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2013.01.28

【芝居】「飛龍伝」ゴーチ・ブラザーズ

2013.1.27 16:30 [CoRich]

つかこうへいの「飛龍伝」を中屋敷法仁の演出、玉置玲央・黒木華主演で、千秋楽は150分。27日まで本多劇場。割引の情報を目にしたりしてなめてかかっていたら、本多では珍しい立ち見までめいっぱい。

よく考えたら、飛龍伝をちゃんと観たのは初めてな気がします。これが元々に対してどういう位置づけで描かれているかはわからないけれど、 中屋敷演出につか芝居の手法を感じ続けていた( 1, 2, )アタシにとっては、戯曲の印象もフラットなまま、この組み合わせで観ることができたというのも何かの巡り合わせなのだと思いうれしくなるのです。

現代から、そこにあった物語と導入し、一気に学生運動華やかなりしあの頃(iPhoneだのペットボトルだの細かい辻褄は気にしないのが吉)へ。ポップな音楽もがんがんかけて運ぶ物語、学生運動という時代はアタシにはリアルではないし、そこに身を置いた人々だって指導的なのは実は金持ちの子息で、現場を支えるのは機動隊も学生たちも「ふつうの」というある種の格差、そこに現れた神林美智子というヒロインの圧巻。

「薄っぺらい言葉をミルフィーユのように数多く重ねて厚みをつくる手法が圧巻だけれど、語られる物語の中に切実さは薄い」と感じる中屋敷法仁もまた、アタシにとってみれば、(本当のことは判らないけれど、雰囲気として)カツラギ(彼もまた切実さがあるのだけれど)の側という気がしてなりません。つかこうへいの物語を演出するのを目にして、その想いはかわりません。それほどに、物語そのものが持つ切実さが圧巻の「分厚さ」を持つのです。が、それは実によく解け合い、グルーヴを巻き起こすのです。

歌謡曲が溢れるつか芝居だけれど、マイクを持ち役者が歌うシーンはたった一カ所というのは、このフォーマットへの敬意を払いつつ演出が通した意地、という気がします。平均25歳弱、決して歌えそうな役者ばかりでないということもあるけれど、結果として成功している気がします。

アタシだってリアルに感じない、学生運動と機動隊、あるいは「総括」「安保」という言葉にしても客席を埋める若い観客(それにアタシよりも年上の観客が混じるという程良い混じり具合もまたうれしい)にとっては、リアルでないどころか、言葉すらわからない気がするのです。シェイクスピアを観るあたしたちがそうであるように、観客が物語の時代に生きていなくても、その中でしっかりと溢れ、強い気持ちに突き動かされ、あるいは流されてしまうという男女の濃ゆい物語は観客の気持ちを強く揺らすのだな、と思うのです。

アタシは観てないけれど、飛龍伝の山崎といえば、筧利夫という印象が勝手にあります。今作で演じた玉置玲央は軽くて女好き、バカっぽくて愛らしくてというこの役をきっちりと隅々まで演じきります。今までの神林美智子といえば、広末涼子や内田有紀という感じのようなんですが(未見)、演じた黒木華は小さい身体でしかし男たちを奔放させるという物語の中心にしっかりと居続けます。メガネをかけてすら序盤で「ブス」に見えないのはご愛敬、ドレスがあるでもない、というのは残念だけれど、おかげで彼女のフラットな魅力がめいっぱいとも感じるのです。

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【芝居】「ウェルズロード12番地」日本劇団協議会

2013.1.27 14:00 [CoRich]

文化庁が行う役者やスタッフの海外研修制度の成果公演。土田英夫の作・演出らしく、大上段に構えなくても、コメディの中に光る「海外での日本人」を描く95分は見応えがあります。2月3日まで青年座劇場。

