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2015.11.30

【芝居】「クリスマス解放戦線」渡辺源四郎商店

2015.11.22 19:30 [CoRich]

先代のリーダーが官邸の門松にクリスマスの装飾をほどこしたことをきっかけにした クリスマス禁止令が出て10年。青森の大学生たちは古いスキー宿に集い世間から隠れて革命という名のパーティを開いている。合い言葉をいいながら集う学生たち。 青森県警の捜査の手は着実に近づいてきているが、そのとき、サンタクロースを信じている者への援軍が現れる。

クリスマスという祝祭感あふれるものを、解放戦線という少々きな臭い単語と組み合わせたタイトル。明確に語られているわけではないけれど、亜ふつうに日常としてあったものが「禁止され」たり「無くなったり」されていくということを描いているともいえます。

浮かれたいだけの大学生に見えるけれど、それぞれの想いも立場も、大人たちの思惑も、はてはこの国をどうするつもりかに至るまで、 正直にいって、今年の日本のあれこれが走馬燈のように詰め込まれている感じで、アタシの頭の中では整理がつかずやや荒削りだという印象を持ちましたが、これも今の私たちの姿なのかもしれません。

その中で男がずっとクリスマスを守ってきたのは、戦いに出て行った女性の帰りをずっと待っているということ。が、それを必ずしもハッピーエンドにはしなくて、戻ってはきたものの、捕らわれた女性が戦場という場でどういう目にあわされてきたか、ということをにおわせた終幕はあまりに酷い。

とはいっても、単に深刻な話ばかりでもなく。60年代を少し交えつつ、バブルの頃の(赤プリ、オープンハートとか母親の台詞がいろんな意味でぐっとくる)あの浮かれたクリスマス、だからそれを禁止して「美しい日本」を取り戻すのだというのは滑稽な発想なのだけれど、それが権力を持ったときの暴走もみえるのです。

待っている男を演じた工藤良平は、少々情けない優男の造型だけれど、まっすぐな気持ちが見えるよう。跳ねっ返りの中学生(!)を演じた音喜多咲子のパワーのあるコミカルが楽しい。絶対なる力を持つ女を演じた三上晴佳ももう漫画のように楽しく。母親を演じた工藤由佳子のバブル期を経た感じも、ぐっときます。

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2015.11.27

【芝居】「walk in closet」iaku

2015.11.22 14:05 [CoRich]

大阪発の関西弁現代口語の濃密な会話劇の切れ味は相変わらず。 兵庫のあと、吉祥寺シアターで22日まで。 95分。

バブル期に開発された住宅地に住んで20年になる夫婦と大学生の息子。近所の女性が妻と話をしに来ているが夕方になって強い豪雨になってきた。夫は町内会の会合に出ていたが、帰れなくなった知り合いを連れてくる。息子はバイト先から戻れなくなり店長に車で送ってもらったが、雨はいっそう酷くなり、もう一人のアルバイトと一緒にこの家に避難してきている。
息子のアルバイト先は雑誌に乗るようなおしゃれなカフェだが、店長がゲイだという噂が広がっている。町内会から一緒に戻ってきた男はかつて体操教室のコーチだったが女児に対する噂を息子に流されて仕事を辞めるざるを得なくなっている。
母親は少し前に息子のクローゼットからゲイのビデオを見つけて動揺しているがまだ話すことができない。

性自認を公表していない状態をいう「クローゼット」という単語に「踏み込む」物語。かなり厳しい状態のぎりぎりの会話だけれど、暴風雨で河川が氾濫しようかという状態を設定することで、自分から出て行けということも気に入らない人物をこの場から退場させることもできない、という一つの部屋でのリアルタイムでの濃密な会話の90分越があっという間なのです。

息子がホモセクシュアルだということを受け入れたくない母親、 新聞によれば同性愛に対する行政の対応などもはじまってきていていることは見聞きしていて、 世間で起きていることとしては受け入れられるぐらいには一般的にはなっているということは判っているけれど、それがいざ身内の問題として、自分の息子がそうであることを受け入れられるかというのは今の時代の空気感によくあっているバランスなのです。そういう意味では、このタイミングだからこそ成立する精密で細やかだけれど、脆弱という絶妙さ。

微妙な問題ゆえにそっとしておいてさわらない、という立場をとり続ける父親、母親はもうすこし身内として踏み込みたい感じ。父親が過去の負い目もあって連れてきた男は序盤から中盤にかけて(酒の力も借りてとはいえ)執拗に息子やアルバイト先への露骨なヘイトを繰り返します。彼にはそうせずにはいられない報復的な気持ちの衝動があってということも説明され、その矛先となる息子にも、なぜあのときに貶めるようなことを言ったのかという理由がちゃんとあって。それぞれの立場だったり過去の体験だったりが、それぞれバラバラで。 会話の端々にボケ・ツッコミかのような軽妙なリズムだったり合いの手のような言葉が挟まったり。関西弁だから、という思考停止には陥りたくないけれど、深刻な会話の中でもこのリズムや笑いを自然に挟み込めるのは、iakuのすごさで、それは今作においても変わりません。

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【芝居】「ごはんとじかん」ごはん部

2015.11.21 18:00 [CoRich]

気楽なファン感謝デー的企画を劇団員だけで60分。キッチンとカウンターがある劇場を生かして、終演後には別料金の「ごはん」付き。十色庵。

立ちゆかなくなりつつある飲食店のバックヤード。店で演劇を見せて客を増やそうと画策するが、それぞれやりたことはバラバラで「ごはんと時間・古」
その劇中劇。義理の娘に恋心を抱く義父、娘は若い男に恋心を抱いているが、それは許されない。「はんばあぐの唄」
女に刺されそうになった男が見た走馬燈「ごはんのせい」
牛肉の食用が禁止されて100年。牛タンは米から作られる人造食品になっていたが、販売アルバイトの女はホンモノを食べたことがあるという「牛タン機械論」
ごはん部、店舗を出すのは無理そうだ。まあまた芝居しようとするがやりたいことはバラバラで。来年のお盆公演は9日劇場を押さえました「ごはんと時間・現」

最初と最後の「ごはん〜」は大正時代の飲食店が芝居で客を呼ぼうとし、現在の劇団が店舗を出そうと考える対象形。何がしたいこれがしたいというそれぞれ、でも一つの作品をつくりだそうという人々の気持ちをバタバタと。

「はんばあぐ〜」は大正ロマンっぽい悲恋の物語。とはいえ、どちらかというと棒読み口調だったり、まあ荒っぽい話であったりと、、あきらかに素人芝居をしている人々を演じるというメタな雰囲気を残しつつの

刺殺されそうになった男の前に現れた割烹着姿の女、ご飯を残さず食べ続けてきてくれたから現れた「ごはんの精」だけれど、男がそうしてきたのは母親の言いつけを守り続けてきたからで、目の前にいる彼女がまさにその母親であって、というちょっといい話。ごはん=米飯の意味もあるけれど、ごはん=食事一般もあるというあたりを逆手にとって、痴話喧嘩の原因とするばかばかしさもいい。

