【芝居】「わが星」ままごと
2015.5.16 19:30 [CoRIch]
2009年初演作にして岸田國士戯曲賞作を4年ぶりに再々演。 ( 1, 2 ) 6月14日まで三鷹市芸術文化センター 星のホール。90分ほど。動画や戯曲の冒頭などが収められたサイトも楽しい。
アタシの友人によれば、宇宙の大きさに関わる記述が削られたりと、丁寧に手を入れているようですが、例によって記憶がザルなあたしには、いままでと変わらず、圧巻の安定感という一本。初演のときのある種のお祭り騒ぎやライブ感も丁寧にそぎ落とされ、そういう意味では磨き上げられ、純度が上がったな、という印象です。アタシが見慣れてしまったのか、あるいはそのノイズがアタシには大切だったのか、ココロ震わせられるようにダー泣きする感じではないけれど、リズムに乗り、ちーちゃんが家族たちと暮らした日々、幼なじみのツキちゃんと遊んだ日々や成長、あるいはみんなが居なくなり独りになった時に光に乗って現れる男の子たち、みんなが愛おしいのです。
劇作家がいくつかいい作品を作りつつも、多くの人々にリーチできて評判がいいという作品はそうは多くはありません。さらに賞を取って、賞がとれたことで人気が上がって、あちこちで上演されて、わりと久々に、しかも改訂され三鷹で上演、でも劣化を感じさせない、というところまで行ける奇跡はそうはありません。しかも役者も三鷹の初演再演とほとんど変わっていないのです。
こうなってしまうと、役者ゆえの仕上がりというところもあって、とりわけ、ちーちゃんを演じた端田新菜は彼女以外にはもう考えられません。いつまでも続けていける芝居だとは思うけれど、いつまで彼女が続けられるか、あるいは世代交代をしていくか、なんてことを考えてしまうほど、ずっとずっと観続けていきたいと想ってしまうのです。未だ若いのにね。
2015.05.22
【芝居】「消失点」JACROW
2015.5.16 14:00 [CoRich]
17日まで雑遊。105分。
母子家庭の母親が子供を家に置き去りにして子供が死んだ。小学校にも入れず、教師や児童相談所の声も届かず頑なに孤立していた。取り調べにあたった刑事は母親が子供を殺してしまったことを強く詰る。自分も妻が家を出て息子と二人暮らしを始めたところで、子供にどう接していいかわからない。
ただでさえ育児は母親にばかり負担を強いていて、ましてや母子家庭となれば経済的にも立ちゆかず、しかも周囲の支援を受けられなかったり、孤立してしまいがち、という実態。それは父子家庭でも起こり得ること。それが子供の死という無惨な結果になったことを物語の核に据えて濃密に描きます。
劇中の台詞にもあるように、(何かを責めようというのではなくて)それを繰り返さないために私たちは知る必要があるのだ、ということで貫かれた姿勢。児童相談所や教師、当の母親たち、それぞれが自分を責める人々に対して優しく、しかし大人の立ち位置を毅然と求める足場を持った物語は強固なのです。 あるいは、夫婦の問題は当事者の問題だけれど、子供のためには意地をはらずに自分が折れるという手段が取れるかどうか。
もちろん、これは物語という箱庭の中の出来事なのです。この世界には基本的には悪人やヒールが居なくて、それなのに子供が死んでしまう、ということ。現実は悪意がゼロ、とは行きませんから、それは現実全てを写しこんでいるとはいえませんが、こういう世界でも起こる悲劇を防ぐための大人の出来ることを悩み、探すのは(子供は居ないけれど)アタシたちがしなきゃいけないこと、だと思うのです。
時に激昂し時に思い悩む刑事を演じた谷仲恵輔は昨今堂々とした役者に育ったように思います。気持ちの不安定をきっちり演じるという確かなちから。ある意味それに対峙する被疑者を演じた松葉祥子を久々に舞台で拝見しましたが、何かを怖がるが故に細い身体を突っ張って吠える高いテンションを持続するという安定。代表作になったのでは、というアタシの友人の言葉に同感なアタシです。暗くなりがちな物語を時に軽く、あるいは緩めるのは署長を演じた吉田テツタと部下を演じた小平伸一郎。シリアスとコミカルのダイナミックレンジを広げています。もう一人頑なだった児童福祉課職員を演じた蒻崎今日子は仕事としてきついけれど、フラットで居続ける力強さを内包した造型。分析医を演じた中村暢明は、役者としては初めて拝見した気がしますが、まあ、怪しく、ちょっと狡い感じではあります。
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2015.05.19
【芝居】「バルタン」studio salt
2015.5.14 19:30 [CoRich]
17日まで神奈川県立青少年センター・多目的ホール。70分。
その部屋では男たちが監禁され、二人の若い女の監視下で小さな立方体を作る作業をしている。
何かの不始末があると、この中から一人を選び、一枚写真を撮ってから部屋を出て「バルタン」に行く。
