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2013.02.26

【芝居】「発情ジュリアス・シーザー」柿喰う客

2013.2.24 18:00 [CoRich]

女優だけでシェイクスピアを上演する人気シリーズ「女体シェイクスピア」 (1, 2)の。三回目。 3月3日まで青山円形劇場。そのあと大阪、新潟、三重。 (wikipedia)アタシの観た24日夜は田島ゆみかの体調不良でキャスト変更が入っていました。

ローマの市民を江戸の町民に置き換え、江戸弁を母体にして構成しています。女性の役がほとんどなくて、全体に男臭い芝居、袴姿も凛々しく、格好良く。正直に云えば、江戸弁とか町民という趣向、さらには洒落たジャズ風の音楽といった仕立ては物語になじんではいても、それを重ね合わせて芝居に幾重にも効果を生むというグルーブまでには到達していない感じが惜しい。中屋敷法仁演出ならば、もっとイケるはずという期待を込めて。

そもそもが地味めな、ジュリアス・シーザーという物語ではあって、たしかにがらっぱちではあっても、どこかゆっくりなところがあって、セリフで語らせ聞かせなければいけない今作では、イキオイでは突っ走れずに、若い役者、しかもキャスト変更という状況ではすこし厳しいところが残っていたのです。

もともとの戯曲から見せ場になっているらしい、弔いの演説。策士アントニーがブルータスは立派だと表向きはいいながら、市民たちを扇動し、ブルータスを追い詰めるに至る演説のシーンは圧巻。演じた七味まゆ味がしっかり締めたカナメとなって印象的に。実は主役のブルータスを演じた深谷由梨香は、舞台に居続け、翻弄されしかし、しっかりとそこに立ち続ける力強いキャラクタをしっかりと造型。乱れた髪もなんかかっこいい。占い師やピンダラスを演じた岡田あがさは、あまりに飛び道具ばかりな役どころがオイしすぎるだろうと思わないことも無いのだけれど、全体に重心が重くなりがちな芝居にあって、飄々とした造型がリズムを作ります。我妻三輪子もまた、幼い召使いという空気の抜けたような造型だけれど、これもまた違う軽さがあって、実はちょっと印象的で、しかも愛おしい。コミカルを背負うようなこの二人が終盤に至り主人を殺すという役にしているのもちょっと面白い。キャシアスを演じた渡邊安理、もっともっと行けそうな気がするのだけれど、確かにいままで観たことのないような役ではあって、新たな魅力への一歩かとも。

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【芝居】「ゴルゴン」ガジラ

2013.2.24 14:00 [CoRich]

多分アタシは初めて拝見するガジラ。友人の絶賛で当日券、キャンセル待ちでなんとか潜り込んだ115分。24日まで雑遊。

クリスマスの夜、ラブホテルで不倫相手の男にガソリンをかけ放火した事件。女は獄中から手記を発表したりしている。殺された男の妻は事件後、一人娘を女手ひとつで育て上げる。美人ではない娘を、犯人の女を見返せるぐらいにしようと、色恋ではなくて立派になる道を選び続けさせ、娘は果たして大学院を出て一流企業に就職する。殺された男の妹は離婚していて、この母娘を気にかけ、自分の娘とともに支え続けてきたが、清掃の仕事をしているラブホテルの経営者の息子といい仲になっている。
あるクリスマス、殺された男の娘もまた男と不倫の仲になり身ごもっている。親から離れたいずっと考えていて。 受刑している犯人の女は雑誌への手記のナレーションという形。 母と娘が二組、男たち、(ともう一人の女)の少ない人数の物語だけれど、女たちの生き方の共感と反感と溝が入り交じる癖の強い語り口。そこに女が書いた獄中手記の断片(のナレーション)を挟み、実は閉塞していく母、そこから離れたいと考える娘という「親離れ」の物語だと思うのです。母親のレールにずっと乗り続けたけれど、大学生になろうという娘が欲しいという携帯電話は許されないという、強すぎる囲い込みの怖さ。母親が子供に何かを言い続けて育てると云うことのバイアスは怖くもあるのです(もちろん現実には希望でもあるのですが)