「牛タン〜」あらゆる食品が人工的に作られたものとなっている暗い未来(検索したらbleak future、って出るけれど、もうちょっと違う英語っぽい単語があったと思うのだけど探せないw)の物語だけれど、「本物」が正しいのだという気持ちもありつつ、でも結果としてはそれをどうこう言ってるこの人々だってどうなんだろう、という着地でもあって。

酒を片手にゆるゆる観るような芝居では「ごはん部」だからこそのゆるい楽しさ。リーズナブルで楽しい。役者たちに混じって次回公演で劇場を9日間も押さえてしまったといたずらっぽく笑って告知する作・演の一部を担った主宰・保坂萌の表情が可愛らしい。

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2015.11.26

【芝居】「そのゆびにぎって」Pityman

2015.11.21 14:00 [CoRich]

兄妹は一緒に暮らしている。兄は保育園の園長、妹は恋人ができた。二人は母親から捨てられたと思っている。兄は自分の身体で妊娠しようとしていると妹に告げるが妹は受け入れられない。

母親に捨てられたと思っている兄妹。母親は歌い手で、離婚したというあたりまでは物語として語られ、兄妹にとってトラウマとなっていることが示されます。 物語の核となるのは兄妹と母親、それ以外の人物たちのシーンはごく短く、物語の中で担う役割もごく限定的です。率直にいって、物語が必要としている人物に対して役者が多すぎる印象が強いのです。ほんの数分、物語とはあまり関係ない部分のスケッチとして置かれる役というのは映像ならばあり得るのかもしれないけれど、この規模の小劇場の舞台としては正直、あまりいい印象を観客にも与えないと思うのです。

核となる3人以外、保母の二人は物語とは関係ない部分でいいシーンがあります。とりわけ 保育園の園長として働いている男に対して微妙にモーションをかけようという既婚の保母のシーンはちょっとどきどきします。自分を見てくれる異性がいて揺れ動く気持ちの細やかさ。が、それは物語に対しての効果がほしい。恋人が居る保母のドキドキは実に可愛らしく。演じた佐藤友、普通の女性、という役が思いの外いままで少なくて、もちろん、等身大の女性もきっちり。

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2015.11.24

【芝居】「二等辺三角形 ・ぼくのはなしをきいてください」なゆた屋 1two3 THEATER

2015.11.20 20:00  [CoRich]

20年近く前に「劇」小劇場のこけら落としとして上演された二本の二人芝居の片方を60分、 佐藤達の紙芝居「ぼくのはなしをきいてください」を前後に15分ほどつけてパッケージした二人芝居公演。 夜公演では追加料金で終演後にビッフェ形式の飲食の提供があります。

男の住むマンション、妻と久々に会う約束をした女が訪ねてくる。が、妻は娘を連れて家を出て数日経っている。女はその原因を探ろうという。

男と女、女の間でも専業主婦と働く独身女性という二つの対立軸で構成された物語。20年を経て、先端の感覚というわけにはいきませんが、あまり変わらない人も多い感覚の物語は私たちが20年をたってもごくゆっくりとしか社会を先に進められていないということを思い起こさせます。

初演を観ているのですが、例によって記憶が無いアタシです。 元々の話には携帯電話が登場せず固定電話での連絡というのがベースになっていたようですが、終演後の宴会で訊いたところでは、現在に会わせた作家自身によるアレンジをくわえているようで、なるほど携帯電話・メールが当たり前に使われる風景になっています。が、その結果序盤に大きな違和感を残していて、「妻が家を出たことを知った女が電話しない」、という些細なことが大きな違和感を感じさせるのです。夫からの電話には出ないかもしれないけれど、「親友」からの電話ならでるかも知れないし、そもそも約束をすっぽかされたのだからそれをするのが自然な感覚に思えます。固定電話ならそこにある電話しか使えないし、番号通知という感覚もないからわざわざかけ直すことはしなかったというのも納得なのですが。

いや、もしかしたら実は違うのかも知れません。終幕、電話をかけてきた妻は、その女友達のことを一言も話題に出さないばかりか、それまではなしてきた夫もそれを一言も言いません。女友達はそこに居ない誰か、ということかとも思いつつ。そうなると終幕、一度は出て行った女が戻ってきて男を抱きしめるというシーンがまた別の意味を持ってしまいそうですが。

女友達が存在したとすれば、 女友達も夫もどちらも、それまでこれっぽっちも考えてこなかった出て行った女の抱えていた気持ちを忖度することがなくて、いなくなって初めて彼女が何を考えていたのかについて思いを巡らせるのです。彼女の心配というよりは、自分が何かをしてしまったのか、あるいは理由は自分ではなく相手にあるのか。などぐるぐると。

二つの紙芝居は安心の安定感。動画配信も始まってて、ついつい。

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2015.11.23

【芝居】「ラムネ」みどり人

2015.11.15 18:30 [CoRich]

7つの短編集というふれこみですが登場人物や背景を共有する、実は大きな一つの物語。17日まで雑遊。105分。正直に白状しておくと、開演前にちょっと一杯ひっかけたのが思いの外効いてしまったので前半がやや怪しい夢心地。お恥ずかしい。

女子高生が補習で残されている。東京にいきたいなど将来の夢、初体験をすませた同級生、耳の聞こえないあの子と遊ぶのがいやだったり。「LJK」
通所介護施設。喋っている言葉もわからなかったり徘徊していたりしながらも、恋心を持っていたりする。子供を育て上げた老人たち、でもあなたもこうなるのだ「夢芝居」
バーのグループ客やカップルに酔って絡むOL。仕事はちゃんとやってるけれど、今日も一人なのだ。始発まで酔いつぶれて、おはようと話しかけるのは「へべれけ」
一人の女を指名し続けてスナックに通う男の目的はたったひとつ。アルバイトをしたいという女が訪れるが四十女ではと値踏みされる「一生のお願い」
姉妹が暮らしている。家猫には厳しくあたる姉妹だが、今日は外でずぶぬれの雌猫を拾ってくる「この子ら」
電車のロングシートに座る乗客たち。席に止まっている蛾を愛おしく思う若い男たち。故郷で友人の葬儀に出て戻ってきた同級生たちは席の向こう手話で会話をする母娘の母親が同級生だと気づく「MOTH」
食堂。中国人がいっぱい働いているが、店主を母親のように慕っている。時々孫を連れて通う老人はその知り合いだ。母親はそれを知らなかった「カーウェひなちゃん」

作家の故郷・石川県とラムネをモチーフに母親というものを巡る物語。女子高生たちの将来の夢を冒頭に置いて、それから何十年か経っての彼女たちそれぞれを描きます。母親になりたいと願っていた女は縁遠いまま、耳の聞こえない同級生をイジメてた(そこには父の浮気という背景をきちんと置きつつ)女の娘は同じ境遇、初体験が早かった女も生活は地味なままだったり。そこに彼女たちの娘の世代、老人たちの世代をとりこみつつ、さまざまな母親を描くけれど、芝居の中で現役の母親として登場するのはたった一人というのもちょっと巧い。

「LJK」はLocal JKかとも思うけれど(Last JK、だそうです。ご指摘感謝)、物語全体の出発点。核となる三人を明確に見せてこの後の物語につなげつつ、この部分の中で現代への物語の橋渡しも行う重要な機能を担います。初体験をすませた友達の話の盛り上がり、補習の監視にやってきた教師に対して「初めての体験したんです、穴のことで、痛いんです」とからかうシーンがやけに色っぽく楽しい。