新しく入った若い男は自信なさげだが、女たちは少しこの男を意識しはじめている。これはチャンスだ。
当日パンフに添付されているインタビュー記事を読むと、元々は劇団員たちの底上げをはかるため、外部の演出家を招いたワークショップが起点のようです。その発表会のために座付き作家が書いた戯曲で上演するという企画。
物語というよりは、人々をめぐるいくつかの関係を提示してみせるような作り。一方的に支配する女子高生たち、支配されるオジサンたちの関係だったり、唐突に始まる鬼ごっこで負けた一人が「バルタン」に行かされるということだったり。 この支配関係じたいも、この部屋の外で起きている何かの力によって強いられている、ということは匂わされますが、その詳細は語られません。彼らがしている作業は小型爆弾の製造、という感じで、それを用いた自爆テロをしているらしいことも匂わせています。
そこで匂わされているのは、 たとえば昨今の少年たちのイジメというよりは集団リンチに近い暴力的な関係だったり、あるいは自爆テロや恐怖による支配という点でISとの相似形というか箱庭のようにぎゅっとこの小さな空間に提示してみせる力。いくつかの関係の点描はされて、それは現実の何かの暗喩だということも感じる反面、正直に云えば物語の推進力という点では少々食い足りなくて、この人々がなぜそうなったのか、その人がどうしてそういう行動に至ったのが見えてこないのは残念なところ。
椎名泉水によるスタジオソルトの芝居は、家族を中心としたどちらかというと暖かな物語の路線と、閉塞し絶望する人々を救いなく描く路線の二つがあります。今作は後者で、そういう意味では初めてアタシがこの劇団をみてその救いの無さに驚いた「キヨシコノヨル」や「7」に近い印象を持ちます。
味のある役者が多いこの劇団ですが、スキル向上を目指して 劇団員のためのワークショップを5ヶ月続けた効果というのは確かにでていて、今作、少なくとも初日においては鷲尾良太郎がほんとうに良かったことに驚きます、自信にあふれ説得力がある人物がそこにはありました。もう一人若い男を演じた渡邉正臣もまた今作では目を引く一人で濃いめの顔立ち、しっかりした肉体だけれど、ワンピースを着てもすんなり似合ってしまう柔軟さに印象に残ります。
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2015.05.17
【芝居】「幕が上がる」パルコ・プロデュース
2015.5.10 18:00 [CoRich]
24日までZeppブルーシアター六本木。 女子校の弱小演劇部を地区大会突破に導いた副顧問が、県大会を前に突然学校を去る。不安を抱えながらも「銀河鉄道の夜」の上演に向けて準備を始める。中核となる役を担う生徒はある日改訂された台詞を発することがどうしてもできない。
小説で描かれた全体像に対して、映画は元女優の教師と生徒たちの出会いから生徒たちの成長までを描く、まさに正統派アイドル映画の体裁で描きました。舞台ではその後、生徒たちを引っ張ってきた教師が去った後の生徒たちを描くけれど、ほぼ学校だけで進む話は小説からは離れ、映画では実はあまり描かれなかった劇中劇「銀河鉄道の夜」を断片的ながら大きな割合で描き、「舞台で芝居を見せる」ことに注力した感があります。
小説にも描かれていなかった新たな要素を加えています。台詞を発せられなくなった生徒は岩手からの転校生で、そのトラウマを抱える、という設定。おそらくは小説の発表後に何かの意図があって組み込まれた題材かとは思います。確かに宮沢賢治といえば岩手ではあるけれど、小説にも映画にもとりたてて描かれなかった要素を唐突にとってつけた感じは否めません。もちろん別物なのだろうし、小説を書いた作家自身による戯曲だからそれをアタシが否定するのもヘンな話ではあるのだけれど、小説を大切な気持ちで読んできたアタシの気持ちのもって行き場はどうしたらいいいいのだろう、とも思うのです。
生で初めてみる「ももクロ」の面々は本当に魅力でオーラをしっかりとまといます。もっとも、全体にフラットに物語を作り、それに忠実に演出をした結果、劇中でもっとも魅力的に映るのは、元気いっぱいに走り回るガルルを演じた高城れにだな、とも思うのです。 演出をつけるシーン自体は何らかのリアルなのだろうけれど、それを見せられても、演出家の頭のある世界そのものはアタシにはわからないわけで、指示の意図がわかりづらく、「演出ということをしている」以上の意味が出てこない感じなのも惜しい。
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【芝居】「もっと超越した所へ。」 月刊 根本宗子
2015.5.10 14:30 [CoRich]
今まさに旬、という雰囲気。17日までスズナリ。90分。ほぼ完売だそうです。
