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2016.06.27

【芝居】「ありふれたはなし 2016」猫の会

2016.6.24 20::00 [CoRich]

去年初演の4人芝居でツアーを廻る公演。大阪のあと、東京では26日まで、そのあと松本(予約)、仙台(予約)、石巻(予約)まで巡ります。60分。上演台本を無料公開の心意気。

現実とあちら側の二つの世界の境界に居る男が観たのは夢か幻かという体裁。笑わせたり、時に色っぽかったりという物語はほぼそのまま、役者も一緒の安定感。ぱっと見で判る違いは、装置をごくコンパクトにしてツアー仕様に作り変えたことでした。舞台に引かれた四角の線は台詞にある「境界」のよう。元々は平台を4つぐらい使って二つの島を作っていた印象がありますが、今回はそれがなくて、いくつかの椅子だけで成立させています。なるほど、これなら身軽に成立させられそうだし、リーディングでも楽しそうな気がします。

例によって前回の記憶が曖昧なアタシですが、前回は「一子」が抱いていたなんらかのインモラルな感情がもう少し色濃く感じたと思うのだけれど、ややあっさりな味付けになった印象なのです。

全員が信頼出来る役者、するりとしなやかに変化するのはまさに猫のよう。コンパクトなマスターピースの一本になりそうな予感がします。

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2016.06.24

【芝居】「天一坊十六番」青年座

2016.6.19 13:30 [CoRich]

青年座劇場のこけら落とし公演として1969年に上演された「天一坊七十番」(もちろん未見)、有償パンフには「西暦の下二桁をつけて」ということで「〜十六番」として上演。20日まで青年座劇場。休憩15分を挟み170分。当パンが安いのはありがたいけれど、それを買わないと配役は青年座のサイトでしか判らないのは痛し痒し。

将軍吉宗の落とし胤と名乗ってあちこちで人に穏やかに声をかけ、ついてきなさい、と言って人を集めていた男の物語。それを描く作家は知り合った外国人もまた、ただならぬ人物の隠し子なのだと聞き、重ね合わせるように物語を紡ぐが、どうにも前に進まない。

尊敬される人、市井の人かと思っていれば、ご落胤という箔も付いて、人を集めつつあればそれはもしかしたら、幕府にしてみてれば恐怖を感じる人。天一坊と、「てのつくひと」を重ね合わせて、スキャンダルなのかあるいは怪しさなのか。人垂らしは人がのし上がろうという野心、自身が持ってるから付け込めるというごくシンプルなこと。あるいは、男には後ろめたいことがありがちだ、ということを組み合わせ、嘘と秘密で、それに翻弄される人々という物語。ところどころ、ちょっと説教調だったり時代観が顔を見せるのは、時代ゆえなのか、作家の個性なのかはわかりませんが、それを緩める瞬間もあるのは演出のちから。

生演奏を組み合わせ、賑々しい序盤や終幕は祝祭感に溢れていて楽しいのです。決して若い役者ばかりではないけれど、わりときっちり踊れる役者がいいのです。天一坊を演じた横堀悦夫、「外交官」「俺の酒が呑めない」とハズレがない確かな力を感じるのです。作家を演じた津田真澄はちょっと拗ねた感じだったり、時に少女のような瞬間が見え隠れして可愛らしさを感じたりもするのです。姉を演じた小林さやかは可愛らしくモテる妹に嫉妬して拗ねるのが可愛らしいけれど、そもそも美人じゃないか、というのはご愛敬。妻吉を演じた松熊つる松はまたコンドルズ風の学ランもカッコイイ。

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【芝居】「サバンナの掟」柿喰う客

2016.6.12 19:00 [CoRich]

ワタシは (2008年の再演)を観ています。21日まで王子小劇場。70分。

若い多くの役者、人数が少々変わっても調節して再演、再々演を続けられる、というのは作演を兼ねる座組だから成立させられる強み。きっちり精度のある戯曲を作り込むのとはまた別の、役者に合わせて形を変えて柔軟に芝居を作り続けていくというのもまた確かな一つのちからだと思うのです。そう考えると劇団員を入れない座組というのも、今作での印象はプラスに働きます。アタシは観てない初演の時にきっとみんなが感じていたであろう、どういうアウトプットができるかわからないままに物語を紡ぐ役者たち、あるいは作家の出会いを体感するようなのです。こうなると初演、観たかったなぁ、というのはまあ芝居を観るヒトとしちゃしょうがないところなんですが。

もっとも、幕切れ、みんながばたばたと死んでいくというのは、何かを物語るよりも、こういう人物を描こう、こういうシーンを作ろうと広げまくった風呂敷をぱたぱたと畳む感じでもあって、子供の一時期に男子が描きがちな話といえなくもありません。物語が薄っぺらい、というのはこの劇団の初期ではわりと言われていて、しかしそれを強烈に何重にも積み重ねるのが当時のアタシのこの作家の物語の描き方でした。今作はその「ミルフィーユ」というほどには物語を過剰に積み重ねたりしないので、もしかしたら「ミルフィーユ」以前の作家の物語り方の片鱗が見えているのかなと思ったりもするのです。