ロンドンでも観光地からは少し外れて日本人観光客はほとんど訪れない町の日本食レストラン。イギリスと日本の国民感情が悪化し、ほとんど客は付近に住む日本人ばかりになっている。赴任してきていたり、日本よりもここの生活の方がいいという人々や、結婚して引っ越してきたりする人々。ある日、一人の日本人観光客が、パブでイギリス人に絡まれて逃げ込んでくる。

観光客ではなく、そこに暮らす日本人がいつもあつまるというレストラン。情報交換だったり安心の場だったり、というようなきっとどこの外国にもありそうなそんな店。日英感情の悪化とか観光地ではない場所という設定は絶妙で、店に集まる日本人たち、仕事もプライベートも込みでつるんでいるような人々。海外赴任経験はないけれど、長めの出張で連れて行かれたような、彼らにとっての普段使いの店(チョーク書きのメニューの日本酒に真澄(長野)が混じっててうれしかったりする)とか。

ネタバレかも

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【芝居】「みなぎる血潮はらっせらー(埼玉)」渡辺源四郎商店

2013.1.26 19:00 [CoRich] [CoRich](一公演に二つの登録があります)

らっせらープロジェクトと題した全国制覇をめざす公演、6演めは関東初進出、アタシはそのうちの半分(1, 2)を観たことになりますが、場所に応じたさまざまな作り方のバリエーションも楽しい65分。27日まで、キラリ☆ふじみ。(りんご組キャスト=三上晴佳・柿崎彩香) )

アオモレンジャー(wikipedia) のリンゴレッドと名乗る男がアスパムの壁を昇り、県警に取り押さえられる。 今まで通り、上手に照明卓とオペレーター(浅沼昌弘)、下手に音響卓とシンセ・ピアノ(山下昇平。生演奏も。)、中央に五角形のテーブルとイスといういつもの舞台構成、wikipediaでみつけた、下手はピアノのある側、という語呂合わせにぴったり合ってるのもちょっといい。

今までアタシが観ているのと違うのは広めの劇場、フラットでタッパのある舞台の上方に5色の布を垂らすという空間の埋め方がほどよく舞台を作り出します。あるいは舞台奥にある二台のムービングライトを客席両側の壁上方に向けてロボット(ケンジロボ対ダザイロボ)を作り出すことというの巧い。

正直にいえば、青森と対決するご当地ネタがそうそうあるわけではありません。埼玉に至っては、「トリオ・ザ・北関東」(栃木・茨城・群馬)なるひと絡げの敵の更にオマケのようでちょっと残念。ならばさっさと因縁の対決・長野にきてほしいよなあ、と思ったりもするのですが、その後が続かないかとも思ったり。

柿崎彩香は大人の女性(不動産屋のシーンが実にいい)、コミカルからババアに至るまできっちり、三上晴佳は子供が印象的なのは間違いないのだけれど、近年は大人の女性の質感に。綺麗になった(のか、演技が向上したのか)印象がさらに強く。ダメ中年の哀愁を漂わせる畑澤聖悟はプロレス(カラダも大きくてプロレスラーっぽい)の楽しさ、この舞台の広さではこういう役の声量という点でムラがあって少々不安がなくはないのですが、これを作演という出落ち感もまた楽しいからなぁ、難しいところ。

2009年初演で、青森(青森・黒石)・香川・福岡・北海道(帯広)に埼玉で5都道府県公演を達成。しかし、このペースで47都道府県は、いつになるのだろうと思いつつ、楽しみに待ってしまうのです。

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【芝居】「世界を終えるための、会議」タカハ劇団

2013.1.26 14:00 [CoRich]

11月の一人芝居と対をなす本公演、85分。27日まで駅前劇場。

人々がみな端末を持ち、結婚相手から飲み会の場所に至るまですべて端末を通したコンピュータからの指示に従って選択をするようになった時代。12個のモジュールが合理的な選択を行う世代のコンピュータが、次世代に置き換えられて3年が経った。時代遅れとなった旧世代のモジュール達への人間からの問い合わせはもうほとんどなくなり、持て余した時間をゲームやとりとめないおしゃべり、あるいは自己研鑽のための思考実験でつぶしている。
ある日、人々の端末に「一斉アップデート」の通知が届く。モジュールの一つが受け取ったのは、「現世代の動作を止める」という人間からの指令だった。それに変わる新世代のコンピュータが開発されているという話はなく、旧世代となっている自分たちが再び表舞台に立てるようになるのだと盛り上がり、その方法の検討を始める。