「夢芝居」は夢心地になってしまった老人たち、という意味かどうか。年齢を重ねたって恋心に色めき立ち。しかし育て上げた人々がこうなったのだ、あなただってこうなっていくのだ、というのはコミカルで、しかし優しい。

「へべれけ」は結局のところ、盛り上がっているバーの中でただ一人、絵に描いたような酔っぱらいで居続ける女の一人語り。この手の「男がいない女の一人語り」みたいなのが大好物なアタシですが、そういうモテない節が物語の主眼ではありません。ロボットだったり人工知能だったりという「代替物」ではあるけれど、彼女はきちんと前向きなのです。
リアルタイムではないにせよ、Appleのサービス「Siri」を物語にきちんと組み込んで使った例は初めてではないか、というのはアタシの友人の弁ですが、確かに。ペッパーなるわりと高価なロボットを買おう、という決意を置くのも、グレードアップというかこじらせそうな危うさもあってよくできています。

休憩時間、といいながらバカバカしい話を一本な「一生の〜」は、おっぱい揉ませてとホステスに頼み込み続ける男の造形というワンアイディア。あの手この手でこじつけながらなんとか手に入れようといういじましさが楽しい。母親となった女が値踏みされて女子高生の娘を連れてこいといわれるけれど、ママのいう「おじさんは若い女とお喋りできればそれでいいのよ」という言葉が、実は耳の聞こえない娘を持っているわけで、さらりと語られながら重い台詞。

メインの物語からは唯一少し遠い「この子ら」は、猫の対立、母親のような飼い主、言ってることは通じないし絶対権力者なのだけれど、守ってくれる存在、という母親軸に寄った一本。猫二匹の駆け引きが楽しい。

「MOTH」は「母から人を意味する-erを取った」ということは母性の話かな、と読みました。 美しいと思う気持ち、なんと言われていてもこの娘は絶対に守るという決意というか。一本目の女子高生三人全員が再会する結実点。あのときほど無邪気ではいられなくなっているし、背負ったもの、抱え込んだもの、あるいは抱え込めなかったものも多いそれぞれの道。あのころを知っているからこその残酷な物言い、それに刃向かえない気持ち。

「カーウェ〜」はその酷い言葉を投げつけられた母親が安心できる場所、という雰囲気、なるほどハートウォーミングな(観)劇後感。

当日パンフにはラインナップ、それぞれの役名・役者名のほか、演じる役の数と登場するシーンの数字を付記してるのが楽しい。

そぎたにそぎ助は八面六腑の大活躍、パワフルで楽しい。かつての女子高生を演じた川崎桜、前有佳、珠乃はそこから何十年という年を経る役をどちらも遜色なく。

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【芝居】「soifo」ボクキエダモノ

2015.11.15 14:00 [CoRich]

15日までKASSAI。110分。

田舎の高校。祭りが近づいている。男子高校生たちはエロ話に余念がなかったり力でイキがっているものもいる。女子高生たちは恋が楽しい。
同級生の女子生徒が長い間出席してこない。同級生の男は両親が留守がちな家に拘束している(ことを妄想している)。 ある日、この町に田舎暮らしにあこがれた妙齢の女性が引っ越してくる。男子高校生は祭りの花火に誘うが、その夜、家主におそわれているところを助けたと思われた男子高校生に強姦され、監禁されつづける。

スクールカースト下位の男子高校生たち4人を核に描きます。そういう意味では「桐島」のようでもあるけれど、地元の祭りのモチーフなどがあって、学校の外の人々も含めた物語になっています。

何もない田舎なのに、そうだからなのか、噂話と下世話なことと暴力的なセックスと。この土地をあこがれてくる人、実直な積み重ねからここを脱して世界に出て行く人もいるけれど、基本的にはこの土地で生まれこの土地で暮らし、死んでいく人々のコミュニティ。 新幹線が通ってるぐらいだけれど、やけに人々が近くてあっという間に噂はひろがってるぐらいと、町の大きさというか雰囲気があまり一定していないのは残念だけれど、まあいわゆる経済用語でいうヤンキーな人々が多いのだ、というぐらいの感覚でしょうか。

とはいえ、意図的なのか無意識なのか、地方都市に対する作家のバイアスがすぎるという気がしないでもありません。が、女性の作家があえて、監禁や暴力を受ける女性を極端に、しかも執拗に描くのは、「見られ消費される」という立場であったり、「孤立し陵辱される」絶望的な立場として女性を描く問題意識意識の表出かとも思うのです。

それまではむしろイジメられる側だったのに セックスをしたということだけでヒーローが変身するがごとく万能感を得てしまう男。しかもそれは女性を陵辱した結果だということの残酷さ。 たったそれだけのことでスクールカーストの下克上をなしてしまうのは漫画のようでもありますが、どこか不思議な説得力。 それを何となく実感としてわかってしまうあたり、アタシだって良くも悪くも男なんだなと思うのですが、それを冷静に描けるのはむしろ女性の作家だからなのかもしれません。二人に対する陵辱のもう片方は、たまたま長期の休みになった、きっと人気者で明るい同級生が自分の家にいたらという妄想なのも対比としておもしろい。

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2015.11.22

【イベント】「汗」(月いちリーディング / 15年11月)劇作家協会

2015.11.14 18:00 [CoRich]

2014年9月に初演された短編のブラッシュアップ企画。初演時にはカットされた部分の復活もあるようです。いつものように60分ほどのリーディングのあとにラウンドテーブルで。戯曲冒頭部がサイトで公開されています。

初演も観ているのですが、 どこかそこはかとない違和感があったのです。このラウンドテーブルに参加したことでなんとなくそれが形になってわかった気がします。43歳の男は高校生の時果たして殴ったのか事故だったのか、それからの数十年何もしていなかったのか、つきあっている若い恋人は何のつもりなのか、あるいはこの男にたかってくる社会人野球の監督にどうしてここまで尽くすのか。コーチを命じられた時に打撃だけしか考えないほど凝り固まってしまったのはなぜなのか。「因果関係が描かれない」ためにそれぞれが唐突だったりどうしてこうなったのかがわからなかったり。

初演で主役を演じた役者は、人のいい中年男というまさにその雰囲気に加えて、笑顔で腰が低いけれど何を考えているかわからない感じがよくあっていて、その因果関係の描かれなさが「そういうもの」と納得してしまうような感じだったりしたのですが、今回のフラットなリーディングでは違和感が増したのかもしれません。

ラウンドテーブルで作家が語ったのは、バッティングという姿は「一人で黙々とできること」という意味の描き方なのだそう。おそらくはあの「事故」で人と一緒に何かをするということを極力避けてきて、それゆえにあの時に時間が止まってしまって成長してこなかったということかな、と思ったり。野球用品をたかる社会人野球の監督は悪役には描かれているけれど、したいことを実現するための努力なのだということはわかるし大人にはなっているのがそれに対比されて描かれているとも思えるのです。

終幕、殴ってけがをさせた男とのキャッチボールは、一人だった長い長い時間が溶け、一歩進めるようになったということを予感させます。謝罪の言葉がないという違和感を抱く指摘もありましたが、わたしは「互いにわざとやったことを自覚している」から、むしろ謝れないという気がしますがどうだろう。

