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2014.09.30

【芝居】「優しくして」ドリームダン

2014.9.27 14:30 [CoRich]

解散を発表した 散歩道楽内として出発したユニットの公演。28日までワーサルシアター。110分。

小さなおにぎり販売店の前。近くには劇団アトリエがあり公演を間近に控えて役者たちが朝から稽古の為出入りしている。近所に住む女はフェレットが逃げ出したといい、探し回る。この店の縁結びのジンクスを目当てに訪れる女は、これまで縁遠かったのに、芝居を一緒に見ないかとさそわれたのを皮切りにおおくの男たちから話しかけられ舞い上がる。店長を訪ねてきた男は訳あり風で、たかろうとするが、フェレットに似てるといい意気投合した女の家に泊まる。そして、誘われた芝居の当日、店主も一緒にみることになって。

前半は縁遠かった女が縁結びのジンクスがあるおにぎり販売店での店先でのこれでもか、という出会いの数々だが、その相手の殆どが一癖も二癖もあって生活力無さそうな劇団員たち。それいがいだって芝居に誘ってくれたイケメンにしても凛々しいスーツ姿の男にしても、一皮剥いたらもっと癖のあるやつらで。駄目男カタログが佃煮のよう。後半はその劇団の芝居を店主ともども見ることになるが、そのあまりの長さとわけわからなさのあまり、男が昏睡状態に陥って延々眠り続けるを男に膝を貸す女の話に。眠り続けてしまう男のことを、ワケアリな男にからまれたり店を開いたばかりだったりしてきっと肩肘張って緊張し続けてきたのだろう、ずっと寝てていいんだからね、膝ぐらい貸すし、見守るし、という女の心意気。タイトルの「優しくして」と云うのは女じゃなくて男の側の気持ち、しかしセリフとしては発せられないというのがちょっといい。

そう考えてみると、劇団の二人の女にしても、あるいはフェレットを探し続ける女にしても、何かに追い立てられていたりする男たちに比べると、今作の女たちはそれぞれに自由で自分の行きたい道を進んでいるように見えます。とりわけ、フェレットを探し続ける女は、自分が決してモテないし人付き合いだって巧くなくて、不思議ちゃんというのは年齢を重ねすぎているということを自覚しつつも、しかし自分のありかたを曲げずに居続けるのです。男をフェレットに見立てた冗談に乗っかったホームレス状態の男を自分の家に泊まらせて、軟禁に近い状態で「飼う」のは確かに少々常軌を逸してるかんじはありますが、それにしてもブレがないといえるのです。この二人の描写は確かにコミカルだけれど、中年男女のカップルのゆがんだスタートとある種のかっこ悪さという意味ではやけにリアリティがあるとも感じられます。

劇団の稽古と上演の両方を見せて、上演がいかにハプニングで駄目になったか、ということを見せています。2時間弱の芝居の中で、「本気で作ってる芝居なのにあからさまに面白くなさそう」という芝居をダイジェストとはいえ2回回して見せられる物になってるというのはたいしたものだし、多くの駄目男たちをきっちち登場させる背景を担ってはいますが、正直にいえば、この芝居自体は物語にはあまり寄与してない感じがあって、核の物語の間にインサートされてしまうために少々間延びする感じがするのは勿体ない気がします。

縁結びを信じてやってきた女を演じた菊池美里は、さまざまな男たちに話しかけられ舞い上がり、しかしどこか踏み出せず、それなのにほくそ笑み、勘違いだとわかってもともかく前向きに次に進むという物語全体の推進力を担います。コミカルでどの人物との当たり方というか距離感も絶妙で、コメディエンヌとして圧倒的な力。フェレット女を演じた大見遥はあからさまに出落ちな雰囲気を纏いつつも、そのテンションとありかたを終幕まできっちり維持し続けるのがたいしたもの。ワケアリの男を演じた安東桂吾のムショ帰りの強面風から、あっさりと女に飼われるあたりの変わり身の早さといい、駄目男の造型がいい。

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2014.09.29

【芝居】「ジェラシーいろいろ」(A)桃唄309+リケチカ

2014.9.25 20:00 [CoRich]

小さな空間で飲食自由にして、ゆるりと2畳の空間で30分ほどの芝居を2本ずつ上演するポータビリティの高い人気企画。28日までRAFT。転換込みで60分。初日はこれまた人気の佐藤達による紙芝居企画がセットに。

双子に生まれた長女は、妹が自分のことをブスだといい、せっかく父親に貰った可愛い髪飾りをとられたりする。さすがにキレて何度か殴り、逃げ出すが、まるで妹の分身のような鏡を手に入れる。鏡は可愛いとまでは云わないけれどソコソコ、と云ってくれる。更に、逃げだして初めて出会った男に求婚されるが断り、ライバルを蹴落としまでして自力でのし上がって王妃にま昇りつめるが、鏡が夜な夜な抜け出しているのが気になって 「ラフレター」(作・演出 力武修一)
死んだ男を弔いに来た親戚の女。通夜が終わり、その位牌を持って部屋で一日過ごして結婚したことにする、という風習。階下には従姉妹が居て、止めたいなら止めようと応援してくれている。が、彼女には見えない男が位牌の側にずっといる。 「水の盆」(作・演出 長谷基弘)

「ラフレター」の前半部分は認められたことがなくて自信が無い女の子の成長の物語、と読みました。最初は鏡の中の自分の顔に、それから他の男性に、あるいは社会で力を付けてのしあがり、幸せな結婚をする。が、後半に至り、何もかも手に入れたはずなのに、自分の自信の拠り所たる鏡が自分の知らない一面をもっていることの妬ましさ。総体としてどれだけ持っているかということじゃなくて、その一点がどうしても我慢できないというジェラシーのひとつのかたちをくっきりと描き出します。

のし上がる女を演じた立蔵葉子はどこかぽわんとした印象が勝る役者ですが、秘めたる野心という感じでもあってまたちょっと面白い。 我が侭な妹と、いわば鏡の精を演じた中野架奈は幼さの傍若無人の前半と、どこか醒めたようなのに、コミカルな様子でもあって見やすく物語世界を作り出し、二人の女優が可愛らしく、でもちょっと苦さもあわせてこの絵本のような世界観を体現します。

  正直にいえば、楽に座れそうと思って最前列上手端に座ったアタシには、少なくとも初日時点ではかなり役者の背中を観続けざるをえない、という位置。もっとも、この二日後の別ブロックでも同じように感じるところはままあるので、二畳というコンパクトさでは、立った状態の芝居が見づらくなりがちでむしろ座った芝居の方がみやすいという、普通の小劇場の芝居とは逆のことが起きがちだという特性なのかもしれません。

「水の盆」は死者との婚姻、というフォークロアをベースに。それは「家系図を整える」ためだったり「相続をわかりやすくする」ためという理由で現存する風習なのだともいいます。ゆるく親戚ではあっても想いでも想いもほとんど無いはずの女と、死んだ男に恋心を抱いていたのについにそれは果たされることがなかった女。後者の想いが強いのに分家という理由だけで前者の女のものになってしまう、というジレンマの構造。短編ですっとこの「異常事態」にはいり、二人の想いの差と、間に立つ死んだ男のまあ、どうにも鈍感なところがコミカルに、しかし人のシンプルな想いを描き出します。

久しぶりに訪れた女を演じた高木充子は誠実な造型。どこか可愛らしくて芯の強さのようなものを併せ持って、巻き込まれる役割と突っ込むという役割を一役でこなします。恋いこがれる女を演じた山西真帆は序盤こそ地味だけれど、溢れる想いを語りだしてからがいい。家系図も打算も関係なく彼のことを話せる相手を見つけられた、と吹っ切れ、見せる表情の明るさ。

おまけ公演は佐藤達による紙芝居。男の子が鼻の中にモノを詰めてしまうというのは、まあ良くある話というのを何かのラジオで聴いた気もしますが、そのシンプルで情けない話のテンポやはしょり方がよくて、爆笑編に。

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【芝居】「怪人21面相」パラドックス定数

2014.9.21 19:00 [CoRich]

パラドックス定数の代表作 (1, 2) の一つ、三演め。23日までSPACE EDGE。

記憶力がすっかりザルなアタシですが、今作、 相変わらず、「はれもの」が物語に登場することを観るまでまったく覚えていないアタシです。 それでもこの空間のワクワク、そこで会話する四人の男たちのなんていうのか、かっこよさは揺るぎなく。 年齢を重ね上演を重ねて精度を上げ、 刑事はちょっとすごみを増してるし、はれもの、は角刈りが似合うような歳になってきています。 新聞社は朝日という設定だけれど、誤報騒ぎの昨今だと違うように見えるかな、と思ったけれど、そこはわりと変わらない印象。役員の印象はずっとフラットに想いを内包するという造形を安定して作り出します。

犯罪者の男たちだが、それぞれに背負う想いだったり逃れられない何かだったり。小さな場所だけれど、戦後の日本のあれこれが幕の内弁当のようにぎゅっと。 朝鮮総連、マスコミのスクープ、公安が隠し持つ権力と手段、会社にある後ろ暗い背景。長い時間のなかでねじれた国と国との関係というか。昭和の戦後という時代が持つある種の怪しさ、後ろ暗さを物語に仕立てたのだなという筆力を堪能するのです。

