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2014.05.29

【芝居】「いつか、どこかに」グループK

2014.5.25 14:00 [CoRich]

スタインベックの「二十日鼠と人間」を原作(wikipedia)にひいて津波に沈んだ新宿を舞台に置き換えた110分。25日まで笹塚ファクトリー。

震災で関東が壊滅する。被災地処理のための労働者と彼らを相手にする商売をするものだけが関東に残っている。頭が弱いが優しい大男と、頭の回る男の二人組が仕事を求めてこの地にやってくる。大男はあちこちでトラブルを起こし、生き物の毛皮の手触りが好きだが力余って殺してしまうが、頭の中にはやさしいおばさんと殺してしまったネズミが居て会話している。頭の回る男は金を貯めて南の島で静かに暮らす日々の夢を語って聴かせる。
果たして現場で雇われることが決まる。社長の息子は元ボクシング選手だが現場の男たちからはバカにされている。その妻は魅力的な女で現場の力強い男たちを誘惑している。妻は大男を誘惑するが、大男は殺してしまい、現場の男たちからも追われる身になる。頭の回る男は、おばさんから大男を守るように云われていてずっとそれを守ってきたが、ついに大男に銃口を向ける。

原作を引きながら、舞台を災害のあとの日本という近未来に設定。男の労働者ばかり、楽しく働いてはいるけれど、這い上がることが出来ない閉塞感を通り過ぎてもう諦めて日々を暮らしている人々。二人組はいつか、こういう暮らしから抜け出して穏やかに暮らすことを夢見ている、それに乗ろうとする人も居たりして上手くいきそうになるけれど、あっさりとその夢は破れて二人組の相方との別れが来る、という枠組みは同じで、丁寧に積み上げていくように描きます。

もともとの物語の骨子を尊重しつつ日本における労働者階級、しかも男ばかりという場所を設定しようと考えたのでしょう。日本の、災害のあとのという場所を設定しています。正直にいえば、大げさに変えたわりには、それが必ずしも生きているとは言いがたい感じがあります。日本である必要はともかく、 (いくら近未来の架空のこととはいえ)今の日本で震災とか海に沈んだ町とか、というあからさまに 現実にリンクしたものを持ってきているわりには、物語が震災ということを生かし切れていないと思うのです。

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2014.05.28

【芝居】「ザ グレイト ハンティング」HOBO

2014.5.24 18:30 [CoRich]

おかやまはじめ主宰の劇団の新作。ワイルドになりきれないマイルドな話、という120分。25日まで駅前劇場。

ダムに沈む町のカフェ兼ペンション、出て行く人が多く限界集落の様相を呈している。かつてはダム反対で盛り上がり、東京からも多くの若者たちが訪れ中にはここで暮らすようになった者も居たが、そんな若者たちももう中年・初老といってもいい歳になってきた。カフェのオーナー夫婦も東京からやってきた若者だったが結婚してここに住んでいるが、訪れる客は少なく織物や銃やナイフへの彫金で生計を立てている。常連客は地元の農場を営んだり狩りをしている兄妹だが二人とも行き遅れている。もう一人の常連客は元ミュージシャンだがもう何年も曲は作っておらず、怪しい植物の栽培している。
大きなバイクで訪れた女はOLに疲れてここでしばらく働きたいといい、百科事典の訪問販売の仕事に疲れたという男は自殺を考えて近くの吊り橋にやってきた。古本屋を営む男は各地を巡って紀行文を書いたりしていて、ダムに沈むこの町を記録したいと通うようになり、IT業界を辞めて世界中を巡る若者は農場で働きたいとこの町を訪れる。 <-- 工事が始まり、徐々に湖に沈む。道路が付け替わりバスがなくなり、限界集落になっていく。 農場主の妹は世界を巡っていた男と結婚し子供ができ麓の大きな農場で手広く商売を始める。兄は仕方の無いこととおもいながらもどこか納得ができないまま、ここに暮らしている。カフェのオーナーも子供が出来てこの町を出てアメリカで暮らそうとしている。911が起きるが。 OLだった女と農場主はこのカフェを受け継ぐ。実は元のオーナーの娘だった。 自殺を考えていた男はボランティアで地域の老人を見守るが実はここに来るまでも寸借詐欺の常習犯だった。人々は逃がすことに成功する。ミュージシャンだった男はハーブの栽培で逮捕されるが、反省して沖縄で暮らすことにする。 --> チラシの絵柄にあわせるように、銃だったりカフェだったりと部分部分は アメリカ西部/開拓時代の風景のように演出しながら。 ゆるい感じの笑いに包みながら、若くはない人々の物語。 ヒッピーというほどの強烈な主張があるわけではないけれど、 かつては若者で、あまり自覚のないままにいい歳になってしまった人々。 人生はまだまだ長く、このあとどう生きていこうか、という枯れゆく人々のもうひと花、という 語り口が微笑ましく楽しい。

何年か小さなコミュニティで暮らしていればこそ人々を含めた場所がとてもいとおしく重要なものになっていて、そこから離れがたい気持ちが物語の原動力。 結構な長い時間を描いていて、妊娠とか結婚ということは描いているのに、大人の恋愛模様は、 思い描いていた古書店主が告白前に見事に振られるというほんの僅かな一点のみ。 おそらくは得意な恋愛模様を注意深くそぎ落としたのは、ラッパ屋の黄金パターンから抜けようと 考えたのかな、と思ったり思わなかったりもします。

ダムに沈む村という場所や、終幕近くで現れる911という年代は、それぞれの設定ということの他に、コミュニティが大きく変わる衝撃ということなのでしょうか。どこか寂寥感のような空気はあるけれど、 それぞれに対して何かの想いが描かれたり、告発したりという感じでもなく、正直に云えばわざわざ大げさな設定を持ち出さなくてもこの物語はイケるのではないか、と思うのです。

劇団員に加えて常連の役者の安定感はもちろん。オーナーを演じた古川悦史のちゃんと真面目なかんじ、 妻を演じた松本紀保はいい意味でおばちゃんになってきた柔らかなキャラクタが可愛らしく。 農園主を演じた林和義は年齢を重ねたという風格と、妹を心配する気持ち。その妹を演じた小林さやか パワフルに暴れ回るのにどこか可愛らしい。楽日まで無事だったようでなにより。対比するように背が高くてハーレーで現れるOLを演じた、こいけけいこはかつて(大昔)の声の調子に不安な感じが混じることがなくなって、きっちり成長していて嬉しい。背広姿で現れる寸借詐欺の男を演じた有川マコトのキャラクタ造型はあまりに過ぎる、と思っていたけれど後半の詐欺の下りで、ああそうかと納得。元IT企業に勤めていた男を演じた瓜生和成はちゃらちゃらしているようにみえて、前向きな造型がちょっといい。 相談をする女を演じた永井久喜は私の席から実は表情が見えづらかったけれど、きちんと。

