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2013.02.25

【芝居】「国語の時間」風琴工房

2013.2.23 19:00 [CoRich]

小里清が上演のあてなく書き上げたという戯曲を詩森ろばが演出。休憩10分を挟み180分。28日まで座・高円寺1。

1940年代、日本統治下の京城の小学校。創氏改名が行われ、日本語を「国語」として教えるようになった時代。朝鮮語を教えるどころか教室で話すことも禁じられている。学校の中では日本の支配に抵抗するハングル文字の落書きが見つかり、朝鮮総督府の役人が問題視しているが、犯人は見つからない。共産党に同調していた教師は目を付けられているが、逮捕には至っていない。綺麗な日本語を話す若い女性が教師の卵としてやってくる。

アタシは未見のリーディング公演を経ての3時間上演。大きな窓が舞台奥、スクリーンを兼ね、「日本語」の文字を映し出します。 深い谷の中に教室だけが浮かび上がるような円形の舞台。比較的前方に座ったアタシには見えなかったけれど、後方からだと、日の丸のように赤い円形の照明が当てられていたようです。

日本統治下の韓国で行われた日本語の教育、それに携わった朝鮮人の人々、日本語教育や名前でより強く統治を進めた中での人々の想い。それは一枚岩で反感というわけではなくて、(根底ではどうであるかは別にして)、あるものは生きるために、あるものは自分の過去とはっきり決別するために日本や日本語に乗ろう、のし上がろう、純粋にそうあるべきと考えたり、あるいは単純な憧れといった具合に朝鮮人の中での分断など。 扱うのが難しい背景を時代にとり、それに翻弄された人々。それに対する怒りというよりは、その制約の中での様々な生き方を描き出す奥行き、まさに群像劇。

正直にいえば、上演時間が長めで丁寧に描いてるのにもかかわらず、それでも役によっては少々極端に生き方が揺れたり、背景のないまま極端な生き方の造型に見えたりするのは少し惜しい気もします。 なぜ女教師は男の正体に結びつけられないのかとか、乾電池では動かないはずのラジオを鳴らしたままあちこちに電波を探して動かすのはどうなんだ、という細かいところが気にならなくはないのですが、まあ、大きな問題ではありません。

こんな題材の中でも、たとえばラジオの奪い合いで「総督府である」といって決着をつけたりと、細かな笑いを入れてあるのが、実はちょっと好きだったりします。あえて教卓を舞台前方に置いて、その下に隠れている役の話題を語らせたりというのもちょっと巧い。

背景を時代にとりながら、教育が国を作るということ、体罰に至ってしまう想いの強さなど、現代の私たちにつながるような題材をすっと入り込んでいるのも印象に。

戯曲も渾身(チラシによれば)ならば、キャストも実にいいのです。 教頭を演じた栗原茂、笑顔の中に隠す気持ちという、その時代の彼らのニュートラルな感覚を繊細に紡ぎ、しかも見やすい造形で強く印象に残ります。アカ上がりの教師を演じた佐藤拓之は強い反感がにじみ出るよう。警官を演じた仗桐安は、小学生の親という側面の人間くさい造形が好き。卒業生を演じた酒巻誉洋は、節目節目に現れて軽い造形で「時代に流されるひと」というキャラクタのグラデーションが鮮やか。女中を演じる清水穂奈美は、お嬢様の代わりに許婚と喧嘩するという役自体に少々無理を感じなくはないのだけれど、全体に静かに語られる中で、激しい感情の吐露がリズムを作ります。迷いながらも、生きるために日本に乗る道を選んだ女性教師を演じた中村ゆりはほんとうに美しく凛として、調べてみれば韓国籍だというのも、この物語に寄り添います。総督府の役人を演じた加藤虎ノ介は、格好良くて、どこか升毅を感じさせると芝居の途中からずっと思っていたのだけれど、なるほどMOTHERの出身か、と思ったり、軽さも隠したものの重さも実にいいバランスで印象を残します。

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