三演め、となると他に観たいのもあるよなぁと思ったりも。 大正の地下鉄のあれ、やってくんないかなぁ。

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2014.09.28

【芝居】「恋の文化祭 〜恋せよ乙女、恋愛短編集〜」feblabo プロデュース

2014.9.21 16:00 [CoRich]

劇場が空いてる期間を埋めるように、フレキシビリティが高く、若い役者で構成するバラエティにあふれる短編集。隔日で26日までシアターミラクル。

「開会式」(演出 橋本昭博)の選手宣誓に続いて、
試合に出場している女子を応援するベンチというかピット。心に想った男、優しい先輩、同級生との三角関係、合コンの沼。さまざまの試練に晒される女子選手を応援する後輩、同級生、コーチ。「県大会」(作 萩原伸次、演出 橋本昭博)
デートに誘われた女と誘った男、待ち合わせ。いままで 経験のない体験に盛り上がるが疑心暗鬼な気持ちが捨てられない女。男は付き合いたいと告白するが女は手を繋ぐのだけはNGだという。そのあとのことはOKな筈なのだけど「アレルギー」(1/2) (作・米内山陽子 演出・池田智哉)
大学に入ったけれど、武蔵野線の吉川駅近く に住む男。偶然乗り合わせた女性の先輩と話が弾んでTDRにいくことに。 盛り上がって付き合いたい、と告白するが、あっさりとフラれる。 「どこまでもいけるのさ〜僕の武蔵野線編」 (作 佐々木瞳、演出 橋本昭博)
教室で気がつけば、同級生の女が居る。鬱々した気持ちをくみとって、席替えしよう、という。二人だけだから、それは単なるシミュレーションだけれど。 「席替え」(作 萩原伸次、演出 池田智哉)
男の側にも隠してることがあって、でも付き合いたいと告白する。「アレルギー」(2/2)。
閉会式に乱入した二人の男、女に告白しまくるが、女たちは持たされた銃で男を撃ちまくる。致命傷になったところに駆け込んできた女、ラブレターを「恋泥棒」(作 萩原伸次、演出 橋本昭博)

文化祭、というコンセプト、そう高くない値段でウィンナーやら酒やらソフトドリンクを開場中に売って、観ながら呑める、という趣向。

「県大会」は一人の選手(小林唯)を頑張れと応援する人々、F1ピット、あるいはリングの隅のベンチ、という具合にこの女を応援する。告白したいのに言い出せない、言い出そうとすると別の男から告白されたりする、さらに合コンに誘われたりして危ない目に遭いそうになるけれど数々の困難を乗り越えさせるために同級生(本間玲音、大森茉利子)が合コンから彼女守るように出撃していくなんてのがカッコイイ。 何せ色っぽい。 みな爆死したとしても、女は想いを遂げられるのを終幕に繋ぎます。

「アレルギー」は男女 (金田侑生、山本沙羅) の会話。告白されるかも、告白するかもなドキドキだけれど二つのパートそれぞれに自分の背景というか嬉しいけれど踏み出せない気持ちを細やかに織り込みます。自分が面倒くさいことを自覚している女の造型が可愛らしく、しかし内気なことをきっちり。男が告白する後半も攻守を替えての同じような感じだけれど、背景が微妙に違うのが楽しい。正直に云えば、手を触れてアレルギーで、それ以外の場所に触れてアレルギーが出ないということは多分ないんじゃないかと思うんだけれど、そんな野暮なことは云わないのが吉。二つのパートを作り込んでいて、それぞれの事情がちゃんと見えてきて作家の力がしっかり。

「〜〜僕の武蔵野線編〜」 端的に言えば、つきあいたいと思った女に告白されるのは遠い場所に住んでいるから だとフラれまくる男の話なのだけれど、円形に模して駅を配置、JRがいういわゆる「東京メガループ」のいろんな駅の距離感が楽しいのはまあ、アタシが鉄道好きだからですが。たまたま憧れの先輩に乗り合わせることはあっても、彼女にとってその路線は普段使いじゃない路線、という距離感がいいのです。女の元に行くために新橋(だっけ)から西国分寺に向かわなきゃいけないのに中央線が止まってるというクライマックス。やけに遠い東京駅からの京葉線とかで頑張ったのに一日三本しかない大宮行きの下総号に乗っちゃうというやっちまった感。
先輩女子を演じた大森茉利子は頼りになって、しかも可愛い、という説得力を体現。TDRからあっさりゴメン、というあっさりした性格に見えるのが楽しい。

「席替え」はちょっと毛色が違う一本。おそらくはクラスで孤立しがちな一人の女子生徒の頭の中の妄想。ちょっと前に事故で命を落とした同級生が何かを云ってくれる、ダメ出ししてくれる、という気持ちを細やかに紡ぎます。序盤で女子生徒のまわり席の配置が良くない、という偶然の何かを(彼女が孤立してるかいじめられるだかの)理由にするというのは彼女自身のせいではない、という優しい視線が物語に織り込まれていて確かに巧い。ちゃんと夕方の教室に見えるような楽しさ。

「恋泥棒」は、それまでの物語を集約するような作り。劇場主・兼・演出が更に出演までして、若くはない男が童貞なので、告白しては撃たれる(フラれる)、恋をしろ、と訴える。最初の「県大会」の彼女が走り寄って来てラブレターを渡す終幕は綺麗だけれど、それまで気付かずに何やってたんだ、その男、という気持ちもちょっとw。

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2014.09.26

【芝居】「弄ばれて」競泳水着

2014.9.20 19:00 [CoRich]

25日まで空洞。100分。

劇作家の男のアルバイト先に現れた人妻。公演をみにきたり二人きりで話したりするうち親しくなり、男の家に泊まるようになる。人妻にもかかわらず、はまりこんでいく男だったが、徐々に女は距離をとるようになり、ある日、その夫から会いたい、と連絡が来る。 恋愛模様を描くこともよくある作家ですが、作家の雰囲気をまとう男を主人公に据えるのはあまりない気がします。作家自身は受付卓の向かい、客席から丸見えな場所で音響や照明操作を担いますが、どうしたって芝居の向こう側にその顔がみえて、しかも主人公の風体もわざわざ似ている感じにしています。作家自身の体験のように見えて、(モテ無さをアピールしてはいても)まあそれぐらいモテるだろうなという説得力と、「それならありそうなシチュエーション」がならべられてもあって、やけに生々しく感じられるのです。それが私自身にリアリティもって感じられるかと云われると、そんな実体験は無いわけですが(泣)、まあそういうパラレルワールドもどこかにはあるかもしれない、ぐらいの飛躍感でみることができるのです。

語っていることは、ごくシンプルなこと。浮き名流しがちな優男が人妻に好意を持って盛り上がるうちズブズブな恋愛をし、でも女は別の男になびいて去り男はなかなか立ち直れない。ちょっと恨みがましい感じではあるけれど、でも去った女に対して嫌いにはなりきれない気持ちもある、女々しい感じだったりするのが、また作家の持ち味っぽくてワタシは好きなのです。その外側に、恋愛対象には決してならない敏腕制作の美しい女性、というのを配するのもちょっと面白い。それじゃダメになるという心の声を外側の人物として描いたのか、それともそういう人が現実に居たのかは知る由もないけれど、それはまるで自分を叱咤し見守ってくれる母親もしくは女神のような存在の女性、というものをどこか作家が求めてるんじゃないかと、思ったり思わなかったり。

女と男、二人きりで口説いたり口説かれたりという、一種の駆け引きのシチュエーションのシーンがとても好きです。台詞を少なめにして、長い長い沈黙、ほとんど動くこともなく表情の変化ぐらいにする描き方も、空白の妙は見事で、妙にドキドキするのです。 あるいは、フラれて無気力になった作家が書いた今作と思われる話に、でこれどうなの、浮気女の話なのか、何がしたいのか、とだめ出しをしたり、もう一度女優を口説こうとして作家がいなされるシーンもちょっと小気味いいし、作家が自分を外側から見てるということが見えて楽しい。「女優は他の現場に行けば他と仲良くなる(んだから彼女にするのは嫌だ」という台詞も、ワガママすぎてむしろ虚構としては書きづらくて、結果作家の本心がダダ漏れな感じで楽しい。

「実体験を描いて許されるのは、女性の劇作家だけ」(だから男である自分にはできない、という文脈で)というセリフが秀逸で、ワタシの廻り(twitterのTL含む)でわりと言及されることが多い、いわばバズワードになっています。2,3思い浮かぶあの女性の劇作家が描くのも本当に実体験なのかは知る由もないけれど、役者の名前をそのままにしたりして、そう思わせる作風というのは間違いなくあって、しかもそれはワタシの大好物なタイプの芝居でもあるのです。

劇作家を演じた和知龍範は無精髭、眼鏡が精悍で格好良く、でも情けないゆえの可愛さを併せ持ち。そうだ、これあまちゃんのミズタクだ、と思いながら。人妻を演じた外村道子はフラットで静かで、男に対しての「大人の女」像をしっかりと。その夫を演じた市原文太郎はともかく作家のことは最後まで信じ切ってるというイノセントさ、真っ直ぐで真面目な造型ゆえに、ズレがコミカルさを生んでいるばかりではなく、もう一度彼が芝居を観にくる、妻が妊娠してることを告げられるという終幕をきっちりと。ダブルキャストだった敏腕制作役は、アタシの観た回は金子侑加で、軽やかでちょっと色っぽくて、確かに女神っぽく。