当日パンフに名前のない、刑事を演じた本間剛は確かに楽しいけれど、結果当日パンフに名前のある 友澤宗秋に一言のセリフもなくなってしまった、と外野からだってわかってしまうのはいいのか悪いのか、あまりに無防備すぎないかとも思うのです。

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2014.05.26

【芝居】「スズナリで、中野の処女がイクッ 」月刊根本宗子

2014.5.24 14:30 [CoRich]

ゴールデン街劇場初演からわずか半年でのスズナリでの再演。100分。25日まで。

メイド喫茶のバックヤード、表面的には平静でも女たちの好きと嫌いをベースに。さらにはオーナーの元カノと今の恋人、人の痛みの分からない女という具合にこれでもかと詰め込んだ人間模様を、終盤でくるりと鮮やかにひっくり返す濃密さは初演と変わらず、見応えがあります。

もっとも初演の感想と同じく、このひっくり返しに私たちの特別な体験である東北(震源こそ変えているようだけれど)地震というシチュエーションでなければならないのか ということの疑問は相変わらず残る気がします。もっと汎用な何かでひっくり返せれば、物語も長持ちするし、私たちそれぞれが震災に対して持っている特別な感情によって物語を素直に観られないということもなくなると思うのです。

もっとも、何かをきっかけに「状況が替わ」ってしまいそれまでの価値観に拘泥すること(父親の形見であるとかの理由は十分にあっても)が滑稽に見えるというのは再演ではむしろ強化されているというふうに感じます。この部分で客席が笑いに沸くのは初演とは違う印象。

冷酷で自分勝手な振る舞い。まさにサイコパスな女が地震で連絡の取れなくなった両親の心配さになきじゃくり一転か弱い存在になります。この一点を突かれれて脆くも崩れるというのは、どこか昨今の事件を思い起こさせます。もちろん初演時には全然アタシは意識していなかったのですが。 彼女をここまで豹変させた、いわば弱点は地震という自分にふりかかる恐怖なのか両親なのか、その複合技なのかという点で豹変の理由がややボケてしまう印象は初演とかわりません。

ゴールデン街劇場に比べると、舞台はやや高め。チケットの安さとスケベ根性でとった前列の桟敷席からではかなり視点が低く、ミニスカートのメイド服や背中を向けての着替えが多いこの芝居ではやけに太股の後ろ側が視線に飛び込んでくるような高さで、初演よりもずいぶんもやっとスケベ心が頭をもたげて、下手端でパソコン卓に人が座ると結構みえない表情も多くて、実は初演よりももっと感覚的な、嫌な気持ちだったりスケベ心といった感情とか雰囲気に流されるような感想がより頭の多くを占めるような感じに。 メイド長を演じた大竹沙絵子は初演と変わらない、巻き込まれる中間管理職な悲哀まで細やかに。対抗心を燃やす女を演じたのは初演とは変わったあやかもまたいい。背格好がちょっと似た感じの二人というのも、一人の男の元カレ・今の恋人という説得力も。財布を取られた女を演じたのも再演では変わり根本宗子となり、静かに含めるように説得を試みるというところもより細やかになった印象だけれどそれが徒労に終わるという絶望感。揺れの後の拘泥はコミカルが強い印象か。サイコパスっぽい女を演じた尾崎桃子は初演に続き強烈な破壊力。社員の女を演じた梨木智香はどうかどうかはうまくいえないけれど、数段良くなってる感じがします。オーナーを演じた野田慈伸はよりオーバーアクションに空回りするようにパワーアップ。客を演じた市川大貴も初演に続き安定。

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【芝居】「バキュラ未来系」BLUES

2014.5.23 20:00 [CoRich]

番外公演として、信州大学の劇団・山脈の作家を迎えて。 25日まで信濃ギャラリー。60分。

高校時代の友達4人の男が久しぶりに集まる。お笑いコンビとして活動している二人、まだ学生の男、家業を継いでいる男。 お笑いコンビは今一つ芽が出ず、一人はそろそろやめて公務員試験でも受けようと思っているが言い出しっぺの相方のやる気は変わらず、言い出せずにいる。ほろ酔い加減になったころ、昔やったファミコンのシューティングゲームの話になり、久しぶりにやってみることにする。お笑いをやめることを言い出せない男はゲームに没頭するうち、突然、何かにとりつかれたように。

まだ生き方が定まらないけれど、単に遊んでいるというわけにも行かないいい歳になった男たち。夢を追いかけていたり、諦めたり、まだふらふらしてたり、働いてたり。焦るような気持ちだったり、酔っぱらいのあれこれだと思っていると突然、一人が「どこかの世界」に取り込まれてしまう感じ。それは、これからの生き方への迷いと、目の前の壁をシューティングゲームの手強い障害物にたとえ、いくら撃っても歯が立たないいまそこにある困難を象徴的に描きます。

若い作家だけれど、ゼビウスとはずいぶんレトロなビデオゲームを持ってきて。まあ、アタシにはドンピシャなのでうれしいわけですが。壁にたちむかううち、迷いがないようにみえた相方にも迷いがあり、互いがわかりあい、助け合えるのだという瞬間のわくわくする感じ。

妄想世界に入れ替わりはまりこんでいく男を冷静に眺める友人たち。でも、それは誰にでもやってくる、という感じで全員に。男たちは入れ替わりたちかわりその障害に立ち向かうけれど、それはとても困難で。正直にいえば、「はまりこんだ一人」と現実を生きる人々の対比で描く感じではあるのに、4人目に至り、その一人しか居ないわけで、それなのにその神の声が観客に聞こえたりはしないので、ちょっと観客の視座がどこにあるのか迷う感じはあります。

はまりこんだ夢想の世界に広げまくった大風呂敷をどう回収するかが終幕のポイントですが、三人は現実に戻り酒を買いに出かけるものの、最後の一人は夢想する世界のままに取り残されたようなのは、どういうメッセージなのかな、と考えたりも。

信濃ギャラリーの1/3ほどを占める大きさで少しだけ高さをあげて若者の部屋という体裁で。信濃ギャラ理で装置を作り込むのは珍しい。小道具も青一色に統一されて(BLUESか、なるほど)いて、ちょっと洒落ていますし、オープニングのキャスト紹介もちょっとカッコイイ。