元子役の芸能人の女の家にはオカマが同居している。風俗嬢のもとに日々通う男は最近ではあまり売れていない俳優。生活は楽ではないけれど楽しく同棲の日々を続けるカップル。クラフト作家の女がtwitterで吐いた弱きを目にして支えるといって転がり込んで来た男はバンドのギタリストだが、金にもならないUstream中継ばかりにうつつを抜かしている。2年前の女たちは男のプライドや臆病、甲斐性の無さ、あるいは好意を受け入れて貰えないことに我慢がならず恋人と別れている。あの時と女たちの悩みは変わったけれど、もう我慢の限界を迎えて別れを告げるが、前と同じことを繰り返すばかりじゃないかと女たちは気付き、果たして奇跡は起こる。
田の字状に区切られた4つの部屋。それぞれの部屋に住んで(働いて)いる女たちと、その部屋に転がり込んだり通ったりしている恋人たち。芸能人ぶってるが自慢のはけ口がない男を受け止めたり、非の打ち所がないぐらいにいい男で好意に気付いてるのに恋愛関係にだけは進めないとか、稼ぐ気のないバンドマンが紐同然だったり、ラブラブだけれど出産や結婚だけは頑ななまでに進めないとか。いろんな意味でのダメんず。女はあの手この手でもう一歩先に進め幸せになりたいと思いながらも、男は変わる気も無いし変わらない。途中で一度、時間が過去に戻って描かれるのはそれぞれの2年前。女たちはその閉塞感と我慢の限界から男と一度別れているけれど、ダメんずたちはまるで回遊魚のように、そのダメのまま、何も変わらず組み合わせが変わっただけなのです。ダメんずと別れても、また別のダメんずを呼び寄せ、出会ってしまうのはまるでイケスのよう。
ネタバレかも
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2015.05.14
【芝居】「いないかもしれない」(動ver)うさぎストライプ
2015.5.9 19:00 [CoRich]
再演とのことですが、私は初見です。動ver.のみ。85分。
渋谷にほど近い場所のバー。小学校の同窓会が終わり、一人が持っているここにくることになる。いじめられていた女は絵が好きで、今は通っていた小学校で図工の教師になっている。印象があまりに変わっていることに驚く女はいじめていた自覚がない。同窓会に行けなかった同級生はバーでバイトをしている。絵が好きだった女のことが気になっていた。バーのオーナーがもう一人女性を誘ったという。彼女はみんなのことを詳しく知っているが、彼女のことを誰も覚えていない。常連客がやってくる。
バーに集う人々だけれど、唐突にカラオケが始まったりいくつかの断片でリフレインされたり。物語を紡ぐというよりはいじめられっ子だったという作家の印象や気持ちをクローズアップしたり何度も思い返したりという気分を全面に出したような描き方の演出だと感じます。正直、演出のための演出みたいな感じは受けるし、そういう感じのものは好きじゃないアタシなのだけれど、本作は意外なほどすんなり受け入れられて違和感がないのが不思議だなと思ったりもします。
いじめられていた側はその時のことをはっきり自覚しているし、意識的に努力してそれを克服してきていて、内心は何かを抱えているにせよ、当時の人々にフラットに対面できる感じ。一方でいじめていた側から見えている風景は、いじめがあったことは認識しているけれど、自分がいじめていていたわけではないと言い切るのは、ほんとうにそう思っているのか、あるいはあの時の自分を否定したいのか。
細かく語られるエピソードの一つ一つが、なんかとても切ないのです。 絵が好きだった自分、そんな彼女のことを気にかけていた男、でもいじめられていた彼女を守ることができないどころか、ひどいことをしてしまう男、その男が書いた小説を教室で一人くりかえし読んでいたその女。自分に向けられた、おそらくは好意的な感情を繰り返し噛みしめるような想い。
あるいは、卒業式前に女子たちが話していたバーベキューの場所を耳にして行ってみたら誰もいなかったし、翌日どうしたのか聞いてみると気持ち悪いと云われること。 とりわけ、いじめてきたとしても、絵がうまかった彼女に友達になれればと思っていたんだ、という終幕が切なく、いい。
両バージョンで主役を演じる小瀧万梨子、見惚れるぐらいに美しいのに(なんせ「オトナロイド」モデルだ)、ランドセルを背負っての登場のギャップがすごい。北村恵は滅多にみられない、歌をきけて嬉しく。
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【芝居】「華やかな散歩」川崎郷土・市民劇上演実行委員会
2015.5.9 14:00 [CoRich]
10日まで川崎市多摩市民館。そのあと川崎市教育文化会館。