売春女子高生の元締めを演じた永田紗茅はつか芝居のようなクールさが印象に残ります。やけに色っぽくセクハラを受ける秘書の妻を演じた古澤美樹は、ストレスの多いだろう役にもかかわらずしっかりと。母親であることに執着する女を演じた野村涼乃はうざったさが勝る前半から母親というものへの想いが強すぎる狂気の振れ幅をしっかりと。

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2016.06.21

【芝居】「いまさらキスシーン」柿喰う客

2016.6.11 17:00 [CoRich]

(2008年初演)、玉置玲央の一人芝居、 柿喰う客のイベント公演に復活。30分。24日まで王子小劇場。

初演と同じ役者。目一杯のパワーを出して前向きすぎる高校生のパワーを打ち出していた印象よりはずいぶん様変わりして、一種の余裕すら感じさせるのです。悲惨な終盤に向けてともかく淡々と進み続ける登場人物を、実に淡々と、時にとても可愛らしく、ときに人をさげすむような鼻持ちならない感じで細かく描くディティールの緻密さ。時折見せるバク転でTバックのパンツが見えてしまうのも、コミカルよりは身体能力やその筋肉に見惚れてしまうアタシはどうかしてしまったのかどうかしら。

終盤のダークさはちょっとした優越感というか蔑む気持ちが人を暴発させる悲劇。 裸にされバットで殴られ、下半身にもバットの感触が、という酷い仕打ちを事細かに描くのだけれど、本人がどう感じていたかという視点で語られ、序盤からずっと続く、いつも変わらない、高いままフラットなテンションで前向きな姿勢が崩れないことと、男性が演じているというコスプレ感があいまって、どこかドライな醒めたように語られる語り口なのです。

終幕はさらにもう一歩。 傷ついても、それでも生きたい、前に進みたいという気持ち。それは立ち止まってしまうと全てが崩れてしまうような 危うさなのだけれど、暗転まではちゃんと立っているというのが凛々しささえ。つぎに照明がついたときに、前に崩れ落ちるようなカーテンコールはその流れとして印象深いけれど、ここで潰えたのかも知れない、という哀しさ。

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2016.06.17

【芝居】「また逢おうと竜馬は言った」キャラメルボックス

2016.6.11 17:00 [CoRich]

92年初演作の4演(1)。 アタシは95年から観ています。120分。 最近客演の多いD-BOYSの役者をオカモト役に迎えて、いくつかの役を入れ替えての2バージョン。アタシはホワイトキャストでした。 12日までサンシャイン劇場。そのあと新神戸オリエンタル劇場。

真ん中に船を模した舞台、若くて少々情けない男と彼が憬れている坂本竜馬を先輩に重ね、会社の女性の先輩への恋心を匂わせつつ、基本的には真っ直ぐに進む成長譚はシンプルにわかりやすく人気作と云うこともよくわかります。再演を重ね、役者が成長につれてどの役に替わっていくか、というある種の宝塚っぽさは劇団公演ゆえだけれど、客演ではそれが少々薄まる感じなのは勿体ない気はしないでもありません。が、こういう機会でもなければ決してアタシは観ないだろう若くてイケメンな若い俳優たち、それはいわゆる小劇場からのし上がっていくのとは違う道でやってきた人々との出会いは新鮮なのです。

とはいえ、アタシにとっては今作は女優の役の変化、年齢を経るにつれ妹→旅行客→妻というある種の流れで役者が前回とどう替わったかが、やはり楽しいのです。妻を演じた渡邊安理はすっかりと大人、コミカルよりはしっとりを感じさせる造形。旅行客を演じた原田樹里、きゃぴきゃぴとした若い女という役そのものが少々時代を感じさせるものだけれど、安定しています。アタシの観た回で竜馬を演じた大内厚雄はちょっととぼけた雰囲気を時折見せる安定は前回から変わらず、妹の夫を演じた岡田達也のコミカル一辺倒な造形が楽しい。若いツアコンを演じた三津谷亮は情けなさだけれど元気という造形が眩しく、少々の声の不安もイキオイで押し切ります。

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2016.06.16

【芝居】「露出狂」柿喰う客

2016.6.11 14:00 [CoRich]

2010年初演作の再演。 戯曲(pdf)や動画を無料公開する心意気が凄い。 25日まで王子小劇場。100分。

出来る新入生が上級生を完膚なきまでに叩き潰したらみんな居なくなってしまってたった四人でのし上がり変化していく四年間をまるで大河ドラマのように描きます。いわゆる強豪校ではない学校にたまたま集った奇跡の顔ぶれが起こす一大旋風、天才を描くのは鼻持ちならなくなりがちだけれど、スピード感なのか、あるいは宝塚のようなキメキメな雰囲気ゆえかいわゆる「根性」抜きのスマートなスポーツドラマとしてきっちりと成立しているのは初演と変わらないのです。初演のきっかけとなったコロの存在は、この芝居の語り口とか立ち位置に強い影響を与えていたと思うけれど、彼女がいなくてもきちんと作られたエンタメはそれ自身が強い力をもつ、ということをを感じるのです。

ここまで愛とか乱交、あるいは友達の兄貴と寝てるみたいなネタ推しだったかなぁというのは記憶が例によって曖昧なアタシですし、強制的なカップルのあれこれって話あったかどうかも怪しいアタシなのですが、いろんなカップルたちの駆け引きと疑心暗鬼渦巻くシステムがぎゅっと凝縮されている感じは面白いのです。