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【芝居】「昭和レストレイション」パラドックス定数

2014.5.18 15:00 [CoRich]

25日まで三鷹市芸術文化センター星のホール。

雪の夜、首相官邸を襲撃した陸軍下士官たち。逃げる首相と警護の警官だったが、追い詰められる。銃弾に倒れ男を確認し、乾杯の声が官邸に響く。が、蜂の巣になったはずの男たち、何事も無かったかのように起き上がる。

撃たれてるのになぜか生き返る、という一つの、しかし大きな嘘というかファンタジーを紛れ込ませて。二・二六事件という史実の首相官邸襲撃で、首相と勘違いされて撃たれた義兄の秘書を巡る物語に紛れ込ませます。物語の軸となるのは 警察と反乱軍、あるいは若者と中年というどこか対立する立場だけれど、熱い時代を背景に共有して、同じ時代に生きる男たち。わかりあえそうな一瞬もあるけれど、決して越えられない一線を挟んだ男たちの熱い物語が主軸。襲撃、殺害となれば当然この二者が対話をすることはないのだけれどこの一点のファンタジーが時空をねじ曲げるかのように、この二者に対話という場を作り出すのが面白い。 農村の疲弊や若者の怒りが事件の引き金になりつつも、多くは上官にしたがっただけということはこの事件に対する目新しい視点ではないけれど、二者が対話するという構造のおかげで、この少ない人数でその構図を鮮やかに描き出すのです。 史実の隙間に作家の想像力をねじ込ませる作家の得意技が存分に生かされます。

もっとも、このたった一つの「ファンタジー」の破壊力はかなり大きくて、 結果、まるでドリフターズの「志村うしろ」かのごとくな大爆笑編の体裁で物語は進みます。それに逆らわずに物語をすすめて落ち着かせ、後半できっちり男たちの物語に着地させるのは確かな力。 二・二六事件を扱ってるのにまさかの爆笑の連続なのだけれど、ことさらに笑わせる要素を詰め込んでいくというよりは、この一点のファンタジーをめぐる戸惑いが笑いを誘うという感じがします。

絵描きのどこか腰の引けた兵士を演じた西原誠吾の見通す感じ、首相を演じた生津徹はどこか人を食ったよう。優しさを持つ中尉を演じた植村宏司、実直な少尉を演じた井内勇希もいいし、どこかあひるなんちゃら風なコミカルを併せ持ちつつ木訥さもみせる堀靖明、歳を重ねた落ち着きをもった近藤芳正、どこか 軽い感じもまたいい小野ゆたか。

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2014.05.22

【芝居】「部活動『鱈。』の(ら)」 Hula-Hooper

2014.5.17 19:00 [CoRich]

ステージのある飲食店でのシリーズ企画、ずいぶん久しぶりです。前回拝見したのは2010年の鳥取公演でした。 18日までgee-ge。ゲストのライブ込みで140分。休憩はありませんが、開演中でも注文、移動は可というアナウンス。

少女たちは恋人がいたり、恋する相手に告白できなかったりしている。少年たちも縄張り争いに明け暮れたりしている。 ある日この港町に楽団がやってきた。昔この町を出て行った男も再び現れる。女を探しているのだというが、偶然出会った少女に心を射抜かれてしまう。
奥手の少女は好きな人に思いを伝えられないでいるが、手紙を書いて渡すことにする。何人もの少女が書いた手紙は強風にさらわれてしまう。

名曲がたくさんなのはいつものとおり。ミュージカル仕立て、という今作は音楽にセリフを載せるシーンも多くて楽しい。

どちらかというと物語の主軸は少女たちにあります。告白できない少女たち、ラブレターを書いたものの渡すこともできないという子供の序盤だけれど、好きなのだということを再確認したり、恋人になったり、やっとの思いで告白したりと少女たちの成長の物語になっています。風に飛ばされた三通のラブレターが入れ替わってしまったり、拾われてしまったりというのがシャッフルする感じで楽しいのです。

ジェームス・ディーン(みたいな女の子、という曲がありますが)、という役名の人物だったり、久々に現れた幼なじみなど、LGBTな要素を盛り込んでいるのはちょっと面白い。直接関係があるわけではないと思いますが、かつて団長(主宰)が掲げていた「女にモテる女でありたい。」にちょっと感覚を感じるアタシです。 今の劇団webからはいつのまにかそのキャッチフレーズは消えていますが、 むしろ「女であることに決して媚びず、女であることに決して怯えず、女だからできること・できないことを「女」に逃げずに表現する。」というのが、それをかみ砕いた表現。「鱈」は、部活動というサイドセッションだけれども存分に感じるのです。

幼い少女を演じた西田麻耶の振れっぷりが楽しい。ジェームス・ディーンという役を演じた大竹沙絵子は女の子でもあり男の子でもあるという大人になる直前の刹那のよう。説得力があります。初めて拝見した菊池ゆみこは、あまりにエキセントリックなキャラクタだけれど、なるほどミュージカル俳優だし、きっちり歌い踊るのです。どちらかというとリアリティよりはデフォルメが強いけれど、それゆえに強烈な印象を残します。久々に生の声を聴けた安田奈加もアタシには嬉しい。

土曜夜の日替わり部員ことゲストは東京くものすカルテット。松本でのライブも楽しかったのだけれど、それほど間を置かずに近くで見られたのが嬉しい。ホントは役者としても巧い片岡正二郎だけれど、どちらかというと茶番っぽく、ぎこちなくやるのもこのフォーマットだと、うまく機能します。 芝居に組み込まれるようになっているという作りもあわせて、いいなぁと思うのです。

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2014.05.21

【芝居】「紙風船文様5」カトリ企画UR

2014.5.17 17:00 [CoRich]

岸田國士の「紙風船」(青空文庫)(1)を同じキャストで演出を変えて上演し続ける企画の5回目。はナカゴーの鎌田順也の演出で。アタシは初めて拝見します。三社祭で賑やかな、あさくさ劇亭で18日まで。50分。

落とした結婚指輪を拾おうと便器に腕を突っ込んで抜けなくなった新婚の妻は夫に助けを乞うが、夫はそれを妻が日常に飽きて嘘をついているのだといって取り合わない。

平日は夫が仕事に行き、妻は家に居るという二人の家。休日なのに夫は会社の同僚と出かけるのかといって妻は不満で、妻はせっかくの日曜なのだから夫と出かけたい、という構図を基本にもちつつ。 不満があるというよりは、家に縛り付けられている、という女性像を便器から腕が抜けないというシンプルなポイントにして、そういう問題点があるということにすら気がつかない夫との対比。夫は妻の遊びだといって取り合わないという理解されなさ。 じっさいのところ、このポイントをごくシンプルに、しつこいほど繰り返して描くことで、この重要な一点突破というのが巧く機能しています。