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2015.11.21

【芝居】「我が猥褻、罪なき罪」MCR

2015.11.14 15:00 [CoRich]

15日まで駅前劇場100分。

男は莫大な借金を背負いヤクザに追い込まれている。ある夫婦の連帯保証人の債務を理不尽に背負わされているが、それを腹を立てるでもない。幼い頃にその夫婦の赤ん坊を殺してしまった、という十字架を背負いその夫婦もそれを当然のこととして、身勝手な要求をしつづけている。死んだ赤ん坊の姉は刑務所に入ってばかりだし、妹は殺された姉のことをまったく知らないのに、この男の家を頻繁に訪れて、立派に生きているかということを確かめ続けている。
かといって男も働く気などさらさない。かつてやっていた格闘技を生かして文字通りの死闘をかけた地下格闘技に出ないかと誘われている。

三歳の時点で殺してしまったことは法では裁かれないとしても、殺された側の親には遺恨として残ること。その要求はどこまでも際限なく広げていいものなのか。死んだ娘への偏った愛情を一身に背負うよう育てられた妹のゆがんだ価値観と、その中で生まれてしまった愛情といったものを枠組みにして進む物語。

が、それがいわゆる社会派の語り口かというとちょっと違うのです。幼い頃の殺人は取り返しがつかないけれど責任の持ちようがないこと、それに口答え出来ずに金をむしり取られ、生活も監視されているようだったり、ヤクザが追い込み殺されかけたり攻められたり、金を借りようにも友人も冷たい。全ての方位がぜんぶどん詰まりでどちらの方向にも進めないがんじがらめ。こんな状況でも主人公、少なくとも外見は全てをフラットに受け流して、しかも働く気もみじんもないというクズっぷりで、背景には少々同情できてもなかなか共感できない造形。でも、その諦める間隔には共感してしまうのです。

被害者の妹、通い詰めたあげくにその殺したかも知れない男の子供を宿していることも、羽交い締めにされた全体を更に締め上げるよう。生まれてきた子供を「バツがついたまま育てる」というのは形は違えど、彼女自身がいなくなった姉の幻影にベンチマークされながら育てられたことにもつながる負の連鎖を思わせます。

終盤近く、舞台には現れない被害者の姉が殺したのではないか、つまりこの舞台で語られている罪とか拘泥などすべてがそもそも違うのではないのか、ということが短いながら、一人っ子の男児がおかあさんごっこをするかどうか、と結構な説得力を持って語られたりして、すべてがどこか宙に浮いたような、何もかも無に帰するような感覚に包まれるのです。

子供を宿した女、男にとってはその女でしかないとはいうけれど、他の誰でもなく、誰かにベンチマークされる対象ではなく、フラットに彼女自身のものとして見つめてくれた男の存在、男が姉を殺す前の三歳に戻ってくれたらという感覚の繊細さ。作家の確かな力ですし、 男にとってはがんじがらめの中から、頼りないけれど明確な意志を持って踏み出す一歩

いろんな役の人々、 わめき立てるというよりは、閉塞感の中で全員が少しずつ狂っているようだけれど、少しずつのずれが組み合わさり、美しいほどにかっちりと、しかもはずれないほどに組み合わさっているのです。

ここ数作登場するベレー帽の三人組、今作においてはわりとまっとうなことをいう友人、というような位置づけ。正直にいえば三人で出続ける理由はあまりない気もしますが、正論をいわせるがために、存在はおかしなものでないとバランスがとれない、みたいな感覚で位置づけられているのおかもしれません。

借金を背負っていた男を演じる諌山幸治は、クズ男を実にフラットに。攻め続けていた女を演じた金沢涼恵もまた誠実でフラットに見えているのに見えない姉にとらわれ狂う人物をしっかりと。 ヤクザを演じた澤唯はインテリ温情派みたいな存在感がいい。 その手下、元同級生のヤクザを演じた堀靖明は、知ってるが故のいらだち感が現れるようで説得力。母親を演じた伊達香苗はまじめにまっすぐ狂ってしまったという存在感。どちらかというと軽薄を前面にした本井博之ともいい対照感があるのです。

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2015.11.17

【芝居】「ヒミツの花園」BOCA BoccA

2015.11.8 19:00 [CoRich]

9日までOFF OFFシアター。100分。

久々にあった幼なじみ三人。ヤクザに追われている一人をかくまおうとチラシで見つけた破格で住み込みの仕事を見つける。自分を白雪姫だと信じている女と見守る親戚の男の生活の世話が彼らの仕事だった。ある日、女の姉だと名乗る女と元カレが現れる。

本人にとっては重大でも、ごく小さなきっかけで白雪姫というファンタジーに逃げ込んだ女。序盤に白雪姫を簡単に描き、それに続いて巻き込まれた人々が描く形で、少々イタい感じに白雪姫で居続ける女を描く前半。毒リンゴを持った継母ならぬ姉と、隣国の王子ならぬ元恋人という一人の優男をめぐり、姉の妊娠を誤解して身を引く形で白雪姫に閉じこもったという、この奇っ怪なファンタジーの枠組みを種明かしのようにかたる中盤。

いくら金持ちでなんとかなるといっても白雪姫に閉じこもり続けるというのはいくらなんでも、というのは言わないのが吉。順風満帆にみえたのが毒リンゴで大きく躓き、しかし「待ち(眠り)続けるだけで」王子が現れて一発逆転のハッピーエンド、という白雪姫の物語に自分を当てはめたことが、この騒ぎのアングルなのだと描きます。そのきっかけとなったのが姉の妊娠と思われたものは閉経だったのだというのは実は物語の本筋ではないのに少々深刻なアイテムだけれど、このややこしい三角関係も、閉じこもった白雪姫の物語もあっさり終わらせるという機能は確かに。意識されているかどうか「女が終わる」ということが物語に深みを与えるようでもあります。

これで一つの物語のような形にはなっているのだけれど、そこで物語は終わりません。現在の女性が描く物語、としての真骨頂はここからで、物わかり良く幕引きしようとする「白雪姫」に対して、地味に暮らしている主婦が一気にキレてまくしたてるところが痛快で、作家の視点を感じるところ。そんなことを続けている貴方は被害者じゃなくて加害者なのだ、自分を傷つけないために他人を傷つけてるし、ここで待ち続けて居ればワタシの幸せはやってくる、というのはまさに「白雪姫」であり、そんなのくそ食らえ、というところが実に見応えがあるのです。

ここで最低の男を引き受けてあっさり物語から退場する王子というのも実は巧くて、全てが終わってしまって意気消沈する姉妹と男たち。さきほどキレた主婦に再び渇を入れさせてもう一山つくります。何かを失ったとしても全部なかったことにする自暴自棄をやめなさい、あるいは女が終わったなんて言わせない、自分を可哀想ぶってないで自分のために戦え、代わりの効かないワタシに出会う誰かがそこにいるはずだ、という強いメッセージ。それは白雪姫が単に待ち続けているのとは真逆のありかただけれど、そうあろう、と力強く後押しするのは、ダサいほどにストレート、やっと喧嘩できた姉妹がこの閉塞をもしかしたら乗り越えられるのかもしれないのです。それを「ハイホー♪」と歌い上げるというのがもう、なんというかすごい。