強い結束の第一世代がいろいろに悩み結果、最上級生になったときに結束で勝ち取った頂点だったり、プライベートに踏み込まない無関心やそれどころかみんな居なくなってあの熱気を知ってるのはたった一人みたいなそれぞれの世代のカラーが変化していく終盤は、顧問ではなく生徒たち主導による部活動ゆえの早い変化を描いていて楽しい。

サイコパスのような強烈な個性を放つ福井夏のつくりもの感はアタシの心を掴んで離しません。七味まゆ味・葉丸あすかのベテラン二人はわかりやすい安定感でベースをつくります。大きな身体ででもちょっと乙女を垣間見せる 山口ルツコは元女子プロレスラーというのをネットで見つけて納得するアタシです。男を惑わせるというかわりと節操無い女を演じた角島美緒、入部時点でプロというクールビューティーを演じた松原由希子のキメ顔も素敵。

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2016.06.15

【芝居】「くろはえや」JACROW

2016.6.5 19:00 [CoRich]

11日まで雑遊。日曜初日、土曜千秋楽の日程は珍しいし、平日20時開演もうれしい。95分。 災害マップを見ながら、台詞を思い出したりもします。

長野県・下諏訪町。かつてこの場所にはダム建設の計画があったが、無駄な開発だという住民の反対運動が実を結び、計画は破棄されている。 計画の責任者だった父親の徘徊がすすみ面倒をみるために東京から地元に戻ってきた男、職場の同僚にはそのダム建設反対の中心となった叔父たちも居る。
職場である下諏訪町の役場の会議室。夕方からの雨はやがて大雨となり、諏訪湖からの放流も限界に近づいていて水位が上がり続けている。土嚢などの小手先の手当ではどうにもならない状況になりつつあり、ダムがあったら違っていたのでは、という思いは口論になる。降り続く雨の中、徘徊している父親の姿が見えず、自宅にあったはずの車もなくなっているという。

長野県、脱ダム、大雨被害という史実と下諏訪という現実の地名を下敷きにしつつ、物語が描くのは地方、というか生まれ育った場所とそこを出て行こうとするある種の引力。

ここを出て行きたいのに渋々戻って来た人だったり、いいと思って地方に移り住んだはいいもののうんざりしてる人だったり、地元にずっと暮らしていて出て行こうと微塵も思わない人だったり、出ていきたい気持ちはあるけれど、それはできないと思って居るなどの人々。日々の暮らしと災害の非常時という地続きを舞台に描くのです。

日々自然と向き合いながらその土地に暮らし、その中では災害がおこるかもしれないと計画されていたダム。その地域に暮らしていたとしても、ごく狭い日常の場所からは見えない影響。自分の持っている土地を手放すことを避けたいと思う気持ち。脱ダムという言葉を報道で耳にしたあのときワタシが感じたのは無駄な公共工事の削減だったり自然環境のことだったりという正義。でも、あのときにその場所に住んでいれば、もしかしたら違う視点で、たとえばそれはいつか起こるかもしれない災害を防ぐのに必要な施設なのかもという見え方になったかもしれないのです。原発の津波対策があれだけじゃだめだったんじゃんと後追いで糾弾するのは簡単だし、無駄な公共工事が全くないとも思わないけれど、 下流の天竜川は限界を超えていて、湖も一部では厳しい状況になりつつあり、それを防ぐことができないという無力感の支配する会議室で始まる ほぼ親戚のような人々の、今更ダムは必要だったか無駄だったかという口論は、行き場のない怒りであったり絶望感であったりの発露かと思うのです。

生まれ育った場所が嫌で東京に出て、嫌々この場所に戻ってきた男。戻ってきたきっかけが「ダムの計画の中止」から進んだ父の痴呆であること、それほど父親がこれに拘っていたことが徐々に見えてきて終盤、東京から移住してきた優秀で若い女性がこの土地をディスるようなことを言うと、それに反発したい気持ちもこみ上げてしまうこと。住んでいた父には見えていたこの土地への愛情、それを息子はわかっていたから、大雨の中、あの場所に父親が居るということがつきとめられたのだ、という終幕は、ぐるりと一回りして、主人公の気持ちをきちんと紡ぎ出すのです。

地元に戻ってきた男を演じた小平伸一郎(a.k.a 猿田モンキー)の地味な、しかし気持ちの細やかな動きがいい。この場所では有力者になりつつあって、この場所でもう少し成り上がろうという同僚かつ親戚を演じた蒻崎今日子・谷仲恵輔の絶妙に嫌なかんじの距離感、東京から移住してきた女を演じた森口美樹の不機嫌がだんだん鬱屈していく感じはもちろん終盤で男を誘う目もいい。

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2016.06.13

【芝居】「エダニク」iaku

2016.6.5 14:00 [CoRich]

110分。三鷹市芸術文化センター・星のホール。

食肉加工会社の一室。ラインで処理しない豚の別畜加工の隣室。最初から最後まで行えるベテランの職人を大量に解雇したため、この仕事ができるたった二人の職人で回している。一人は子供を育てるためなんとしてもこの仕事を続けていきたい。年上の一人は大阪からわざわざ関東郊外のこの会社に移ってきた。
向こうにある牛のラインでBSE検査に必須の延髄が紛失したと騒ぎになっている。この部屋を若い男が訪れる。