品川から鎌倉、海浜ホテルの海、という原作に対して、下町らしく路面電車で荒川遊園、というのが微笑ましい。今時っぽく、途中で見える店だったり。イベントがないとデートじゃないのか、という台詞(まあ、洋式便器なのだから昔の話じゃないんだけど)で、今時っぽく造型しているのもいい。

妻を演じた黒岩三佳はもちろん安定。 額にしわを寄せて大声で助けを呼ぶ、なんてキャラクタを演じることはそうそうありませんから、ちょっと新鮮な感じ。夫を演じた 武谷公雄は、優しいのに妻から見ると理不尽に過ぎる存在をしっかり。

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【芝居】「戦場のピクニック」&「Lady Macbeth」 身体の景色

2014.5.17 14:00 [CoRich]

去年上演された「戦場のピクニックフェスティバル」(未見)の再演と、来月の韓国公演を控えた新作を組み合わせて75分。トークショーの付いた回でしたが、次の予定のため拝見せず退出しました。 18日までd-倉庫。

戦場の息子を訪ねて両親が訪れる。ピクニックをしようというのだ。「戦場のピクニック」
王になると囁かれた男は、妻にもそそのかされて、泊まっていた今の王を殺してしまう「Lady Macbeth」。

既存の物語を切り出して、どちらかというと身体表現や独自の見せ方に主体を置いて表現しようというこころみを続けているようです。そういう意味では山の手事情舎やくなうか、三条会につながる系譜。こういうやり方の場合、この舞台だけでは物語を完結させるのはなかなか難しくて、観客に元々知識がある前提というやりかたもありましょうが、当日パンフに元々のあらすじを載せているのはわかりやすくてたすかります。

「戦場〜」は、戦場に両親が訪ねてくるという不条理感いっぱいの物語。去年、この劇場でこの戯曲をいくつもの団体で上演するという試みがあったようで(アタシは未見)、その再演。この物語に対して、昭和の香り漂う両親と息子、親戚の甥っ子といった風情で。夏の一コマを切り取ったような動きをさせ、台詞はもとの戯曲のものをつかう方法で、西洋のピクニックを縁側がありそうな夏の風景に置き換えて「家族」を描き出そうとしています。

わりと違和感なくはめ込めてはいるものの、家族を軸にした置き換えて日常と地続きの戦争、という以上に戦場とか捕虜といった元々の戯曲の鍵となると演出が考えたものを何に置き換えているのかがいまひとつわからなくて、表表現を試みる、という以上の効果が見えてこないのが惜しい。とはいえ、私にとっては初体験の戯曲で、青年団「砂と兵隊」とちょっと似ていて元ネタっぽい感じなのがおもしろく。

序盤では父母に見立てた仮面に対して語りかける男からスタートするピンと張り詰めた空気。男を演じた岡野暢が緊張感をきっちりと。

表現の手強さという点では、「〜Macbeth」の方がアタシには手強い。マクベス夫人を強く企むものとして描く解釈まではなんとかついていけます。当日パンフは元々のシェイクスピアの1606年を使用テキストとしていますので、オリジナル、ということなのでしょうが、Lady Machbethやマクベス夫人という芝居も本も山のようにありますので、それに対してどのようにオリジナリティ、ということが勝負だと思うのです。

魔女とマクベス夫人を一人の役者にあてるところも表裏になっているようで新鮮です。外国人の女優(ペ・ミヒャン)をここに据えるということで、やや私たちの普通の感覚からは離れたもの、という異質感なのかな、と捉えました。が、ワンピース姿の女や従者たちなどいまひとつどうとらえていいかわからなかったりするというのはマクベスという物語に解釈も知識も思い入れもアタシには少なすぎるということなのかもしれません。

当日パンフによれば彼らのポイントは「身体の奥に眠る"記憶にない記憶"」という潜在意識を、テキストの世界に「入って」繋げていく、ということなのだそう。正直、まだまだアタシには物語を利用した記憶の混濁を楽しむ、というところまでは至れないのはちょっと残念。

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2014.05.18

【芝居】「赤い下着、覗くその向こう側、赤の歪み」キ上の空論

2014.5.11 16:00 [CoRich]

21日まで新宿眼科画廊。85分 。

好意を寄せている別の女が居るのに意に介さず、ずっと女の赤い下着の匂いをかぎ続けている男。
男のかつての恋人は天涯孤独な風俗嬢でちょっと闇があるこの女は神戸の生まれだがもう長いこと行っていない。 二人は突然の旅行に、神戸行きの夜行バスを選ぶ。
妹は音楽の道に進むため、神戸の大学に行くはずだった。
友達との行き違いから夜行バスに乗ることになった。 バスは定刻通りに発車し、車内が消灯されたあと、運転手の居眠りから事故がおこる。

久し振りな新宿眼下画廊の1F奥、ほぼ空っぽの空間に丸椅子がたくさん。並べ替え、あるいは背中合わせに座ったりすることで、舞台に別々の空間を並べて出現させたり、同じく浮かんの中に二つの場面を重ね合わせたり。細かな断片をリフレインして一見するとランダムに並べます。執拗ともいえるリピートはなるほど、自分の頭の中であの風景を繰り返し思い浮かべる感じ、男女や肉親のことであればなおさらです。 リピートの芝居がわりと苦手な私ですが、一つ一つのリフレインの単位が細かいこと、複数を並べ替えたり並行してみせたりすること、主に女優の色っぽい風体もあいまって、飽きずに見られるのです。

徐々に浮かび上がるのは、死んだ風俗嬢、その下着をかぎ続ける男、その男のことを想い続ける女を物語の核にしつ、(おそらくは新宿発の)神戸行き夜行高速バスの事故という特異点で人生が変わってしまった人々や、亡くなった人を想い続ける友人たちの姿。もちろん故人たちとの関係も丁寧に描きます。終幕に至り、それが単に運転手の過失ではなくて、謀られたものだ、というのもジワジワとクるのです。

新宿という場所での上映にあっている気がするのは、風俗嬢たちの友情の物語だったり、夜行高速バスのターミナルとういう場所を描いているということだと思います。ほかの場所ではここまでのフィット感は得られないのではないか、と思います。もっとも、この芝居を見た直後に高速バスで松本に戻るアタシにはまた別の意味の怖さがじわじわ来たりしたのも、また一興だったりもするわけですがまあ、隣に恋人が座るなんてこともなく、ですが(泣)。