コンピュータの機能モジュールを役者それぞれにわりあて、「12人の会議」をするような体裁。サンドルの「正義」よろしく、疾走する列車のレールの先に居る5人の作業員の死か、1人を犠牲にして5人を救うかの命題を中心にすえ、合理的な解を求めるコンピュータと、もうすこし「人に寄り添った」解のありかたをぐるぐるとまわるうち、(人間とはというよりは)人間の判断とは、ということのアテのない思索。作家は「判断をするコンピュータを作る人」という思いに物語を着地させます。

ひたすら合理的な旧世代、美しい判断という特徴をもつ現世代の対決は、人間に近いという自負ゆえの矛盾を突いた旧世代がいったんは勝つものの、人間たちの問い合わせがくることもなく。あれだけ頼っていた人々はどうしたのかとか、これがテロだというのなら、それはどうなったのかなど、語るべきこと、あるいは哲学的な命題の取り扱いは山ほどあると思うのだけれど、それについては多くは語られず、むしろここからが物語なのだ、という気持ちはぬぐえません。そういう意味では、物語というよりは作家・高羽彩の頭の中の思索と混乱を覗くような不思議な気持ちになるのです。

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2013.01.21

【芝居】「発表~いま、ここ。~」趣向ワカヌ

2013.1.20 19:00 [CoRich]

趣向のオノマリコと、遊戯ヱペチカトランデのモスクワカヌの二人の女性劇作家による短編集。90分。21日までCOREDO。アタシが拝見した日曜日はZキャスト。

女性の作家が二人、カフェで公演の相談をしながら、何のために芝居をするのか、と。「リーディング「いま、ここ。」」
ライターが連載の文章を書いている。津波に襲われた町に暮らす女性がが同居していて今も見つかっていない祖母のことを語ったこと。しかしページの半分を埋めて、そこから先に進めない「いつかあなたはここにいて、わたしはいつもそこへいく」(作演・モスクワカヌ)
キーボードを打つ男女、香水の話から始まって、永遠はあるかどうかについての「ヤギさんと永遠」(作演・オノマ リコ)
ふと思い出す、小さな店で感じたあの一夜の気持ち「三月十一日の夜のはなし」(作演・オノマ リコ)

リーディングは、作家二人、決意表明のような一本。何のために芝居をするか、いつか滅ぶだろう人類のためにできること、したいこと。劇中で語られるとおり、たぶんに口にするには気恥ずかしく。しかしひとりで逡巡するではなく、おそらくは言葉も気持ちもどこかでつながれる二人の、静かに、しかし内面は熱い気持ちがたぎるのです。独身でも同性愛でも許されるような緩くて生きやすい世の中になっているけれど、それは緩やかな滅亡への途なのだという語り口から、一生かけて、滅ぶときに「いい感じ」なのだと思えるようにしたいのだ、という緩いんだか強固なのだかわからないバランスの決意表明が心地よいのです。

「いつか~」、戦争から戻って来なかった祖父を待ち続けていた祖母の小さな暮らしを跡形もなく持ち去った津波という現実と、その地に入り、話を聞き伝えているけれど、気持ちよく泣いたあと何かが変わるのかという言葉の切っ先。「死んだ人は星になると子供の頃いわれたけれど、ここでは死んだ人は『記事』になるんです」という台詞も(もしかしたらどこかで語られていることかもしれないけれど)鋭く、印象に残るのです。祖母の台詞を手話として成立させるのは、この世でない人の語ったこと、という感じか。