小さな食肉加工工場、ラインではなく、ひとりで一頭を担当するという二人しか居ない業務ユニットの休憩室代わりの部屋という、ちょっと脇にはずれた場所。一人は若くして結婚し子供も居て稼がなければならないゆえに必死。一人は大阪から少々訳ありで流れて来た年上の男。たいへんといえば大変だけれど時間やペースは比較的自由になる担当という舞台を設定し、そこに二つの外乱を入れて物語を紡ぎます。一つは中年ニートだったけど最近仕事についたという外部からの男、もう一つは向こうのラインで無くなって大騒ぎになっている延髄とそれに関わりがあるだろう(舞台に現れない)男。生活と仕事、仁義とある種の格差をぎゅっと詰め込んだ濃密な題材が混ぜ合わさり、時に発酵するほどに時間を背負い、それぞれが大事に思うことの差、パワーバランスの不安定さがあいまって、強者というか「自分のいうことを聞かせる人」が変化していく会話は実にスリリング。緊張感ともいえるけれど、会話じたいは時に滑稽さがそこかしこに紛れ込んでいて見やすくて、それなのに「会話劇を見た」という満腹感が得られるのです。

「休憩中に焼きそばを食べる」ぐらいのゆるいシーンから軽く始まる日常の会話(カップ焼きそばを丁寧につくり、それを混ぜないで食べる癖なんてのもちょっといい)。普段この部屋に居る二人だけならばそれはなんてことない日常のになるはずの序盤は何かが起こる嵐の前の静けさ。向こう側で事件が起きていることをにおわせつつ、この場所を訪れる若い男。材料をわりと早い段階で揃えてしまって、そこから何が起こるのだろうと わくわくするアタシです。

反射的に持ってきてしまった延髄をどうするか当の本人すらもてあまして、延々と繰り返される会話、何を解決したらこの閉塞から抜け出せるか誰にもわからないまま進む会話が楽しい。もうこうなると物語の決着がどうなってもよくて、とすら感じてしまうのはもはや会話のリズムや音が心地よいということなのかもしれません。

iakuにハズレ無しというのは間違いないし、全体に少人数の会話劇中心の作品群 (1, 2, 3, 4) だけれど、「人の気も知らないで」や今作のような3人構成でシンプルな舞台で語られる会話劇がとりわけ好きなアタシです。

三人の俳優はいずれもちょっと軽い感じ人物造形が魅力的。 年上の社員を演じた緒方晋はこの劇団の芝居ではなくてはならない役者だけれど、ワケアリという人物の圧倒的な説得力。若い社員を演じた村上誠基は、抑えたフラットな人物だけれど、妻子供を養おうという必死さからにじむおかしみの奥行きがいいのです。外部から来た人物を演じた福谷圭祐ほふてぶてしく憎たらしい感じ、どう考えても強者であることには変わりないのだけれど、ちょっと凹まされたりするあたりが何か可愛らしく、なんか愛すべき造形がいいのです。

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2016.06.11

【芝居】「残花―1945 さくら隊 園井恵子―」いわてアートサポートセンター

2016.6.4 19:00 [CoRich]

5月下旬から岩手町・盛岡・鹿角・宮古を経て5日まで座・高円寺1。140分。

岩手の新聞記者が「園井恵子」を取材するために、戦時中の移動劇団・さくら隊でただ一人生き残ったかつての俳優を訪ね、かつての話を聞き取る。
戦況が厳しくなり、園井が用意した岩手の旅館での稽古によって「獅子」を完成させるが、軍の指導による慰問劇団の一つに組み入れられた・さくら隊は中国・四国地方を担当し軍都・広島を本拠地とするように命じられる。

「紙屋町さくらホテル」(こまつ座の上演は未見, 1)にも出てくる、さくら隊の物語。悪化する戦況のなか芝居を続けようと慰問のための移動劇団を選んだ人々。もちろん戦争や被爆という悲劇に着地することはそもそもの史実。ことさらに戦争と戦ったとか、反戦という気持ちを煽るような舞台にはしないで、いろいろな人々がいくつかの選択肢の中から選び取った先にあった悲劇、という冷静さが全体を貫きます。観客も悲劇という着地点がわかった上で共犯関係のように、人々が何に悩み何を選んだのかということだけを強調して選んでいるようにも感じるのです。戦時中ゆえの苦労話や戦争を嫌う気持ちを描いても良さそうだけれど、そこは綺麗にスルーして、人々がどう日々を営んでいたか、ということを実にフラットに淡々と描くのです。

終盤、原爆が投下された8月6日から被爆者が全員無くなる一ヶ月弱の間の描き方は、すこしニュアンスが変化します。それまでの「日々の営み」がどう変化したかを、しかし事実だけをフラットに描きます。 即死した人々は、その時刻まで確かに暮らしていた時間をすっぱり切り落とされ、文字通り「消えた」ように、生き残った人々は、最初は大丈夫と思って、生き残ろうとそれぞれに自律的に行動してその場所を遠く離れ、それなのに被爆からしばらくの時間が経って発症する、いわゆる原爆症の中死んでいく、という、こちらも日々の営みがどんどんできなくなって死に至ることを、しかし淡々と描くのです。 感情を爆発させるのはむしろ被爆しなかった人々だというコントラストが印象に残るのです。