佐藤惣之助(wikipedia) (青空文庫) 詩人・佐藤惣之助は純粋詩人を応援する妻の病を支えるため歌謡曲の歌詞を書くようになっていたが、妻はなくなり、大衆のための詩としての歌謡曲を応援する萩原朔太郎の妹・愛子と結ばれる。古賀政男とのコンビでヒット曲を送り出す。その活躍に目を付け軍・情報部は戦意高揚の歌詞を作るよう、さらに従軍作家として中国の戦地へ向かうよう命じられる。戦地の現実を目にして一つも書けなくなっていくが、軍国歌謡を書くしかなくなる中、「湖畔の宿」を送り出す。 二年に一度上演される、川崎をめぐる物語を市民劇として上演する企画。どうしてもハードル低くして観に行くことになりがちですが、なかなかどうして、休憩ありとはいえ二時間半、しっかりと人物を語るのです。 どうしてもwikipedia的というか、史実からそう外れるわけにもいかず、いくつかのポイントを拾って直線的に物語を進めるしかないのは評伝劇という体裁と、市民劇というなりたちゆえに仕方のないところではあります。ならば、人物や時代などにどれだけ敬意を払って、どこをどう切り取って物語をつくるか、ということが好みを分けるという気はします。戦争に向かうあの時代のこと、そこに気持ちは抗いながらも、時代に巻き込まれていくこと。戦意高揚の一翼を担いながらも、その時代に「湖畔の宿」を出せたこと、戦中に亡くなり戦後のバッシングを受けなかったことなど、正直、この人物の人生のある意味の幸運さを感じたりもするのです。
湖畔の宿、という唄にまつわる話、一度は発売されながら時局にあわないとして販売禁止となっていながら、もう世の中に広がってしまった唄を人々が歌うこと、人々が求められることは止められない、というのは唄のもつ力の可能性の一つの発露であって、ちょっとロマンティックにすぎるとはいえ、ちょっといい感じではあります。
唄がふんだんになった分、やや長めになった感じは否めませんが、沖縄、韓国の音楽、新おはら節から赤城の子守歌、果てはタイガースの唄まで、バラエティある曲にあふれていて、楽しく観られるのです。
主役・佐藤惣之助を演じた 東享司は、堂々たるもの、しかも写真でみると結構似ている感じでもあって舞台をしっかりと支えます。二人目の妻を演じた東志野香はどこか奔放な雰囲気だけれど、夫をココロで支えたのだなという造型。
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2015.05.09
【芝居】「海峡の7姉妹〜青函連絡船物語〜」渡辺源四郎商店
2015.5.3 19:00 [CoRich]
90分。6日までスズナリ。そのあと、青森と函館での上演が予定されています。
22世紀、青函連絡船の記念館の開会式に呼ばれた女。テープカットのあと、八甲田丸の模型に向き合った女には、七隻の青函連絡船たちの会話が聞こえる。
青森駅近くに係留されている八甲田丸甲板(wikipedia)で三年に渡り上演されてきた市民劇(未見)を下敷きに、青函連絡船(wikipedia)の末期を担った津軽丸型(wikipedia)七隻の就航から航路廃止までの日々を日本の経済成長の時代を重ね合わせて描きます。モノの擬人化ましてやカブリものでの上演となれば、福岡のギンギラ太陽's (1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14 ) が思い浮かびます。YS-11や新幹線、地下鉄を描いた乗り物系に近い語り口ですが、モノだけで全てを完結させているギンギラ太陽'sとの違いは、その外側に、人を描いたことかもしれません。その土地土地に深く記憶されているインフラを描く、というのはもっとあちこちでなされてもいいことのように思います。wikipediaクリックしながらあれこれ思い起こしてみれば、大抵のことはここに書いてあることなのだろうけれど、それを物語に編む、ということの面白さだし、そうやって思い起こして楽しめる芝居がアタシは大好きだったりするのです。
その船と時代をやや説明的に描く語り口はその土地で暮らしてはいないアタシにはやさしく見やすい。同じ型といわれる7隻でも先の2隻とそれ以外の5隻では装備に違いがあって、引退の時期が異なることとか、最後の1隻だけの装備とか、青函連絡船廃止後のそれぞれの運命とか、確かに語られるあれこれがあって楽しい。もっとも、YS-11における幻の飛行場、のようなもう一押しがあると一気に涙腺崩壊するんだけどな、と思ったりもしますが、こればかりは奇跡のような何かのマッチングなわけで、なかなか難しいところではありますが、積み重ねていけば、何かみつかりそうな予感もします。
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【芝居】「すべての犬は天国へ行く」ぬいぐるみハンターP
2015.5.3 13:00 [CoRich]
10日まで王子小劇場。休憩15分を挟み180分。
