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2016.02.25

【芝居】「彼の地」北九州芸術劇場P

2016.2.14 13:00 [CoRich]

140分。北九州での上演のあと、14日まであうるすぽっと。

市井の人々、ということをさまざまに描く一本、かなり速いペースでの再演ということは劇場と作家の幸せな、しかし緊張感のあるであろう関係ゆえの結実だろうと思うのです。

遅い時間の到着だけれど自由席なので果敢に前の方を探してみれば、一人なら端の席があいていて、そこに。初演のときはそこまで思わずわりと俯瞰で観たけれど、再演になっても、全体の印象が変わらないことに驚くのです。 小劇場での再演となるとどうしても何かの新機軸とか変化点を探しがちだけれど、ほとんどの役者が共通で、それゆえに再演でも高いレベルで再演をツアーできるというのは元々の登場人物たちが強くデフォルメされて造型されていて、それが役者の個性に寄り添って演出されている(役者と役のどちらが先かは判らないけれど)からだろうか、と思ったりもするのです。

ヤクザものが子猫が好きでサラリーマンと近い関係になるとか、別れたい女と追いかける男、若い頃にこの地で仕事に就き定年を迎える男であるとか、さまざまなキャラクタは健在。舞台に近づいてもそれが遠く離れた席からの初演と大きく変わらない印象になっている、というのは舞台の安定ゆえか、あるいはアタシの視力が大きく様変わりしたからか(泣)

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2016.02.24

【芝居】「ありがとねえ!」梅舟惟永企画

2016.2.13 19:30 [CoRich]

120分。14日まで早稲田どらま館。改装後初めてなアタシです。一人の役者がいろいろな作家に頼むオムニバス構成。

海岸に遊びに来た女、水着に着替えようとしたら見知らぬ女が水着を忘れて来たので貸して欲しいと相談してきた「ジョニー」(作・池田鉄洋)
コーヒーショップで話をする女ふたり。友達の悪口の話で3時間を過ごしたが飽きた女は友人に語りかける。あなたの彼はワタシとも付き合ってるけれど、どう思う?。「仲良きことは」(作・喜安浩平)
一人暮らしの老女。かつて一緒に暮らしていた女のことを思う。結局出て行ってしまったけれど。「春告花(はるつげのはな)」(作・奥山雄太)
家を出ている長女、次女も含めて四人姉妹が集まる。母が亡くなって十年。父親が書き置きをして出て行ったという。「父はマニラに行きました。」(作・岩崎う大)

企画した役者・梅舟と三人の役者がそれぞれに二人芝居。最後の一本は全員が出演という構成。つながりがあるわけではなくて、一人の役者がいろんな役を見せるのを楽しむのが吉。

「ジョニー」は水着を貸す、借りるというまあほぼあり得ないシチュエーションをどかんと打ち上げるのは、コメディに強い作家の雰囲気で。ここで水着を借りて着替えなければいけない女の論述に対して貸せと迫られる方はいたって普通に初々しいデートの一場面。貸せといって迫る方はその無茶な依頼のわりには、あこがれているだけの選手と何かあるかも、というだけのこと。それぞれ深い想いはあるのだけれど、実際のところ冷静に考えれば水着であることがどちらもそう決定的ではないのに、それを力づくではなく言葉で勝ち取ろうという全体の枠組みは楽しい。無茶を言う女を演じた鹿野真央、テンションの高さも圧も凄くてこの座組では格が一つ違うぐらいに。

「仲良き〜」は、不思議な会話劇。仲良しに見える二人、相手の彼が私と浮気していたらどうするか、実際には居ないのに、ということをぐるぐると繰り返す会話。暇つぶしというテイで、ゆるく見えるけれど、ここにいる二人のどちらが選ばれて幸せになることを延々競っているという風にも見えて、それはそれでまた違う風景が見えそう。傍から見てそう大きな物語があるわけでは無いけれど、遊びの筈がいつしか静かにマウンティングしあってるように見えたりして。いろいろな上演、というよりはセリフはいくらでも替えて、こういう二人の会話という芝居を様々に作り出すバリエーションのベースとなりそうという意味で作家の力を感じる一本。
川村紗也は、こういうちょっと理屈っぽくしかし拗ねがちな女の子をやらせると抜群に巧い。