終幕ではもうひとつ。小さな恋心の存在を静かに提示して、近くにあった小さな幸せに気付く、というのは 優しく、しかしもしかしたらある種の諦めというか折り合いのつけようなのだ、という塩梅がほろ苦く、大人の雰囲気。

白雪姫を演じた田辺麻美は、少し勝ち気でしかしファンタジーで、というバランスによくあった配役。変わらないのが嬉しい( 1, 2)。 面倒を見てきた男を演じたちうりは、終幕のダンスシーンはオジサンにとってのファンタジーで実にかっこいい。王子を演じた安東桂吾は中盤かき回すだけかき回して、最低男を一手に引き受けて颯爽と去って行くという役割も、それをやっちゃいそうだという優男風の説得力もいい。キレる主婦を演じた竹原千恵(検索)様々な役を観てきた中でも実に見応え。

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2015.11.16

【芝居】「君がいた星」アンティークス

2015.11.8 15:00 [CoRich]

逃げている男は言葉をしゃべれない少女に出会い、犯罪者の厚生施設に身を寄せ日々を暮らす。犯罪を犯した過去のある自分と一緒にいてはいけないと少女を置いて去ろうとするが、いつのまにか施設に戻っている。そのうえ、施設の人々は会ったことがない、という。 再び暮らし始めるが、刑事に発見され、射殺されてしまう。 が、いつのまにか浜辺で倒れているところをみつかり、大人になっていた施設の少女と結婚し妊娠を告げられると、自分には父を殺した過去があると告白する。施設には男そっくりの別の男が、粗暴な男を連れて現れる。彼らにはたくらみがあある。

男と少女の物語としてスタートした話だけれど、言葉をしゃべらない少女が不思議な力を持ち合わせていて、その男が窮地に立たされると時空が戻り別の選択肢を進んでいく、というのが物語の骨格。単に時間が戻ったり、男を投げ飛ばしたりという語られ方はするけれど、戻ったあとが並行世界というか別の結果になっている、というあたりはSFの常套ですが、その違いを感じて生きているのかどうかも怪しく、そもそも肝心の少女がしゃべれないと言う設定にしてしまっているために何が起きているかがわかりにくい感じが勿体ない。加えて心優しいけれど犯罪者であった男に凶悪な双子の弟が居るというのももともとそういう話だったのか、あるいはこの時空跳躍によって変わった結果なのかもわかりにくく。観客からみると後付けでいろいろな事実が都合よく加えられる感じがあって、観客が頼みにする物語の足場がない不安感がどうしても抜けないのです。

刑事たちのいくつかのコミカルなシーン。物語に緩急をつけようとしたのかどうか、本筋にはほぼ関係のないコメディとしてのシーンをいくつも盛り込むのも芝居に対してはやや邪魔に感じるところもあるのも正直なところ。もっとも、それぞれのシーンは圧力が高くていい印象的だったりもするので単に切って捨てるというのも惜しいか。

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2015.11.13

【芝居】「銀河鉄道の蔵ノート」青年団 (平田オリザ・演劇展vol.5)

2015.11.8 11:30 [CoRich]

「東京ノート」( 1, 2, 3, 東京デスロック版)、 「忠臣蔵」( 1, 2, 3, 文学座版, なべげん版, )、 「銀河鉄道の夜」( 「幕が上がる」)、平田オリザの三つの短編を俳優・島田曜蔵がパロディ的な再構成。45分。演劇展の劇場支援会員のみに向けた特別上演。

美術館に侍たちが刀などを持ってきた。饗応役のお役目の前に金が必要になったために城からもってきたのだ。そのとき殿様が狼藉を働き切腹となったことが知らされる。ネットにあがった動画によればカンパネルラとあだ名で呼ばれていた殿様は日頃からいじめられていた吉良上野介のことが我慢ならず、「きらきら星」の歌に逆上して刀を抜いたのだという。
奥方の悩みを聴いていた大石内蔵助だが、奥方が家を離れるにあたってソファーをもらってほしいという頼みを受ける。

見慣れた芝居三本、印象的な幾つかのシーンをつなぎ合わせつつ、全体としてな何の意味もない話に。元の話を知らなければまったく意味がありませんから、支援会員だけに向けてという上演は正しいありかた。「東京ノート」からは、美術館に美術品を持ってくる人々のシーンと、姉と義妹の二人の距離感の切ないシーン、「忠臣蔵」からは討ち入るのかいらないのか、の話を中心に。「銀河鉄道の夜」の上演を観たことはないのだけれど、ももクロ「幕が上がる」で使われたあれだ、という印象。正直にいえば、銀鉄は「きらきら星」以外にはほとんど物語に寄与しないのが持ったないといえば勿体ない。

パロディなのに、あの「お義姉さん」を演じている松田弘子は圧倒的な安定。ダンスもちゃんと。灯台守を演じた鈴木智香子のオヤジ感が楽しくて余興のよう。

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2015.11.11

【芝居】「もっと美人だった」箱庭円舞曲

2015.11.7 19:00 [CoRich]

15周年の記念公演。9日までスズナリ。130分。

収支報告の虚偽記載容疑で世間からバッシングを浴びることとなった町議は姿を消し、ヘイトがエスカレートして妻は別の場所で暮らし始める。大学のゼミでは助教が好意を持つ女の学生は先輩に好意を持っていて、でも宙ぶらりんの状態で。家の二階の一室で生徒を募って始めていたキレイになる教室は、そう繁盛するでもなく。

舞台下方に町議の妻の暮らす居間、舞台左上に大学のゼミを行っている準備室、舞台右上に教室を開いている和室という三つに区切った装置。

手前の居間のシーンは現在。 姿を消した町議の残された妻、連絡はあるけれど居場所は知れず、国会議員やら元秘書やら後援会長やらがいろんな意味で心配して訪れたりするけれど、身の危険さえ及ばなければ、自分を信じてぶれない女。それまでの背景も含めていろんな人々につながっているけれど、長いあいだつきあっていれば、誰が正しくて、あるいは誰が自分の味方でということだって変わるのだという、ある種の心理は振り返ってからこそ見えた風景。それはもしかしたら15周年を迎えた作家自身の正直なきもちかもしれません。

左上はもっとも昔。 大学生は恋に揺れ、好きな人に好きといってもらえず、しかしどこかゆるい感じで口説かれもしたり、他の人の好意や評価に気づかない若さ。自分がコンプレックスで、美しくなりたいという気持ち。若い故に悩み、自分の力で考えるある種の地頭のよさをきちんと描いているということがあとからじわじわと効いてくるのです。

右上はその間の時間。 和室は何かのお稽古。ワークショップのようでもあり自己啓発っぽくもある雰囲気は、まあ確かに怪しくて、しかし「きれいになる」ということを考え抜いた結果の彼女なりの理論というか考えを体現している場所、という描き方。効果に疑問を抱きつつも半年も通い続けている「素直な人」と外面はいいけれど取材を隠して通っている「斜に構えた人」のシーンが圧巻。「あなた」と言い合いながら、何か相手をほめる、それをオウム返しするということを繰り返すのだけれど、そこに悪意であったり小馬鹿にする感覚だったりを混ぜると簡単にそれが崩壊していくというシーンが圧巻。単に「ブス」と言い合うだけになっていくあたりはもうばかばかしくなるような感じではあるのだけれど。