西部の酒場に女たちがあつまっている。鉄道の工事はしているがいつまで経っても開通する気配がない。訪れる客はおらず、二階の売春宿の女たちも暇を持て余している。ある日、ビリーという男を捜して流れ者の女が訪れる。この町には男が一人も居ないことに気づくが、この町で暮らしている女たちは、ただ出かけていたり姿が見えないといっている。 もう死んでしまったことがわかっていても、それを受け入れられないまま生きている女たち。何か信じたくないことが起きるとわりと簡単にそれを「なかったこと」にリセットしてしまう人々。西部劇という設定は銃がひどく簡単に使えてしまうという意味で巧い設定。そこに女たちしかいない、という舞台は華やかでもあって、しかし待ち続ける女たちの悲哀に満ちた割には表面的には明るく暮らすというのも説得力のある造型です。2時間半という時間をしっかりと成立させています。
例によって記憶力がザルなワタシですので、観てるはずのナイロン100℃での上演の記憶が曖昧です。それでも、ナイロンの元の上演ではもっと笑いが多かった記憶があって、不条理にずれていく会話となれば、ナイロンの核となる女優達の圧倒的な力はあるわけで、そこの差は出ている感じはします。
ビリーを探す流れ者を演じたザンヨウコは、ほんとうに格好良くてほれぼれ。オーナーの冷徹な妹を演じた今城文恵はクールビューティーの雰囲気によくあっています。ビリーの妻を演じた工藤さやは腰が低く見えて、暴れるという迫力の二面性の説得力。底抜けに明るい近所のオバサンっぽい女性を演じた袋小路林檎のは底抜けに明るく親しみやすい造型。やや長い上演時間の中盤をしっかり支えます。常識人な娼婦を演じた、たなか沙織は観客の視座に近く、不条理っぽい芝居に突っ込みを入れながらテンポを作ります。リトルチビを演じた中西柚貴も魅力的。
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2015.05.07
【芝居】「音楽劇 海は天才である!」演劇集団プラチナネクスト
2015.5.2 16:00 [CoRich]
3日まで、あうるすぽっと。125分。10分ほど遅刻してしまいました。
砂浜の広がる漁港の町に再開発の話が持ち上がる。海を埋め立て商業施設やホテルを誘致するのだという。漁協とは合意に至ったが加盟していない老いた漁師は再開発に反対する。 海の中にいる魚たちも人間の動きを察知して対策を考えはじめるが有効な手が打てない。
2010年に逗子市で市民参加劇として上演された音楽劇を、40歳以上を対象にした文学座のシニアクラスの卒業生たちによって上演。自然と開発をめぐる市民運動的な話を核に海の生物たちの抱える不安をプラスしてものがたりを作ります。開発の一時中止と、漁師だった父親のことが理解できるようになった息子という二つの結末へ真っ直ぐ進む物語は枝葉は多くてもごくシンプルで、元々は子どもも参加するような形で作られていて素人を対象にした市民劇、というテイストの物語です。
プラチナネクストという大所帯の5周年記念公演ということで大勢の出演者を出すこと自体が目的というところは確かにありますし、ある種の「発表会臭さ」は公演の成り立ちという点でいってもいたしかたないところ。文学座のプラチナクラスの目指すのが、プロの俳優の育成なのか、あるいは趣味として演劇を演じるということなのかは今一つ分かりませんが、後者の意味だとするならばその目的は達成されていると思います。
芝居を観たいというニーズというよりは、芝居をしたい、というシニア層の受け皿のありかたの一つではあるけれど、たとえば松本で普通に働いている人々が行っている芝居塾の運営のあり方に比べてしまうと、プロの新劇の劇団のありかたとして、何が目的なのか、いまひとつわからない感じではあります。
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2015.05.05
【芝居】「スーパーエンタープライズ」東京ハートブレイカーズ
2015.5.1 19:30 [CoRich]
110分。5分のアンコールが1曲。3日までスターパインズカフェ。ワタシは初見の劇団です。
入学式をサボって立ち入り禁止の屋上に来た新入生はある教師に出会い、空を飛べるか、という。屋上で活動している天文同好会の二人が開発しているロケットベルトを目にして、やってみたい、と云う。
厳しい訓練をくぐり抜けた三人だったが、試験飛行の日、パイロット候補だった男は跳ばないといい、地味でいじめられているこれを作った二人が跳ぶべきだと言いだし、仲違いしていまう。仲違いしてしまう。
30年前、同じ屋上。バンドで世界を変えるとまで云っていたボーカル、告白できない弱気なベース、あるいはあるいは世界を目指せるサッカーの選手や地味な転校生たちが集まったりしている。文化祭でのバンド活動を禁止されたバンドは、屋上でのゲリラライブを計画する。
連休前の平日。ちょっと会社を早退けして来てみれば、最近ではあまりないぐらいに女性ばかりの客席。今作では出演者が男性ばかりということも影響しているのかも知れません。