母親の側から観れば、オンナであった犯人に対して自分が負けているということの強い意識、結果として彼女よりは上になるように育てたい、美人とは云えない娘だから頭の良さで勝負するのだと決め、年頃になってもセックスへの嫌悪感の強さが残るのも、またよく分かるのです。

女たちは血とか想いとか、見栄とか味方とか、ずっしりと重いけれど、男たちの造形は実に薄っぺらい感じなのが、アタシが感じる世界に近い感じで楽しくおもしろい。

不倫殺人を犯した女の獄中手記はバリエーションがあるようでも実はステロタイプな感じ、それに反感の妻、その娘が進んでいる道は、実は憎むべき犯人に近いというメビウスリングな感じ。友達ということになってるけれど裏表、支援してくれる義妹のことも実はどこか見下しているということ、ある種、女の面倒くささが舞台を支配します。これを120分見続けることが好きなアタシですが、これがどうしても嫌だという感じもよくわかります。

チラシも当日パンフ手に入れ損ねたので、CoRichのチラシ画像(小さすぎて文字が読めない)とキャストの順番が同じだと仮定して書いてみます。
妻を演じた西山水木は、娘には美人とは違う生き方を選んだ、しかし先が見えないということの苛立ち。その娘を演じたとみやまあゆみ、メガネで地味という造形、しかも実は男にモテそう(アタシだって選ぶならここだ(笑))というのが実によくて印象的。義妹を演じた大沼百合子、その娘を演じた白玉麻規子の制服姿は一瞬だけれど、この舞台の中では華やかさ。若い男を演じた今國雅彦が実は場をしっかりと支えるケーキのシーンが結構好きだったりします。

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2013.02.25

【芝居】「国語の時間」風琴工房

2013.2.23 19:00 [CoRich]

小里清が上演のあてなく書き上げたという戯曲を詩森ろばが演出。休憩10分を挟み180分。28日まで座・高円寺1。

1940年代、日本統治下の京城の小学校。創氏改名が行われ、日本語を「国語」として教えるようになった時代。朝鮮語を教えるどころか教室で話すことも禁じられている。学校の中では日本の支配に抵抗するハングル文字の落書きが見つかり、朝鮮総督府の役人が問題視しているが、犯人は見つからない。共産党に同調していた教師は目を付けられているが、逮捕には至っていない。綺麗な日本語を話す若い女性が教師の卵としてやってくる。

アタシは未見のリーディング公演を経ての3時間上演。大きな窓が舞台奥、スクリーンを兼ね、「日本語」の文字を映し出します。 深い谷の中に教室だけが浮かび上がるような円形の舞台。比較的前方に座ったアタシには見えなかったけれど、後方からだと、日の丸のように赤い円形の照明が当てられていたようです。

日本統治下の韓国で行われた日本語の教育、それに携わった朝鮮人の人々、日本語教育や名前でより強く統治を進めた中での人々の想い。それは一枚岩で反感というわけではなくて、(根底ではどうであるかは別にして)、あるものは生きるために、あるものは自分の過去とはっきり決別するために日本や日本語に乗ろう、のし上がろう、純粋にそうあるべきと考えたり、あるいは単純な憧れといった具合に朝鮮人の中での分断など。 扱うのが難しい背景を時代にとり、それに翻弄された人々。それに対する怒りというよりは、その制約の中での様々な生き方を描き出す奥行き、まさに群像劇。

正直にいえば、上演時間が長めで丁寧に描いてるのにもかかわらず、それでも役によっては少々極端に生き方が揺れたり、背景のないまま極端な生き方の造型に見えたりするのは少し惜しい気もします。 なぜ女教師は男の正体に結びつけられないのかとか、乾電池では動かないはずのラジオを鳴らしたままあちこちに電波を探して動かすのはどうなんだ、という細かいところが気にならなくはないのですが、まあ、大きな問題ではありません。

こんな題材の中でも、たとえばラジオの奪い合いで「総督府である」といって決着をつけたりと、細かな笑いを入れてあるのが、実はちょっと好きだったりします。あえて教卓を舞台前方に置いて、その下に隠れている役の話題を語らせたりというのもちょっと巧い。

