとても悼んでいるということを丁寧に積み重ねています。現実の友人を亡くしたことを描く事も、ひとり芝居で演じることも逃げ場の無い要素ばかりのなか、一直線とはいえ、積み重ね続けることできちん人間を造型していくシンプルで美しい舞台になっているのです。

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2018.08.11

【芝居】「1961年:夜に昇る太陽」DULL-COLORED POP

2018.7.29 18:00 [CoRich]

福島での初日を経て8月5日までこまばアゴラ劇場。120分。これを第一部として、今後全三部の上演となることが告知されています。

福島に向かう列車の中。東大で物理学を学ぶ大学生は長男だが親に跡は継がないことを告げにいこうとしている。同じ列車で福島に向かう男女、男はやけに物理学に詳しく。
地元の次男は消防団で地元に暮らし、日々地元のためにできることを考えている。三男はまだ小学生だ。 長男は親に後を継がないことを宣言するが祖父はそれを許さない。家を飛び出す。その家には地元の有力者から折り入って相談があると云われ、家族が集められる。有力者は客を伴って現れる。それは県の職員と東京電力の社員だった。

福島に原発が誘致される、その瞬間を描きます。 穏やかな、しかし寒村な土地。人々は朗らかに暮らしているが、特産品もこれといった産業も観光資源もなく、これから経済成長していく日本全体に対して、置いてきぼりをくうかもしれないという懸念ありつつの日々。 この土地の出身、東大を出てもこの場所には戻れないという現実。一方で、電力の逼迫は喫緊の課題となりつつある東京。 原子力発電所は大きなエネルギーを都会にもたらすが、リスクがあって、人のいない場所にリッチさえるしかないという電力会社の視点。一方で、経済的においてきぼりを食らう懸念の地元の有力者や自治体は、リスクは飲み込んでも立地させ、雇用や補助金で金が地元に落ちることを強く望んでいて。

おだやかな日々の生活の場面は主に子供たちの会話として、ミュージカル風味の人形劇として描かれコミカルで楽しい。もちろん難しい大人たちの話がわかるわけではないけれど、何か普段とは違うことが起きているということだったり、大人たちの会話の「目撃者」のような視点。とりわけその視点で描かれる後半が圧巻なのです。土地を持っている主人公・三兄弟の家、家族たち、東京電力の社員、地元の有力者や自治体の職員といった人々の会話がこの物語の要。地盤沈下著しい土地をどう経済的に支えるかの地元の視点と、増え続ける需要にどう答えるかを模索する東京電力がこの土地での原発建設を望み、地権者をどう説得するかの場面。

わりとネットで拾えるような話題もあって、隣の地域ではもっと熱意を持って誘致しようとしているといった駆け引きであるとか、東京電力の社員の調査は怪しまれないように女性社員を伴ったピクニックという風情だとか、あるいは原爆の広島の出身だということを説得の材料にしたり。それが濃密に描かれるこの夜のシーンの迫力。

地元に雇用などの利益があることは理解しつつ、しかし安全性の懸念は拭えず。じっさいのところ諸手を上げて賛成するということではなく、「明確に反対しなかった」ということで建設が進むことになるのです。結果的に一方的な被害者ではなく原発建設を後押ししたのだという視点はほろ苦く鋭い。冒頭と終幕のシーン阿hこの1961年を2011年からの視点で見ていて、「止めるといわなかったこと」の結果がこうなったのだ、ということが象徴的。終幕、このあと予定している二つの公演がどう描かれていくか、とても期待してしまうのです。

長男を演じた内田倭史は若く、とてもパワフルな、時折空回りするようなイキオイが微笑ましく、熱く印象に残ります。三男を演じた井上裕朗は今作では幼い子供という意外な役、三部作でどうなるかが楽しみで。母親を演じた百花亜希はおっちょこちょいな感じでもある可愛らしさ。東京電力社員を演じた古屋隆太は迫力のある圧巻の説得のシーンがとても印象的。対峙する祖父を演じた塚越健一の昭和の男な重厚な雰囲気、意外に見たことがない役でこれもよいのです。