バブル景気と浮かれる1985年と、2015年という30年の時間を隔てた高校生たちの物語。 1985年の高校生たちは世界を手中にできるとすら思ってしまう万能感に溢れたバンドだったりサッカー選手。それはこの時代の日本という国の雰囲気にも重なります。文化祭での活動を禁止されて計画したルーフトップライブが敢行できないことの挫折。 それから30年、2015年に描かれる高校生たちは地道で臆病。しかしロケットベルトを作ってしまうまでには凄いのに、あと一歩が踏み出せないのです。そこにやってきた男はその一歩を踏み出せる男。失われた30年の国の雰囲気という感じがしないでもありませんが、ロケットベルトでほんとうに飛べるかもしれない幕切れは希望、という感じでしょうか。
つくば博(1985)、ロス五輪(1984)、Jリーグ前夜(1993)という時代の雰囲気、まさにそのときに高校生だったアタシ、バンドとかスポーツとは無縁だったからその万能感はわからないけれど、日本という国が何にでもなれそうに思う時代の空気はとても肌感覚としては理解できます。役者の多くもそれぐらいの年代なのでしょう。決して若くなくても学生服がまたちょっと似合う感じなのもいい。ロケットベルトという「夢の技術」が二つの時代を繋いでいる感じなのは面白い。 作演・黒澤世莉してはびっくりするぐらいに真っ直ぐな学園の物語で、ロックミュージカル風でもあって、新しい魅力を見つけた感じ。岡田達也、みのすけといった大劇場クラスの役者が軽々と、しかしエンジョイする感じで演じているのは楽しい。教師と高校生という時代を隔てた二役を演じた山崎彬はほどよく抑制が効いている芝居とラストナンバーではほぼ憑依したような感じのコントラスト。物語をしっかり回し、運んでいる力。むしろ若い方の役者であるあずの小多田直樹のコミカルで生真面目な感じもリズムを作ります。
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【芝居】「俺達なりの、旅。」グラウンド02
2015.4.29 17:30 [CoRich]
105分。29日までOFF OFFシアター。チラシの印象のロードムービーとはずいぶんと違って、葬式を巡る人々の「時間の旅」の物語になっています。
高校の頃学校近くの公園に溜まっていた同級生たち、そのうちの一人が亡くなり久しぶりに葬儀に集まった。男女の一組は結婚し、男の一人は近く子供が産まれ、その幼なじみで仲違いしている男は独り身。モテていたはずの女も独り身だった。亡くなった女には婚約者が居たはずだが、その姿を見かけなかった。
あの娘が好きなんだけれど、ちょっと近づきがたく壁を感じて近づけず、もう少し手近のというかもっと気さくで自分に近づいて来てくれる女とつき合う感覚。想いを貫徹するほうがかっこいいのだろうけれど、恋人がいるという状態への最短距離を選んでしまう感覚。この歳になってもそれが腑に落ちちゃうアタシの感覚はどうなんだと思わなくもないですが。
ほぼ喪服の人々の間にあって、自殺した女は唯一制服。他の人々にとって会っていないまま死んでしまった彼女はあの時のこの格好のままで時間が止まっている雰囲気が良くでています。
役者はみな魅力的、子供から大人に変わる頃、子供っぽさだったり恋に恋する感じ、あるいはもういい歳の大人になっているけれど、あのころの仲間に再会すれば、一瞬であの頃の感じに戻れること。姿形はもう大人どころかおじさんおばさんになっているその格好のままだけれど、無理に着替えたりせずにそのまま子供の頃のシーンも演じるのは演劇の嘘だけれど、大人でもすっと子供に戻る感じを表しているようでもあります。
大人のほろ苦いしっかりとした物語ではあるのだけれど、松本哲也という作家に対するアタシのハードルはもっと高かったりして、正直に云えばどこか薄味に感じるのは、普段の作品でみせる宮崎弁を封印しているから、ということばかりのせいではないと思います。
公園のホームレス風の男を演じた松本哲也は、こういう感じの「自由人」が実に似合ってちょっとかっこよくすらあります。結婚している元ロック少年を演じた鈴木理学は、みてくれの出落ち感もあるけれど、そういう慌てる感じも雰囲気がよくでています。その妻を演じた頼経明子は、女扱いされない女、みたいな雰囲気の高校時代ではコミカルに造型してしっかりと物語を回し、後半では物語の要所を押さえる説得力を担います。 商業科だった女を演じた川田希、美人で積極的な女の造型が魅力的。自殺した女を演じた蓮菜貴子はどこかコミュニケーションを拒むような気高さを感じさせる造型の説得力。
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2015.05.04
【芝居】「健康いろいろ」(A)桃唄309
2015.5.26 17:30 [CoRich]
桃唄309による短編企画公演。ワタシが拝見できたのはAプロのみでした。4月26日までRAFT。本編60分、おまけコーナーのジェストダンスが5分ほど。更に開演前に次回本公演に向けてのテキストリーディングを開場中におこなていました。
紙芝居、秋田の実家、お姉ちゃんにぞんざいにされても好きでたまらない。二人で縄跳びして。「紙芝居」