背景を時代にとりながら、教育が国を作るということ、体罰に至ってしまう想いの強さなど、現代の私たちにつながるような題材をすっと入り込んでいるのも印象に。

戯曲も渾身(チラシによれば)ならば、キャストも実にいいのです。 教頭を演じた栗原茂、笑顔の中に隠す気持ちという、その時代の彼らのニュートラルな感覚を繊細に紡ぎ、しかも見やすい造形で強く印象に残ります。アカ上がりの教師を演じた佐藤拓之は強い反感がにじみ出るよう。警官を演じた仗桐安は、小学生の親という側面の人間くさい造形が好き。卒業生を演じた酒巻誉洋は、節目節目に現れて軽い造形で「時代に流されるひと」というキャラクタのグラデーションが鮮やか。女中を演じる清水穂奈美は、お嬢様の代わりに許婚と喧嘩するという役自体に少々無理を感じなくはないのだけれど、全体に静かに語られる中で、激しい感情の吐露がリズムを作ります。迷いながらも、生きるために日本に乗る道を選んだ女性教師を演じた中村ゆりはほんとうに美しく凛として、調べてみれば韓国籍だというのも、この物語に寄り添います。総督府の役人を演じた加藤虎ノ介は、格好良くて、どこか升毅を感じさせると芝居の途中からずっと思っていたのだけれど、なるほどMOTHERの出身か、と思ったり、軽さも隠したものの重さも実にいいバランスで印象を残します。

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【芝居】「幻戯」鵺的

2013.2.23 14:30 [CoRich]

07年初演作(未見)を改訂再演。95分。26日まで「劇」小劇場。

古そうな売春宿の離れ。30過ぎでまだ童貞の作家を友人の作家が連れ、この店いちばんの売れっ子に相手をさせようとするが、頑として心を開かない。その女は、部屋の中に自分を嫌っていることを書いている日記を見つけ、それを書いたのを向かわせるように遣り手に云う。現れた女は口がきけず、しかもこの商売を十数年続けているのにまだ慣れないという。結局男は何もせずに帰るが、数日後、今度は一人で現れる。男は口の利けない女を自宅に囲って、心は十分に通い合ったが抱いてないという。心と身体を別に考えることに割り切ったといい、売れっ子を無理矢理抱こうとする。

畳の部屋に遣り手、チンピラ風情な男、インターフォンなど、少々古めかしい感じの売春宿。部屋に運ばれるビールを布巾で包んでいて、格式というのかどうか、そういう「時代」を感じさせるような感じ。音楽もほとんどなくて、微妙な緊張感が支配して物語は進みます。

実はちゃんと物語のカナメが理解出来てない感じもします。が、まあ書いてみます。ネタバレかも。

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2013.02.19

【芝居】「あるオト、あるヒカリ、あるカラダ、あるコトバ、あるミライ、そのタもろもろ、の、あるケシキ」リジッター企画

2013.2.17 13:00/16:00 [CoRich]

恋愛の二人芝居、友人の三人芝居、家族の四人芝居を、一人のダンスで挟んで 95分。17日まで新宿ゴールデン街劇場。

ダンス「あるオトによって生まれる、あるカラダがある」
クラブで出会った男にゾッコンになった女は捨てられ、クリニックを訪れて、コトバの摘出手術を受ける「あるコトバ」
中学で出会った三人の女の子、エプロン借りたり、買い食いを口止めしたりして知り合う。恋したり、花火見に行ったり、それぞれの道を歩んで、結婚したり子供できたり仕事に付いたり、自分のしたいことを見つけたり、離ればなれになってもずっと友達だったのに「あるヒカリが在るケシキ」
家族、として出会う人々。こんな大変なことが起きている一日。お父さんもお母さんも息子も娘も、それぞれに家族に求めるものがあるけれど「あるミライと、そのタもろもろ」

「あるコトバ」は、恋に破れた女からその辛いコトバを外科手術で取り出す着想に、二人はダンスというかセリフの特定の単語に特定のフリというフォーマット。辛い恋は忘れたいけれど、そんな辛い恋でも無くなってしまうと人生が空虚になってしまうのだ、という、女の子を応援するような語り口。動きと言葉という女を演じた真嶋一歌、その動きがキマりつつの表情が印象的。