三つの場面、最初の電話で時間軸を観客に誤解させるようなミスリードを意図的に置き、しばらくは平行して進んでいるように見せるけれど、同じ頃に台詞に現れる二つの飛行機事故の片方が群馬であり、もう片方がアメリカ、というあたりでそのあいだにずいぶんな時間が経っているということが見えてくるのです。三つのシーンはそれぞれだいたい15年離れていて、それはやがて一人の女性の人生の三点を描いているのだということが見えてくるのです。

一人の女性の30年の三つの断面を見せるという厚みが楽しい。現在を演じたザンヨウコはしっかりとしていて、しかし年齢を重ねたからこその余裕というかゆったりが心地よくて確かな力。大学生の頃を演じた白勢未生は美人じゃないというコンプレックスに説得力が無いのは美人ゆえのご愛敬だけれど、しっかりと考えて喋る圧力がいい。稽古をしている女を演じた牛水里美は突然始まる喧嘩に困る感じ、静かにたたずむフィギアのような美しさ、あるいはレイプされかける切迫感などダイナミックレンジが広くて相当に消耗しそうなシーンばかりなのだけれどそのどれにも説得力があるのです。

そのレイプしかけた男を演じた安藤理樹、チャラい感じに見える演技もあるんだなぁと改めて。 教室に通う女を演じた辻沢綾香は実直で真っ直ぐなのが可愛らしい。もう一人の生徒を演じた川口雅子、途中からのヒールをきっちり背負う感じも現代に現れてのヒーローな感じもカッコイイ。

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【芝居】「男子禁制★殺人事件」演劇裁縫室 ミシン (第20回まつもと演劇祭)

2015.11.1 14:00 [CoRich]

ナンセンスコメディを得意とするミシンの新作。ミステリー風味も交えて盛り上がる60分。ピカデリーホール。

良家の子女たちの集う女学園。学園を支配しているのは財閥の娘。三つの神器を受け継ぎ、時計塔に入ることができたとき正式な後継者となることが決まっている。親戚として引き取られてきた少女は妾の娘として皆からさげすまれていたが、濡れ衣を着せられ懺悔室に閉じ込められていた夜、首のない死体として発見される。
ある日やってきた転校生は死んだ筈の彼女にそっくりだった。 死んだはずの同級生にそっくりの女子学生が転校してきて動揺する生徒たち。

謎に満ちた時計台をもつ女学園を巡るミステリーに山のようにギャグを詰め込んで。 「街からは遠すぎて見えず、その学校の生徒たちからは近すぎて見えない時計台」とか 「莫大な遺産を持つ先代当主・ヤヨイ(一瞬映るスライドは赤い水玉があしらわれていて、松本といえば)」とか、 あるいは大仕掛けのある「首切り時計」 など、どこかナイロン100℃な風味を感じさせる道具立て。 どうやって殺されたのか、鳴ったはずの鐘の音はなぜ聞こえなかったのか、あるいは禁断の恋心とそれに纏わる嫉妬心。あるいは良心ゆえに起きた悲劇という細かなディテールもきっちりと。女装劇というジャンルがあるのかはともかく、まあ足が細かったりむちむちだったりと確かに面白くて。

高い密度でつくられた物語と、ある程度知られるようになってきて期待する客席の温度が織りなすグルーブ感はこの演劇祭の中ではホーム劇団の中でも随一で、こういう盛り上がり方、この数年をかけて徐々に上がって来た階段ゆえのポテンシャルという楽しさというのもまたナマモノの演劇の楽しみのひとつ。

正直にいえば、短い時間の中で詰め込みすぎた感は少々あったり、ワタシが観た回に関して言えば致命的にはならなかったものの、装置がうまくいかなかったということがあったりというのも惜しい。 あるいは役者のスキルなのか、あるいは演出の方針なのかわからないけれど、濃密な物語の力を背負う役者がもう少し居ればきりっと締まるのになと感じたりもするのです。この界隈で動員も伸びて注目を集める劇団だからのこその正念場、なんて観客は気楽に言うわけですが。

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2015.11.09

【芝居】「美しき骨抜きの夜」ハイカラ (第20回まつもと演劇祭)

2015.11.1 12:00 [CoRich]

鳥ロックフェスティバルでも出演していたユニット。4人によるユニットだけれど、2人で構成された物語。40分。上土ふれあいホール。

鳥取で上演された公演での「小鳥のぴーちゃん」の曲でスタートしながら、自分たちが何者かを名乗りつつのスタート。ユニットを四姉妹になぞり本編の物語に引き込みます。姉と妹、それぞれに抱いた久しぶりの恋心。彼のことを想い溢れる気持ちの序盤。恋心を人に話したい姉と秘めていたい妹という対比であったり、会社の上司にも後輩にもそれぞれにモテているけれどあっさりあしらう妹の姿、後半の早い段階で二人が同じ男性を好きになっていることはわかるのだけれど、その部分の驚きが物語の中心ではありません。

それを核にしながら、それぞれの気持ちのきらきらであったり荒そう気持ちだったりという内面をやや過剰にマンガのように見せたあとで、同じ会話をフラットな日常な会話のテンションに落ち着かせる着地点。同じ男を好きになってしまった姉妹だけれど、姉に先にいわれてしまったために妹が言い出せないというごく短く、シンプルな会話をさまざまに見せるのが実に巧い。 単に繰り返すわけでもなく、それぞれのパーソナリティや背景を織り込みながらきちんと、しかも爆笑もとりながらなのです。

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【芝居】「Shadow -影-」山脈 (第20回まつもと演劇祭)

2015.11.1 [CoRich]

同じ市内のキャンパスで開かれている学園祭での公演と平行して別の作品を上演するというバイタリティがすごい60分。上土ふれあいホール。

一人の男が子供に語って聞かせる昔話。 海に囲まれたその国で暮らしている男はかつての海賊との戦いで甚大な損失を出し職を追われ失意の日々を過ごしていた。王国に新たな海からの脅威を受けるが軍の整備は追いつかない。かつてとらえた海賊を味方にすることを提案し王族の反対を受けながらも方針は貫かれる。が、その男をねらっているものがいた。

中世の雰囲気を纏う冒険の物語。そこに詰め込まれた物語は冒険活劇であり、知恵ものの勝利の話であり、恋心や忠誠、先代の王の血を引く正義の王女、快く思わない叔父のたくらみなど、まさに冒険の物語をめいっぱい。物語に隙間をあけることを怖がるかのように濃密に詰め込まれていて、物語の後半に入っても次々と現れる新しいエピソードに彼らの若さを感じるのです。が、まあおじさんのアタシにはややおなかいっぱいな感じも残りますが、破綻なくきっちり作り上げるのはちょっと凄い。

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2015.11.08

【芝居】「オシマイ」ごったに (第20回まつもと演劇祭)

2015.10.31 19:00 [CoRich]