正直に云えば、風俗嬢と男、その片思いのセフレという核に対して神戸の大学に進学する妹と兄の物語はどうしてもサイドストーリーでしかない構造で、山田と名乗る男に対しての因縁をもってしても、傍線という感じが残るのは惜しい気はします。

なにより物語の核になるのは死んだ風俗嬢を演じた石井舞。空を見上げているような序盤の立ち姿の美しさから、風俗嬢が地味な男に惚れたというファンタジー、終幕で見せるまた別の顔という振り幅を、濃密な色っぽさと繊細さできっちりと。その友人の風俗嬢を、ジャケットに短パンというアンバランスに色っぽい風体もいいし、演じた橘知里渡辺実希のやや幼さを残すようなかわいらしさもいい。 ボーダーの子持ちの風俗嬢を演じた渡辺実希橘知里の、亡くなった友人を表面的には嫌いつつ、信頼できる友と思っている感じも格好いい。 コミカルリリーフっぽい立ち位置だけれど、妹への想いを強く感じさせる兄を演じた石井勇気、その想いを受けて、友人と兄へのプレゼントを探す妹を演じた三浦真由の可愛らしさ。

下着を嗅ぎ続ける男を演じた柴田淳の風体はうだつが上がらないけれど、それでもこんなモテがある、というのは確かにファンタジー。彼を愛し続ける女を演じた酒井桃子はあまりに一途で切なくて登場人物に惚れてしまうあたしです。

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2014.05.16

【芝居】「鍵泥棒のメソッド」キャラメルボックス (ブラックキャスト)

2014.5.10 19:00 [CoRich]

映画の原作をもとに舞台化。125分。6月1日までサンシャイン劇場、そのあと神戸。

貧乏役者の男は、銭湯で偶然居合わせた金回りの良さそうな男が転倒のはずみで気絶した隙にロッカーの鍵をすり替え、その男の服と財布を手に入れて彼になりすます。転んだ男は病院に運び込まれるが記憶を失っており、すり替えられた鍵のロッカーから出てきた所持品から、貧乏役者としての生活を始めるが、本棚にあった役者修業の本で真面目に努力して、テレビドラマの端役として監督から気に入られて一歩を踏み出す。
婚活中の女性編集長はその姿に好感を持つ。相手も居ないのに1ヶ月で結婚しようと少々焦っていたが、見た目よりも性格を厳しく重視していて相手がなかなかみつからなかった矢先に現れた男だったのだ。
いっぽう、羽振りのいい生活にすり替わったものの、それは伝説の殺し屋として裏社会では顔こそ知られないものの、その仕事ぶりが知られた存在としてだった。前の依頼で見つかるはずだった大金が見つからず関係する女からその行方を聞き出して始末するという新たな依頼を受けてしまう。そんな金は知らないと言い張る女を逃がそうとしたのが依頼者にばれて、ギリギリのところで逃げ帰る。
逃げ帰った男を待っていたのは、失っていた記憶を取り戻した男だった。 物語としての面白さは折り紙付き。原作となる映画で演じる役者だって今をときめく堺雅人に香川照之とという布陣ならヒットもむべなるかな。それを原作にとった舞台化となると相当なプレッシャーだろうと想像しますが、「メソッド」というのを役者の技術のもとになる技術を描いたもの、となれば、また舞台化の意味は出てこようというもの。

観劇後に慌ててTSUTAYAに走って映画版を借りてみました。「ショーシャンクの空」の時以来、こういうのがクセになってる気がします。クローズアップのおかげでセリフによる説明が不要など、どちらかというと静かでぽつぽつとセリフが語られる印象の映画版に比べると、小物に関してはどうしてもセリフで説明するしかないなど、言葉が増える印象。元々の映画もきっちり喜劇ですが、よりコミカルが強くなります。が、それにしてもびっくりするぐらい、映像を改変することなくきっちり舞台にしている、という印象があります。そういう意味ではショーシャンクにあったような舞台特有のプラスを期待する向きには少々物足りない可能性もありますが、映像からの舞台化という方向の場合手堅い作り方でもあって、それは成功していると思います。

正直にいえば、終幕でアクセントになる警告音に違和感。クルマの盗難防止装置の警告音が、きゅん、のサイレンなのだけれど、わりと映画では序盤からそこかしこにそこかしこでなっていて、それが終幕に繋がるのだけれど、舞台では少々唐突な感じ(もしかしたら鳴っていたのに気づかなかった可能性もありますが)が残ります。何より、電柱にクルマがぶつかって、という状態を初日時点ではうまく表現できていない感じがあるのが少々残念ではあります。

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2014.05.14

【芝居】「フサエ、100歳まであと3年」小松台東

2014.5.10 14:00 [CoRich]

宮崎弁で演じられることを特徴とする「こまつだいひがし」の新作。 13日までOFF OFFシアター。100分。

宮崎の施設に入ってる祖母の処に東京から孫の男が顔を見せに来る。介護に通うのは母親。孫は言葉多くは語らず、日当たりのいいチェアがお気に入りの場所だ。結婚して横浜に住む姉も顔を出す。夫についてドバイに行くことになるので、仲は良くないけれど姉弟を母親が呼んだのだ。 施設には牧師の女が訪れている、スタッフの男は元はやんちゃだったけれど、今は彼女とつきあっている。が、スタッフは元暴走族で恋人だったのに突然福岡に引っ越した女に再会して好意が蘇る。

子供の年齢がそれなりになっていても、子供の頃の枠組みのままだった家族の姿が、それまでは圧倒的に頼れる存在だった親だって、離れているとはいえ娘がそれなり横浜に居るとか、何かのバランスの上でやっとこさ、だったものが、自分の母親の介護が始まり、娘が外国に行き、人生で初の骨折を経験して、何かにすがりたい、と思う気持ち。 娘は遠くに行ってしまうから頼るのは東京で頑張ってるけれど、35にもなって独りものでアルバイトしかしてない息子でも頼ろうと云う気持ち。母親が骨折して急激に弱気になっていく、というのもやけに説得力があります。アタシだっていまのところは会社員だけれど、いつアルバイトになってもおかしくない昨今だし独り者だし、自分に引き寄せて、親だって歳を取る、ということを実感します。

