【芝居】「あいだヶ原のほおずき祭り」FunIQ×今城文恵
2017.8.11 14:00 [CoRich]
Ito・M・Studio。13日まで。100分。
間ヶ原は過疎化が進んでいる小さな村だが、ここには生死にかかわらず行き場のない人々が集う。ここに古くから住む「あいださん」と呼ばれる三つの家の人々は死者と生きている人々をつなぐことができ、死んだ人々も見えている。「あいださん」の家の女たちは他の男と気軽に交わるが、他の家と交わり生まれた子は差別的な扱いを受けている。
村で唯一盛り上がる祭りの日。兄が殺人を犯し自殺したあとにここから姿を消して数年が経った女が姿を見せる。
世間からは隔絶され、古くからの家が主導権を持ち、亡者たちとの間をとりもつという村の物語。 物語の根幹をなすのは亡者と生きている人々の間をつなぐことだったり、亡者であることを自覚できないままに吸い寄せられてしまうこの場所のこと。夏祭りという設定や、蝉の鳴き声、畳敷きので首を振る扇風機など一つ一つの要素が、亡者を身近に感じるお盆という季節をぐっとリアルに感じさせます。
一方で、世間からの隔絶ゆえに一般的にはありえないようなある種のインモラルが支配し、女たちに向けられた暴力的な因習。規律の中で嫁だったり巫女のような地域の因習の装置として時に暴力や差別的な視線を伴って描かれている女性たちは物語の中のもの。しかし振り返ってみると、もしかしたら私たちの生活から地続きにあってもおかしくないかもしれない、というリアリティがあります。少々の誇張はあれど、このリアリティは自らの痛みを伴う女性の作家だからこそという気がします。男たちもまたこの因習に組み入れられてはいるけれど、少なくとも表面的にはそれほど酷い扱いではなくて、この男女が違うだけなのに生まれている非対称なところが、物語の奥行きであり、ワタシの心に棘のように引っかかって離れない作家の持ち味だと思うのです。
亡者との対話この非対称さを含む因習を維持することがここの「普通」でそこから外れようとするものに対する強い排斥。そういう形はもう維持出来なくなりつつある、もっといえば亡者も生きている者も、男も女も、所有とか独占とか支配とかなく、ぼんやり溶けていくように進む、と思わせる世界の描き方がちょっと好きな感じ。イマドキのアタシたちの世界とも地続きなように感じるのだけれど、うまく説明出来ないもどかしさ。
本家の女を演じた西岡未央の線を引かないという自由な力強さと、エロいという説得力もまた魅力。妾の子と蔑まれる女を演じた石澤希代子は典型的なビッチな力強さもまたここの女の姿。久々に戻ってきた女を演じた安川まりのこの土地に対する強い憎悪、維持するパワフルさ。古くから住む年上の男を演じた本井博之のゆらゆらと漂うような軽さ。毎年訪れるテキヤを演じた岸野健太もまた、ずっと生きているちょっとやんちゃな感じがとてもよいのです。
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