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2014.09.25

【芝居】「ゲキ★BAR」(S) 世の中と演劇するオフィスプロジェクトM

2014.9.20 16:30 [CoRich]

3バージョンのうちのソルティーコーク、と題されたブロック。24日までタイニイアリス。

女子高生が夢を見る、それは戦場の兵士の一人になった夢。水はない世界だけれどコカコーラだけは潤沢にある世界「コカコーラ・ソルジャー(B)」 (作:モスクワカヌ 演出:丸尾聡)
県大会決勝のエラーで甲子園に行けなかった男、25年が経って家業のスポーツ用品店を営むが商売そっちのけでチームメイトだった男が監督をしている建設会社の社会人チームの応援を超えて売り物のボールを寄付したりしている。そのチームが新たに市民チームを作ることになり、その監督として男が抜擢される。
25年前、万年補欠だった男はエースだがチームの雰囲気を最悪にしていたチームメイトを練習の素振りのバットを当ててしまい出場できなくさせた。今は高校の野球部を指導している彼に、まだ男は謝っていない。「汗」(作:相馬杜宇 演出:古川貴義)

開演前も終演後も劇場にバーを仕立てて飲食しながらの観劇を許す趣向。3つのブロックにつけられた「ソルティー・コーク」「ママーズ・コックローチェ」「フルーレ・マルガリータ」はカクテル風の名前だけれど、聞いたことないなぁ。メニューにあったけれど何を出してたんだろう。

「コカ・コーラ・ソルジャー」は若い女優による一人芝居。ファンタジーの作りだからなぜ女子高生が兵士の夢を見るのかという理屈を求めるのは野暮というものでしょう。物語というよりは、戦争という現場の風景とそれに向き合って思考停止する兵士たちの情景を描いているよう。西原理恵子「うつくしいのはら」の雰囲気を纏ってるのがちょっといい。正直に云えば、若い女優には物語も一人芝居として求められる水準も少々厳しかった気はします。チラシもCoRichにも、ABの二バージョンがあったとは書いてなかった気がします。関根信一演出を目当てで行ったアタシだけれど、そうじゃない方に当たったアタシにとっては、このやり方は少々誠実さに欠ける気がします。

「汗」は自分だって明日は我が身に仕事より夢とか遊びとかにはまり込んだ男この歳になっても落ち着かないままの私にもちょっといたたと感じるような話。 自分の存在場所をどこに求めるか、それは自分が夢見た能力じゃなくて、単にスポーツ用品店でそれが融通してもらえるからという俗物感が下品でいいなぁと思います。 努力もしていて能力もあって上昇志向が強い男と、キャプテンではあっても万年補欠で、しかし人望はあるという二人の関係。正直にいえば、チームの雰囲気を悪くしていた男に素振りのバットがあたり出場できなくなるというあたり、それが偶然の事故なのか、あるいは多少の意志が入っていたのかがいまひとつ、釈然としない感じではあります。気まずくて、誤ってキャッチボールぐらいで(年月を経たとはいえ)元に戻れるなら前者かとおもうけれど、なんかパーツがしっくりはまらない感じが抜けません。

二役でヒロインを演じた五十嵐ミナが目を引きます。須貝英の真面目なバイトという造形もよく似合っていて安心感。

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2014.09.23

【芝居】「サバイブ!」自転車キンクリーツカンパニー

2014.9.20 14:00 [CoRich]

ずいぶん久しぶりという気がする、公演は、外部の作演による公演だけれど、それでもしっかりじてキン節が目一杯で見応えたっぷり。プロモーション薄めな感じが惜しくて、ワタシも無理してでも先週見て喧伝すべきだったと後悔役立たずだけれど、それはアタシがはまり込んでる気持ちというだけかもしれない110分。21日まで雑雄。

母親と二人で同居しているもう若くもない長女。父親は離婚し家を離れ、妹は結婚して娘を女優の道に進めさせようとステージママの日々で母親との折り合いも悪く実家には寄りつかない。ある日長女は好意を寄せていた男と呑んだあと、寝静まった自分の家に呼び込むが、居ないはずの妹と娘に見つかってしまう。妹は家を出てきていて娘はオーディションのプレッシャーのあまり咳止め薬を隠れて大量に服用している。
母親は娘のことが気になって仕方がない。娘はそこまでの干渉を望まず友達が出来ないのかと水を向けるが、通っている社交ダンスサークルも気に入らない様子だし、友人になったはずの女も家に呼ぶでもない。長女が好意を寄せている男は婿養子に入っていたが奔放な妻に翻弄されて離婚は間近だが、留学を控えた息子のことが気がかりで離婚に踏み出せない。

長女は男のボランティア活動に付き合って山に同行しようと思うが、心配でならない母は許さないものの、男とその息子のことは気に入っていて、娘の相手に相応しいと思っているが。

ワタシのblogタイトルになってる「休むに似たり」( 1, 2) の結婚しないだか出来ないだかの人々(なぜか女性なんだけど)に共感しまくった世界から地続きな感じがすごくするのです。あの時は自分の恋だの結婚だのにもやもやしていたけれど、そこを過ぎて結婚をしていない人々、あるいは結婚していたとしても(その家庭の在りよう次第だけど)何かを抱えた人々がぎゅっと集まっていて、あの彼女、彼たちに再会出来た、そしてアタシはあの時と何も変わってないまま年月だけが過ぎていると云うことにあぜんとしつつ、物語にぐさぐさと来るのです。

母親が自分を心配する余りにかけてくる言葉がワタシの道や退路を塞いでいく感覚、かといってこちらが苛ついて少し言葉を強めれば傷ついてしまう距離感。アタシは実家を出てはいるし、近くなのにそうは戻りたくないなと思う感じ。結婚も子供も居ない、親子のままこの歳になってしまったゆえの距離感の変化に戸惑い、少し苛ついてしまう自分も嫌になる感覚、ああ、どこか自分のあれこれにピースがはまっていく感じ。それは決して気持ちいい体験ではないけれど、こうもスパスパっとハマっていくというのは、「休むに似たり」の時の感覚の再来なのです。作演が違うのに、役者だって二人が共通しているだけなのに、物語だって全然違うのに、「あの」世界と地続きと感じてしまうのです。

男が命を落とした後、その恋人である長女と母親のシーンが圧巻です。「だから山は危ないと云ったじゃない、彼はお気の毒だけれど、あなたを行かせなくてよかった、自分は正しかった」、というのはまったくその通りなのだけれど、この瞬間にアタシの悲しみより先にそれを云うのかという長女が感じる腹立たしさ。何か具体的な体験に重なるわけじゃ亡いけれど、タイミングが違うから腹を立ててしまう感覚は、自分の幼さも感じつつ、腑に落ちてしまって、いちいち距離感が掴めない感じもまた、「休むに似たり」に似てる感覚なのです。

長女を演じた歌川椎子とその想いを寄せる男を演じた久松信美の二人がきっちり「じてキン」ワールドをつくります。もはや初老の域に入ろうかという感じだけれど、やっぱり「のんびり」生きてきたんだろうと思わせる感じ。もちろん、物語はずっとシリアスだけれど。母親を演じた天光真弓の品の良さとどこか独裁的でワガママな感じはまるでお姫様ともいえる造型でリアルに。妹を演じた弘中麻紀は笑顔で居続けることが似合う女優なのだけど、むしろもうすこしヒールに造型していて新鮮。その娘を演じた大村沙亜子は健気さが印象的、男の息子を演じた仲井真徹は次世代というものを体現するようなしっかりした若者でカッコイイ。松坂早苗はどこか飛び道具なポジションだけれど、異質なものが紛れ込む面白さ。

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2014.09.22

【芝居】「ヒヨコマメスープの味」もじゃもじゃ頭とへらへら眼鏡

2014.9.15 14:00 [CoRich]

へらへら眼鏡と名乗る河田唱子と、もじゃもじゃ頭を名乗る笹浦暢大の作演ユニットによる初の長編、120分。11月末で閉館の決まった相鉄本多劇場で15日まで。

飛ぶ鳥を落とす勢いのIT企業、若い女子社員がチームリーダーに抜擢されたのは、業績の思わしくない通販部門だった。初日に連れてこられた地下倉庫で、前任者が粗相をして仲違いしたひよこ豆農家から納入されていた大量の豆はこれまた前任者の粗相により腐り始めていた。一晩でまともな状態のものを選り分けて農家に返すことで損失を少しでも減らすことが最初の仕事だった。
部下はアルバイトのみ。7年勤め続け社員への道を夢見る女は頑張る気満々、詩人を名乗る男は醒めて無理だという。約束があるという女、ぽーっとして見える女、物腰の低い年嵩の男。更にキャピキャピとした派遣社員の女たちも手伝うと言い出す。

作家自身が当日パンフで自覚しているとおり、 いわゆる「会社」の事を描く芝居はそもそも少ない のですが、たいていの場合は「切られる側」のアルバイトとか派遣社員という視点で描く芝居が多い気がします。ちょっと昔なら芝居に限らず映画だってドラマだって全員が正社員で女子は腰掛け前提、みたいなステロタイプなもので普通を描けていたし、「ショムニ」とか「ハケンの品格」あたりまではなんとか描けても、昨今の現実は雇用形態が更にバラバラで、さらに女性でもきっちり働くようになっている現場もある、いわゆる「オフィス」のニュアンスを描くのは、苦労が多い割に地味になりがちですが、(当日パンフによれば)作家自身が見てきたことを、箱庭のようなコンパクトな感じではあるけれど、きっちりと描くのです。

