【芝居】「演劇」DULL-COLORED POP
2016.5.21 18:00 [CoRich]
ダルカラの休止公演。29日まで王子小劇場。125分。
教師たち。自殺未遂の女児の父親はビラや暴力で学校を糾弾していたが、卒業式が間近になり全てを受け入れるから卒業式に出してやりたいと学校を訪れる。他の児童への影響や式の混乱を懸念した教師や他の親たちはやり過ごして卒業式にも出席させないでおこうと考えるが、親は卒業式に出席させたいと学校を訪れる。それはなんとかして封じ込めたいと思っている。
卒業式間近の小学生二人。他の人とは違う自分だけの何者かになれると信じているが、それが何かはわからない。ある日、車いすの少女に出会い、卒業式に出席したいという願いをなんとかして叶えたいと思う。
人々の営みというか守るべき目的があってそれを成功させるために、ある種の「仕込み」とか「台本」をつくるのが日常に繋がった「演劇」なのだ、というのが全体のベースの一つ。もう一つは、子供のころの何でもできそうな気持ち(つまり夢)を現実ではなくても実体化させるというのもう一つの「演劇」のありかただという、二つのベースで編み上げられた物語、だと思いました。 夢はあんなに崇高で格好良かったのに、ずるい大人はあんなに嫌いだったのに、それを自分が現実に成し遂げようとすると嫌いだった大人になってしまったということ。絶望といえばそうだけれど、大人になったから(現実の)物語はそれほどシンプルじゃないということもわかってしまったよね、という着地点はほろ苦くて、でも沁み入るよう。
あるいは少々陳腐ではあるけれど「人生は演劇」で、誰かの人生とっては端役かもしれないけれど、誰かにとっては主役だったりということ。その人生という舞台を一人で続けるということがどれだけ辛いことかというのもまた相似形になっているし、あるいは恋に突き動かされて何かをする、というのもすごく舞台に乗っている感じ。
舞台とか演劇にまつわるさまざまな断片を点描していくのはどこかファンタジーの香り。けれど、舞台のかなり大きな部分を占めている親と教師たちの物語の重苦しさは、現実の生活の中にある芝居というスキルの現実的な、しかしたぶん必要な活用のされかた、というリアルとの地続きのつながりを、舞台奥にあるスロープのようになめらかに繋ぐのです。 ねちっこく現実の「台本」を描く中堅教師を描く井上裕朗の濃密な雰囲気が印象的。小学生の子供を演じた百花亜希は確かな目の力を武器にしつつも、パワフルに舞台をきっちり走りきります。もう一人の小学生を演じつつ、教師のシーンでは劣勢の子供の側にたち続けようとする養護教諭を演じた小角まやは終盤の、たった一言で手のひらを返す振り幅を地続きに演じのがちょっとすごい。豹変とういうう意味では善人に見えて被害者である娘の親という立場が見えると強硬に豹変する渡邊りょうも印象に残ります。
あきらかにルンペン(というのも死語か)な身なりのおじさんを演じた中田顕史郎は、町中にあるすごく「演劇」的なことを一人芝居のように作り上げるちから、声が枯れ気味なのはご愛敬だけれど、このシーンの過酷さでもあって。教師たちの間に混じるカウンセラーの役では、何者にも属さない、それはニュートラルなのではないくて、どの位置にも立たない、という優柔不断さをまた高い精度で、自分にちょっとグサっとくる感じ。
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