2014.1.11 19:00
[CoRich]
クロムモリブデンの新作は高校野球を題材にしてるのいバットもグローブも出てこない95分。大阪のあと、23日まで赤坂・RED/THEATER。
メディアに描かれた暴力が次の暴力を生む連鎖をテーマに、廃病院に不法進入して映画を撮っていた監督と役者。そこに現れた高校生は腹を刺されていた。甲子園の初出場に期待がかかる高校球児だが、心ない挑発を受けたがそれには乗らず刺されたのだった。他にもこの野球部には、同級生の女に悪戯をしたり、家庭の事情をあげつらわれて我慢ならずに暴力を振るったりしていることがわかって。このことが表沙汰になれば甲子園の出場は消えてしまう。野球部監督はなんとか穏便に済ませて甲子園の出場を果たそうと考える。
甲子園に振り回される監督夫妻と娘、甲子園出場のためには相当のことを隠蔽してでもというメンタリティをベースに、暴力の連鎖をテーマにする監督の映画の面白さに巻き込まれていく、という構図。刺された男は身の危険があっても、妹が人質にとられてもなお「暴力はダメだ」という一点で暴力はダメだ思考停止。あるいは酒を呑んだあげくに同級生の女の子を部屋に連れ込んでとか(でもパンツは守ったとかw)。
なぜ我慢できるのかということを丁寧に描いている気がします。たとえばノートに(内なる暴力性の発露として)書き殴ったり、あるいは作品としての写真や映像には暴力的に表現する、というやりかた。これををくくるのに「アート治療(あるいは療法)」という言葉にするのは少々違和感があるアタシです。表現として暴力を描くものが(心はともかく)実際の暴力を振るうわけではない、ということと、映画監督が撮ろうとしていた暴力表現と暴力の実行の負の連鎖をこのノートですら生むという中盤、身体に「感情がドーン」と負の連鎖が生まれるのです。
甲子園という単語にひれ伏す、という後半の序盤はある種の思考停止な単語。象徴的に現れる高野連と電話機の化身のあたり、不祥事を(恋愛はいいけどチューはだめといった)意味のない線引きしていくばかばかしさを描くようで、それはつまり高野連ではなくて、判断を委ねて大騒ぎするばかばかしさという私たちに刃が向くのです。
あるいは作品として映画になって、評判も上々なのに、それを見て暴力を振るったという事件が起きればとたんに上映の自粛に流れてしまうということの、これも思考停止なのです。
正直にいえば、高校野球にしても映画という表現にしても、さまざまに置かれ点描される小さなシーンはおもしろいのにそれをいくら積み上げても物語としての流れにはならない感じなのが今一つ物足りない感じは残ります。もっとも、クロムモリブデンが描く世界はいつも作家の問題意識に端を発した逡巡じゃないか、と云ってしまえばそうなわけで、ここを問題にするのは筋違いだという気もします。
「ひどい目にあった女生徒」を演じた葛木英は可愛らしい制服姿から和服の姉御姿までな眼福もうれしいけれど、「襲われた女性」という難しいバランスの役をことさらに暗くするでも、意味のない明るさというわけでもない微妙なバランスできっちり。
マネージャーの女生徒を演じた渡邉とかげは、好きな男へと、家族への想いの狭間をきっちり。序盤で(本当に襲われたのは同級生なのに)自分が襲われた、というシーンが実はちょっと好きです。下手な女優を演じた、ゆにばは、化粧も含めてマンガのように造形されているけれど、正面からみると実は美しいと、今さらながら。
映画監督を演じた森下亮は序盤のあからさまにインモラルなポジションを一人で走り続ける力。後半、映画コンテスト事務局への電話のフラットな造形の奥行き。野球監督を演じた久保貫太郎は時にコミカルだけれど、想いが果たせそうなのに、これがダメになるという崖っぷちでの諦め方や諦めの悪さの振り幅が楽しい。妻を演じた奥田ワレタは物語を運ばないという意味で少々損な役回りという気はするけれど、甲子園廃止に拘泥する後半の造形はちょっといいい。高校球児を演じた板倉チヒロ、武子太郎、花戸祐介はそれぞれののびのびした感じ。高校生、という年齢でもないけれど。
ネタバレかも。
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