小劇場における宗教の扱いはたいていのばあいエキセントリックに怪しいものだったり、あるいはフォークロアな地域のものとしての一環という扱いのものが多いのですが、今作で扱われる教会の扱いは、 少し違っていてもっと生活に根ざしている感じで新鮮です。それを心の頼りにして日常としている人がそれなりの数で居る、という姿。キリスト教という選択は成功していて九州な感じもあるし、単なるフォークロアとは違うほんの少し新しいものというのが絶妙。 これはまた、母親が娘や息子を頼りに思うのと同じように、何か日常ですがっていくもの、として象徴的に描かれているともいえます。

ヤンキー的なありかた、という序盤のスタッフの造型は流行の「ヤンキー経済」とか「マイルドヤンキー」という字面として捉えたものとはちがう説得力があります。 地元から出ないでそれなりに充実した日々を過ごしているというのは、それっぽくて、今の日本の姿を描きます。東京という場所しか見えていない作家には決して書けないリアリティなのです。もちろん持ち味のコミカルに楽しい描き方もわりと好き。それとつきあっている女が牧師というのもコミュニティのミニマムな感じがよくでています。

母親を演じた山像かおりはあくまでナチュラルに母親でありつづけていて、前半の頼れる力強さと、後半での虚勢を張りつつも(云いたいことをいうと宣言して)弱気なことを云うというふれ幅の中の繊細さをきっちりと。息子を演じた野本光一郎は、ややヒネた感じは得意な造型で安定していて安心感があります。姉を演じた笹峯愛はここ数作で印象がシャープになって大きな変化を感じますが、役の造型ということかもしれません。その夫を演じた佐藤達は空気読めないガハハなおっちゃん感(や、それよりは若いけれど)が楽しいけれど、物語では彼の職業について一言も語られず、スペシャリティを見せることもないので、彼についていって本当に大丈夫なのか、という説得力の点でやや残念な感じは残ります。これはどちらかというと戯曲の問題かも知れません。

福岡からやってきた姪っ子を演じた富永瑞木のちゃきちゃきな感じは好き。スタッフを演じた尾倉ケントは、すっかり牙を抜かれたヤンキー感でコミカルに使われるけれど、実はこの造型こそが物語の描かれた地域の若者像をつくるという要をしっかり。おばあちゃんを演じた松本哲也、ちょっとコミカルに過ぎるし、90歳でこれなら施設に入らなくていいんじゃないか、という印象がなくはないのだけれど、しかし祖母に対する作家の優しい目線を彼自身が演じるというのがちょっといい。

なにより魅力的なのはダテカナこと伊達香苗なのです。所属するMCRではわりとパワフルだったり逆にやけにセクハラっぽい扱いだったりするけれど、単に神と恋人を信じているというだけではなくて、葛藤の中で家業である教会を継ぐという選択をしたという大人なバックグラウンドがある一人の女性を鮮やかに描きます。

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2014.05.11

【芝居】「酒と涙とジキルとハイド」ホリプロ

2014.5.5 18:00 [CoRich]

東京芸術劇場、18日まで天王洲銀河劇場。このあと大阪。120分。

ジキル博士の研究室。彼には可憐な婚約者が居るが、彼女はジキルのことを尊敬はしているものの、面白みがないと思っている。ジキルは人間の隠れた面を引き出す薬品を開発し、その成果を明日発表することになっているが、実はその薬は完成していない。一計を案じたジキルは、ある男を家に招く。 ジキル&ハイド、を下敷きにして、でもそんなクスリは発明されてない、いわゆるSTAP細胞のあれこれをわかりやすく揶揄しながらも、物語は自分の中に居るもう一人の自分をどう解放するか、という流れ。

女はむしろハイドに惚れていて、ジキルが嫉妬するという前半だけれど、後半ではそのクスリの実効がなくてもプラセボ(プラシーボ)効果で効くというところから、女が内に秘めていたことをさらけ出す のが好きなアタシです。

圧倒的に茶番なプラセボを一人で孤軍奮闘する優香、序盤こそ可愛らしいだけの造型(キライじゃないアタシですが)だけれど、まるでコントのように人格が切り替わるダイナミックレンジ(振り幅)が広がるのが巧い。この茶番をきっちり演じきれることに目を見張ります。 ジキルを演じた愛之助は真面目で面白みはなく婚約者には惚れていて、でも研究は出来ていないという物語のベースとなる、「嘘をつくしかない」という追い込まれ感をしっかり。 藤井隆はわりとべろべろばあ、なコントな表情で造型しつつも、彼女のことを一途に思う、という中盤の繊細さ。 迫田孝は実はこの場を支配するという黒幕的なポジション、他のの三人に比べてチラシのクレジットは確かに小さな字だけれど、ちゃんと対等なのが、アクト・ビガンあたりからわりと長い期間拝見してるアタシとしては嬉しくなっちゃったりします。(アタシの同級生のササキ君元気かしら)

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2014.05.10

【芝居】「Noodles」うさぎ庵

2014.5.5 15:30 [CoRich]

ニューヨークマンハッタンを舞台にした、麺類クライムサスペンス風味の60分。楽しいけれど、現実へのリンケージもきっちり研ぎ澄まされています。近藤強(青年団)の一人芝居。 5日までザ・スズナリ。

マンハッタンの立ち食いそば屋で女に声をかけられた、ニューヨーク在住の日本人は、破格の報酬惹かれて不動産売買の通訳の仕事をうける。翌朝現れたのは、強面の風貌の男で、リトルイタリーの料理店をもつ、パスタにこだわる男の店を買い取る交渉を始める。 売買は纏まったかにみえたが、合い言葉に反応して店の奥に消えていく。

役者が一人で舞台に現れ、日常の会話、いわゆるマクラで始まります。ニューヨークに住んでいたこと、時そばという落語のこと。寄席に比べれば客席の指向はバラバラだし、増してや無料招待な高校生たちも多い客席です。何を知っていて、何を知らないか、ということがバラバラな客席をゆるゆると地均ししつつ、始まる物語の体裁が、寄席っぽくて楽しいのです。

マンハッタンで立ち食い蕎麦、という地元に住んでいる人の場所、そこで声をかけられて破格の報酬の通訳のアルバイト、というありそうな感じ。不動産売買の通訳に行ってみれば、パスタに命をかけている今の店主と、この店を買おうという強面の男は(青森県)黒石のつゆ焼きそばという麺類談義。一人芝居としてやる方法として、通訳の男、という選択が面白くて効果的。どちらの言葉でも、彼を介して行われるわけで、それを聴く表情だけでわからせたり、ポイントはちゃんと通訳の言葉として発せられたりと演出という編集が自由自在で、濃密に作り上げます。

