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2013.04.22

【芝居】「淡仙女」あやめ十八番

2013.4.20 19:00 [CoRich]

堀越涼のユニット、あやめ十八番、初の単独公演。130分。21日までセーヌ・フルリ。花組芝居を拝見しなくなってずいぶん経ちますが、ずいぶん立派なアトリエ兼劇団事務所で、個人的にびっくりしながらの観劇。

男が一人語る、実家は神宮の土地にすみ団子屋を営んでいる。再婚した父母の連れ子同士の兄と妹。子供の頃、祭りの時期に父親の言いつけをまもらず目にした鳥居の先で営まれていた踊りのあまりの美しさに心を奪われた妹は、東京に出て恋人を連れ帰って両親を驚かせたり、仕事も実に奔放だ。それでも家族は見守り続ける。

円形の舞台、その奥に花道というか直線に延びた先に鳥居で、参道を思わせるよう。にぎやかな和風の踊り(日舞とかではなくて、もっと土着な、祭りを思わせるような)と、昭和な選曲の音楽をめいっぱいに。東京にすんでいて、実家を手伝いに呼ばれる男は芝居をやっていて、そこに居る演出家が「妹の人生を演出」しているかのようなつくり。子供だった妹が美しく成長するのを眩しく思う兄はまた、そうなっていく妹のある種の神々しさを「演出している神」がいると考えたり、あるいは「神が遣わした」女友達が育てたのだと考える感覚がおもしろい。まるで作家に妹が居るかのような細やかな兄の気持ちの書き込み方なのだけれど、終演後のトークショーによれば、妹はいないのだ、というのにはちょっと驚く感じ。

ネタバレかも。

実家に戻り祭りでてんてこ舞いになってみたり、東京でルームシェアしている妹の姿だったり、あるいは12年前、突然兄妹となった再婚のこと、高校の後夜祭のフォークダンス、母親が父親と別れた理由や、妹が連れてきた友人や、ストリッパーになっていると打ち明けたことに驚き動揺する両親たち。物語の時間軸はさかんに前後し、しかも「演出家」が存在してのべつまくなしに、その物語に介入してくるつくりは決して見やすいものではありません。でも、妹を育てる神の存在を信じていたり、いろんな時間軸の出来事を散発的に思い出しているような雰囲気は、作家の思索というよりは作家のごちゃごちゃと整理の付かない頭の中を直接覗き込むようで、なんとなくでも、ついていければずいぶん楽しいなと思うのです。

堀越涼は母親という役を、衣装以外は男のままで、殊更にオカマ風でもなく、仕草だけでしっかりおばちゃんを演じきる確かなちから。 酔いつぶれた兄と父親を前に、兄の彼女に母親が離婚の原因を話して聞かせるシーンが突飛でも派手でもないけれどとても素敵で強い印象を残すのは、彼の「語る力」の真骨頂。その夫を演じた水下きよしのしっかり「おやじ」風情な力強さも印象に残ります。妹を演じた長井短(ながいみじか)は奔放さ、あばれる感じも、成長して大人になっていく途中の感じも鮮やか。(トークショーで所属劇団「半開き」の由来を聞かれて、口が常に半開きだから、ってのは笑った。たしかにそういう印象が強い) ストリッパーの師匠を演じた堤千穂は、溢れる色っぽさと気っぷのよさ。兄の少年時代を演じた丸山夏未も、なんかとても愛らしい。

出島のようになった舞台はストリップ小屋の体裁をとっているようだけれど、間にコントと称してるのもストリップ小屋風。従業員の男の半生を超高速で見せるのはちょっとおもしろい。その男を演じた岡本篤は無口で正体不明な感じはよく雰囲気にあっています。働いている団子屋のものを盗んでは(しかも高価なものはねらわない)燃やしている、というが作家が耳にした実話だというのもびっくりだけれど、それを妹が助けを求める狼煙なのだ、という解釈にするのは巧い。

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