「あるヒカリ〜」は、中学生から30歳ぐらいまでの女三人に育まれる友情を丁寧に描きます。恋に揺れ、人生の進路に悩み、仕事や結婚や出産や。実際の距離がどんなに離れても三人の気持ちの距離はずっとずっと変わらないこと。正直にいえば、物語としては少々唐突な一人の死だけで起伏を作ることになってしまうのが少々食い足りない感じがもったいない。シャッター音でシーンを区切っているフォーマットなのだけれど、シャッター音のあるところと無いところがあって意味深で、何か意図があるのかと思うと、いまひとつ掴めないのは何かを見逃したか。石井舞だけが母親役との二役で、その間の年輪をセリフ一言できっちり。

「あるミライ〜」は(最後で明かされる)太陽爆発の、ヒカリの無くなる瞬間を疑似家族で過ごそうと考え集う若者たちの姿。それぞれがなにかの家族についての欠損があるという語り口だけれど、若いにもかかわらず母や父という役割をどうして引き受けることにしたのか、あるいは疑似でもヒカリが失われる直前に初対面した人々と家族として居たいのだという物語の上での切実さが欲しい感じ。

その三本の芝居を貫く、というよりはそれぞれからセリフをアソートしながらのダンス。三本の芝居をゆるやかに結ぶものがほしいところ。

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2013.02.18

【芝居】「踊ろよ、フィッシュ」恥骨

2013.2.17 14:00 [CoRich]

日大芸術学部在籍にして旗揚げ公演。17日までギャラリー・ルデコ4。95分。

二人の女、セーラー服。なんでもこうしたいことばかりを語る女、毎日お参りといいながら自分のしたいことばかりを祈る彼女は、水にさらわれて行方不明になる。
長い時間のあと。残された女は友達を探し続けて海辺に居続けていつしか海女になっている。水にさらわれた女は、言葉を失い、魚になって男に釣られ、一目惚れしてしまう。言葉は届かない。銭湯にある彫刻が動いて助けてくれて。

人魚姫伝説をベースに、若い観客にも馴染みな感じのキャラクタをテルマエやらドラゴンボール風味にして語るファンタジー。友達どうしで気持ちがつながり続けている話、恋する女の子を応援するようでほほえましい。

魚になった女が喋る言葉を失い、辞書の恋の定義を大事にしているという序盤から、恋する気持ちをどうしても伝えられないというもどかしさ。人魚姫の切なさは、喋る機能を失ったのではなくて、喋ることができないぐらいの気持ち。そこに現れるキャッチー(なんせ白いワンピース(=夏色)に長い髪で誘うのだ、おまけにナンシーだ)な女、という敵。これもまた「おんな学校(C)西原理恵子」、あるいは劇中で出される「モテしぐさ」なのです。対する男は胸元だったりパンツだったりと翻弄されまくりな幼い中二っぽさもまたいいのです。

友情を続ける旅をRPGになぞる、というのもちょっといい。ことさらにテレビゲームという語り口ではなくて、ふつうに耳になじむ台詞というのもおもしろくて。7つのバスクリンで望みが叶う、というゲームな感じも。

正直に云えば、当日券キャンセル待ちで入ったアタシが案内された下手側の一番奥、あきらかに見えないシーンはほとんどない(丸くカーテンで囲われた着替え場所は間近過ぎてまぶしい(笑))ものの、釣られるシーンとか、表情が重要なシーンがいまひとつ見えない感じなのは残念な感じはあって。

魚になった女を演じた井上恵は表情の豊かさ、色っぽいはずのスカート(というよりは、ペチコート風か。よくわらないけれど)を脱ぐシーンだって、幼く、しかし強い気持ちを持ち続ける説得力。ワンピースの女を演じた谷口桜子はあからさまなヒールだけれど、(劇中でも云われる)ボスキャラっぽい(女としての)強さが圧巻で印象に残ります。