すべての事件が解決したかにみえた、その瞬間のワールドトレードセンターが見える場所からの911。ここまでの物語の作りに対して、なぜこの芝居にこのシーンを絡めなければならないのか、という真意はわからないけれど、WTSがあったあの瞬間にマンハッタンに居たということだからこその強い思いなのだな、と感じるのです。

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【芝居】「うさぎストライプと20歳の国」うさぎストライプ

2014.5.4 13:00 [CoRich]

アトリエ春風舎の芸術監督に就任した大池容子のユニット、うさぎストライプによる企画公演は「20歳の国」との「青春を謳歌できなかった演出家2人が描く、青春のおはなし2本立て」。出演者は共通で、60分ずつで、休憩を挟み130分。6日まで春風舎。

高校の入学式で出会った人々。クラブやクラスで親友が出来たり、恋人ができたり、告白し損なったり、フラれたり。文化祭で頑張ったり。ちょっと距離が出来たり関係が変わったり。三年が経ち迎えた卒業式。卒業出来ない生徒も学校には来ていて」「Don't Be a Stranger!」(20歳の国)
難病が流行っている町。入院している夫を見舞う妻はせがまれて、前にした話を繰り返し方って聞かせる。風俗に勤める女は恩師にはアイドルになったと云う、その店の常連は物語を書いている男だったり、恋人とは出来ないのに風俗には通う男だったりする。恋人の女は男の同僚の優しさに気持ちが傾いたりもする。「学級崩壊」(うさぎストライプ)

二十歳の国は見やすくて甘酸っぱい青春の日々を多少の半笑いを交えつつ。高校の二組のカップルがクロスして男同士のバスケット部での関係、女同士のクラスメイトや親友としての関係だったり、 そのカップルたちのあいだで浮気な気持ちがもたげたり、片思いが連鎖したり。 卒業式には出ないけれど学校には来ていて、秘密の喫煙場所には居たりするという場所の設定が うまく機能していて、ここまでは一緒だった人々のこれからの人生が分岐していく感じはやや切なく、 しかしあの頃にはありそうなことがてんこ盛りに。 これがじつはわかりやすくて、セイシュンを切り取ったかのよう。正直に云えば、ここまでセイシュン な日々を送らなかったアタシにはあまりにリア充で漫画のようにステロタイプだなと感じないことは ないのですが、それは大きな問題ではありません。このシンプルさこそが価値なのだと思います。

長くはない芝居を観ているうちに、それぞれの役者がそれぞれの役のキャラクタに見えて きます。クセのある女を演じた石川彰子はそう見えてくるし、それに惹かれちゃってまわりもつきあってると思ってるのにあっさり告白もされないままフラれる男を演じた水野拓との会話が楽しい。 井上みなみと湯口光穂が演じた女子高生二人、親友だねとおもったり、フラれたといってカラオケで 発散したり、というバディな感じなのに、卒業間近になると、一人がハブられてちょっと 距離が出来るというのが切ない。斉藤マッチュはこのカップルたちの間から離れた立場 で訊きにくいことずばっと訊けたりという一匹狼を好演。

うさぎストライプは何かの病気がはびこる町、亡くなる夫を見舞い続ける妻と昔の妻の話を切きたがる夫の風景、風俗に通う男たちは恋人とはできないのに風俗通いだったり、きまじめな作家だったりといういくつかの風景。マクロに俯瞰する町のごくミクロな暮らしている人々を会話をズームアップするかのような描き方。

この劇団を続けて観ている人には判りやすいというような声も聞こえるけれど、あまり見慣れないアタシには、その点描それぞれの物語は見えてもマクロに俯瞰したときの幹が感じづらくて 少々戸惑います。おそらくは意味があるだろう、壁押しや椅子に座った女を運ぶといった演出も 唐突感の方が強く感じられて、物語をフラットにみたいな、と思ったりもします。

とはいえ、たとえばちぎった紙を投げ合うことがエスカレートしていって大量の紙くずが溢れるとか、あるいはスクワットしあうことでセックスを描いて息が上がる感じとか、演出のアイディアの面白さもまた 魅力を感じたりもするので、悪いことばかりというわけでもないのですが。

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2014.05.09

【芝居】「エレクトリックおばあちゃん」渡辺源四郎商店

2014.5.3 19:00 [CoRich]

ナベゲンの新作は、ザ・スパイダースの同名の曲が結構耳に残る70分。6日までザ・スズナリ。 電力の供給が止まったとき、おばあちゃんは指先にもった電球に明かりを点した。おばあちゃんのパワーはぐんぐん上がり掃除機も電子レンジも動くようになり、さらには近所にも青森県にも。息子は大きな会社で働いていて自慢だけれど、嫁とはいまいち仲良く出来ない。
病院では地震のあと電力の供給が止まりながらも懸命に働く医師たち。避難勧告が出て病院からみんなで避難することを決めるが、寝たきりの老女は置いていくことにする。 おばあちゃんが最初は電球ひとつから、家まるごと、町、県、日本国中の電力まで供給しちゃうようになるというファンタジーをコミカルな起点に。もっとも、電圧と電力(電流)の扱いがごっちゃだったりするのは、まあご愛敬。 立ち入り禁止区域となる原発を巡る問題を組み合わせ、嫁姑のなじめない関係だったり、 リスク無しに発電可能という利益を目論む電力会社やら、あからさまに怪しい宗教やらをまぶして、 ぎゅっと詰め込んだ物語は見応えがあります。

物語のつくりとしては、 ひとりの老女を中心にして現実と夢想が裏と表、という感じで並行して描かれます。 それは電気を供給できる「エレクトリックおばあちゃん」という、おそらくは目を覚まさないまま夢想する老女の見ている世界と、寝たきりで多くの管や機械が繋がれたまま知り合いが訪ねてくることもない老女を置いて避難していくしかないという現実の世界、というコントラスト。 若い介護職員を電気屋の若い男がボーイフレンドとしてみたり、電力会社に勤める息子は特攻のごとく原発の作業にかり出されているのが、社長じきじきにとりたてられたりと、暗い現実にすこしばか リンクした底抜けに明るい夢という振り幅でみせることで、いっそう老女の置かれている現実の救われなさを際だたせるのです。

貯蔵施設の問題も含めて原発を切実な問題として抱える青森の話ではありますが、戯曲に記された「演技者が日常使用してる口語に翻訳される」という指定の意味は今作では大きな意味を持ちます。 長野県でも、神奈川県でも東京でも、現在の原発とのかかわりかたの現実はどうであれ、 故郷を失ってしまうかもしれないということだったり、あるいは 自分は意識のないままに機械に繋がれて生かされていくかもしれない、という想像力は失わずにいたい、と強く思わされるのです。

