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2018.06.26

【芝居】「Last Night In The City」シンクロ少女

2018.6.3 13:30 [CoRich]

140分。3日までスズナリ。

かぼちゃが頭の上から落ちてきて父親が亡くなった。母親テツコと同棲している男・もりへーは結婚する気はなく、セフレだといっている。 息子は成長し、作家にはなるが売れていない。父親となり娘を儲け可愛がるが、アートとビジネスで成功した妻からはつまらなくなりスピードが落ちたと云われている。 作家として成功した男、成長した娘やかつての父親が時々会いに来ている。作品が好きな若い女が家を出入りしている。 アルバイトの女は人との関わりを極力減らして生きているが、会いたい人は居る。同僚の若い男がなぜか懐いてきていてそれを助けようとする。

子供の頃、大人になってから、もう少し歳をとってから、という三つの時代を小さく分けたピースで同時進行的に描きます。 それは、子供の頃の父親の死が母親を救うことになったこと、そのあとの新しい「父親」との下世話で貧しくとも心豊かな日々だったり、あるいは虚勢を張って生きている子供が大人から受ける理不尽な仕打ちだったりという子供の頃の起点から、成長し自分もまた親となり、そして老いの少し前、そろそろ下り坂という時代に至っての再会。

点描される三つの時代で成長につれ別の役者が演じていたりするので、序盤はつながりのないままの場面が積み上げられている感じがありますが、それはそう大きな問題にはなりません。それぞれの時代の小さな会話が積み上がり、それはやがて三つの時代をつなぎ合わせるようになっていき、二人の男女が重ねた年月と年齢の途方もない時間、それは「長く辛い戦い」を丁寧に、時に幸せを交えながら描き出すのです。

三つの時代のつながりが見えてきてもなお、作家はいろいろな仕掛けを盛り込みます。 男の人生は、 落ちてきたカボチャで死んだ父親、それが今は一緒に暮らす父親代わりの男が意図的に母親を救うために行ったこと、その後ろ暗さゆえ結婚はせずにセフレだと嘯いていたこと、成長し妻や娘との幸せな時間、とそれが失われることの絶望。大成し名声は受けたし若い女も何となく手には入った感じだけれど、過去に捕らわれ続けることという流れ。時系列を巧妙に隠したり入れ替えたりして、娘という過去や自分が子供だった頃の過去に捕らわれ続けている男の姿を丁寧に重層的に描くのです。

いっぽうの女の人生は優しい年上の兄のはずの男から受けた子供の頃の辛いこと、大人になってから冴えずくすんだ人生を歩んでいるけれど、彼女にとってのもしかしたら、再会したかったかもしれない子供のころの友達のことを思い出して再会したいこと。 ちょっとお調子者な感じの男にそそのかされるように、車に乗りロードムービー風に探し歩くところは軽快で楽しく。

作家はさらに、二人があえるかどうかを大団円しないあたり、映画モチーフは多くても、ハリウッド超大作なハッピーエンドな感じにはしなくて、ちょっとヒネたほろ苦く味わいのある物語を描き出すのです。ここ数作の若くない男女たちの、必ずしも恋愛感情というのとは違う「そう生きてくるしかなかったこと」と「しかしここまでの人生を振り返ってみること」を濃密に描き出す作家のマスターピースになると思うのです。

作家の子供時代を演じた細井準のイノセントさ、売れてない頃を演じた斉藤マッチュの子煩悩&愛妻家、大成してからを演じた泉政宏の軽さとちょっと影のある感じの時系列。あるいは娘を演じた浅野千鶴や祖母を演じた田中のり子は子供や若い頃と、その後の二つの時代を演じているのはこの二人だけ、仕掛けとして亡くなったからそのままの成長という役の当て方もいいバランスだし、観ていてたのしい。

近所のお姉さん、成長してから愛想なく孤独にアルバイトとして働く女を演じた小野寺ずる、浅田直美は子供の頃のとがり続けているテンションの高さ、きっと睨んだような硬い表情の子供っぽさ、あるいは成長してから丸くなるのではなく諦めた雰囲気という厚み。 成長した女を唆して、人捜しの旅のバディとなる男を演じた横手慎太郎も軽口叩きながら人への敬意と支えたい気持ちを滲ませる人間臭さ。対照的に 義理の兄にあたる男を演じた中田麦平は序盤の礼儀正しさからの豹変の怖さ。

セフレと嘯く男を演じた用松亮は実に良くて、軽いどころか酷い感じなのに、終盤に向けてどんどん人間くさく、そして愛に溢れた人物をかたちづくっていきます。

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2018.06.18

【芝居】「無伴奏ソナタ」キャラメルボックス

2018.6.2 14:00 [CoRich]