特効薬がなく、法律によってその患者たちだけが隔離された治療の島。もうその法律もなくなったがそこで暮らし続けてきた人々は島に残っている。その施設での上演を依頼され芝居を作ることになった役者たち。暮らしている人々の気持ちはわからないと思い現地に行ってみることにする。海も空もおだやかな島。「202x年、帰ろう」
いつもはおまけ枠の紙芝居。ごく短い一本だけれど、佐藤達の木訥としたような秋田弁の語り口、母親や姉が好きすぎてしょうがない子供のころの情景と可愛らしい絵のマッチはいつものとおり抜群。姉との縄跳びで側溝に落ちてけがをするけれど、姉をかばいたいあまりに泣いてしまうなんて、もうね。もっとも描いているのはいい歳をしたオジサンなわけですが。
「202x年、帰ろう」は、ハンセン病(wikipedia)療養のというよりは隔離のために強制的に収容された島を訪れた芝居の作り手たちの物語。芝居の作り手や書き手を題材にした物語は所詮自分の才能や生活を半径5mで描くものがおおくてちょっと見飽きた感はありますが、今作はそうではありません。 今もある療養所(wikipedia)を訪ねる旅を通して感じた感覚がきちんと描かれます。 知識としてのハンセン病や日本における歴史的な背景を織り交ぜ、強制的に家族から引き離されていた患者たちの気持ちを理解しようというモチベーションとして芝居の作り手という枠組みを使ったのは巧い。表現のためではなくて、「人を理解すること」のツールとしての演劇の側面を語る人は多いけれど、それを芝居にしたのは実はちょっと珍しい気がします。 その土地に行ってみた素直な感覚というか、どう自分の中に取り込んだらいいかあれやこれやと悩む感じ。その土地のあまりに平和な風景はきっと隔離されていた時代だってあった風景なのだけれど、その風景から深刻さを簡単には想起できない、という素直な感覚がみずみずしい。
しかもそれは割と軽い語り口で語られていて、そのギャップは、訪ねたときの平穏な雰囲気とこの病気にまつわる人々の深刻さのギャップに相似形のように働きます。
作家を兼ねる役者、という役を演じた高木充子の困り切った感じ、しかし前向きに題材に食らいついていく雰囲気がカッコイイ。
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【芝居】「ふつうのひとびと」玉田企画
2015.4.26 14:00 [CoRich]
26日まで春風舎。120分。
店長の自宅に繋がっている酒場のバックヤード。 東京に出て行ったこの家の弟は5年も経たず戻ってきている。東京で店を出して大儲けするはずだったけれど、店の改装資金をほとんど出して、貯金もそれなりにためた友人は死んでしまっている。自分は改装資金もほとんど出さなかったし、戻ってきてからもバイトも長続きしない。恋人はこの店で働いていて、店長とも浮気をしている。別の店員が店を辞めるので、送別会を開こうということになっている。
地方の小さな店をめぐる小さなコミュニティ。勢いで東京に出て行こうとはしたけれど、一緒に店を出した友人は資金面でも何でもきちんとしていたのに、きっとこの男は思いつきのようについていったのでしょう。友人の死が何によるものであったかは明確に語られないけれど、借金で追い込まれたのかと思わせる感じ。かといって、生き残った男は少なくとも表面的には何か深い反省をみせるわけでもなく、それどころか自分の生活すらもままならず、ヒモ同然の暮らしをしていることの焦りもみられず。この二人が東京に行く前の様子を間に挟みながら、時間の流れによって代わってしまった状況と、実は本質的には変わってない男の了見というか生き方を対比して描きます。
そうだった、という時間の変化を描いては居るけれど変わらなかったということを描いている物語の軸だけでみると必ずしも強い物語ではないと思うのだけれど、周りにいる人々の細かい描写がいちいちやけに説得力を持っているように思われて、そういう意味で見応えのある一本なのです。弟の彼女に手を出す店長がそれをばれることを極度に恐れる臆病さだったり、後輩が出来てうれしいけれど、やけに童貞っぽい造型で気の小さい男だとか、女に別れを告げられてもそれを受け入れられずに嫌われるのがわかっていても追すがってしまう男とか、あるいは後輩で敬語はむちゃくちゃだけれど頼りになる「使える後輩」にしても、やけに濃密で見応えがある人々なのです。
男の恋人を演じた菊川朝子は、化粧前に居る時間が長くて、恋人の前と浮気の時で変えてみたり、その過程が見えたりと、長く見続けているアタシにはなんかうれしくなってしまう。ふわっとして見えるし、この兄弟に対しての不満はきっと山積してるのだけれど、そこから逃げ出すでもなく、見守る女は天使のようでもあるし、観客にとっては足がかりになる役でもあります。 後輩の店員を演じた飯田一期は、不器用だし敬語もめちゃくちゃだけれど、いわゆる「使える後輩」っぽさがかっこいい。弱気な先輩店員を演じた大山雄史の軽い感じとの対比がいい。ストーカー男を演じた用松亮のフラットな怖さ。店長を演じた吉田亮はちゃんと仕事して生きてる感じではあるけれど、ダメっぽさもあって、なんか親しみやすい。
