【イベント】「のぞまれずさずかれずあるもの」(月いちリーディング / 16年3月)日本劇作家協会
斡旋された子供が一組の夫婦に5人もいること、夫は既に亡く、妻も舞台には現れず物語にもほとんど関与しないという枠組みが、良くも悪くもポイントになります。作家自身が上演後のラウンドテーブルで問いかけたのは「いい人」しか登場しないことをどう変えていけばいいか、ということだったけれど、席上で言われたのはちょっと違っていて「摩擦が生じない」ということでした。婚約者を連れてくる女は未だ打ち明けていない出生の秘密があるけれど、それはあっさりと認められるし、既に結婚している長男の妻も気にしていなかった。長男自身が子供を設けることの恐怖があったり、次男が弾けないのにギターケースだけを買ってきたり少々奇妙な行動をしたりはするけれど、そういうことがあった、という以上には物語の上で摩擦を生まないために、どうもひっかかりが少なくなっている、ということはわりとラウンドテーブル全体のなかで共有された感想だったように思います。5人もそういう子供を育てるということも実際にあったことのようだけれどそれ自体はかなり異様に感じられて、そこに何か病んだものがあるのではと勘ぐってしまうアタシの心根の悪さをなんとかしたい。
必ずしも「悪い人」の登場が必要ではないけれど、どう軋轢を生むかというのがポイントで、ゲストの鈴木裕美(もうね、blogのタイトルにするぐらいに心酔してるアタシなので、どうにも冷静ではいられないのだけれど)の指摘があまりにも的確で、これだけでも参加した価値があろうというもの。多くの場所で既に話して居ることのようですが、それはSHAMPOO HATの赤堀雅秋の言葉で 「登場人物はみなウンコを我慢してる。それを他人にも悟られたくないという気持ちもある。その我慢がカラダのゆがみをつくり、外からみると一見妙な言動を引き起こす」 というもの。ウンコのインパクトが凄いけれど、内面で起きていることと外から見えることの差であったり引き裂かれそうになることであったりというのがこんなにも的確に表せるという、言葉を操る人の凄さ。
これもラウンドテーブルで言われたことだけれど、次女が子供を持ち幸せ一杯だけれど、ふと不安になるシーンに力があります。それは、「自分はこんなに生まれてくる子供のことが待ち遠しくて仕方がないのに、自分が生まれてくる時に母親はどうしてそう思わなかったのだろう」ということ。この物語全体を覆う彼らに引っかかっている気持ちをこんなにも端的に言い放つのは台詞の力なのです。
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