「豆を選り分ける作業」という非日常のイベントではあるけれど、いくつもの雇用形態で働く人々、あるいはパワハラ、セクハラだったり、ちょっとしたブラックを匂わせる会社をぎゅっと背景に描き込みつつ、人々の想いを描き出そうとしています。あからさまに理不尽な選り分け作業だけれど、情けないリーダーはそれでも前向きに仕事を前に転がそうと七転八倒し、アルバイトたちは醒めていたり文化祭よろしく遊び気分だったりはしながらも、リーダーの熱心さにほだされいつしかチームになっていく、という、たった一晩だけれど確実に成長していく成長譚にもなってい いるし、それを支えたアルバイトとたちは一人は社員になるけれど、他はみなサッパリとして去って行くのがどこか西部劇の幕切れのようでカッコイイ。

正直に云えば、 誰もが知る大きな会社の通販の在庫を賃料の高そうなオフィスである自分の会社の中でやってるのだろうかとか、業績が悪いとは云え物量として100kg以上あったとしてもこんな量じゃ少ないんじゃないかとか、いろいろ突っ込みどころはなくはないのです。でも確かに大量の豆とか、こういう無駄っぽいことが芝居の醍醐味で、土手が出現してみたり大量の砂が敷き詰められたりというこの劇場のあれこれを思い出してしまうのです。初めて来たときとかその劇団が解散したときとか、わたしのblogタイトルに繋がる公演の原型とか、この劇場への想いも重なってしまうのです。

延々と続く選り分け作業の地味な絵の中での会話劇のようなものを期待していたアタシにとっては、期待していた物とはちょっと別の物だったのだけれど、若い作家がちゃんとワタシから見える風景に地続きと思える説得力をもった芝居を描いているということが、嬉しく思うのです。もちろん描いてる風景は決していい風景、というわけではないのだけれど。

頑張る女の子を演じた中山泰香はかわいらしく、まっすぐな造型をしっかり。詩人を演じた鈴木利典は斜に構えてるけれど優しい男がかっこいいし、不倫になやむ人妻を演じたannaの色香、腰の低い入れ墨男を演じた織田裕之の振り幅、バイト7年目の真っ直ぐな女を演じた伊藤南咲、ちょっと軽い感じで前任者の動向をfacebookでみて報告しちゃう三枝ゆきの、それぞれのキャラクタ。その前任者を演じた緑慎一郎は結果的に転換の間をつなぐような役割を担う無茶振りだけれど、コーヒーブレークのようで楽しい。

2014.09.19

【芝居】「姦〜よこしま〜」ロ字ック

2014.9.14 17:00 [CoRich]

女優三人による企画公演。外部の作演による二本と、座付き作家による一本で構成する85分。15日まで空洞。

好意を寄せている男を飲みに誘い終電がなくなって自分の家に誘うことに成功した女。男はまずいと思いながらも下心はさらさらないが、女はもうどうにかしたくて仕方がなくて「女の挫折から再生まで」(作・演出/名嘉友美)
裸で縛られている男のまわりで姉妹が調理の準備を始める。山奥で暮らすこの姉妹は旅人を食らうのだという。必死で命乞いする男だが姉妹はやめる気配はない。が、静かな妹は男と同級生だったと云うが。「山奥の多部田姉妹」(作・演出/野田慈伸)
風俗店の待機部屋。中国人の女、色気過剰の女、悪役レスラーと陰口を叩かれる女がいる。中国女のうるささが我慢ならない女はだったが、女同士の職場、陰口、男の切れ目、セックス好きあれこれ。「姦ーガール・ガール・ガール」(作/山田佳奈)

「女の〜」は、下心いっぱいの女が好意を寄せた男を家に招いてのあれこれ。前半のそれぞれの感情をダダ漏れに普通の台詞のごとく発話して、同じ風景を下心いっぱいの女と、そこから逃れようとする男の視点のずれを自然にみせていておもしろい。 何をいっても自分が選ばれなかったといい自尊心が傷つけられたと泣いている女が何をいっても言葉を理解できずに自分が魅力的じゃないというところに着地するという交わらない会話を延々繰り返す面倒な感じがちょっとすごい。手を繋いで寝てほしいという女の頼みすら、嫌いではないけれど、手を握ったらもうなるようになってしまうと諭す男の正直さも説得力があります。
役名が役者名にしてほんとうにそういう人かもしれないと思わせるのは作家の一つの得意なパターンで、それを外部の作演に持ってくるのは巧い。女を演じた小野寺ずるも「キチガイ役ばかり」という台詞もきっとこの劇団を見続けている観客にリーチすると思うのですが、今作の中では可愛らしい女の子に造形されて愛おしい。男を演じた細谷貴宏は理性的である男という説得力、しっかり。

「山奥〜」は半裸の男にケチャップやマヨネーズヌルヌル、泣き叫ぶ情けない男というバラエティ番組的なインパクトの強さと、好きだという想いを抱く純情な女がそれでも食べるしかない性(さが)という悲劇が物語の骨格。痩せた男とぽっちゃりした女の対比でもあります。正直にいえば、恋する女の子なのか、もうちょっと大人か恋心かのどちらかに振り切ったほうが楽しい気はするし、ヌルヌルのあれこれが少々長く感じたりもします。姉を演じた梨木智香はどこまでも清々しく梨木智香な造形がこの異常な状況でも嬉々として変わらないというのが逆にすごい。観ているだけで嬉しくなってしまいます。妹を演じた日高ボブ美は純情さの造形、劇団での普段のポジションがどうかはわからないけれど、見た目には純情が素の雰囲気に見えるのでそういう意味ではインパクトという点で損をしている感じもします。男を演じた猪股和磨はやや舌足らずの情けない男という役だけれど、腹筋がやけに格好良かったりして、やけにそこに目がいってしまうアタシもどうなんだ。

「姦〜」は「女を売る職場」のあれこれ。企画に参加した三人の女優と、普段は出演もしている作演を兼ねる主宰のホンでの一本。女優たちの特性で描いたのか、女優たちの劇団での立ち位置を描いたのか、あるいはこういう女居るよねぇ、ということなのか真意が今一つ判らないけれど、それぞれの女優のショーケースのようで楽しい。中国女とか、いらいらしてる女とか、大人っぽい色気だけれど小狡い女という造形は確かに女優の雰囲気にあっているのだけれど、少々ステロタイプではあって、顔見せ以上にはならないのが、惜しいといえば惜しい。

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【芝居】「醜い男」冨士山アネット

2014.9.14 15:00 [CoRich]

ダンス中心の公演が多いユニットが、台詞主体の演劇上演する企画公演、Manosと銘打って。85分。16日まで東京芸術劇場アトリエイースト、そのあと福岡、京都。

工業用のプラグを開発する会社。画期的な新製品を学会発表する出張に選ばれたのは開発を主導した男ではなく、若い助手だった。納得がいかない開発者は社長に詰め寄る。彼の口から発せられたのは、顔があまりに醜くて、製品が売れないからだ、という。帰宅して妻を問いただすと、慣れたし愛しているけれど、夫の顔は醜いのは厳然たる事実なのだという。形成外科手術を受けることを決め、その結果は奇跡的な大成功で、元の顔は微塵も残らず、誰もが見惚れる美しい顔になった。製品の発表プレゼンも大成功で、取引先の女社長は顔に惚れ込み男を自室に呼ぶ。男は製品のプレゼンばかりでなく、整形をした医者の発表にも同行し熱狂をもって迎えられるうち、女たちがすり寄ってくるのは当たり前と感じるようになる。が、医者はその施術で、最初の男とまったく同じ顔の男を何人も作り出すようになり、その絶世に美しい男の顔は徐々に溢れるようになる。妻は同じ顔に整形した会社の若い助手と夫の区別がつかなくなるし、どちらでもいい、と言い出す。取引先の女社長は同じ顔の別の男を連れ込むばかりか、その息子まで同じ顔をに整形して。

いままで何度かの上演があるようですが、アタシは初見です。 90分にも満たない短い話、たった4人の座組で、濃密な物語。醜い男の整形によって成功の階段を上り有頂天になるが、その技術により全く同じ顔の量産で価値がインフレーションを起こすばかりか、自分とまったく同じ顔の別人たちと向き合う内に自分なのか他人なのかの境界が曖昧になっていく物語はどこかSFな雰囲気を纏い、実にわくわくします。

正直にいえば 自分と他人の境界がなくなって着地するのが、美しい自分が心底好きで、それは全く同じ顔の他人でも愛してしまうという自己愛で、それは気持ち悪いといえば気持ち悪いのだけれど、確かに見たことがないような着地点でちょっとすごい。

ダンスを得意としている演出家らしく、インスタレーションのような見た目の面白さも印象にのこります。とりわけ、整形手術のシーン、水槽の下からのカメラで水面の上の顔と水面に落とされたインクが模様をなしていき、それを紙に写しとっていくのは面白いアイディアだけれど、紙を持ち上げて吊したとたん乾いていないインクが垂れて造形が変わってしまうのは何か残念だし、二回目もその濁った水でもういちど繰り返すというのは、必ずしも効果的ではない気がします。濁ったという意味で「量産型」のダメさを描くという意図があるのかもしれませんが、そういうことを要求している物語ではない気がします。