2014年の再演と同様の、観客に会いにいく、というグリーティングシアター。 120分。東京、栃木、愛知を経て、長野県・中信地区での高校に向けての芸術鑑賞公演の合間に、まつもと市民芸術館の1ステージ。このあと大阪(地震がちょっと心配ではあります)。

ワタシがいっとき住んでいた長野県・松本市での上演に勝手に盛り上がるあたしです。移動と上演を繰り返すこのスタイルは座組にはつらいかもしれないけれど、芸術鑑賞という形態で初めて舞台に触れる高校生や大人たち、というスタイルはたとえば四季や青年座が巡回の演目を持っているのと同様です。 とはいえ、テレビドラマやアニメで普通に彼らが触れるのとは別の種類の物語で演劇というスタイルの上演に触れられるのは、そのときはつまらなくても体験するということの重要さ。

長野県での唯一の一般向けステージは、1800席のメインホールが満員とはもちろんいかなくて、一階席の半分という感じだけれど、かつて観ていたけれど移住してきたなどの小さな同窓会がロビーのそこかしこである楽しさ。若者だけではなくて、かつての観客へ逢いに行くというグリーティングシアターの姿。ちょっと住んでたワタシが偉そうに言うのはアレだけど、ここの土地柄、知らないモノに対する最初の警戒感みたいなものはけっこう高いけれど、定期的に触れることで良いものが受け入れられていく土地なので、スパンはあっても定期的に繋がるといいなと思うのです。

劇団員が町を歩き、twitterやblogを通じてその土地の事を語るのを眺めるのも楽しいのです。

物語の印象は前回の上演とそう大きくは変わりません。 誕生直後の父親と母親の前段、芸術家たるメイカーたちの森で他の音楽から断絶して暮らしている中で禁断のバッハに触れて転落してしまうまでの第一楽章までは物語の枠組み、それは実に静かで「クリーン」な環境として描かれます。このSFとして描かれる世界がどういうものか、という説明ですが、ここが重く、長く、テンポも良くはないので舞台の流れとしてはなかなか厳しいところ。

猥雑でコミカルで軽快な第二楽章、ダイナーのシーンはにぎやかなカントリー風でコミカルでもあって、見やすい。そのなかで諦められない人間の業によって繰り返されるある種の悲劇の序章で物語が転がります。 その悲劇を経ての第三楽章、工事現場は軽快というよりは人々が生きるための音楽。それはこの場所で生きる人々でもあるし、指を失ってもなお、それを諦められない業でもあって。その場も失ってしまうけれど、作り出した歌は残り、人々が歌い、それを目にするのはクリエイターにしかなし得ない救済なのです。

それぞれの場面の音楽は人類と音楽の歴史という流れというのはワタシには新しい発見。自然の音からクラシック、カントリーミュージックを経てフォークソングというかロック、小説とは異なる、音楽の付いた体験はなるほど、舞台だから、の魅力なのです。 ウォッチャーを演じた石橋徹郎が冷徹な美しさ、カーテンコールの笑顔のギャップ。アメリカに憬れる移民を演じたオレノグラフィ(なんせ大河ドラマ俳優だ)が軽やかで楽しい。ダイナーの主人を演じた岡田達也のコミカルさ、それまでの重苦しさから物語を転がし始める原動力。 現場主任を演じた岡田さつき、なかなか観られない役なのが楽しい。

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2018.06.06

【芝居】「ケレン・ヘラー」くによし組

2018.6.1 19:00 [CoRich]

90分。3日まで王子小劇場。

母親が好きだったヘレンケラーコントをしていた女二人だが、不謹慎だとして謹慎を命じられ、解散してしまう。二人は一緒に暮らすようになるが、お笑いをあきらめられないアフロ女は相方にしようとお喋りロボットを買う。アルバイトをしながらの日々、神様と名乗る女が出てきて勇気づけられ、で身の回りの人々をネタに動画サイトで人気が出るが、やがて使っていた香水が実はドラッグで視力や聴覚を失っていく。

ヘレンケラーを題材にいわゆる「危ないネタ」をやるコントをする芸人を物語の核に。実際のところ、ブレずにやりたいことを続けている芸人の周りで変化していく人々、という描き方。やりたいことが売れないし不謹慎だといわれているけれど、それを続けていくためにお喋りロボットを相方にしてまで、信じ込んだ方向に傾倒しストイックを通り越してまさにのめり込んでいくアフロ女の姿。視力を失い聴覚を失いながらも自閉していってもなお、ロボットを目と耳にして作り続け。受け入れられるいいものがあるはずと信じ応援する人に対してまでもあまのじゃくに素っ気なかったり、ネタにされ避けられながらも人気が出れば戻ってくる周囲の人々と。変わらないクリエータを中心に、実は周りの人々が廻り灯籠のように変化していくという感じ。