「春〜」はイマドキらしい同性婚の話かと思えば実はそうでもなくて、一緒に暮らすことのうれしさ、それをあきらめざるを得なかった気持ち、おそらくはその別れのままに老婆となってしまった女の風景。長い時間の流れをぎゅっと圧縮してハートウォーミング風な一本に。 細長い部屋とか意味がありげでほったらかし、みたいなのも作家の持ち味といえばそう。 ことさらに取り上げたりしないけれど、別れた女の孫が居る、ということは彼女は結局は男と子供を設けたという切なさはちょっといいし、孫娘が振り向いた瞬間に、白い粉が振ってきて白髪となるという演出は成功しています。

「父は〜」は四人姉妹、寛大に受け止めようとした長女に対して次女は許せなかったりという拮抗しっぱなしのパワーバランス。相手に子供が居ると聞いて、不倫している長女が大泣きしてそのパワーバランスが崩れるところが物語の結実点。元々のアナウンスは二人芝居だったものを四人にしてどう変わったのかというのはちょっと興味あるところ。

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2016.02.23

【芝居】「反復する、イクツカノ時間と、交わる、イクツモノ時間の中で、僕等にできる、イクツカノこと。」そめごころ

2016.2.13 17:00 [CoRich]

愛媛の後、14日までの王子小劇場は若手チャレンジ枠としての参加。その後福岡での公演。85分。

マイナス20℃の向こう側との壁。壁の向こうに行きたい男。明かりを見つけて飛び込んだ先に居たのは少女だった。少女は目を開けたことがなく、壁の向こうの音から壁の向こう側の景色が見えていて、それを床に描いているのだという。

大きな黒板を床にした八百屋の舞台。男、少女、演出家役、演出家という感じの四人の芝居。壁があって、壁の向こう側は見えないけれど想像してそれを描いている少女、音を丁寧に聞いて描き出す強固な世界。「壁に囲まれた中で自分も世界を作っている」という演出家の台詞にあるように、全体としては、演劇を創り出す人、作家であり演出家のモチーフという芝居なのだと思います。どこまでいってもはてしなく、芝居の間もだめ出しをしながら同じ事を果てしなく繰り返しているような雰囲気もそれを加速します。

壁からの想像かどうか、ベルリン、あさま山荘など、閉ざされた空間をモチーフのようにしてるようなシーンがあったり、どうも蔵に閉じ込められている風の少女の描写があったりと、いくつかの要素は入るのだけれど、どれもが、この閉塞と繰り返しの類型を描いているよう。劇中の少女はあくまで快活でパワフルだけれど、どこかうんざりしてしまうような気持ちを感じるのは舞台からなのか、あるいはアタシの何かに芝居が触れたからなのか。

芝居のダメだしや準備が芝居の中に組み込まれているような感じなのは、メタな構造を一段足しているとはいえますが、アタシにとってはどこか息抜きできる日常のアタシたちに地続きなシーンが入っていることで気持ちを緩めて安心出来て嬉しい。キリキリと精度高くスタイリッシュに作り上げる方法もあるかもしれないけれど。

ちょっと観念的な台詞も多いし、ぐるぐるとして何処を見たらいいか判らなくなっちゃうという意味で、アタシの好みに近いとは言いがたいけれど、 一つのステージの終演時刻が次のステージの開場時刻、という風にタイムテーブルが組まれているのが一工夫。舌を巻くのです。 開場状態のまま、舞台のプリセットなど次のステージの準備をする役者、スタッフたち。ステージの中で繰り返される果てしなさは、一つのステージが終わっても次へと切れ目なく繋がるよう。芝居における反復があまり好きではないアタシだけれど、ステージとステージの間をも繰り返して、果てしなく続く時間を描こうというのは新鮮で刺激的。何度も使える手ではないと思うけれど。

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2016.02.22

【芝居】「10978日目の鏡」だるめしあん

2016.2.13 14:00 [CoRich]