さくら隊の隊長を務め、しかし病状の悪化に苦しむ「新劇の団十郎」丸山定夫を演じた福本伸一は隊員の心の支えになっているという安定感。女優・仲みどりを演じたザンヨウコのガハハ感、物語のテンションをすこし緩ませてくれて見やすい。被爆後裸同然で避難して東京に逃げ帰るシーンの生命力を感じさせるシーンが印象的。

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【芝居】「ゲイシャパラソル」あやめ十八番

2016.6.4 14:00 [CoRich]

2014年初演作と交互上演。今回はこちらだけ。 5日までサンモールスタジオ。125分。

平成60年、困窮する庶民たちは違法とは知りながら自分の戸籍(名前)を外国人から金を貰って交換するのが普通になってきている。
きっぷのよいことで知られる深川芸者のなかでも、とりわけ人気なのはただ一人名前を売らなかった仇吉だった。彼女を囲う地元の有力議員は、地元を潤すためにかつての学友で今では一大コンツェルンを率いる中国人と市長をつなぎ、地元への進出をとりつけるが、対価として表向きは違法である30人分の戸籍を用意するように求められた上に、一目惚れした仇吉を賭けて勝負をすることになってしまう。

外国人の富裕層も押し寄せるかわりに格差が圧倒的に拡大している、ディストピア前提の描き方。物語そのものはわりと深刻だし、終幕まで至っても決してハッピーエンドではありません。 が、その中で強く生きる人々を、色街に生きると設定することで劇団が得意とする艶やかさや賑わいに溢れるテイストで描くのです。いろいろなバランスの良さは主宰の作る物語の美点の一つだけれど、今作はそれが相当に成功しているのがとてもいいのです。

格差の中で富裕層やら為政者やらが、どんどん国を変えていってしまうこと、金を落とすということを餌にしたなかばだまし討ちのような序盤から、その場所のバランスを一変させる一番の芸者をとりあうというパワーゲームに至るまで、わくわくと観続けるアタシです。かと思えば、そのあと圧倒的に強かったはずの地元の政治家が劣勢焦りから、呪いにすら縋って(それがもう一作の「諏訪御寮」にゆるやかに繋がるのも巧い)、という一点からくるりと、その向こう側にある物語が姿を現すのです。なぜ一番の芸者がどうして名前を売らずにきたのか、ということが語られ、彼女を巡る運命がさまざまに流転していく足跡を辿る後半は、役者をぐっと絞って見応えのある「物語」を強固に作り上げるのです。

矩形の舞台、隣り合う二辺に客席を設定し、挟んだ角を正面としてつくります。アタシは楽隊の居る側の端に。結果としてはあまり良くなくて、舞台の正面(の角)に対して役者が並ぶ場面が思いの外多くて、役者たちの演じる場所をもう少し後ろに設定するだけで、あるいは役者たちの並びを少し「ぶれさせる」だけでもいいから、もっと巧くやる方法がありそうだなぁと思ったりもします。

一番の芸者を演じた大森茉利子は強い意志を内面持ち続けるめぢからの強さ。ああ正面に座っていればというのはアタシせいですが。幇間を演じた安東信助は、シリアスになりがちな物語を緩める役割をしっかりと、信頼して観られる役者の一人です。恋仲の傘職人を演じた笹木皓太は口上の大声で笑いを取り、キメるところはしっかり、演出に助けられている感はあるけれど、それをきっちり背負えているのも力。市長を演じる北沢洋、利権は欲しいしそれを決断できる立場だけれど不正に手を染めるには躊躇するという年齢を重ねた故の説得力のある役をしっかりと。二役を演じる金子侑加はとりわけ占い師(陰陽師)のトリックスター感が楽しい。

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2016.06.09

【芝居】「チタキヨとらまのだ」

2016.6.3 21:00 [CoRich]

平日遅めの時間帯に一日限り、2ステージのみの企画公演。21時開演上演時間70分がありがたい。お互いの作・役者を入れ替えた前半の2作と、同じ劇団の作・役者による後半の2作で計4作。

クラスで名字も名前もダブってしまって行き場を無くしていたワタシに呼び名をつけてくれたあの人が好きになって同じ高校にがんばって進学したけど別の恋人ができて。ずいぶん後に告白したけれど、でも結婚式の招待状が届いて「あの人だけの名前」(作・米内山陽子)
高校で同級生だった女たち。同じ会社で一人は東京でバリバリとキャリアを積み、一人は地元採用の一般職。久しぶりに再会したのはその地方の営業所の男が自殺した葬式だった。自殺に兆候に気づけなかった女が地元で祈祷師となっていたもう一人の同級生を呼んだのだ。 「ダイエーホテル」(作・南出謙吾)
バツ4教師、どうしても忘れることができなくて時々思い出す亡き教え子のこと。かつて二人で訪れたカラオケボックスで再会する。それが理由で教師は退職する羽目になったのだった。「ひとりぶんの嘘」(作・南出謙吾)
産婦人科の診察を受ける女。前はそうでもなかったのに、いまさら子供がほしくてたまらなくなったにもかかわらず、なかなか子供には恵まれず、最近は夫は諦めている上に診察も受けてくれない。子供がほしい思いはつのるばかりで「真昼のわたし」(作・米内山陽子)