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2018.08.08

【芝居】「朗読劇ウキヨホテル」Ukiyo Hotel Project

2018.7.28 20:00 [CoRich]

かつて横浜にあったチャブ屋・キヨホテルをモチーフに作家がさまざまなのバリエーション( 1, 2, 3) で作り続けているシリーズ。歌とダンスが20分ほど。本編となるリーディングをあわせて70分ほど。平日と週末二日だけの公演ですが20時開演がありがたい。もっとも台風直撃が懸念される中行ったワタシもワタシですが。

老婆が亡くなりその足跡を取材する男。ある日、ナイフを突きつける老婆と出会う。
幼い娘が二人、漁村から歩いて目にしたのは海で泳ぐ男女の姿。その中で光り輝いて見えるハマコ。訪ねてきていいと云われ訪れたのはダンスホールと個室からなるホテルだった。そこで働き始める二人。

いままではショーと物語を組み合わせることが多かった気がしますが、今作はショーは明確に分離し、物語の部分をリーディングとする構成に。 最初は歌とダンスをピアノとドラムの伴奏で構成。劇中のホールで行われていたであろう華やかさと色っぽさを兼ね備えて。

物語の方は、売れっ子であるメリケンお浜ことハマコをメインに、医者、店のオーナー、そしてその近くに居続けた女をメインに描きます。貧しい漁村、港町ゆえの華やかさと猥雑さ、そこで生きていくことの厳しさを背景に、その中でトップで体を売ることでトップであるために一筋縄では足りない強烈さを持ち続けていた女の姿を描きます。

その強烈な女自身がどう考え、内面がどうだったかは丁寧にそぎ落とし、そう「居続けた」偶像としての姿を、周りの人々からの視点で描いています。船に乗せて働く、という周りの尽力からもさようならと去り、しかし晩年は恵まれなかったとしても、しっかりと自立していった女の姿。

老人とのまぐわいを公開ショーにするエログロっぽい感じだったり、女二人の間を愛情というより情愛で描いたりと、ちょっと変化球のあるシーンが多い印象。強いモチーフを核に据えることで、それを描きたいとおもう高校生たちの熱情も、その中で生きていた人々を描くことも、自在でさまざまに変奏させていくのはちょっとおもしろいやり方だと思います。

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2018.08.07

【芝居】「顔!!!」艶∞ポリス

2018.7.22 18:30 [CoRich]

100分。7月25日まで駅前劇場。

ドラマ撮影中のメイクルーム。美人で知られる女優と、個性的で実力派の女優が初めて共演する。かつて二人は無名の頃に同じオーディションを受けて顔を合わせているが、美人女優のほうは覚えていない。
美人女優のほうは、順調にキャリアを重ねいまはとても売れっ子になっていてハリウッド帰りの専属メイクもつけている。実力派の方もドラマの現場を重ね認められつつある。

美人女優と実力派の女優の物語を軸に。あるいは不安定気味な若い女優と厳しいマネージャ、ハリウッド帰りの少々いけ好かないメイクと、その弟子だったメイクが実力を付けてドラマ担当チーフになっていたり。プロデューサーやディレクターなどもあわせて、テレビドラマ撮影の現場を舞台に描きます。

持って生まれた美人な女、あっという間に人気がでたのだろうけれど、一方で女性のプロデューサには仕事をなめていると論破され、あるいは男のディレクターには顔が好きだからと言い寄られ、しかし実力を見て欲しくて。そこまで美人というわけではない女は、わりとぞんざいに扱われたりもする日々の中でもどこまでも明るく、前向きにキャリアを積み重ねて来た自負。かつての同じオーディションでの経験もある種の屈折した燃料として生きてきて、しかもちゃんと結果を出しつつあって。

美醜が商品価値の要素の一つであることは女優という属性の上であればむしろ積極的に意味のあること、という前提なのは普通の人々のありかたとは少し異なります。演技の質もまた商品価値の一つではあるけれど、今作に置いては基本的には美醜は天賦のもので簡単には乗り越えられないもの、演技はある程度は訓練と積み重ねによって得られるもの、として、二人の女優のキャリアのありかたを描きます。