14日まで十色庵。3月に熊本で4ステージが予定されています。120分。

1)眠りに見放された女、もうずいぶん寝ていない。男を組み伏せるように、誘うようにしても眠気は女を組みし抱いてはくれない。「ベッドにて」(作・黒川陽子)
2)部屋があまりに汚い。洗濯も食器も、さまざまなものが。1LDKの勇者は戦うことを決意するが、魔王はあまりに強い。「1DKの冒険」(作・坂本鈴)
3)下着姿の女たち。スマホの恋愛シミュレーションというよりはエロゲーにはまっている。実物の男とはもう2年もつきあってない。現実の男よりも、スマホの中の彼の方が都合がよくてよくない?飲み会の誘いもあったし、昔手痛くフった男もいるけれど、ちょっと面倒か。「脳内女子会」(作・坂本鈴) 4)着ていく服がない。飲み会に行くにしても。職場の後輩のアドバイスもファッションもあまりにきつい。でも勇気を振り絞って会場に行くが、かつての男も、友人たちも何かをなしとげている。自分は30歳になるまでなにをしてきたんだ。後輩すらも。「手のひらマクベス」(作・黒川陽子)
5)これは一日の話。今日はなにも無かったことにしよう、とはいうものの。「10978日目の鏡」(作・黒川陽子)

バラバラのオムニバスに見えながらも、 実は、独身アラサー女のある一日をいろいろな切り口で描いていることが徐々にみえてきて、ちょっと圧巻。25歳の時は何でもできると思っていたけれど、何者になれていることもなく、英会話もエステもダイエットもなんとなくモノを買ったりはしていてもものにならないまま押入にはいったまま、そんな部屋でぼんやり眠れなくなったり、一念発起して掃除をしたり、一休みしてハマっているエロゲーのキャラクタに恋をしたり、あるいは久々に会う友達にときめいたり、あるいは彼らと比べて何者にもなっていない自分にがっかりしたり。

それぞれの短編はバラエティにあふれていて、ぼんやりゆっくりする気持ちの独白であったり、RPGになぞられたようなコミカルで大げさな爆笑編だったり、少なくとも作家が思う女性の正直な性欲、あるいは恋心と自分のどうにもなってなさを冷静にみつめるものであったりと見応えがあります。プロローグとエピローグは全体に対する構造をつくるので、このオムニバスで生きるけれど、間の三本はそれぞれ短編として上演されても大丈夫な見応えがあるものを、この構造の中に入れてぱずるがはまるようになって企みが巧いのです。

プロローグを担う「ベッド〜」は、ねむけ、という毎日床を伴にする相手と寄り添えない焦りと、それを求める気持ちとというワンアイディアが新鮮でおもしろい。一週間前の飲み会の誘いが、この困惑のきっかけというのはあとからわかるおもしろさ。 正直にいえば、いつまでもおなじところをぐるぐると回る感じではあるのが序盤から長く感じさせるけれど、それは(アタシにも年に1、2回はある)寝られなくて困る長い夜ということの気持ちに近い感じが後からじわじわきます。

一転してコミカルなRPG風に始まる「1DK〜」はイキオイがあって楽しい。やりたくない掃除によって汚れとか散らかりを、まさにやっつけようという闘う気持ちはたしかに女子っぽい。芝居でRPGをコミカルに使うのはよくあるけれど、天日干しとかハイターとか、あるいは引き出物のワイングラスを見つけるとか、「いつかは」という強大な敵とかという、ディテールがあるある、な感覚が身の丈っぽく。

女優たちが下着姿というだけで眼福な「〜女子会」は、表面的には下着という「見られること」とイケメンキャラという「見る」ことという軸で描きつつも、実は女性が一人で自分に向き合う気持ちを描く一本。本当の女性の気持ちはもちろんアタシには判らないのだろうけれど、 相手がいてその関係で昇るのとは違う、一人で性欲に向き合い、いっとき我が侭となる、まさに「孤独のエッチ」として、食欲ならぬ性欲に向き合う一本。キャラクタを書き分けるために複数で一人の脳内を芝居にするという方法が、眼福も含めてうまく機能しています。一人芝居にしてももしかしたらおもしろいかもしれないなとおもったりしつつ。

「〜マクベス」この5本の流れの中ではメインとなる戦い。この一本だけがわりとふつうの会話劇になっているけれど、ここまでくると、これまでのそれぞれのパーツにつながっていることも薄々見えてきて、等身大のアラサー近づいているのに何者にもなっていない主人公の女性が少々焦っている気持ち、深い奥行きをもって描写されるという結実。若い後輩に連れて行かれた若者向けの店のラインナップも雰囲気も 微妙に合わないという焦りを「服が手のひらを返す」と表現することばも見事だし、マクベスでいう「女の又から生まれなかった〜」(が、帝王切開という例外がある)を「店が手のひらに収まるなら」(が、ネットショップという例外がある)という対比にするセンスもちょっといい。