津軽弁をはなす可愛らしいお婆ちゃんを演じた三上晴佳は圧倒的な存在感。中央に居続けるポジションをしっかりと演じきって代表作といってもいい一本に。 意地の悪い嫁を演じた工藤由佳子は圧倒的なヒール感で物語に嫌な空気をもちこむほぼ唯一の役をきっちり。終盤、母親を演じる奥崎愛野は美しく凛として見とれるよう。若い電気屋でおばあちゃんのボーイフレンドを演じた工藤良平は優しい男の子、の造型がちょっと可愛らしい。

当日パンフによれば、青森市の拠点だったアトリエグリーンパークはオーナーが変わって1月末で契約が終了し、新しい本拠地を求めているとのこと。あの場所が立ち上がったころから通い詰める(というほどではないけれど)アタシとしては、実に寂しくて。地方の劇団がああいう拠点を持つということが、どれだけの力になるか、ということを東京に居たとしても感じ取れる数少ない実例だったわけで、新しい拠点ができることを切実に願うのです。

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2014.05.06

【芝居】「婆VS女子高生」 月刊「根本宗子」

2014.5.3 16:30 [CoRich]

ねもしゅーの久しぶりバー公演。会場がバーなのにそれを舞台に書いたのは初めてだという40分。18日まで、BAR夢。

中年のおばちゃんたちがまったり呑んだり歌ったりしているスナック。カウンターの隅には静かな男が一人座っている。そこに女子高生が駆け込んでくる。変な人が追いかけてくるので匿って欲しいという。 バーというよりはスナック。夕方らしい時間、ママと近所の常連が旅行とかパチンコとか接骨院とか近所の噂話とかの駄弁をだらだら。そこに逃げ込んで来た女子高生と追いかけてきている演劇部の先輩という女子高生、男を寝取られたとまくしたてるが、意に介さない後輩、おばちゃんたちは話を聞いて、そりゃどっちが正しいわよ、なんて具合に無責任に、しかし真剣に加勢したり、いさめたり。なぜかカラオケを強要されたり。理不尽な目にあった女子高生は泣くけれど、という流れだけれど、もう一ひねりはネタバレへ。

駄弁会話やカラオケがあるぶん時間を取られながらも、40分見終わってみれば、ぎゅっと圧縮されてると感じるのです。後半の濃密さがそこに効いているかもしれません。

ママを演じた梨木智香と常連を演じた異儀田夏葉のステロタイプなおばちゃんだけれど、化粧をちょっと明るめにいれたりして、「おばちゃんが若く作ってる」感じにつくった見た目に、会話は下世話であり続けるというバランスがいい。逃げ込んでくる女子高生を演じた尾崎桃子はイラッとするぐらいに可愛らしさ押しとふてぶてしさがいい。追いかけてくる先輩を演じた長井短のちょっと面倒くさく、しかし真っ直ぐな造型が女子高生 ネタバレ。

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2014.05.01

【芝居】「あ・GAIN」シアターTRIBE

2014.4 .27 14:00 [CoRich]

長野県・松本の劇団、シアターTRIBEの新作は最後の夏を暮らす人々の、しかしからっと明るい90分。27日までピカデリーホール。

汚染が広範囲に進み住めなくなり、人々は地下に潜り時を待つ選択をしているが経済的な理由からまだ地上に残っている人々も居る。調査に訪れた警備会社のアルバイトは海の下に沈んでしまった町にかかる高架の高速道路の上に「海の家」が建てられていることを発見する。そこに住む人々に捕らわれてしまうが、ここに住む理由がそれぞれにあって。

原発・放射能で戻れない場所という骨格に、したたかかに住む人々を「海の家」という唐突さのある舞台に描きます。それは原発ばかりではなくて海外派遣で目にした戦争の現実だったり起こしてしまった犯罪だったり、インドに心奪われたり、あるいはこの場所を離れられないという人だったり、それぞれの理由と覚悟をもってこの場所にいるのだけれど、あくまで海の家という場所が持つ軽薄さと浮かれてる感じに乗せているのが巧くて、ここに居られるのは最後かもしれない、という「最後の夏」という決死の覚悟をする人々居る場所をあくまで軽いタッチで描き切るのです。

いま社会で起きていることを織り込んで、しかしエンタメというのが作家の個性だと思います。物語の骨組みとしては、最後が来ると判っている人々の最後の夏のひととき、なので、SFの設定でも作れるような物語なのです。

対して捕らわれ、彼らと合流することを決心した男の台詞がよくて、何をやってもうまくいかない、社会のせいにして引きこもっていて、せっかく出てきたら「社会がなくなっていた」という呆然とした気持ちが見えて好きです。

汚染地域でいつ死んでもという覚悟を持っていたはずの人々が目の前に迫る爆撃という現実を前に怯え逃げようとするあたりに少々違和感を感じなくはないのだけれど、見えないゆるやかな死か、ドカンと爆撃に遭うのとはやっぱり違うかとあとから思い直したりもします。 これだけ広げた大風呂敷を、あっさりと、しかしそういう場所は人々が作るのだ、という台詞一つで集結させるのは巧いなぁと思うのです。

松本の民間劇場の中核であるピカデリーホールは古い映画館を改装した建物で小劇場の劇場としては少々広さもタッパもありすぎる印象の劇場なのですが、客席段まで作り込み、おろした状態のバトンをうまくつかってほどよい狭さの濃密な空間を作り出します。この広さが絶妙によくて、パイプで建て込まれた「海の家」がごちゃっとした感じなのも人が住む空間、という雰囲気を醸し出しますし、その下にちゃんと高速道路っぽいものが作り込まれている、というのもいいのです。客席まで作り込むわけで、組みバラシは相当大変だと想像します。

正直に云えば、終幕近く、この場所に集まる人々はどこから来たんだという気がしないでもないし、序盤のいわゆるドッキリはシーンとしては面白いしそのコミカルさは大好きだし、終幕につながる伏線でもあるのだけれど、なぜドッキリをしかけなければならないのか、という違和感は残ります。

もと自衛隊の男を演じた伊藤利幸、戦争のトラウマを表出する後半もいいけれど、軽い先輩にツッコんでいく前半の軽さがいい。その軽い先輩を演じた瀧口将臣もどこかチンピラっぽいのに人情派がいい雰囲気。この場所に居続ける女を演じた、ちんてんめいは軽薄さと亡くした家族への情のダイナミックレンジも解像度も高くて圧巻で舞台を支えます。

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