日大芸術学部在学という作家にとってはタイトルの「踊ろよ、フィッシュ」にしたって、あるいは「夏色のナンシー」は古典なのだろうと思うけれど、そのポップさがものがたりに実によく合う感じがするのは、あたしの年齢だからですかそうですか。

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【芝居】「タイトル、拒絶」ロ字ック

2013.2.16 19:30 [CoRich]

ラジオに出てみたりと、露出が多くなってきたロ字ックの新作。17日までサンモールスタジオ。115分。

デリヘル嬢が待機し電話受付をする店舗。ナンバーワンはずっと笑いながら、しかし自分のものと金への執着は尋常ではなく。噂話に明け暮れ客からの文句ばかりな女、店員の男に袖にされまくりながら惹かれてしまう女、あるいは静かにノートに文字を書いている女。店長に信頼されている男は、ナンバーワンに手をだしまくり。新たなナンバーワンも、あるいは体験入店はあきらかに頭おかしい感じで。

若い女の風俗の現場、(店舗に客が来ない)デリヘルゆえに身内の噂話やあれこれという場所。全体に物語も音楽も騒がしい感じ。「女」を商売にするという舞台の置き方は、美醜や性格など、あからさまにその順位を思い知るという意味で女性の作家ゆえの容赦ない感じ。役者のメンタルにも明らかに負荷がかかるだろうに、それでも押し切って物語りたいものがあった、という思いゆえか。

正直に云うと、ここまで女に順位付けされている場所において、デリヘル嬢でない女の存在があまりに安全地帯に過ぎる感じはあります。たしかにそれは作家(山田佳奈)自身が演じ、作家の視点だし、確かにアタシにとっての「ふつうの」感覚に近い視座を提供してはくれるのだけれど、せめて雇われているという物語上の必然(何でもやるって云ったんで、ではあまりに弱い)があれば、と思うのです。店員を演じた熊野善啓との二人でじゃれたり想いがあったりというあたりはちょっといい。

ナンバーワンを演じた堤千穂は声が実に印象的。ずっと笑い続けている女というのは序盤こそ違和感だけれど、この舞台においては見続けていると、気持ちがもっていかれてしまう、という「おんな学校(西原理恵子だったか)」の主席という風情の説得力が圧巻。後からナンバーワンになる女を演じた長井短の圧巻のスタイルに目を奪われながらも、焦点の定まらないままの視線というのは怖さすら。ブスで頭がおかしいという支離滅裂すぎる女を演じた東ゆうこは、役として演じるにしてもメンタルとして大丈夫かしらと思うけれど、たしかに居そうではある感じ。

舞台を中心にぐるぐると歩き、走れるようになっている舞台、それでも歩みを止められない、生き続けなければいけない女たち、あるいは男たちの姿ということなのか、と思いつつ。土曜夜でもかなりの満員。にしても、下手端の通路席に座らされてしまうと柱が邪魔で見えないところがあるのはちょっと気になります。見切れとしてチケット売ったのかしらん、とか。アタシは辛うじてその右隣なので、なんとかなりましたが。

名前に添えて、キャラクタを一つの単語でというキャスト表の工夫がちょっといい。これによれば笑顔のデリヘル嬢はウサギ、安全地帯な女はタヌキ(なるほど自覚してる、たいしたものです)など、作家の頭の中を少しのぞくようで楽しい。

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【芝居】「漂着種子(2013)」猫の会

2013.2.16 15:00 [CoRich]

先週観た1984版と対をなす2013版。17日まで。

2013年、八丈島から八丈小島を望むゲストハウス。母親の生まれ故郷を訪れた女が一人で泊まっている。かつては旅館だったこの場所の母屋は集会所になっていて、民話を元にした劇を上演するために毎晩稽古をしている。女は仕事も恋人もすべてを捨てて訪れているが、そんな女を追って、かつての同僚もやってくる。

東京での生活になにもかも疲れて離島を訪れた女。彼女にとっては母親の生まれ故郷だけれど、家出のように絶交状態となっていたこの場所のことは母親が話したがらなかった出生の秘密がある場所。1984版で謎めいた後半部分は「父親が殺されたこと」だけは明確に語られますが、それ以外の謎解き編、というわけではありません。生活の場から逃げてここを訪れた女を中心に据えた物語。