エピローグを担う「〜鏡」は、全体を俯瞰して、同じ日におこった出来事をさまざまに切り取ってみせたのだ、ということを明確に種明かしする一本。これまで生きてきた日々の先に、でも山も谷もある人生のレールがある、ということに果敢に立ち向かう女子の気持ちが静かに、しかし力強い。これを眩しく感じてしまう、というのはアタシがあまりに歳をとったからか。

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【芝居】「「人の気も知らないで」「ヂアロオグ・プランタニエ」」時間堂

2016.2.12 20:00 [CoRich]

  70分。13日まで長者町・アートプラネット Chapter2。昼はともかく、夜はちょっと怪しい場所なので、慣れないなら京急・日ノ出町駅からがオススメのコース。ええ、いい呑み屋が一杯ある街ですがw。

一人の男に想いを寄せつつも伝えられていない女二人。どちらが自分のことを想っているか、どちらが相手のことを想っているか、あるいはどちらかが想いを遂げてしまったらもう片方はどうしたか。「ヂアロオグ・プランタニエ」(青空文庫)
同僚の結婚式での余興の相談のために集まる女三人。ほんとうは四人だったが、一人は不慮の事故で入院している。結婚とその事故のために仕事が急増している女は愚痴るが、それをよくないことだと咎める後輩「人の気も知らないで」(1)

短めの二本を並べた上演。何十年かの時間を経て変化したり変化しなかったりした女たちの意識という並べ方か。「〜プランタニエ」はとても観念的で一歩たりとも踏み出さないこと、現実を受け止めて生きていかなければならない、まるで植物かのように観察する雰囲気。あの人が私のこと好きかしら、親友も同じ人が好きになっているのはちょっと嫌だけど、でも彼女にも幸せになって欲しい気持ち。ぐるぐる廻るばかりで何も解決に向かわないように感じて、ちょっとばかりフラストレーションの溜まる会話という感じもあるけれど、解決が目的なんじゃなくて、共感と確認を目的とした会話、というある種女性たちの会話の雛形の一つを見ているよう。

「人の気も〜」は元々関西弁で書かれている戯曲をいわゆる標準語に置き換えて。序盤から軽妙さと深刻さが絶妙に同居していたオリジナルに対して、軽妙にさの流れに乗り始めるまでの間にやや手間取る感じもあるけれど、会話のこなれ方でどんどんn良くなっていく感じはありますし、それが出来るのがレポアートリーシアターのいいところ。

四つの席のテーブル、ここにいない一人という意味が見えたりもするし、テーブルを囲むように設置された客席から役者の移動を強いることで死角を減らす効果もあって、わりとうまいやりかた。 短めなわりには、ぐいぐいと引っ張る物語、コンパクトな上演が可能で、劇団がレパートリーとしては繰り返し上演するものとしては確かにいい選択の一本。

英語字幕つきの上演。シンプルにPCとプロジェクタでそういう上演ができるというのも、コンパクトな上演の利点です。

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2016.02.15

【芝居】「逆鱗」NODA MAP

2016.2.11 14:00 [CoRich]

130分。3月13日まで東京芸術劇場プレイハウス。

大きな水槽を抱くその海中水族館、遙かに深い海底に生息する人魚をとらえようと鵜飼いの末裔の館長、その娘の人魚学の研究者たちが先を争っている。電報配達夫はその調査のチームに入るが、訓練中、危機的な状況に落ち込み海底で人魚に会う夢を見る。人魚が捕まらなかった時に備えて水族館が行ったオーディションに現れたのは、その人魚そっくりの女だった。
魚の一部を切り取り人間の上半身を据えたと考えられるシイラニンギョの半身が大量に見つかる。

前半は深海にいる人魚とそれを捕まえようとする水族館だったり学者だったり。半身の魚をつなぎ合わせてできたという人魚の話を挟みつつ、全体には大量の鰯の流れをコロスで表現したり、コミカルに登場人物たちを紹介しつつ、実は前半にはほとんど物語は進みません。

ネタバレ

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【芝居】「春は夜来る」ルソルナ

2016.2.7 12:00 [CoRich]