醜かった男を演じた板倉チヒロは、実直なエンジニアというスタートから、醜さに気づかされ自己評価がたたき落とされた時の情けなさのコミカルがどこか救われる感じだけれど、整形後包帯がとれるまでの不安を経てあり得ない美形になったときの天狗っぷりがまた腹立たしいほどに決まるのがかっこいい。このふれ幅を同じ顔なのにきっちり表現してしまうのです。妻と取引先の(見た目は若いのに醜悪な内面の)老いた女社長を演じた中林舞は見惚れるほど美しく、濃密に色っぽくて腰が浮いてしまうよう(という感想もどうかと思うけれど)。社長や医者を演じた大原研二はその時々で豹変していく軽々しい感じが人物の造形としてよくあっています。若い助手と社長の息子を演じた福原冠はどこか意地悪で幼い造形はこの座組の中だからかもしれないけれど、主人公の逆相の立場という助手はある種ヒールだし、社長の息子が同じ顔になって自己愛のように解け合ってしまうというある種の「不気味の谷」を越えたように錯覚するのはなぜなんだろう。

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【芝居】「朝日のような夕日をつれて 2014」 Kokami Network/サードステージ

2014.9.13 18:00 [CoRich]

凱旋公演となる東京追加公演の千秋楽。この物語に魅入られたとおぼしき満員の観客はお祭りでもあって。中央ブロック2列目に潜り込んだアタシ(何度も通うサンシャイン劇場だけれど、たぶんアタシ史上もっとも前列だ)は、この濃い芝居の濃密さが楽しいのは、前回もうすこし引いて全体像が見えているから、ともいえます。

もちろん安定の役者たち。アドリブに見えて精密に作られた芝居は変わりなく安定、と思いきや。巨大ドッチボールが照明機材を倒してみたり、ボール遊びで天井に向かって投げるボールが照明機材に当たってみたりというちょっとしたアクシデント。もちろん沸く客席だけれど、それを引きずらないのは、もしかしてもれも仕込んだかと思わせてしまうぐらいに安定していて。紀ノ国屋ホールではあった、ライトのついたリフトでマーケッター(モニター)が降りてくるシーンもスポットライトに台というだけで、このシーンの印象が強烈なアタシには少々寂しい感じではあります。友人に聞いてみれば、ほかの劇場では変えていることもあるようです。

そういえばオフ会常連だったな昔の仲間と久々に同じステージを見て感想を述べるけれど、あの時とは違ってそれぞれに帰る感じ、というのは劇中で「もう帰っちゃうのか」と呟くシーンに重なります。アタシはいつまでこうしてゴドーを待つのだろうとか思ったり、思わなかったり。

今回の上演でやっとこさ物語のアウトラインを、有限な要素の組み合わせは無限とも思われるほどに及ぶけれど、いつかきっとまた同じ組み合わせが現れる、それを待ち続けるのだと感じ取ったアタシです。そう考えれば別れてしまった女性のことを延々考え続けるということを骨格の一つに鴻上尚史が拘り続ける 物語の断片で、噛めばかむほど味が出てくるなぁと思うのです。更に、作家が感じるテクノロジの進歩を物語に組み入れることが運命づけられた「朝日」は、その時代を写しとって変化していくおもしろさもあって、作家がどうテクノロジーと時代を描いていくのだろうという点で、これからも観たい物語の一つなのです。

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【芝居】「わが友ヒットラー」風琴工房

2014.9.13 14:00 [CoRich]

三島由紀夫の戯曲を濃密な空間で上演。130分。14日までTRUMP ROOM

読んでないと公言するのは少々恥ずかしいほど有名な戯曲なうえに、いわゆる「長いナイフの夜事件」自体の知識もないままに上演に向き合うのは少々無謀だった気もします。濃密な台詞を少人数で語りきる会話劇はその駆け引きも面白いけれど、むしろ物語の着地点を知ってるからこそそこに突き進んで行く人々の運命を感じながら観る方がさらに格別だったのではないか、という気はします。

レームが同性愛者であった、ということが史実(wikipedia)のようなのだけれど、ぼやっと観ていたからか、予備知識無しに観たアタシには「惚れ込んでいた」ことはわかっても、そこまでの特別な感情という感じではありませんでした。むしろもうちょっとクールに仲がよくて、ちょっと気のいいフラットな感じすら受けたのは、もしかしたらそういう意図の演出家も知れないなと思ったりもします。

風琴工房を見に行く、ということはかなりの部分、その劇世界をつくる「特別な場所」に呼んで貰うという楽しみがあります。パーティスペースだというTRUMP ROOMという場所は、ちょっと格段に凄くて、濃密な物語を更に濃密にするような濃さが魅力なのです。沢山の鏡やランプで彩られた空間は、きっとナチスドイツの雰囲気というのも違うけれど、でもなぜかしっくりと物語の世界の構成要素になるのです。 作家自身が行う場内誘導も、制作担当者も物語の世界観のままの衣装で、それは遊び心でもあるし、この場所の持つ雰囲気を最大限壊さないように、という注意深さでもあるのです。

ヒットラーを演じた古河耕史はどこまでもフラットに抑制の効いた造形が説得力を持ちます。レームを演じた浅倉洋介は気のいい、という印象が新鮮で、コミカルさを多く背負うのも見やすい。

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2014.09.15

【芝居】「無意味な花園」空想組曲

2014.9.7 16:00 [CoRich]

7日までサンモールスタジオ。105分。

地味に目立たないように暮らしていた高校の女教師は、近所のスーパーで男子生徒に声をかけられ、突然の大雨でずぶ濡れになった生徒を自分の家に上げてしまう。男子生徒は思わせぶりなそぶりで誘いつつも帰宅するが、携帯電話を忘れていく。翌日、男子生徒は再び家を訪れ、付き合っている女子高生は居るが自分が楽しいと思うことを理解して貰えないのだという。無意味だけれどやったらたのしそうなことをやる、というのが楽しいのだという。教師と付き合うのも、それを周囲にみせつけるような乱痴気騒ぎも意味なんかない。 戸惑いながらも、それまで「選ばれたことのなかった」女教師は、 男子生徒の思うツボにはまっていく。

婚期を逃し、静かに地味に目立たないように暮らしていた女の日常に踏み込んできた若い男。教師と生徒という関係を軽々と越えるばかりか、インモラルなことすらそれがおもしろければどんどん踏み込んでしまいます。若い男をまぶしく感じ、翻弄されることに最初は戸惑いながらも、どんどんのめり込んでいく感じ。美しくないわけではない女がなぜここまで拗らせてしまったのか、ということは終盤で明かされて、 それがどんなに忌み嫌われることだったとしても「選ばれなかった」という事実が彼女の中で醸されるうちに「選ばれるのは自分と違う人間なのだ」とまで凝り固まっていく に落とした影の根深さ。

男を家に上げる直前にあわてて片づける序幕はその理由が明かされないまま始まるけれど、まるで犯罪でも犯すかのような切迫感は並々ならぬ感じで、とても印象的なのです。時に無邪気そうに、その実計算高く女を仕留めようとさまざまなトラップをしかけ、はてはケイタイを忘れて帰るなんざ、作家の鬼畜な感覚 (失礼)がかいま見得るようで、おもしろい。

かとおもえば若い男も、その女を必要とはしていて、互いが互いを求めていくことはどんどん蛸壺にハマるように落ちていきます。それは常識という束縛からの自由なのだと男はいい、女にとっての新しい人生の誕生日なのだという甘いささやき。が、男はまたもう特別なことなんかなく、これから先おもしろいことなどなくて、明日からの余生を生きるという終盤もちょっとほろ苦くて好きです。それはほんとうなら思春期特有の万能感がはげ落ちていくような感覚でもあって、男の成長を予期させる幕切れなのです。 若くはない女を演じた松本紀保は出ずっぱりのまま、時に下着姿にまでなり、でも微妙に若いはじけるような体型でもなく、翻弄されまさに「よろめく」色っぽさにやけにひかれてしまうアタシです。若い男を演じた西井幸人ははじけるように飛び回り、ほんとうにきらきらしているのです。女子高生を演じた趣里が 女教師に向き合う時に対抗するために背伸びする感じが可愛らしい。男性教師を演じた瀧川英次は オジサン感と真面目さが目一杯で客席を沸かせます。

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【芝居】「止まらない子供たちが轢かれてゆく」Cui?

