【芝居】「従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行“──およそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない”という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語」テアトル・ド・アナール
2013.3.31 15:00 [CoRich]
谷賢一の個人ユニット二回目の公演。男ばかり5人でエンゲキの企みが濃密に詰まった100分。7日までアゴラ劇場。
オーストリア軍、劣勢の戦線の営舎。遠く離れ会えなくなっている親愛なる友人への手紙の返信はないままだが、同室の兵士たちは同性へ手紙を書く男のことをはやし立てる。ひどい状態の戦争。神は居るのか。
何事にも浅学なアタシの中でも、哲学は学校の教養課程ですら触れたことのない、完全無菌状態な分野。 名前だけは最近よく耳にする気もするウィトゲンシュタイン。従軍中にしたかもしれない思索を描いてみせるような描き方なのだけれど、wikipediaを読みかじると、この時代ではない彼の考えを描くようで、現実の枠組みを借りながらも、自在に虚構を組み立てる作家の企みが実におもしろいのです。
ネタバレかも。
作戦行動の前日、隊長が持ち帰ったパンとソーセージ。テーブルの上にそれらやケシモクまで持ち出して地形と敵味方の配置、そして絶望的な自軍の劣勢を目の当たりにしたあとのシーンが圧巻なのです。残された二人は、この劣勢の中、勝つためにさまざま考えていくうち、若い哲学者はどうして、現実をこういう「モノ」で描くことができるのだろう、と思い至るのです。「どうしてこんなことができるんだ?」という繰り返される台詞が実に印象的なのです。さらに、机の上の欧州東部戦線の外側にあるほかの国々を描くことが出来ることの興奮。こんな狭い部屋の中だけでは描けないようなことすらも、言葉を使えば描けるのだという前半の興奮。劇中の哲学者、あるいは作家と伴に歩いていると、こういうことをぼんやりとしか考えられないアタシですら、その考えのすごさに興奮することができるのです。(それに続く絵描き、絵描きが(クリムトという)全く別の理由で興奮すると言うシーンは、哲学者のバックグランドを、説明ではなく、描くのも巧いのです。
ここまでだって十分大興奮なのだけれど、物語はここには留まりません。言葉ならば、さらに宇宙の隅々どころか時間をも超え、「ありえるかもしれないすべて」を描くことができるという、さらなる広がりに興奮する姿、それに伴走するように、アタシもワクワクしてしまうのです。 年のせいなのか、頭が弱くなったのか、スポーツを観て興奮することがどうも出来ないのと同様に、思索ってことにどうにも興奮できなくなってるアタシなのだけれど、補助線を引き、手を引いて伴走してもらうように、そういう興奮を体感できる楽しさなのです。
隊長を演じた榊原毅は見た目からして隊長然としているばかりでなく、時に優しく、時に怖さ、時に厳しさという変幻自在、この全力で命令を遂行しつつ、部下の犠牲を最小限にしようかと、多少の計算をしつつも力強さが圧巻。足をひきづり神を信じたい男を演じた井上裕朗の(実学としての)工学に対する誇りとそれを(重力加速度の数値も単位も答えられず=それは物理とか科学の領域だ)無惨に砕かれ、理由を問われて塹壕には戻れないと泣くシーンが凄いのです。
ソーセージとパンで戦場のことを考えた哲学者を演じた西村壮悟、絵描きを演じた伊勢谷能宜の二人のシーンがどこまでも印象的。遠く離れてここに居ない優しく男と、ここに居る女好きで粗雑な男の二役を鮮やかにスイッチして演じた山崎彬もまた、実にかっこいい。
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