作家二人のMCを挟みながら、ドリンクありでゆったりとした空間で進みます。

「あの人〜」は好きになったが添い遂げられなかった相手との思い出語りをする一人芝居。物語そのものは別れたわけではないけれど好きだった相手に招待された結婚式への出席という着地点に向かって実にストレートな気持ちの吐露で、そういう意味では驚きはありませんし、それをねらってはいないと思います。もう一ひねり、と思っちゃうのは芝居見すぎのアタシの悪い癖。 21時の回は着物を一人で着付けながらという演出になっていました。19時の回や以前の公演では化粧をしながら、という演出でそれがスタンダードなようです。着付けというのは誰にでもそうそうできるわけではないので、特色ある上演だけれどどうしてもばたばたしがちで、わずかな動きの中で仕上げていく化粧と雰囲気はずいぶん違って見える気がします。

「ダイエー〜」は元々同級生の三人の女たちの物語。キャリアと地元採用という二人はわかりやすい対抗軸ですが、祈祷師として現れるもう一人という設定は少々飛び道具で、さらにかつてスーパーのマネキンだった、というのも無理筋の上塗りな感じもありますが、かつては同級生だったあのころから思えば遠くへきたもんだ、という振り幅をつくるという意味では機能しているようにも思います。 最後の地元採用の女が見せていなかった顔が現れる終幕は短編のもう一ひねり。ありがちな感じといえばそうですがが、隣の課の気のいいおじさんだった故人への悲しみをアピールする序盤との対比で、それでも隠していたことの奥行き。

「〜嘘」は作家自身の出演による元教師と、死んでしまった(裸足、というのがわかりやすい記号になっている)元教え子という体裁。27歳の時の出来事から10年経って、バツ4になったけれど、でも忘れられなくて、思い出の場所に年に一度はいってみてしまう男。普段は訪れない遠い場所に久々にやってきた、同じあの場所に彼女はいた、というファンタジーがちょっといい。思い出を辿るだけといえばそうだけれど、それは確かに素敵な時間であったに違いなくて、囚われ続けてきた男がきっと前に一歩進めるだろうな、と思わせる幕切れは、部屋のインターフォンが鳴って話をしたら消えている、というスパンと切り落とす感じゆえか。と思うのです。

「真昼の〜」は、おそらく一人によるリーディングを三人構成にした上演。結婚10年目の妻、子供なんていつでもできると思っていたけれど、いざ欲しいとおもってみても、なかなか恵まれないというシチュエーションを下敷きに、その女の気持ちの振れ幅。産婦人科医が居る場所の観客に向かって話す切実さ、無駄話から徐々に雲行きが怪しくなって、終幕に追い込むのです。子供ができたかも、という前提の診察の直前、(パンツにみたてた)レギンス(だよな)を降ろすという幕切れはどきりとさせます。が、子供が出来たかも、という思い当たる行きずりの男と、という切実さ故とはいえある種の暴走のみならず、帰宅後の隠蔽工作の冷静さが、カッコイイ、という褒め方もどうかと思うワタシです。

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2016.06.08

【芝居】「ドーナツと残像」演劇裁縫室ミシン

2016.5.28 14:00 [CoRich]

120分。29日までピカデリーホール。劇団旗揚げ以来の12年ぶり、キャストを一新しての再演、アタシは初見です。

高校の写真部部室。人物写真が巧いと評判の三年生は女子部員や教師たちのヌード写真を言葉巧みに撮影して現像し、同級生に売ったりしている。モデルと割り切って被写体になったり、好意だと信じて被写体になった女子高生たち。写真を買っていた男は女性のヌードを見たい一心で写真部に入るが、写真部の幼なじみに恋心を抱かれていることには気がつかない。
部室のテレビはもうアンテナにはつながっていないのに時折勝手に電源が入るがなにも映らない。が、ヌード写真を買っていた男には「スコップを持ったおっさん」が映っているという。そして、彼が偶然撮った写真には果たしてそれが映っている。

12年前というのが濃厚な雰囲気の舞台設定。撮影そのものがわりと特殊な技能だったり、機材がすごかったり、暗室という場所が必要だったり、その場ではわからないけれど念写のようなことがあったり、いわゆる拡散ということはほぼ無くてという特性で形作られた物語は現像が必要な銀塩写真ゆえの特別な雰囲気で、デジカメには変えられないのはどこかノスタルジーすら感じさせますが、それは悪いことではありません。いまや日常にとけ込んでしまった撮影という行為は、今作においては特別な雰囲気すら感じさせるのです。

男子高校生たちのバカっぽさ、撮影という技術を手に入れたある種のモテ感、それを手に入れられない焦り。対する女子高生たちの瑞々しさだったり若さを自覚した戦略の立て方だったり、あるいは言い出せない恋心だったり、ちょっとこじらせた感じだったりのバリエーションだったりと、それぞれに高校生のいろんなはじけ方が楽しい。