1984版の三女の娘をメインに据え、1984版で生まれた次女の息子が成長してと重なってはいるものの、同じ人物は役としては登場しなくなっています。具象だった舞台装置は舞台全体の四隅を鎖で吊るような抽象舞台になって、全体がブランコのように揺れ、回るよう。今のアタシたちとそう遠くない足元が不安定に揺れる世界を描く感じ。

八丈という場所だけれど、方言はほとんどなくなり、ダメんずはあくまでダメんずで、携帯だってもちろん、というわけで1984にくらべると生活の感じはどんどん東京にもありそうな感じに。ここに至って、仕事がある場所という意味で追ってきた女の立ち位置としての東京はもちろんそうなんですが、東京が必ずしも一方的に憬れる場所ではなくなってる(劇団の、というのも行きたいとはいいながら実はそうでもない)のは、今の時代の感じではあります。正直に云えば、どうしてもこの物語に「劇団」を持ち出してしまうのは、作家の身の回りの距離感で描いているような感じがあって、物語の必然が薄くて少々勿体ない気はします。

東京から来た女を演じたサキヒナタは、恋や仕事を捨て去ってきたけれど多少の未練のある奥行きをしっかり。追ってきた女を演じた森南波は序盤は不思議なケバさなのだけれど、化粧を落としてからが実に可愛らしく、しかも仕事で生きていくという芯の強さが説得力。ふつうに物語を組み立てるならこの中心のブレなさを主役に据えそうなところを、あえて「だめならだめでいいじゃん」と言い切ってしまう(サキヒナタが演じた)女を中心に語るあたりが作家らしいなぁと思うのです。ダメ男を演じた澤唯は、しかし憎めなさの人としての魅力。その妻を演じた川崎桜の不幸に見える感じにもまして、アニメ業界の担当パートの説明の難しさににっこり笑って理解を止めてしまうという微妙な笑顔がなんか、そういう男にひっかかりそうな雰囲気の説得力。

「蛍光ペンで自分の台詞をなぞっておく」というのはきっと演劇人としてはダメ(少なくとも今風ではない)で、芝居でもダメ男という風情にしたかったのだろうと想像しますが、ほんとはどうなんだろう。聞きそびれてしまいましたが。 1984版と同じ場所、30年を経てゆるやかにつながる物語。とはいえ、この手の企画でよくいわれるように「片方だけでもちゃんとおもしろくて、両方観たら面白さ倍増」ではありますが、二つあわせて3時間ならば、タイトに2時間の一本、の方がコマ不足なアタシは嬉しいわけですが。

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2013.02.11

【芝居】「IN HER TWENTIES 2013」TOKYO PLAYERS COLLECTION

2013.2.11 14:30 [CoRich]

大阪から、11日まで王子小劇場。2011年6月初演の人気作をキャスト一部入れ替えての再演。

びっくりするほど、印象は変わりません。20代の女性を10人の女優がグラデーションのように演じるというフォーマットの発明の面白さも、もちろんそのまま。物語自体もそう大きく変わるわけではないのですが、反面、必ずしも10人の役すべてが物語上の役割を必ずしも担わないというのも変わりません。たとえば長くつきあっている彼氏とか、仕事を始めてからの数年という時間の流れという意味はもちろん持っているのだけれど、どうしても、両端の20歳・29歳、大恋愛の末の別れという24歳、仕事をバリバリという27歳がどうしても物語のキーポイントで、濃淡がつきすぎる感じなのはこれだけの女優を揃えて勿体ない気がするのです。

それぞれ年齢違う同一の人物の台詞なのに、それをコラージュして、会話しているかのように仕立てるのも初演から続く、このフォーマットのいい隠し味で、どうしても一人芝居の羅列になりがちなこの語り口に素敵な味付けをするのです。 恋に破れる24歳を演じた斉藤麻衣子は初演の梅舟惟永とはまた異なる、より引きずり続ける女という雰囲気になっていて、それがまた彼女の雰囲気によく合っています。初演に続いて29歳を演じた冬月ちきは、ほかの9人たちが重なりあい、静かに秘めたる、という雰囲気をきっちり。仕事も実はプライベートも充実な27歳を演じた(これも初演と同じ)甘粕阿紗子は、年下に惚れる照れよりも落ち着きが勝る感じになっていてこれはこれで彼女が重ねた年齢を観るようでまた楽しい。