2014.9.7 14:00 [CoRich]

2013年のせんだい短編戯曲賞大賞となった二編のうちのひとつ。75分。 16日まで春風舎。そのあと仙台。

その小学校は教師のコントロールが効かなくなっており、教師は見て見ぬ振りをするなか児童たちによる学級裁判が全てを決めている。転校を間近に控えた女子児童が同級生からの手紙を捨てているのをみつかり、この裁判にかけられるが、その裁判を取り仕切っているように見えた男子児童は別の男子児童の筋書きに乗っているだけだった。二人の男子児童は些細なことで行き違い、傀儡の男子児童は激高して屋上に上がり誤って転落してしまうが命を取り留める。この学級裁判を始めたのはかつての児童で教師を退職に追い込んだりしていたが、教師に殴られ余儀なく留年した女子児童を守る機能としてこの仕組みを作り上げた。
いっぽうで、訴えられた女子児童の親はモンスターペアレントよろしく学校に乗り込み相手の親を締め上げる。 当日パンフで作家自身が言っているとおり、小学生という設定のわりには言葉が悉く大人びていて、ちょっと違和感があります。じっさいのところ、中学生、高校生だったとしても実はあまり違和感がなくて、子供がミドルティーン、ハイティーンだとしても十分に成り立つどころか、終幕直前で語られる、学級裁判を始めた男子とそれによって守られてる女子の関係など、小学生で成立しないわけではないけれど、 小学生という設定にしたがためのミスリードを誘っているようで 違和感があるのです。

詩的で少々抽象的だけれど心地の良い言葉が続く終盤。群唱があるからというわけじゃないとは思いますが、語っていることは全く違うのだけれど、どこか「朝日のような夕日をつれて」な雰囲気をまといます。いつか墜落するとしても全力で走っていればその間だけは飛んで止まるな、というのは子供に対する応援歌のようにも聞こえますが物語が子供たちに向き合っているかどうか、今ひとつぴんとこないのです。

とはいえ、スピード感溢れる序盤から中盤まではどこまでも緊張感が続くし、見た目にも面白い映像の効果を併用したりして吸い込まれるように観てしまいます。目線をいれて匿名の誰かを語らせるとか、リングを模したような黄色いテープも面白い。

転校する女子を演じた原田つむぎ、守られている女を演じた芝村薫の対決がカッコイイ。あからさまなモンスターペアレントな父を演じた中田麦平のパワー押しな感じもなかなかみられない役で面白い。

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2014.09.13

【芝居】「蕎麦屋の兄妹」あひるなんちゃら(男)

2014.9.6 19:00 [CoRich]

15日まで三鷹市芸術文化センター星のホール。続けてソワレは男版。

びっくりするのは、初日時点では、 女友達と男友達のセリフはある一カ所を除いて語尾まで変わらない。元々のあひるなんちゃらの台詞の特質ではあるのですが、男性と女性の語尾を変えることなく、自然な芝居が成立するという凄み。 両バージョンで共通の役者である兄妹は性差のあるセリフです。立ち位置はわりと自由に変えている印象なのです。

昼に観た フラットな印象の女版、とくに突っ込みな二人は静かに、フラットに。他も静かに狂い、ボケる。 それに対して、ダイナミックさが加わる男版。思いっきり叩くとか。 妹との関係に置いてお姫さまひとりの恋愛要素や、ホモソーシャル感をきれいに削ぎ落としているのもちょっとふしぎな空気感なのです。蕎麦打ちの弟子を演じた澤唯も楽しいし、堀靖明のキャラクタもぐっときます。

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2014.09.12

【芝居】「蕎麦屋の兄妹」あひるなんちゃら(女)

2014.9.6 15:00 [CoRich]

15日まで三鷹市芸術文化センター星のホール。70分。兄妹以外のキャストを変えた「男友達版」と交互上演。ネットでの感想を条件にしたニコニコキャンペーンは上品に小さく「あひる」マークが入った竹箸でした。例によってその回を撮って出しMP3音声販売(500円)を買って帰り道で聴いてしまうアタシです。

兄妹が実家を出て住んでいる。蕎麦屋を継がなかった二人だが、実家で修行している女が毎日蕎麦を持ってきているが、兄は味が分からないし、妹はもう完全に飽きている。そもそも持ってくる理由だって当の本人すらわからなくなってる。
兄がつとめている会社の昼休みのバレーボールで負けた罰ゲームとして、同僚たちを家につれてきて蕎麦を振る舞おうと考える。
妹は友達と徳川埋蔵金を探しているが、手がかりは希薄。そういえばリーダーを決めてなかったので妹は家に招いて蕎麦でも食べながら決めようと提案する。
家にあつまる人々。あまりに広いリビングにはしゃいだりもするが、なんか会社の人は怖いし、埋蔵金はほんとうにあるのかだってわからない。

就業規則には切腹禁止とか書いてない。百万とか子供かよ。お金ほしいひとになってるよ、ほしくない人なんかいないからね。徳川家康の誕生日、(スマホで検索して見せて)違うというのも楽しい。あるいは、 蕎麦なんか永久に食べられるよ。から、中学生の頃の体育教師にとんでもないバカがいたよね。懸垂なら永久にできる。とか更に、 会社のバレーボールも、徳川埋蔵金も昭和の風景でしょ。だったり、縄文時代のお金、 というボケ。 フラットな印象の女版、とくに突っ込みな二人は静かに、フラットに。他も静かに狂い、ボケる。 ダイナミックさが加わる男版。思いっきり叩くとか。 妹との関係に置いてお姫さまひとりの恋愛要素や、ホモソーシャル感をきれいに削ぎ落としているのもちょっとふしぎな空気感。 星のホールは、座席の傾斜が緩く、そのわりに舞台も客席もものすごくタッパがあるので、演劇で使う場合は、客席を特設してわざと狭く使うなどしないと、スカスカになりがちです。

彼らは、そのスカスカを逆手にとって、 あり得ないぐらい広いリビングルームとか、会社の屋上といった空間を設定。さらに、 舞台装置すらなく、フラットめな客席でも、芝居がスカスカにならない空間を作り出しています。この作戦がうまく行く例はあんまりなくて、新鮮なのだけれど、彼らの芝居が、この空間に対してスカスカにならない本当の理由はいくら考えても判らなくて不思議なのです。

兄妹と、出入りしている蕎麦修行中の人、兄の会社の同僚三人、妹の会社の同僚三人という構成になっています。それぞれのグループにボケる人二人と、ツッコむ人、となっていて、それぞれのグループの小さな会話も全員が集まるような会話も自在に構成できるのが巧い。

両方のバージョンに出演していて妹を演じた篠本美帆、ややワガママなキャラクタが良く合うのです。ややぽっちゃりなので、出捌けを歩く姿がホントに可愛らしくて、後ろの席の女性が思わず可愛い、と呟いてたりします。

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2014.09.10

【芝居】「こわくないこわくない」クロムモリブデン

2014.9.5 20:00 [CoRich]

ワタシが見るようになってからは出演者が最大の18名という公演。105分。15日までRED/THEATER。そのあとHEP HALL。

警察にやってきたヤンキー風の夫婦は子供が居なくなったと警察に届け出るが、いなくなってから10年も経っている。警官のひとりは自分が好きな児童ポルノで同じ顔をみかけたといい、さがしてみることにする。
近所の空き家に忍び込んだ若い夫婦は地下で女と暮らす子供たちを発見する。満足に教育も受けていないが、自分たちに子供ができないので一人をなんとか子供に向かい入れようと金を払う。夫には不倫の恋人が居て、彼女とドライブしている時に子供をひき殺してしまっている。
その女は現場で聞き取りを進めるうち、子供をひき殺された母親の家の使用人と知り合う。母親は犯人を殺そうと憎しみの矛先ダンスという鍛錬の日々を暮らしていた。犯人を見つけて差し出せば自分は救われるし報奨金も期待できる。 不倫相手の男の妻と知り合いになり、乗り込んでみれば、かなり成長している娘が家にいる。その娘を犯人の娘として差し出せば、子供を殺された母親から金が取れると画策して連れて行くが、憎しみより子供を自分の子としてくらすといいだす。
児童ポルノの餌食となる少女たちは、大人になる時期になるとお払い箱になり、「殺処分」の専門業者に引き渡す。地下室の少女たちももう引き渡される時期だ。 若い夫婦に引き取られた少女は、死を意識するようになり、離れているのに、殺処分業者に引き取られた少女と感応する。

コミカルな語り口ではあるけれど、物語の枠組みとしては児童ポルノにネグレクト、子供にたかる親といった具合に子供を巡って絶望的にひどいこの世を描きます。それなのに不思議と乾いた感じではあって、露悪的とも違うし何かの告発というのともちがう、子供たちに向けた作家の優しい視線すら感じる全体なのです。 早々に今の最悪な人生を見切って、未来に向けて生きていこう、いや、生きてるだけでまるもうけ なのだから、子供たちには未来があるという視点だなと感じるのです。 もっとも、終幕は先にある希望を描くようにも見えるけれど、どこか今作でのリアリティラインからも離れて夢想のよう。必ずしもハッピーエンドかは怪しいとも思ってるのだけれど。 あまりに酷い現実にはむしろそれが幸せというのはあまりに救いがない解釈か。

犬猫に対して使われる「殺処分」はつまり、ペットとして可愛がられることがなくなった動物がそうされるということで、「大人になって児童ポルノの対象でなくなった」こどもがそうされるという相似形として描かれます。もっとも、大人の都合で子供たちを欲しいと思ったり、何かの穴埋めにしよう、というのはペットのそれの相似形でもあって、 そう思って当日パンフの作家の言葉は、猫づくし。そうか、もしかしたら子供の酷い話を描きつつ、実はこれ猫のことを描いているんじゃないか、とも思ったりします。 猫だって変わらないじゃん、なんで猫は殺していいのかというような。ギリギリの危ない描き方だと思うけれど、そう考えるとチラシだって猫だし。