この劇団、わりといつもナイロン100℃の影響を感じるアタシです。青春の一ページを記録しようとする人々の甘酸っぱい話、しかも部室を舞台にしているという意味で「カメラ≠万年筆」の雰囲気をまとっています。もちろん物語は全く違うオリジナルなのは間違いないのですが。影響を受けているということは決して悪いことではありません。スタイリッシュさと高い精度の芝居、換気扇から漏れ込む光の美しさや映像と実体を合成してみせるオープニングのすごさなど、全体として芝居をきちんと作り込むという真摯さに溢れていると思うのです。今作では劇団員やなじみの役者はいつもよりずっと少なく、女優を中心に客演を多く入れています。ワタシにはそれが舞台にいつもにまして緊張感を与えていると感じられるのです。

ヌード写真が撮りたい一心で入部した男がなぜか念写の能力を持っていてというばかばかしさ。だったらそれで撮れるじゃんというのはいわない約束。ともかく高いテンションで走り続けた有賀慎之助は単にパワフルというだけではなくて、その向こう側に彼には見えている真実みたいなものがちょっと印象的。同級生たちのヌード写真を撮りまくり、それとは別に写真雑誌でも入賞してしまうようないけすかない高校生を演じた滝澤秀宜は、今作で格段の進歩を感じます。なんせ格好良くみえる。(失礼)。 ダブってしまった男を演じた米山亘は、ほしくてたまらない賞も手に入れられない悔しさで捻れまくってる感じがとてもよいのです。モデル慣れした女子高生を演じた原菜々美はどこまでも可愛らしく、不器用で恋心を伝えられない女子高生を演じた宮田紫央は、好意を寄せた相手の馬鹿馬鹿しいパワフルさについていこうとして自身もちょっとバカっぽくなっちゃうのもまた可愛らしく。万引き癖のある女子高生を演じた髙山智世も、もう一つの恋心をしっかりと。

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2016.06.04

【芝居】「女には至らない病」ムシラセ

2016.5.27 19:00 [CoRich]

29日までThe 8th Gallery。(ホテルCLASKA)

男がドッペルゲンガーと会うと死んでしまうという噂が流れている街。不倫しているお局OL、ヒモ男と暮らす後輩OL、引きこもりの姉と暮らしているピアノ教師の女、母親の不貞を疑う娘、微妙な距離感の女子高生たち、ドッペルゲンガーと名乗る男に訪ねられる女。

一つの街でゆるやかにつながる女性たちを点描して描かれるいくつかの物語は、「よく似た他人」ドッペルゲンガーというスパイスを所々に挟みながら描かれます。正直なところ、すべてがドッペルゲンガー繋がりというわけでもなくて、どちらかというと、さまざまな世代や背景の女性たちをスケッチ的に描くことが主眼で、それをゆるやかに繋げたり、物語にスパイス的に刺激を与える存在として置かれている、という印象。

女子高生たちのパワーバランスまたはスクールカーストの話が印象的。イケてなかった過去の友人をむげにはできないけれど、あの頃には戻りたくなくて、誰とつきあって上位のスクールカーストに属したいという切実さに溢れていて。そんなしがらみにとらわれず、軽やかに自立している一人が颯爽としてかっこいいのも対比として描かれます。

先輩の不倫を笑ってるはずだったのに、ヒモ男に一切合切家財道具を持って行かれるという女、というのは少々唐突にすぎる感じはあるのだけれど、そのひどい状況にたたき込まれたあとの終幕、それまでは隠されていた奥のスペースとその向こう側の夜景を借りた窓、テーブルを囲み笑いあう女たち。いろんな不満や不安や切実さはあったとしても、颯爽と胸を張っていく彼女たちは凛々しく、かっこいいのです。

記憶力がザルなアタシだけれど、ああ、どこかで観たという強烈な印象をを残す井口千穂、ああそうだ、「七の椅子」。不倫OLがペーソスすら感じさせる奥行きがすごい。引きこもりの姉を演じた渡辺実希の美人なのにジャージな台無しさ加減が可愛らしい。

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【芝居】「風が吹いた、帰ろう」桃唄309

2016.5.27 14:00 [CoRich]

29日まで座・高円寺1。125分。 ハンセン病療養施設の島・大島、瀬戸内国際芸術祭の一環として訪れる劇団の人々、 祖母がこの島で亡くなったことを理由に婚約を破棄された孫は、会ったこともない祖母の痕跡を訪ねてやってくる。この島を出た女性は東京にでてさまざまな人と出会う。ちゃらちゃらした男は最初は下心とはいえ病気について考えて初めて企画書を書いて出版に向かう。人が怖くなって仕事を辞めた女もまたこの病気に初めて出会う。

この島を実際に訪れた作家が何作か短編を作り続けてきた(1)ハンセン病(wikipedia)にまつわる物語。海に囲まれた静かな小島の風景の描写から始まり、隔離と偏見に苦しまされてきたこの病気が現在においてもその偏見が続いている、という背景に、シェイクスピア「テンペスト」 や歌、仕草の表現に重きを置くジェストダンスなどを組み合わせ、多くのキャストとともに賑やかに描きます。