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【芝居】「サロメvsヨカナーン」FUKAIPRODUCE羽衣

2013.2.10 14:00 [CoRich]

「妙―ジカル」を上演する団体、本公演としては初めて拝見します。サロメを原作に取りつつもほぼ、男女の出会いと日常を描く120分。11日まで東京芸術劇場・シアターイースト。

パブの男たちは、街を歩く女を見定める。出会う女、男。セレブだったり夫婦だったり、年上の女と若い男だったり、疲れたオジさんとあまりに若い女だったり、この街のスターだったり。

雨のモチーフに飴をつり下げられた舞台。最前列なら自分の上にも雨が降るかのよう。 七枚のベールを意識してか、7組の男女で、そのカップルもサロメvsヨカナーンでさまざまなシーンを組み立てていきます。コミカルなシーンがありつつも、基本的にはこの二人がなぜ一緒に居るのかを色んな角度で組み立てていく感じ。

恋心と交わることの境界線の曖昧さ、それを忘れてしまった夫婦だって、なにかのきっかけがあれば男女に戻ったり、もうすっかり恋を諦めていたのに、意を決してナンパすれば信じられないぐらいに若い女の子とボーリングに行ったり、もっとあったり。あるいは若い男を叱咤しつつも溶け合ったり。ミュージカルに仕立てているのが巧く効いていて、今となっては(泣)ファンタジーにしか思えないことがリアルにあった、あるいはあるかもしれないということ。気持ちが押し寄せてくるのです。

オジさんが若い女とボーリング、という「遠い日の花火ではない」シーンはあきらかにファンタジーだけれど、アタシにとってはなんかそのオジさんが一番近いわけで、そこになにかを投影してしまいます。これだけカップルがあれば、そのどれかにはフックする気がします。隣に座った見知らぬ女性は序盤から音楽がかかれば泣いてたりと、確かに気持ちを揺さぶられる気がします。

そう、音楽の力ってのはたいした物で、それに日本語の聞きやすい歌詞を乗せるというのも楽しい。終盤30分からの歳を数えながら生きていく人々のナンバーが実に味わいもあって楽しげで印象に残るのです。ゾロ目とサロメをかけたりしつつ、「一人ぼっちよりも、マシだから愛してる」という強い歌詞が印象に残ります。正直にいえば、たとえばリズムやビート重視のナンバーだと維新派な感じだったり、あるいは打ち込みで作られたであろう音楽の音がやや安くて(いや、よくわからないんだけど)必ずしも効果を生まない感じがする違和感。もっとも、繰り返し観ていけば、それはたいした問題ではない気もします。

圧巻なのは、奥さん(のサロメ)を演じた大西玲子の母たる強さと忘れていた女に戻る少しばかり恥ずかしく、しかし上気するような表情の豊かさ。終盤の一曲の母を見送る歌も実によくて。オジさんに出会う若い女を演じた鯉和鮎美の可愛さ、そこからの少々幼くも大胆な色気。

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【芝居】「漂着種子(1984)」猫の会

2013.2. 9 19:00 [CoRich]

1984と2013の二つのバージョンを上演。17日まで楽園。95分。9日夜時点では、劇場入り口から下りる階段の右側に八丈島に関する地図やら資料が張ってあります。ちょっと気付きにくいので、帰りに気づいたアタシです。2013は来週、拝見する予定です。

八丈島、今は無人島の八丈小島を望む旅館の離れは、画家になりたいこの家の三女がアトリエにしている。次女と夫が切り盛りする旅館、長女は東京で嫁いでいて滅多に戻らない。三女の高校の同級生だった漁師が毎日魚を持って訪れて、淡い恋心を言い出せずに居る。
ある日、本土から赴任してきた教師が道に迷ってこの家を訪れる。方向音痴で考えていることが不思議な教師は海岸で拾ったという植物の大きな種を三女に渡し、三女は惹かれるようになっていく。