幸田尚子は美しく、しかしやや狂い気味、を戯画的に。ダンスも楽しい。葛木英のやや不幸な女っていう造型は珍しくて喜んで見てしまうアタシです。若い妻を演じた渡邉とかげの真っ直ぐさ、(野良猫的な子供なら)連れ帰っちゃおうというというのも猫の相似形。あからさまにキチガイな男を演じた久保貫太郎はぶれること無くフラットでキチガイで居続けるのが凄い。殺処分の男を演じた花戸祐介は中盤、女の子に翻弄される感じもいい。三人の子供のセンターを演じた川村紗也はイノセントな子供は確かに得意技で安定。

ネタバレかも。

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2014.09.06

【芝居】「戦国西遊記」サムライナッツ

2014.8.30 18:00 [CoRich]

長野県駒ヶ根市の劇団。アタシは初見です。31日まで 駒ヶ根市文化会館。休憩15分を挟み190分。2ステージとはいえ、1000人のホールが8割強埋まる初日でした。

暗黒の獣の虜となった信長軍の焼き討ちにあった高遠城から逃げ延びた松姫は亡き父・信玄の亡霊と出会う。暗黒の獣を討つ父の願いをかなえるため、猿・猪ら従者と出会いながら西へ、本能寺で対峙する。 旗揚げから三年目、年二回の公演のうち、大劇場で行う夏公演はいままで、劇団新感線の「五右衛門ロック」などを上演してきたそうで夏公演としては初めてのオリジナル脚本となる今作も、基本的にはその路線を踏襲しています。高遠城など地元信州の物語と、西遊記のアクション活劇を組み合わせ、長尺の物語を「いのうえ歌舞伎風」に語りきります。大ステージにミューカル風のワイヤレスマイク、派手なライティングもあるおかげできっちりとしたエンタメ活劇は見応えがあるのです。 劇団員もそれなりの人数で、公演がそうおおいわけでもありませんから、どうしても役者に役を与えるために作られた、という役がある雰囲気なのは否めませんし、それゆえに上演時間が長くなっていることも事実だと思います。役者の演技の技量も決して揃っているとはいえません。 が、決して演劇が盛んというわけではない地方都市で劇団という形を維持するために必要なことではあるし、そういう役だとしても物語の中核を担わないだけで、役のキャラクタを丁寧に作っているという印象はあって、決して印象は悪くありません。

物語に大きくかかわるわけではないけれど、行脚で出会う人々だったり、ダンサーとしてだったり、派手なアクションの殺陣だったり、あるいはあきらかに子供だったりと物語にそれぞれきちんとせめてミニマムな物語を与えているのは暖かい感じがします。

物語はといえば、まあ、たしかにいのうえ歌舞伎風味。今の新感線は役者の力が圧巻ですが、今作はそういう意味では物語の地肌が出ている感じ。エンタメだけれど登場人物が多く、結果的にメリハリが少なくなっている感じは否めません。西遊記も高遠城も、あるいは明智光秀や織田家など、さまざまな要素を盛り込んでいて、それでもそんなに物語が混乱しないのはたいしたものです。

松姫を演じた真望は美しく凛として。猿(孫悟空な)を演じた中村遼はコミカルも殺陣もしっかり、しかもちゃんと格好良い。濃姫を演じた鈴木里美はほぼ悪魔という無茶な設定だけれどそれをきっちりと背負い、迫力もあって印象的で確かに看板の見栄。武田信玄を演じた村上忍は、禿げた頭で笑いをとりつつ、しっかりと優しい亡父の姿を。

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【芝居】「海賊屋万次郎がゆく」ナミチョウ関係

2014.8.24 18:00 [CoRich]

31日までワンズスタジオ。135分。

川縁に住むホームレスが作家を呼び止める。作家は大きな家の生まれだが、その先祖と自分には浅からぬ縁があるのだという。
みなしごだった男は引き取られて、海賊となったが、自分を解放するのは金しかないと考え金に固執してきた。親に捨てられた男を引き取り、心を許したのはその男だけだった。
一家ががずっと探してきた幻の財宝がを探し求めている。ある日商人から買い取った女の胸元に地図が現れるが、それはすぐに消えてしまう。「浮き墨」で書かれているらしいが単に温度を上げて地図は現れない。義兄弟もその女に目を付けるが、それは恋仲の中国人の女にそそのかされてのことだった。幻の財宝の地図をめぐって争うふたりだが、そこに手下であったはずの韓国人の男が好機とみて、皆を監禁する。理想国家建設のための資金集めの命を受けていて、絶体絶命と思われたが..

ミュージカル風味に味付けされたしかし荒唐無稽な冒険活劇はしっかりとエンタメ。もちろんリアルとは違うのだけれど、物語の運びは丁寧で、 海賊活劇、謎の財宝、義兄弟や母親、はたまた怪しい外国人や陰謀渦巻くものがたり、コミカルで不器用な恋物語や謎解きっぽいギミックなど盛りだくさん。2時間超えだけれど、特徴ある登場人物たちは魅力的で飽きることがありません。

最後の最後で明かされる万次郎の正体。それぞれの場面にすこしばかり唐突な伏線をちりばめておいて、いちいちそれぞれの場面をリプレイしてみせるのはちょっと面白い。コミカルさでいえば、松葉一刀流なる剣術の技がいちいち「松葉崩し」だの「松茸の雫」だの下ネタっぽかったり、あるいは「恋の応援団長」とか「裏切りは女のアクセサリ」だの少々手垢のついたような小洒落た言葉を挟んだり、あるいは時代背景はいい加減だと宣言したり、大風呂敷を広げすぎて収拾が付かなくなりがち、とメタなセリフを挟んだりと、楽しい小ネタがてんこ盛りで、これも長い時間にもかかわらず飽きない要素ということかもしれません。

なんか微妙にいろいろ物語を途中で放り出しっぱなしなところが残ってる気はしますが、まあ、こういう荒唐無稽、そこにツッコむのは野暮という気がします。

卑怯で自分のことばかり考えている中国女、という体裁で登場しつつも、下ネタたっぷりなセリフだったり、時に不器用な女の恋を応援したり、あるいはこじゃれたセリフをいってみたり、という振り幅広い女をキャラクタたっぷりに演じた今藤洋子が印象的です。少々器用に過ぎるのではないかとおもわないことはないのですが。海賊が心を許した男を演じた坂口候一は序盤のホームレス、中盤の小物感から終盤の決め台詞の格好良さや容赦無さ、振れ幅が凄くて、カッコイイ。 入れ墨の女を演じた幸田明音の表情の鋭さ、松葉一刀流を演じた武田優子のツンデレキャラも実に楽しく、凛々しい。

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2014.09.02

【芝居】「私の嫌いな女の名前、全部貴方に教えてあげる。」月刊「根本宗子」

2014.8.24 14:30 [CoRich]

31日までテアトルBONBON。前売りは全ステージ完売で、当日券は用意されていたようです。

西麻布の店、深夜。キャバ嬢が飲み会をしている。好意を持ってる男がセッティングした飲み会のゲストの男はたった一人だったが、メジャーデビューを間近に控えたアイドルバンドのボーカルだった。積極的に知り合いになりたいと色目を使う女、飲み会にそもそも誘われてないのに来てる女、好意を持ってきてる男を使うだけ使ってるのに恋人と公表するのは恥ずかしい女、いつもちょっと距離を置いてすましてる女、あんまり酒も強くないけれど男受けのいい女たち。
カラオケでかなり盛り上がったところで乱入してきたファンの女に腹を立てて化粧室に籠もった男だったが、そのあと化粧室に入ってきた女と寄った勢いで口説いて、キスをしてしまう。
店員はその男の恋人と友達で、その様子を電話してしまって3ヶ月。恋人は男を許すことができずにずっと責めつづけている。キスだけではなかったことを知り、喧嘩はさらにエスカレートして。

梨木・根本は役名と役者名がそのままに、しかも小劇場の女優と劇作家という肩書きだったり、NHKへのあれこれという現実にリンクするような話題もからんでいて(終幕近く、互いに電話しようか逡巡するシーンが好きです)。当日パンフや有料パンフを眺めると本当に何かあったんではないだろうか、と思わせるに十分なあれこれ。他の役名ももしかしてあの人?、という感じすらして観客の妄想だって膨らんでしまいます。自分の恋愛事情、失恋などを題材にして切り売りするというのは数あれど、ここまであからさまにというのは珍しい。

女の子女の子している彼氏の浮気相手の女に対しても、あっさり寝てしまう彼氏に対しても作家は腹を立てているけれど、その他の女たち、たとえば友達が出来ないのを恐れ空気読めない風を装ってウザがられる女にしても、距離感掴めずに近づいてきて自分こそが支えているんだと信じて疑わないファンの女にしても、彼氏あしらいが少々ひどい女にしても、あるいは仕切りたがりだったり、距離を置いてる風だったりと、まあ気にくわないキャラクタのオンパレード。まさか舞台の終幕のような惨殺を実際にするわけではないけれど、作家が実は心の中ではやってそうだというのも、まあ一種の自分の切り売りといえるかもしれません。