8日まで王子小劇場。120分。

若くして男が亡くなってから約一年。その妻はまだ夫のことを忘れられず一歩も前に進めずにいる。男の姉が見かねて、見合いをしようと二人で旅にでる。「結婚応援サイト」で本気を見せた男を訪ねて回るのだ。
山形の造り酒屋の男、本人はなにも知らず亡くなった祖母が孫の将来を案じて投稿していた。「第一話・みちのく女子ふたり旅」
愛知のキャバクラ・ホストクラブのオーナーの男は一年にもわたったアプローチをしてきていた。結婚しないとこの店のオーナーでいられなくなってしまうのだ「第二話・色恋半島 恋景色」
千葉の島で暮らす男やもめ。妻を亡くしている。バックトゥーザフィーチャーが好きすぎて周りが見えなかったりするが、一緒に旅を続けてきた姉は同じ映画が大好きだった。「第三話・愛の小島に雪が降る」
一人福岡を訪ねた女だったが「第四話・春は夜来る、夜風を連れて」

それぞれのタイトルは当パンにはなかったので、プロジェクタで映されたもののメモを頼りに。間違ってる気もします。というか、芝居観ながらメモ取る癖をやめないとなぁ。(時々隣の席の人に怒られたりする)

亡夫を忘れられない若い女の心を整理する過程のロードムービーといってしまうと身も蓋もないけれど、そのベースをきちんと保ちつつ、時にベタに、ときにすてきな言葉をちりばめつつ、全体としてはコミカル要素強めで物語を進めます。前に進めなかった女だけれど、前に進みはじめた人々を目にしたり、同じ境遇の人がどう次の伴侶を迎える気持ちに至ったかをはなしたりを丁寧に紡いだりという語り口だけれど、これでもかと詰め込まれた、あからさまにオーバーアクションだったりという記号化された人々が周りを支えていて見やすく、120分を四話構成というわりには長さを感じさせないようになっています。 わりと自分の劇団ではフラットにタイトな芝居をつくりつつある作家ですが、こういう軽妙な語り口をバラエティ豊かな役者たちが演じるのも私はこの作家について好きな雰囲気で、若い役者たちがそれを演じるのをみることのうれしさ。 それぞれの場所に居た男たちはそれぞれの個性、まじめであったり一途だけどオラオラであったり、趣味が同じだったり。そのそれぞれに亡夫の面影が重ねて見える、というのは巧く一本の背骨を作った感じがします。ドライバーだったり人力車の車夫だったりする同じ顔の兄弟を並べるのも、ベタだけれど見やすい。

一本目は、この物語全体の状況説明を強く担います。どう考えても出会い系サイトにしか見えない「婚活応援サイト」なるものをコミカルに、しかし、会ったこともない人を訪ねて回るロードムービーという荒唐無稽な設定にきちんと落とし込むのです。
二本目は、派手なキャバ嬢やらチンピラやらでにぎやかな雰囲気。見た目にも華やかで楽しい中でちゃらい感じに見えるけれど、そんな中にしっかりと思うまっすぐな気持ちを描きます。
三本目は、年齢がずいぶん上の男やもめ、もう結婚とか考えてはいけないと思い始めているけれど、決して遠い日の花火ではない残り火な気持ち。花火、というシーンがそれを思い起こさせたかというのもアタシの気持ちになんか近い。
四本目はもう亡くなっていた男、それを何か思い起こすわけではなくて、「春は夜にやってくる」というタイトルに組み合わせて、もう一歩、先に進んでいく気持ちの光明。 

村の子供たちを相手にした相撲のSFXっぽさ、 作家の信頼かどうか、ドライバー・車夫からSFXのような相撲のシーンだったり、恋人だったりという振れ幅の大石憲は安定感。序盤ではスケベ満載なのに三本目で素敵な中年というヨシケンのギャップもいい。 小林春世のホステスというのも半年前を思い出したりして、それはツッコミの面白さという感じか。

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【芝居】「ミルフィーユ」aibook

2016.2.6 19:00 [CoRich]

10日までOFF OFFシアター。110分。

岩手の漁村。震災で調子を悪くした妻は市街地の病院に入院していて、夫が一人この家で漁をしながら暮らしている。ここより低い家は津波にさらわれ、高台に復興住宅が造られているが、この家は津波以前のままになっている。 妻を心配して、過疎が進み医療も厳しい土地を離れるように妻の妹、夫の妹が説得に訪れるが、夫はこの土地を離れる気はない。