松本の演劇シーンの一端を支える、「ぴかぴか芝居塾」の卒業生たちがさらに続けてきた俳優コース、現在の講師陣による一区切りとなる講演。60分。深志神社。

演じながら台詞で役を奪い合うという演劇による対抗戦。「欲望という名の電車」を題材に競っている。伝説の役者・プロフェッサーの登場により劣勢を強いられるチーム。

子供も出演している割に、かなり性的であったり暴力的であったりというシーンも多かったりしてやや心配にはなりますが、親も参加しているようなのでまあ大丈夫なようです。

アングラというよりはもう少しスタイリッシュな雰囲気を纏う役者や衣装、舞台。能のような語りであったり低い重心での身体が多用され、時にダンスのような雰囲気でもあったりして。そういう意味ではク・ナウカや山の手事情舎のような雰囲気も持っていて、 役者を強く鍛錬することを指向するとこういう雰囲気になるのだなぁと想ったりもします。粗暴な暴力に見えるシーンを多く入れながらも、毎ステージこれを繰り返し、時にスピード感、時にゆっくりな重厚さを持ち合わせた役者たちは程度の差はもちろんあるにせよ確かに訓練されたものだということははっきりとわかるし、それは俳優コースの確かな成果だといっていいと思うのです。

「欲望という名の電車」(wikipedia)という芝居そのものもかなり難度の高い芝居ですが、その外側にもう一つ、「芝居で競技している」という殻をかぶせて構成した物語はさらに難しくしている感もあります。役を取り合っている感じはわかるのだけれど、何をもって役を奪えたのかというルールの部分がわかりづらい(役者の経験があれば違うのかもしれないけれど)のが少々厳しい。さらに、どうして彼らはそんなに疲弊し傷ついているのか、あるいはどうしてそこまでして彼らは演じることをやめられないのかという説得力が欲しい。そういう意味で「田中」を巡る役者たちの連鎖はストーカーまがいの色目だったり芝居に対する熱量だったり、父娘でぐるりとつながる連鎖であったりと、外側の物語として語られるあたりがアタシにはおもしろくて、でもそこが内側の物語とは別のものとなってしまっているのが惜しいのです。

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2015.11.07

【芝居「君ガ咲ク街」空想≠カニバル×劇空間夢幻工房 (第20回まつもと演劇祭)

2015.10.31 16:30 [CoRich]

長野市の演劇団体二つによるクロスオーバーユニット。60分。

謎の外国人に渡された薬によって瀕死の重傷から奇跡的に命をとりとめたヤクザはさらに超能力を手に入れる。敵対する勢力が抗争をしかけてきていて、その中にも能力者が居る。壊滅状態の組を背負い一人戦いを挑むヤクザはずっと知らなかった兄弟も親もまた能力を持っていることを知る。恋人は敵に捕らえられ、そして命を落とすが。

ヤクザの抗争という枠組みに超能力というSFを組み合わせた物語。若者がSFを読まなくなったとはいわれても、ちゃんと息づくちから。今回のラインナップ、アングラだったり、繊細でコンパクトなスケッチのような上演が多い中では、声を張る発声や明確にデフォルメされたキャラ設定など、笑いも多くてわかりやすくエンタメを指向した作りで見やすく、気楽に楽しめる一本なのです。

松本という場所で旅してきてまで観たいか、という点では確かに難しいところではあるのだけれど、劇場に通う習慣がない観客に対してのリーチ、という意味では見やすくお手頃なエンタメというのは確かに重要で、なるほど観客だって大盛り上がりに楽しんでいて。

あっという間に殺されたと思ったら剥製にされる、というやくざを演じた富井沙里が楽しい。もちろん表情も、どこか情けない風情という瞬間も。恋人・六花を演じた金田渚は可愛らしく、男との身長の落差も楽しい。幕切れ、花屋のシーンも実にいいのです。

ネタバレ

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【芝居】「WATAC I」Hula-Hooper (第20回まつもと演劇祭)

2015.10.31 14:30 [CoRich]

2014年初演 (1) 、菊川朝子の高校時代の交換日記を下敷きにした「踊れないひとたちの、台詞のあるコンテンポラリーダンス」というふれこみの四演め。

アタシが住んでる時にはあんまり遊びに来てくれなかったというのに、今作が上演されるとなると友人たち、とりわけオジさんたちがこぞって。一躍注目度があがったのは、まあ当たり前か(泣)。

元々は90分近い上演時間のもので、高校生の時のこと、とりわけ部活・吹奏楽や恋した相手の男の子のことを二つの核にして、何か作り出したいということだったり、あるいは女として生きていきたいという自分語りが強く押し出された一本を60分にぎゅっと。

本人のキャラクタが強く押し出された一本ゆえに、彼女のことを知らない観客にはどう受け取られるのかという不安はあって、 東京・鳥取では菊川朝子を知っている観客がそもそも多かったはずだけれど、本人は何度も訪れていたとしても、松本という土地では観客という意味では完全にアウェイなわけで、耳にする評判がわりとよかったりするのは、単なるファンであるアタシにとっても鼻が高くてうれしいのです。

おしゃれでコミカルで可愛らしくてスタイリッシュにまとめられた一本は1年で4回ものさまざまな場所での上演を経てより強度を増していると感じられ、芸術館小ホールという場所に合わせて階段もテラス部分も使った演出という挑戦もうれしい。 反面、60分という時間に押し込んだためか、個々のエピソードの繋がりがやや薄められて、不安定にいろんなことを感じちゃう人、みたいに感じるのは気のせいか。 もうひとつ、妊娠8ヶ月という時期ゆえに「今だけの WATAC I」というふれこみ。もちろんおなかの大きな身体をある意味「晒して」いることはそのとおり。 いっぽうで今までの彼女の延長線であり妊娠したら即母親とか妊婦といった別のものになるのではない、ということが明確に感じられるのはその元気良さがうれしい反面、「今だけの」に勝手な期待をしたあたしには肩すかしな感も。よく考えれば、母親であったりという実感はこれからなわけで、そういう意味では「地に足が着いた」感覚で作り出す舞台であり続けるという信頼はさらに増したともいえるのです。

この土地で初めて目にした佐藤友(1)を再び同じ劇場で目撃できることは格段のうれしさ。中盤で白いドレスで現れる兵藤公美は本当にはっとするほど美しく目を見張るのは初演から変わらず。西田麻耶は妙に色っぽいというのも初演からの印象だけれど、とりわけ前半で目が離せない。初回上演時点では望月志津子の台詞の声量が実にぎりぎりなところを狙っていたのか、絶妙なところ。ダンスという意味で強さを見せる菊池ゆみこは広い舞台で栄えるし、ポージングしたまま停止しているたたずまいの「つくりもの感」がすごい。

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2015.11.06

【芝居】「すずむし」レトロチック演劇倶楽部バンビちゃん`s (第20回まつもと演劇祭)

2015.10.31 12:00 [CoRich]