女たちの立ち位置が織りなすあれこれという前半の部分は、単に後半の物語のための布石にとどまらず見応えがあります。それぞれの人物の描き込み方の深さに少々差があるのは気になりますが、誘われていないのに空気読めないフリしてともかく参加してこようとする「キティ婆」(墨井鯨子)はともかくインパクトがありますが、それは空気が読めないのでは無くて、嫌われ避けられていることは自覚しつつ友達を作れないという事への強い恐怖からともかく誰かと繋がっているためにそうしているのだ、というあたりの作り方はちょっといい。ファンなんだけどちょっと距離感がおかしいとか、同じ呑み会で話しかけたいのにそれが叶わないなど、「嫌いな女の名前全部」といってるわりにはその背景が見えるようなどこか優しい視点もあったりします。まあ、それは現実のモデルのキャラクタというよりは、作家が自覚してる自分のちょっとかわいそうな感じを裏打ちして女たちのキャラクタに深みを持たせていると云うことかもしれません。

浮気されている事も悲しいけれど、それを3ヶ月も責め立て続けるということのある種の異常さだって作家の自覚かも知れません。ただ、その結果とはいえ、「そんな汚い言葉で怒鳴る男だなんてこと知らなかったし知りたくなかった、浮気されたことよりも それが悲しい」というのもまた作家の偽らざる気持ち、という気はします。 まるで何か現実にあったことを作家が書いているという前提でこの文章を書きつつ、これそのものが現実にあった話しかどうかなんてことは知る由も無く、これぜんぶ作家の妄想ということだってありうるので、まったくもってこの作家、油断できないわけですが、 これが全部嘘だったとしても、ホントだったとしても、やりたい放題やってる感がドスンと効いていて、なんか腹が据わってるなぁというのは、この作品の魅力なのです。

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【芝居】「台所の女たちへ」青年座

2014.8.23 16:00 [CoRich]

ONEOR8の田村孝裕の作演による新作。青年座の役者による三連続企画公演の最後を飾る120分。31日まで青年座劇場。 大きな会社の三代目だった男の通夜振舞いの台所。喪主である妻のほか、三人の妹たちとその娘たち、最期まで面倒をみたヘルパーなど女たちが出入りしている。 しっかり者の長女、 おっとりしている次女、ちょっとがさつな感じでもある三女たちそれぞれの娘もいい歳になっている。離婚、浮気、近づく介護、不倫の末の妊娠。
40年前の先代の葬式のとき、同じ台所。喪主の三代目と妹たちはまだ若い。世襲の跡取りができず、先代は三代目に別の女と関係を持たせていたが、先代が亡くなりその女が乗り込んでくる。

通夜振舞いの台所に集う女たち、2014年と1974年という二つの時代を行き来しながら女たちの成長と加齢をベースに、 元家政婦の長兄の嫁、夫に居る女のことを知っていても受け入れるしかなかったあの時代から、生き抜いて笑いあえる女たちの力強さを軸に描きます。 2014年は母と娘たちで、1974年はその娘を演じた役者たちが母の若い頃を演じるというギミックが面白い。若さそのものだってもちろん一つの価値なので、 それは時の流れの残酷さといえばそうだけれど、単に加齢のもの悲しさというわけではありません。 いつまで経ってもトイレを巡り小競り合いする姉妹たち、あるいは母に厳しく当たる娘など、それぞれの人生で変わること、変わらないことを重ね合わせて。それでもガハハと笑える女たちをみるとこちらも元気になるような圧倒的な力を持ちます。

40年の時代を経た女たちの両方を劇団メンバーだけでまかなえるのは青年座の役者やスタッフの厚み。新劇の劇団とはいえ、さまざまなチャレンジを続け来た劇団ではあって、そこにあえて若い作家で新劇っぽいものをというのもまた面白い感じ。なにより安定していて、おそらくは観客の間口も広くて、年齢を重ねた女性こそ。映像でも面白そうな感じはするけれど、役者が二つの役というギミックの面白さは舞台だからこそだよなぁとも思うのです。たったひとりの男の甲斐性の無さも、今っぽい感じではあって、今作においてはうまく効いています。

唯一の男を演じた山崎秀樹のトホホな感じが楽しく。母に強くあたる娘を演じた小林さやか、若い時のおっとりした感じとの振り幅。かつて乗り込んできた女を演じたひがし由貴のつんとした感じ、ガハハキャラを演じつつも可愛らしさの残る尾身美詞の声が印象的。

物語と直接関係はないのだけれど、幕開け、両側の袖幕から女優たちが揃って出てくるシーンがとても格好良くてなぜか西部劇すら思い出します。それだけの年月を重ねてきた女たちを、格好良く見せる、というのはタイトルにあえて「女たち【へ】」としたのは、女たちへ贈る何かという 作演の視線なのだな、と思ったりもします。

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2014.09.01

【芝居】「アタマ、大丈夫」艶∞ポリス

2014.8.22 20:00 [CoRich]

休演日を挟んで28日までサラヴァ東京。90分。渋谷で20時開演がアタシには(渋谷駅からはやや遠くても)嬉しい。

1)ホテルの訳あり男女、実はちゃんと相手のことがわかってない。しかも新婚の男は彼女からの電話に出た挙げ句。
2)ウェディングプランナーに相談に来たカップル。持ってきた曲はすべて却下され、女は面白くない。まして、妙な提案まで
3)病院を併設しケアができるペットショップの待合室。飼い主と犬が三組。CMが決まったタレント犬、雑誌に載った雌犬、なんかぼやっとした犬。鼻にかけたタレント犬は言いがかりをつけて。
4)幼稚園の朝。母親が先生に話があると呼び出す。強い調子にならないよう注意深く言葉を選ぶ母親は、自分の娘がいじめられている、と言い出す。
5)幼稚園で遊んでるこどもたち。ひとり女の子が自分の遊びたいことばかりやるけれど、まわりも追従する。やがて、「銀座ごっこ」をするといいだす。

ゆるやかに登場人物を共有する5つの風景という構成。 キャスト表は、上から初めて出てくるキャラクタに対して役者を紐づける、という感じで書かれています。小劇場のオムニバスの常として、一人の役者が別の役を兼ねていて、それはその都度紹介しつつも、役の上で同じ役者が同じ役を演じる場合はそれを繰り返さない、という配役の書き方はその意図もルールも実ははっきりしています。最初こそ戸惑うものの、配役表の意図がすっと(少なくともアタシには)わかるというのが嬉しい気がします。

(1)は序盤らしく、ビンテージファッションの女とパンツ一丁な男のプレイ。商売ではなくてワケアリの二人実は互いの性癖がわかってなったりという序盤から、男は新婚で妻のことも気になっていて、女は言い出せないけれど自分の誕生日でという二人の関係とその外側に居る人物たちへのスタート地点となります。最初らしくインパクトで押すのもいいし、終盤で女が見せる微妙な表情もいい。全体の終幕でキックをかますのもカッコイイ。

(2)は(1)の男と、その妻との結婚前、ウエディングプランナーとの相談の場面。出来る女ふうのウエディングプランナーがこの夫婦の考えて来た披露宴の選曲を、定番過ぎるとかアーティスト離婚してるとかことごとく却下する序盤。不満の溜まる妻と、ウエディングプランナー二人きりのわかりやすい女の火花の中盤が圧巻。言葉そのものは普通に年上とか、結婚するとかしないとかネイルとかを褒め合ってるだけなのだけれど、そこにいちいち自分が優位に立つための一言を挟んでマウンティングしまくる会話のキレがいい。終盤では、そのプランナーの提案があからさまにキチガイのそれにという狂いっぷりも見事。全体の中では(5)の女の子の成長後ということと、(1)の男の妻への顔という役割。

(3)は犬を連れた女たちの、これも女たちのマウンティングの会話なのだけれど、その関係が波及したりしなかったりする犬たちも俳優が演じて、雄2×雌1の駆け引きを重ね合わせます。セレブ犬だったり、清楚に見える雌の恥ずかしい性癖だったり、あからさまに馬鹿犬っぽいのにちょっと格好良かったり。ぼんくらがヒーローってのはいいもんですし、あっさりとフラれちゃう終盤のすとんと落とす感じは、よくあるといえばそうだけれど、気持ちがいいリズムです。全体の中では(1)の女、(2)でちょとだけ現れる女を結びつけるぐらいの役割しか担わないけれど。

(4)は下手に出ているようでその実モンスターペアレントな母親と幼稚園の先生たち。自分の娘がいじめられている、だからクラス替えしてくれという要求に見えて、自分の娘だけじゃかわいそうだから全シャッフルしろというエスカレート具合が(5)への繋がりになります。格好良く「退治」した男がマザコンだという幕切れもわかりやすい。(1)の妻の更に前日譚という繋がりにもなっています。

(5)はそのモンスターペアレントの娘と周囲の子供たちの遊びの風景。全てはその女の子のワガママし放題ということなんだけれど、突然始める「銀座(のクラブ)ごっこ」で男に貢がせるように、何か持ち物を女たちに贈らせるというのを遊びにしちゃう発想の面白さ。まあ、それは妖怪ウォッチだったり(なぜかダンスが混じったりする)するけれど彼らにとっては「価値」があるわけで。それを取り仕切るワガママな女の子が成長した(2)の偽プランナーという構成。

脚本演出を兼ねる岸本鮎佳のキチガイキャラクタがまあともかく凄い。(3)で馬鹿犬を演じた谷戸亮太のぼんやりした前半とキリッと決まる後半もイズんほうてき。新婚妻を演じた服部レオナが(3)で雌犬ってのも微妙にエロくてなんかいいじゃないですか。

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