美人だから売れたということは認識しつつ、しかし自分は実力によって評価されたいと思う女優の姿と、演技をなめていると断定されたり、いわゆるマクラ営業的なことを求められがちだ、ということはなかなか思い通りにはいかない、#MeTooな世界。いっぽうで、実力派と呼ばれる女優だって評価されつつあることは嬉しいけれど、より美しくなりたいという負けん気をもちろんきっちり持っていて。

今作のもう一つの柱は、この美醜をめぐる女優たちに寄り添うメイキャップのありかたなのです。美しく売れているものだからこそ、より高価で高度なメイクの技術が専属という形で加えられがちで、それは美醜という評価軸の格差をより拡大する方向に描きます。対比するように描かれるのは、ドラマについたチーフのメイク担当で、ドラマをどう仕上げていくかと言う目的のために、無茶だと思うほどの困難を乗り越えるメイク技術を工夫で乗り切ったりというある種のヒーローとしても描かれます(ここが男女の対立になってるのも巧い)。一方で終盤、キレることで大きな混乱を呼んだりもするわけですが、それもまた抑圧されたものの爆発という形で、痛快なのです。

全体のタッチとしてはもちろん喜劇。しかしキャッチにあるように「でもこれは、喜劇として流すつもりはない。」というのは女性である作家自身の強い訴えでもあって。いわゆる男性から性的に扱われる #MeToo ムーブメントでもあるし、女性だからと実力を過小評価されてきたことに対する強い訴えでもあって。あるある、な雰囲気の軽快なコメディーでありながら、二つの物語を密接に絡ませて力強く描く確かな力なのです。

「美人女優」を演じた幸田尚子はきっちりと説得力、すらりと格好良く、しかしきちんと内面のある人物を造型。芝居をなめているようには見えない、のがご愛敬だけど実体はどうであれ女からそう云われがち、ということかもしれません。「演技派女優」を演じた杉岡あきこは、愛嬌もあって現場の雰囲気にもよく溶け込む職人肌という人物を気さくなものとして造型。いっぽうで時折見せる負けん気というか競争心や嫉妬の見え隠れの落差も巧い。ハリウッド帰りのメイクを演じた谷戸亮太はスマートだけどいけ好かない人物をきちんと。対するチーフメイクを演じた岸本鮎佳はあまりにスーパーヒーローすぎるところはあれど、突き抜けてそれ自体がコメディになるのはちょっと面白い。

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2018.08.06

【芝居】「睾丸」ナイロン100℃

2018.7.21 18:30 [CoRich]

休憩10分を含み195分。29日まで東京芸術劇場シアターウェスト。 そのあと、新潟、宮城、いわき。

1993年、家を出て行こうとしている妻。その家に学生運動の頃の先輩の訃報が届く。25年もの間植物人間状態で、しかし見舞いに行くこともほとんどなくなっている。妻はその植物人間状態の男と恋人であったが、いまはその後輩と結婚している。
夫は同じ学生運動の仲間に再会するが、自宅に放火しその保険金を手に入れたりして、図々しく居座る。はなすうち、あの頃上演できなかった芝居のことを思い出す。しかし読み直してみるとおもしろいとはとうてい思えない。 訃報の届いた先輩は、実は生きていて、植物状態から回復していた。見舞いを続けていた弟がふりかえらそうとたくらんだ一計だった。あのころの活動資金を稼ぐために、恋人に売春をさせていたことがあかるみになるが、男は女にできることはその程度なのだと反省の色がない。

若い頃の学生運動、そのころのまま生きてはいるが時間が止まっている。それなりに幸せに暮らしてきて、同居している人々のちょっと粗雑な感じはあるけれどちゃんとした生活の日々。しかし喉に刺さった小骨のようにずっと続く気がかりなこと。いつかはと覚悟していても突然の訃報は、その頃のことのフラッシュバックを呼び起こすように回想シーンが挟まります。

あのころのことは懐かしいし楽しかったこともあるけれど、実際にあってみればいい年をしてごろつきと紙一重、決して立派な大人にはなっていなくて。活動の時代の要請といえばそうかもしれないけれど、パワハラもどきに手柄の横取り、つぶさに見ていけば酷いことのオンパレード。植物人間となり過去の人であったからみながそれを封印していたし、そのまますべては葬り去られる筈だったこと。