アングラ舞踏の雰囲気をたっぷりと纏う劇団。長野市ですがビジター枠の扱いです。60分。

当日パンフによれば能、卒塔婆小町、輪廻のあれこれ、江戸川乱歩「芋虫」の改訂作で構成。 前半は能に近い静かな動きにな節回し、動きをみせ、雰囲気に身をゆだね。正直、私はもとの物語がわからず、少々苦手な感じではあるのだけれど、張り詰めた緊張感がきっちり持続し維持される客席も含めた空間をきっちりと制圧しています。これに比べると 後半はずっとわかりやすく。双子の男女は前世で心中したものだということを言う輪廻を巡る物語、ごく小さい話なのだけれど遊び回る子供の姿にちょっとほっこりもしつつ。 「芋虫」の改訂作は、戦闘で手足を失ったが軍神と呼ばれた男の妻はほかでも数多くの浮気をしているけれど、目の前にいる「男」はやはり男であって、ねぶるように抱く女の情念のおどろおどろしさが凄い。 茶箱に座る三人の婆、という一本はもっとも笑いが多く見やすくて私が好きな一本。ぼけまくり、まさに女三人、姦しい姿はコミカルで印象的。

僧侶を演じたキムGはもう別格に安定して重厚さがほんとうにすごい。この前に松本を訪れた時の白塗り体験ワークショップを楽しませていただいた講師としてもお世話になったのだけれど、表情が実によくて。(ちなみにリンク先にはワタシの後ろ姿が(笑)

正直得意なジャンルではないけれど、びっくりするほど集中して観られたのは不思議。でも感想としてはまとまらないのです。ラインナップを取りそろえた演劇祭の中の一本、60分でということならば、これもまた楽しくみられるのが演劇祭の多彩さということなのだろうと思うのです。

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【芝居】「蛍の棲む水」幻想劇場◎経帷子 (第20回まつもと演劇祭)

2015.10.31 10:00 [CoRich]

アングラ路線をずっと行ってきた劇団ですが、少しばかり珍しく現実にリンクをした物語。60分。1日まで信濃ギャラリー。

暇な探偵と助手は、生まれ育ちの記憶のない酒場の女の過去を探す。身につけていた金属片がただ一つのてがかり。

失った子供を捜している老夫婦、あるいは少女の記憶をとどめる、燃やされた人形。

記憶を失ったまま暮らしている女と子供を失った老夫婦という大枠で早々にこの二者の関係は予想がつきますし、 いわゆる北朝鮮拉致家族の問題当てはめた上で、その記憶を失った女にもまた子供が居て離ればなれであることを描くのは、わかりやすすぎるという向きもありましょうが、その見やすさゆえにワタシは結構好きなのです。

封じられていた記憶が廃墟の銭湯のロッカーから解き放たれ、あるいは女が抱えてていた水からも封じ込められていた記憶が蘇り現実になる。そこに理由とか理屈はなくて唐突なのだけれど、それがどうでもいいぐらいにファンタジーを創り出すのです。ホントは違うのかもしれないけれど、アングラという体裁からまさに「幻想」が立ち上り姿を現すのです。

たとえば廃墟となった銭湯であるとか、あるいはマッチ工場の火事、子供が持っていた人形が燃やされてそれが想いにつながっているという道具立てそれぞれがいわゆる「アングラ」の雰囲気をシンプルに見せています。いっぽうで、LEDライト特有の鋭い光を利用した手持ちの照明の効果や、二カ所の扉を使ってスピーディに出捌けするというのは今っぽいリズムでもあり、見やすさに貢献しています。

終幕、女の抱えていた水から現れる少女。まさに「蛍が棲む」かのように想いも記憶もその中に封じ込められていたものが、するりと姿を現すシーンは美しく印象的で、演劇らしいちょっとした仕掛けによる驚きもあって楽しいのです。

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【芝居】「授業」双身機関 (第20回まつもと演劇祭)

2015.10.30 21:00 [CoRich]

愛知の劇団による、イヨネスコの不条理劇を二人芝居で。 11月1日までピカデリーホール。45分。 この演目、ワタシは風琴工房 (1) による上演を観ていますが、この時は女優の肢体に目を奪われまくって記憶が曖昧というていたらくです。

若い女性が個人教授を受けに初老の教授を訪ねてくる。下手に出ていた教授だが、やがて女性が算数の引き算を理解していないことがわかり、教授は興奮していく

本来は教授・女学生・女中の三人の登場人物だけれど、女学生を抜いて上演する、という趣向。 最初の15分はほぼ一人の観客を相手にしながら、あくまで下手に、しかし濃密にねちっこく教えていくという序盤。 一度の暗転を経て女学生役の観客を離れ、ボレロが流れる中、女学生抜きで、 教師は台詞を発しない(というよりは発している台詞が観客には聞こえない)という流れで進みます。 勝手に激高し、大仰に体を動かしている「教師」の姿はやがて、「自分にはまったくわからないことを大声でわめきたてて激昂していく男」、しかし教えようとしていることはこれっぽちも生徒である自分には届かず、目の前のことなのに絵空事のような他人事になっていること。それは滑稽にも映るのです。以前の上演では客観的に見えていた教師と学生の関係が、自分に向けられているという視点の転換が新鮮なのです。

正直にいえば、暗転のあと、無言劇っぽい作り方になった時点で見えたように思えた着地点からはそう遠くはない終幕で、こういうトリックな作り方をするがゆえに高まった期待値に対して、観ている最中はやや肩すかしをくらった、と思ったのだけれど、後からこうして感想にしてみるとじわじわくる緻密さに舌を巻くのです。

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2015.11.05

【芝居】「セロ弾きのゴーシュ」お茶祭り企画 (第20回まつもと演劇祭)

2015.10.30 19:00 [CoRich]

神奈川からのビジター枠ですが元々は大阪で最近の上演も東京中心のようです。初見の劇団。 語りがひとり、演奏がひとりの構成で、「セロ弾きのゴーシュ」 (青空文庫) のテキストと演奏で上演。詩のボクシング・2006年大阪大会、2008年神奈川大会優勝の経歴を持つ川島むーによる一人芝居。

ごく狭い空間、たとえば飲食店でも成立させられそうなポータブルなライブパフォーマンス。 本編の前に一つ宮沢賢治の短編と解説、自己紹介などを入れ、そのあとに「セロ弾き〜」を上演。語りは原文をそのままで、口調やイントネーション、節回しを自在に変化させてまさに「語る」物語。音楽を重ねたり挟んだりすることで、よく見知った物語だけれど、気楽に楽しめる一本になっています。

正直に白状すれば、車を運転して松本入りした疲労感と、開演までの時間までに盛り上がりすぎた挙げ句ちょいと一杯ひっかけて望んだ一本目。まさに着地点の目測を誤っていて、心地よい音楽で不意に襲われた眠気は芝居のせいではなく。反省しています。

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2015.11.01

第20回まつもと演劇祭 感想 インデックス

2015年開催の第20回まつもと演劇祭関係のレビューのインデックスです。
2015.10.30 19:00 セロ弾きのゴーシュ お茶祭り企画
2015.10.30 21:00 授業 双身機関
2015.10.31 10:00 蛍の棲む水 幻想劇場◎経帷子
2015.10.31 12:00 すずむし レトロチック演劇倶楽部バンビちゃん`s
2015.10.31 14:30 WATAC I Hula-Hooper
2015.10.31 16:30 君ガ咲ク街 空想≠カニバル×劇空間夢幻工房
2015.10.31 19:00 オシマイ ごったに
2015.11.1 10:00/td> Shadow -影- 山脈
2015.11.1 12:00 美しき骨抜きの夜 ハイカラ
2015.11.1 14:00 男子禁制★殺人事件 演劇裁縫室 ミシン

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