岩手の海沿い、震災から4年が経ち人々が次への一歩であったり結果としてこの場所を去っていくという場所を舞台、頑固にこの場所に居続ける人を描きます。

それはいつかそうなったかもしれないけれど、現実には震災が漁港で暮らす人々の生活を大きく変えたという背景に、二人ならこのままもうしばらくは暮らしていけたはずなのに、これもまた震災によってそのままでは居られなくなった夫婦の姿をメインに描く物語。言い換えれば人が暮らしていくというのはその人々が強い力で進んで行くことだけれど、天災のように圧倒的な力でねじ伏せられそうになった時にどう変化していくか、という物語。

弱ってしまって入院している妻は舞台には登場しません。その妹が主人公に対して対峙する立場で、治療のためにもこの場所を去るべきだし、せめてぼろぼろになってしまった鍋ぐらいは買い換えるべきだと主張します。理不尽なほど頑固に見えた男と、それに振り回されているようにみえた妻の間を支える、二人が共有してきた時間とモノは、男が責められても不器用な生き方を選んできたことを支えているのだ、ということがゆっくりと人々に見えてくる、というのが今作の流れ。

ダイナミックに何かが変化するというものでもなくてどちらかというと静かな流れの物語。その中で、もたい陽子、菊池美里の二人は作家も含めて同じ芝居の空気感を共有してるよう。とりわけ酔っ払いのシーンは安定していてみていて嬉しい、というのはあれですが女性の会話だからですかそうですか。

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2016.02.09

【芝居】「奴らの影踏む千葉」PANDAJOCKEY+ドリルチョコレート

2016.2.6 15:00 [CoRich]

7日までシアター711。90分。

女を殺したとして、男が取り調べを受けている。
一度は売れたものの低迷し続けている歌手の男。妻も子供も居るが、外に女をつくり家にはたまに生活費を渡すために帰っている。男を支えるため女は風俗で稼いでいる。ふとしたきっかけで男に新曲の話出てくるが、それには条件があって。

一発屋の歌手、家族を捨てて女の稼ぎで食っているどころか、妻とは別れてないし渡している生活費も女の稼ぎだという絵に描いたようなクズ男を中心に進むけれど、それに振り回された人々をデフォルメして、しかし哀しく描く物語。

クズ男だとわかっていても強い想いで離れられない気持ちで風俗で稼いでまで貢ぐだめんず女、あるいは生きて子供たちを育てなければならない母であり妻である女。 全体のアングルとしては、この二人の女の対立の構図。男を仲介にしてそれぞれのシーンをみせたあとに二人がついに対峙する シーンがパワーゲームのような凄みで圧巻なのです。なるほどプロレス。とりわけ、離婚し新たに結婚するつもりならこの子供たちも背負う覚悟はあるのかと静かに迫る母親は実に強い。 だめだとわかっているのにこうなってしまう女たちへの作家の視線は優しいのか、あるいは冷徹なのかわからないけれど、単に可哀想な人にしない奥行きのある人間がちゃんとそこに存在しているのです。

正直に言えば、この男を俳優二人で演じる意図が今一つつかめないアタシです。それがわからなくても魅力と実力のある俳優・川島潤哉と小野ゆたかという二人によって紡がれることで時に冷徹で、ときにだめ男で、ときに我が侭が見え隠れするような効果は確かにあるようにも思いますし、何より贅沢。

刑事を演じた堀靖明はこの世界の中では狂っていない観客の視点をしっかりと、つっこみが得意な役者ゆえに安心で。 娘を演じた後藤飛鳥の素直でかわいらしい小学生女子も年齢を考えればたいしたものだけれど、ちょっとやんちゃな小学生男子を演じた加藤美佐江のパワフルな破壊力は相変わらず凄い。貢ぐ女を演じた徳橋みのりはまっすぐが勝り、しかもああ稼げるんだろうなという説得力もしなやかに。母親を演じた川口雅子が物静かなしっかりとした母。軽薄な社長を演じた櫻井智也の余裕もうれしく。

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【芝居】「そして母はキレイになった」ONEOR8

2016.1.31 14:00 [CoRich]