この土地のこと、人々のことを描き出す序盤。少々説明的な気がしないでもありませんが、こうやるしかないような気もします。東京に出て行った長女が訪れて、ここの人と東京の微妙なズレ感を紡ぐ中盤。 方言を扱う芝居は数あれど、八丈の方言という芝居を観た記憶はありません。語尾や単語が独特で、これが正しいものかどうかはわからないのだけれど、訊いてみれば、さまざまな地方の言葉が混じり合う、ということなのだそう。

ネタバレかも

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【芝居】「『くじらのおなか』改め、『ポテサラ パニック ピクニック パーティ』」ぬいぐるみハンター

2013.2.9 16:00 [CoRich] ぬいぐるみハンターの劇団員だけで60分。当初のタイトルから変更して。10日まで荻窪小劇場。

大学のピクニック部が町を見渡す丘にやってきた。楽しげな一行だが、一人無口な男は久しぶりに参加する。その男のために全員がポテトサラダの弁当を作ってきていたりするが。

素舞台に劇団の役者5人。大学生の楽しげなピクニックの裏側にあるそれぞれの気持ち。もうすぐ社会人になる不安、恋する心、焦る心、あるいはトラウマや絶望のないまぜ。時にミュージカル、時に個人芸に近いギャグを織り交ぜながら、濃密にそういう若者の空気を作り出します。

物語そのものは、ありえないほど、少々のご都合主義も含めててんこ盛りで現実感は薄くて四コママンガのよう。しかし、そこに生きている人々の気持ちを描き出すちから。今までの彼らの代名詞である、子供の頃に感じる寂しさだったり楽しさだったりということを一歩進めて、大人になる直前の若者の気持ちを描くことが真骨頂なのだと思うのです。

神戸アキコの個人芸に近いぐいぐい押すようなおばさんキャラは圧巻の安定。自転車に乗って通勤と云うだけの短い話題を、延々かけて話すというネタがおもしろい。浅利ねこはここ数作でメキメキと力をつけて来た感はありましたが、今作でも安定した魅力。歌もちょっといいのです。

作家は当日パンフで「寄せ集め素人集団を抜け出して、僕らはちゃんと劇団としてリスタートします」という言葉が実に頼もしく感じられる一本なのです。

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【芝居】「ネコの星」まつもと市民芸術館・TCアルプ

2013.2.7 19:00 [CoRich]

2012年3月上演の世界の児童文学発掘プロジェクト『ネコの星』を再演。10日までまつもと市民芸術館・小ホール。120分。

港町、ネズミの親分は知恵と勇気で伸していて、ネコも犬とも対等にやりあっている。忌々しい敵を殲滅し人間にエサを貰うようになろうと考えて、親分は海の向こうにネコペストを手に入れに旅にでる。果たして手に入れるものの、計画は失敗してしまう。その復習を図ってネコに罪をかぶせて人間の手によってネコたちは樽に詰められてしまう。
ストリートの女、ギターを弾く男に効かせて貰う話、明るいガス灯に寄り添った小鳥・チビ星は月に、そして太陽を求めて奔放に。

三匹の猫とネズミたちの物語、その町に居る若い女が様々な人に訊いてまわる「ちび星」の物語の二つの物語を細かい断片にわけて平行して進む語り口。 ストリートな若者たち、といういでたち、イキがる若い男たちがじゃれ合うように、ネコの仕草になる序盤、ネコを人間が演じるというおかしさはともかく、さっきは人間だったのにいつのまにかするりとネコになっているのは、芝居だからこその楽しさに溢れます。時にブルースなど音楽を交え、時にコミカルで、ストリートをめぐる動物たちと人間たちの物語の並行する物語は緩やかで楽しいのです

正直にいえば、全体のリズムが人間のパートも動物たちのパートもリズムが同じようになっているせいか二つが解け合ってしまって、序盤、少々飲み込むのに手間取るアタシです。緩急があったりすると見やすさがぐんとアップしそうな気がします。

ネタバレかも

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