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【芝居】「揺籃」おちないリンゴ
2015.4.25 19:00 [CoRich]
26日まで楽園。120分。
男が死んだ。看取ったのは妻が家を出た後に生活を伴にしていた女だった。男の娘たちは家を訪れるが父に捨てられたという長い間の絶縁状態の溝は深い。姉は結婚しているが子供は居ないがそれを受け入れられない。妹は好意を寄せる男が居るが、別れた男の子供を宿していることを言い出せない。看取った女は家を出ていくことを承諾するが、出て行く日に姉妹たちを呼ぶ。
舞台には現れない一人の男をめぐる女たち。内縁の妻であったり、片思いし続けている女であったり、父としての男を憎んでいる娘たちであったり。子供が居なかったり恋人が居ても結婚に踏み切れないすべてが父親のせいではないけれど、やはり父親に捨てられたという想いは姉妹に暗い陰を落としていてというのが前半から中盤の物語。
そこを軸に行くかとおもいきや、物語は大きく急旋回、というかもう一つの軸を紡ぎます。内縁の妻と隣に住む女の、この男を恋愛の対象とする女性たちの話へ。その二人の想いは同じだけれど、隣の女は男のことが好きすぎて、妻の元々の職業であるストリッパーにまでなったのに、その妻を超えられない。 強い想いゆえに痛々しく、切ない。終盤近く、 この二人が語り合い、リンゴのブランデー呑むというシーンが好きです。その直後に明らかになるのは モテる男ではあったけれど、その男の心の中心にあったのはいつでも妻と娘たちであった、という幕切れ。 妻や娘達が出て行った後に入れたテーブルや椅子は、その家族達が戻ってくることを密かに願掛けしていたような男の想いが、娘達に伝わる瞬間なのです。
内縁の妻を演じた由川悠紀子は静かに耐える造型のキャラクタをしっかり。娘たち、妹を演じた木村佐都美は人なつっこく見えてしかし内面の暗い面のコントラスト。姉を演じた加藤記生はほぼ全体を通してヒールであり続ける強度をしっかり支えます。隣の女を演じた小暮智美はストリッパー、というのにきっちり説得力があるような表情の豊かさ、身体の線のキレイさが印象に残ります。男を飼っている女を演じた村山みのりは物語に直接関わる訳ではないけれど、年上女の格好良さだったり、強引さだったりを細やかに。恋する男を演じた木内コギトは優しくあり続ける男の格好良さ、ストリップにハマる夫を演じた北村雄大は逆に男のかっこ悪さを体現。男のダメっぽさという意味では女に飼われている男を演じた森田陽祐はまさにそういう役だけれど、見た目の格好良さが説得力を持ちます。
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2015.05.01
【芝居】「ゆうれいを踏んだ」突劇金魚
2015.4.25 15:00 [CoRich]
29日までアゴラ劇場。 95分。
祖母に育てられた女、銀行への就職も決まり祖母は自慢で喜んでいたが、その矢先女の頭に桜の木が生える。墓地で幽霊を踏んでしまったからだという。花見が好きだった父はクビを吊って死んでいる。家を追い出され親戚を頼ったり、興味をもって追いかけてくる男が居る。工場でパートして演劇をしている女友達。男と住んでいる。
墓場に行ったら頭に木が生えたのは幽霊を踏んだから、という序盤。ロードムービーよろしく冒険のようにあれこれの人々に会い、別れ、何かを経験し、知り合いも成長し、あるいはやっかまれ、結婚を申し込まれ、というさまざまな関係を並べて物語を構成します。文字通りの語りを見ている限りはそれぞれがあまりにバラバラで、どう観ていいか迷ったりするワタシです。
あとから思い返してみれば、いくつかの女性の役に別れてはいるけれど一人の女性の人生の点描だと思い至るのです。親の期待を裏切ってしまったこと、あるいは自分を可愛がってくれる兄を頼りにする気持ち、気持ち悪いと思う気持ち。唐突にすぎる「木が頭に生える」というのは女の子が成長して、色気づくというか女になる瞬間に母親との関係が変化していく、という象徴に思えるのです。枝が折られることは何かの経験であり、それを知った父親は激怒するし、根から掘り返され頭から木が無くなった女は、ある意味「サカリ」を過ぎて男との静かな暮らしを過ごすことに決める、と思えてならないのだけれど、アタシの妄想と思い込みですかね。
終幕、結婚を申し込まれた女はそれを断るけれど、二人は暮らし続けて、向かい合ってゴハンを食べるのです。女性の若いときは冒険の数々だけれど、それを過ぎると穏やかに暮らす日々になる、素敵な幕切れでアタシはいいなぁと思うのです。
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