再演ですが、ワタシは初見です。 31日までシアタートラム。その後、相模原、松本、兵庫、北海道(9カ所・士別→苫前町→北広島市→富良野→深川市→中標津町→斜里町→北見)。

美しい母は男と家を出てしまい、父親は男手ひとつで喫茶店を営み姉妹を育てたが、その父ももう亡くなっている。姉は独り身で、常連の男と不倫をしているが、転勤先についてこないかと誘われている。妹は結婚していて夫は少し変わったところもあるが、無条件に愛を注いでいてくれるが、夫の転勤を控え、ここは離れることになりそうだ。
ある日突然母親は戻ってくる。あのときの美しさが変わらないまま。

美しい母親の30年ぶりの再訪。父親はすでに亡くなっていて、姉妹も感動の再会というにはあまりに時間が経ちすぎていて。母親は美しいけれど、どちらかというと男にだらしない造型で、共感できるような雰囲気ではなくて、観客にとっての視座は姉妹とかつての父親にあると思うのです。

ネタバレかも。

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2016.02.05

【イベント】「私、洗濯機をさらいにいくわ」(月いちリーディング / 16年1月)日本劇作家協会

2016.1.30 18:00 [CoRich]

このリーディングシリーズでは初めてという一人芝居、60分ほど。

アパートの外にある洗濯機に女が忍びよる。かつて同居していた男が買ってきた中古の洗濯機を男との思い出を断ち切るために置いたまま引っ越したものの、未練を捨てきれずに再び手元に置こうとしている。

2014年、現実に行方不明となったマレーシア航空・北京行きの航空機の事件を題材に、それにより男を失った女の情念が支配する物語。もう一年も経ちあきらめてもいいということは心の隅で思いつつも、その男の痕跡を追い続ける女。かつて暮らしていたときに彼が買ってきた洗濯機を取り戻しに行く、というタイトルそのままの序盤は突飛さと情念とで妄想ともいえる世界に一気に。「さらった」洗濯機を延々運ぶ中盤はちょっとコミカルで日常の延長線上にのるようで楽しい情景をつくり、後半ではまた違う「文法」で洗濯機の中で絡み合う自分と彼の服、そこから現実を受け入れる女。という三段のながれになっています。

序盤で唐突に「マクベス」といってみたり、やや時代がかった感じは苦手なアタシだけれど、観客を交えたラウンドテーブルの中ではこの部分を「唐十郎の文体(弱者が平衡を保つために夢想の世界に逃げ込む)」という言葉で。 後半では、文体が全く変わっているという指摘通り、なるほど、少々まがまがしいけれど、「唐」とは違う文体だということもよくわかります。洗濯機が唯一の彼とのつながりだからここまでの狂気になっているかと思えば、女の部屋にはあっさり彼の服があったりしていろいろ荒削りで覚束ない感じは残るけれど、洗濯槽の中で混じり合う二人の服であったり、濡れている彼のシャツを着て男が海の底に沈んでいることを感覚として理解する、という終幕は巧い。

とはいえ、あたしが好きなのは日常に地続きに感じられる中盤なのです。とりわけ、彼が買ってきたリサイクルショップ店長との会話のシーンがいい。もう居ない彼のことを覚えている人が自分以外にここに居る、という当たり前のことだけれど、それは女の妄想などではなく、確実に生きている人がかつて居た、という奥行きを作り出すのです。

リーディングのあとに作家を囲み、コーディネーターやファシリテイター(演出を兼ねます)、役者や観客が戯曲のブラッシュアップを目指して話し合う時間が設けられています。その中で作家は「中国人の造形のリアリティ」や「男が行方不明になったことを知った女が旅先で歩く空港のリアリティ」をずいぶん気にしているよう。ワタシには気にならなかったけれど、作家の拘るポイントが見えるようで楽しい。

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2016.02.04

【芝居】「値千金のキャバレー」ホチキス

2016.1.30 14:00 [CoRich]

31日まで座・高円寺1。140分。

その村は神によって人々は歌を奪われていて歌うことができない。キャバレーの歌姫は神に気に入られて歌を歌い続ける。自らの命を削り、神がほかの人々から奪った歌を糧にしている。
歌姫は一度は駆け落ちをして村をでたが、夫と娘を捨てこの村に戻っている。娘は母親に跳び蹴りを食らわすべく母を捜しこの村にたどりつく。 歌姫は体力の限界を迎えていて、それでも歌を求めている神は若い頃にうり二つの娘と、歌姫の身体と心を入れ替える。
歌姫の身体の中に溜まり続けていた人々の歌を人々に返していき、若い娘の身体を手に入れた歌姫とともに人々は歌い、神に逆らおうとしている。