その中心に居るクリエイターの姿は時に軽薄だったり時に追い込まれ自閉し、時に作り出したモノに乗っ取られるような感覚に戸惑ったりしながらも、創作を続けます。受け入れられなくても、それを作り続けていくしかない、まさに業とも呼ぶべき姿。同様にその作り出す力を失いたくないためにドラッグを手放せず視覚も聴覚も失いいます。が、やや唐突に視覚には治療がされる終盤。一度は決別したけれどそこに居たのはかつての相方。彼女は視覚を失っていて、物語ではストーカーの硫酸だからとなっているが、彼女がアフロ女に視覚を提供すべく移植提供をしたと勝手に誤読するワタシです。終盤では二人を貫く愛情が描かれ、異なる障碍を分け合い、補い合いながら生きていく、という雰囲気があるのです。

正直に云うと、序盤でヘレンケラーコントに固執するのは、母親と笑い合えた唯一の記憶、というのは物語そのものには実はあまり位置を占めるわけではありません。がそれは作家の優しい視線を感じるようでもあります。 のめり込みに荷担し半ば唆す存在であるロボットは終盤、放置され、初期化されています。アフロ女が生き続けているのに対して、次々と人の人生を消費していく、野次馬な私たちを見るようともおもうし、人生を暮らす本人の周りに現れて消える人々、という雰囲気でもあります。

アフロ女を三澤さき、津枝新平、ロボットとしての國吉咲貴が入れ替わりながら演じるのだけれど、男性俳優に乗っ取られるのはある種のゲスさの強化か、ロボットはイキオイがついて止まらない感じか、といろいろ考えるけれど、物語に対して、どういう意味づけなのかは今ひとつ腑に落ちないワタシです。

アフロ女を演じた三澤さきは明るく気丈に振る舞うけれど寂しさを抱える造型を細やかに。アフロ女を演じたり語り部だったりする津枝新平はゲスっぽい迫力。ロボットを演じた國吉咲貴はフラットなたたずまいがそれっぽい。相方を演じた中野智恵梨はいわば「普通の人」としての存在に説得力。

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2018.06.05

【芝居】「人の気も知らないで」iaku

2018.5.27 19:00 [CoRich]

他劇団でも繰り返し上演される (1, 2) 人気作、本家の見応え60分。

二つのテーブル、いすが4つ、カフェというよりはファストフード風の簡素な場所で繰り広げられる濃密な短編は変わらず。OLのうわさ話から立場で知っていること、知らないこと、隠していること、言い出せないこと、同情と非難がくるくると切り替わります。オリジナルの関西弁らしい会話のキャッチボールという軽快な会話だけれど、それぞれに重い話しを描くのです。きちんと力のある戯曲だからか、印象はいままでとびっくりするほど変わりません。俳優たちにも違和感がなく、きっといそうな人々なリアリティ。

繰り返しみて、同じ作家のさまざまな芝居を並べてみると、やはりちょっと若い荒削りというか力わざな感じはあって、登場人部たちの、時に観客に対しての後出しじゃんけんの繰り返しで押している感じはあったりもします。もちろんそれでもコンパクトに濃密な芝居の魅力が褪せるわけではありません。いわば「演劇祭」として並べてみるから判ることだったりするのです。

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【芝居】「梨の礫の梨」iaku

2018.5.27 15:00 [CoRich]

ワタシは初見の女性二人芝居は濃厚な仕上がり。60分。

行きつけのバーで話す40過ぎの女。バーテンダーと話しているが、いつの間にか知り合いのような若い女が隣に現れる。

立ちのみのカウンターを模した二人幅のテーブル、客席側にバーテンダーが居て、二人の役者はバーテンダー、つまり客席に向かい合って話すスタイル。マッカラン10年のボトル、グラス。 40過ぎの常連らしい女、電車での座り方のマナーに我慢がならず意地の張り合いとなっている、いわゆる関西のおばちゃんの日常会話風で始まりながら、隣に現れた知り合いらしく何か確執のある女との会話に徐々に落とし込まれていきます。若い「永遠の27歳」はスキップして35歳になりたいといい、独り身の40女は唯一恋人と暮らした30代に戻りたいけれど、その恋人は自殺したらしいことが語られ、それから恋をできなくなっていて。

ネタバレです。

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