その男が回復し現れる後半。喜びや嬉しさというより、先立つのはどちらかというと戸惑いとか気まずさで、それはまざに過去の亡霊。妻が売春させられていたことが明らかになり、それに反省の色を見せない男は徹底的に糾弾されるのは現在の #MeToo な感じだけれど、理性よりは明確にボコ殴りさせるのは、ちょっと独特な感じで、しかも小気味よくもあったりして。もっともその娘は別の女をだまして金を貢がせるようなことをしているわけで、因果応報なような感じがしないでもありませんが。

自分の過去を心の中で誇りを持つことは悪いことではないけれど、みんながみんなそうではないこと、ましてや日本が熱かったあのころのような回顧し自慢するということが、いかに無駄で無残なものか。 そうして生きてきたこの家族たちは、もう何もかもめちゃくちゃに破滅していく終幕。 1993年という舞台設定はバブルの綻び、戦後の数十年を無為に食い散らかしてきて、モラルももうめちゃくちゃになったこの家族と人々、一直線に成長しよりよくなるからと信じ封印してきたことも含め一気に崩壊するとき。

そこで始まった崩壊はずっと続き、いろいろ隠していたことが露呈し続けていて、舞台となった、あの無残な1993年からさらに25年経った現在の私たちにもそれは地続きで、何も変わらないどころか酷くなっているとすら感じて暗澹たる気持ちにもなるのです。そういえば、植物状態で25年男を生きながらえさせてきたのは前の世代の遺産というのも、どこか重なるのです。

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2018.08.03

【芝居】「キシカンミシカン」螺旋階段

2018.7.21 15:00 [CoRich]

22日まで神奈川県立青少年センター。

雨宿りする男女は初めましてと挨拶をするが、女は何かを知っている。あるいは、最近露出が減っていた女優が引退する会見、その理由を尋ねられて「むなしさに気づいて」という。あるいは、戦場で人質をとり悪いことをしようとしているレジスタンス風の人々。
男女はコスプレ風に着替え、土管の中で地下へ潜る。そのなかの人々、さらわれた人々を救うヒーローは彼しかいない。

正直に云うと、私にはそれぞれの要素がどう組み上げられているのかが今一つわからなかったので、上のあらすじにしても、これから書くこともどれだけ間違っているかわからず恐る恐る書くのですが、にしても、作家が明確に津波と創作にまつわる意識の遷移をさまざまに表現していて、そこから観客が何をすくい上げ感じ取るかはかなり大きな振れ幅がある気がします。

おそらくはこの物語の世界は小説家か脚本家か映画監督が描いた世界の断片。その世界を作るために必要だったけれど実現できない女優の引退会見は作家がみている現実の世界のひとつ。戦場や地下の人々がある日突然ひどい目にあう、というのは津波に「さらわれた」人々を想像するもう一つの現実で、作家はそこから書けなくなっている。雨宿りで出会い、配管工の兄のゲームキャラクタは「さらわれた人」を救うヒーローで、弟はそれを切望する作家の気持ち。と読みとりました。

少ない役者がいくつかの役に入れ替わりながら、時に絶望を描いたり、ときに希望を託すものを描いたりという断片。整理がつかないわさわさする気持ち。
それぞれのシーンは時にボヤキ漫才風だったり、無茶ぶり男のコミカルだったりとおもしろかったりもするのですが、正直に言えば全体の流れでそれぞれのシーンがどこにハマるかわかりやすくはなくてワタシは少々戸惑います。繰り返し観ることでわかってくるものもあるような気はするけれど。

配管工兄たるヒーローを演じた大島寛史、すっくと立つ頼りがいあるような反面、水野琢磨との二人港町のシーンでのちょいとぼけ倒す刑事とのぼやき風のシーンが楽しい。女優を演じた岡本みゆきは初めてのショートな雰囲気が凛々しく。記者を演じた木村衣織は強く追求するキャラクタ、ホテルの従業員を演じた大塚夏海は対照的に柔らかな雰囲気。

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