母と娘の物語をベースにしながらも、基本的には 歌を奪われた人々が歌を手に入れ、強大な力に立ち向かい闘うというシンプルなストーリーラインで勇ましいファンタジーミュージカルに仕上がっています 。もっとも、歌い上げるばかりではなく、J-POPあり、昭和のアイドル歌謡あり、ラップあり(あの、最後の方、男たちだけで低重心で歌い上げたアレはなんていうジャンルなんだろう)。現在の日本に住む私たちに耳なじみのある曲が多いおかげでずいぶんと聞きやすくなっています。

妖怪といい、どこか鬼太郎のような登場人物たちがいたりもするけれど、正直にいえば、借りてきたキャラクタ自体にはほとんど意味がなくて、借り物ではなくそういう人物たち、というだけで十分いける感じ。正直にいえば、少々登場人物が多い感はあるのだけれど、歌モノとなるといろんなバランスがあるので難しいところではあります。

芝居をみて検査するまでは、いわゆる芸能人登場の舞台とは思わず。さすがに、歌とか見た目にとにかく目を引くといういわゆるオーラの強さはさすが、と思うのです。それにきちんと互角に渡り合う劇団の役者たちも心強い。とりわけ看板の小玉久仁子は相変わらず圧巻で、歳を重ねた女から、若いというより子供のようだったり、終幕では「装置になる」あの歌手の風でもその馬鹿馬鹿しいキャラクタになっても役者が負けないという凄さ。片山陽加の歌の圧巻、加藤敦のしっかりと支える感じ、村上誠基は久々にコミカルな役を拝見した気もしますが、安心感。

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2016.02.03

【芝居】「不完全な己たち」gojunko

2016.1.24 17:00 [CoRich]

母に大切に育てられ、伴侶も見つけたものの生まれた娘は死んでしまった女。女は普通に結婚し幸せな人生を送ってきている。幼なじみは愚痴ばかりで望みは高いし移り気で結婚できていない。美しい顔はほとんど整形で勧められているけれど踏み切れない。 叔母は男とつきあったことのないまま更年期にさしかかり、亡くなった娘へ安物の洋服をいつも買ってくる。 弟はいつの間にか結婚しているが、姉のことは妻に紹介したくないといい、縁を切るという。 夫は帰ってこない。愛人と称する女がきたりする。
女の鼻は豚のようだった。

子供が死んで一年が経ち、結婚は母が金を男に渡して仕組んでいたり、友人も叔母も弟や夫まで自分に厳しい言葉を投げつけてくるようになること。結婚できないで整形に手を出した友人よりも、男とつきあうこともなく年齢を重ねてしまった叔母よりもどこかで幸せだと思っていた自分だけれど、その実、ブタ鼻ゆえに見下されていることに気づかされること。

ブタ鼻はやけにリアルで象徴的に使われるけれど、言葉でそれが明確に示されることはありません。 何かの象徴なんじゃないかと思うアタシです。美醜の話なのかあるいは病気のようなものなのか、 あるいは見た目ではない何かなのかは実ははっきりしません。幕切れで娘が云う「もうそれいらないでしょ」という言葉はそれが自覚的に手にして、捨てることができるものなのに、捨てられないものとして 今まで固執してきた、ということなんじゃないかと思ったりもして。

自分が可愛がられなくなったことを寂しく思うこと。それは一般的には弟や妹が生まれたら、ということ なのだけれど、今作では不格好な金魚を象徴的につかっていて、それ憎しと思ってトイレに流してしまうことがかなり象徴的なのです。

終幕近く、女の娘が死なずに育っていっている世界は母親が夢見たステロタイプな幸せ。 自分を見放した周りの人もまだその周りにいるけれど、それを見ている自分はその中には居ないというのは絶望に近い感覚なのです。

愚痴を言い続ける女を演じた石井舞の気の強さを押し出した造型がいい。謎めいた女かと思えば娘になってみたり母親になってみたりと自在に行き来する小瀧万梨子は、確かな力に裏打ちされていて圧巻で、この物語世界をきちんと支えます。

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