物語はこの島に隔離された人々の過酷な日常と患者を隔離し無かったこととして扱う家族たちの昭和初期の時代と、隔離はなくなったけれど人々の関心も薄れ知られていないその孫の時代を行き来します。 隔離施策が法的根拠をもって行われていた過去、最高裁がその誤りを公式にみとめるに至った現在でもなお、あのころと変わらない偏見がまだ根強く残っていることを物語の繋がりとし、治療を受けもうかなりの年齢になってこの島を出た女性が様々な人々に出会うことで、それぞれのピースを縫い合わせるように。もう一つ、人が怖くなってしまった現在の女性がこの事実に出会い、戸惑い、半ば巻き込まれるように行動することで変化していく物語が奥行きを作ります。

シェイクスピア、音頭、ダンスと盛りだくさんな祝祭感を物語に組み合わせるのは、題材の切実さを鼓舞するためかもしれないけれど、正直にいえば、緊張感を殺ぐように感じるアタシです。島流しという接点、更に過去を許すという願いを込めて「テンペスト」とするのは巧いけれど、祝祭感と両方は過剰の結果散漫に感じるアタシです。

人が怖くなってしまった女を演じた高木充子がとてもいいのです。序盤のリア充爆発しろなうつむき加減も嫌いじゃないけれど、戸惑いながらも、でもさまざまなことに正面から向き合おうとする切実さの造形は役者の雰囲気によくあっていて、美しくて気高ささえ感じるアタシです。行動的な女を演じた楠木朝子は幼少と初老という二つの年齢の同一人物を違和感なくスムーズに切り替えてしっかり。 隔離された女を演じた五十嵐ミナは、隔離され、しかしこの島で暮らしていくあきらめの気持ちを細やかに。ちゃらい男を演じた佐藤達は下心目的で知り合ったのに、巻き込まれていく人の良さが腑に落ちます。

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2016.06.03

【芝居】「許されざる者(バッドエンド Ver.)」シンクロ少女

2016.5.23 19:30 [Corich]

2014年初演作、一人を除いて初演と同じ布陣のバッドエンドバージョン。125分。OFF OFFシアター。

こちらのバージョンの終幕はどちらの夫婦にも妊娠していたはずなのに、子供を持っていないことが大きな違い。もう一つ、置いていかれた男が孤独なままで女との再会の場面がないこと。後者はかなり意味深で、出て行ったきり遠くにいってしまったのか、近くには居るのか、あるいはそもそも生きているのかどうかさえわからないようになっていて、想像力をかき立てるのです。

二つのバージョンを作ってはいるけれど、じっさいのところ、物語そのものがどういう終幕を迎えるかということが重要ではなくて、キャストや演出で2つのバージョンを形作ることが重要だと感じます。

別キャストで少しの違いという物語の上演でしかも隙間に入れられるようなタイムテーブルでない上演形態は、「コマ潰し」で好きにはなれないのはそのとおりなのだけれど、不思議と今作には腹の立たないアタシです。 若い女を演じた根本宗子はさらになにを考えているか表に出さない、あるいはむしろ何かを企んでいそうな造形の前半がとりわけ魅力的。 若くない女を演じた田中のり子は相変わらずそういう年齢に見えないご愛敬はともかく、きゃんきゃんと吠えるような造形はカラダから溢れてしまいそうになるほど目一杯つまった不満とか不安が飛び出してくるよう。

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【芝居】「許されざる者(ハッピーエンド Ver.)」シンクロ少女

2016.5.22 19:30 [Corich]

2014年初演作、キャストが一新されているハッピーエンドバージョン。125分。24日までOFF OFFシアター。

物語そのものは、おそらく初演とそう大きくは変わりません。もう一つのバージョンとの違いは終幕近くの作りにあって、去っていく夫婦は赤ん坊を抱え、家を出ていった女は近所では働いていて残された男がその店を見に行くと赤ん坊を抱え笑顔を向けてくれる彼女が居る、というのはハッピーエンドに他ならないのです。

そうでした、全体として好きなシンクロ少女の上演の中でも本作の初演は割と好きな一本でした。もっとも、 そのときの自分の感想を読み返して思い出すだけなのですが。 若い女を演じた宮本奈津美は信用していない、という立ち位置だけれど、ほほんとした空気をまといつつも、しかし見せる表情が全体としては諦めたよう。それは微妙なニュアンスの表情に目が離せないし、声もよくあっています。 本当は何かいいたいことがあるけれど、それはうちに秘めて、こちらには笑顔だけ向けてくれているのだ、と思ってしまうアタシ。ええ、別にそれはアタシに向けられた表情ではないのだけれど。

ドーナツを効果的に使う作品(ハッピーエンドは、終幕で同じ紙袋で持ってくるのでわかったりする)ですが、今作ではもう一つ、おもちゃの刀と組み合わせると、あれれ、下ネタですかという発見も楽しいのです。

西田麻耶が演じた若くない女も、パワフルさが勝る造形で、これはもう一つのバージョンや初演とは違う新たな魅力。彼女の切実さがよりリアリティを持つように感じられて、というのはよけいなお世話なアタシ。なかなか声を上げて泣くという演技を目にする機会のない女優だと思うけれど、その慣れなさがなんか絶妙に可愛らしい。作家の女を演じた堂本佳世は元々作家自身の分身で、フラットに俯瞰し続ける立ち位置の役、ちょっと迷ってる感じはあるけれど、どうしてどうして、もう一本と違うキャラクタを纏うのです。

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