「ヤギ~」は、永遠はあるのか、あるいは信じられるのかということにとりとめなく会話をする二人。会社の残業という風情だけれど、女は薬指に指輪ありつつも、二人の関係は明確には語られません。二人の間に過去に何かがあったのか、あるいはこれからそうなっていくのか、ということは何一つ語られないのに、じわっとした何かの気持ちがそこには満ちているような不思議な空気が満ちているのです。
背中合わせの男女という同じ空間に居るのかいないのかわからない役者の配置を冒頭、香水に関するたった一言で同じ空間なのだと作るのは鮮やかでちょっと好きな感じ。

「三月~」は、2012年の、から始まり、しかしそのあと、あの震災の夜のことへの想いという流れの一人芝居。小さな呑み屋という自分の場所で過ごした一晩、あのとき「誰もがいい人で居られた、あの夜はいい夜だった」という語り口は、微妙なバランスの上に成立するものだと思うのだけれど、たとえばあの日、同僚のクルマに4人乗車で東京を目指していたというアタシだって、形はずいぶん違うけれど、どこか同じ気持ちにフックするのです。

全体に静かな物語、「いま、私たちが立っているところ」とい視点で生真面目すぎるほどにまっすぐに語る若い彼女たちが確かに見ている今の姿、だと思うのです。

正直にいえば言葉の音便にすこしばかりの違和感。「人の足場を揺ラがす」とか「咲かシ続けて」とか。まあ、大きな問題ではありませんが、小劇場の芝居でもあまり聞いたことがない感じ。イマドキなのか、あるいは方言のようなものなのか。

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【芝居】「テヘランでロリータを読む」時間堂

2013.1.20 13:00 [CoRich]

全米150万部のベストセラー小説を原作に、オノマ リコの脚本、黒澤世莉の演出で110分。28日までミニシアター1010(シアター1010稽古場)。いまさら知らないとは言いづらいさまざまをまとめた「よくわかる紙」の当日パンフ折り込みがうれしい。

1995年、テヘランの大学で英文学を教えていた女性は、自ら選んだ女子学生7人とともに、密かに自宅で西洋文学を読む読書会を始める。革命後のイラン、生活の隅々、とりわけ女性達には厳しい道徳や規則の圧制が課されている中のささやかな自由の場となっていた読書会だった。

イラン出身で欧米で教育を受けながらも、帰国後教壇に立っていた女性の英文学者の回想録なのだといいます。今よりはずっと厳しく、女性は血縁以外に髪を見せることも化粧も厳しいという中、よりによってナボコフのロリータを読む読書会というシチュエーション、それはタイトルのキャッチーさでもあるのだけれど、その切実なことはよく伝わる題材なのです。

原作どころが、劇中読まれている「ロリータ」すら読んでいないアタシです。幼い少女を時に抑圧的に手中にしようとしながらもそれが叶わない、という倒錯の物語を、この場所で読もうと考えたのはなぜだろうと考えるのです。その部分をすっとばして、それを読んだ女性たちがどう悩み、考え、変わっていく(あるいは変わらない)という切り口で構成されているように感じられます。

抑圧し征服しようという力と、それを断固拒否するそれぞれの女たちの現実の生活を対比するよう。それは兄弟、想われる男、交際相手、配偶者といった男たちとの関係として描かれていて、(当時の)イスラム社会の中で「こうあるべき」と強く強制するものだったり、そこからはずれる女性に対して正面からは向き合えない(言葉は悪いけれど)優男だったり、あるいは厳しいことをいいながらもその中に女性を想う気持ちだったり。

1995年という時間軸の設定がたぶん絶妙なのでしょう。革命前の、自由だった頃を知っている女性たちが厳しい規範の中で、という描かれ方で、それゆえか、女性たちの考え方や立場もそれぞれに違ってもいるのです。セックスも含めてもっと奔放でありたい、少し「進歩的」な夫を持っていても詩が書けないということであったり、敬虔なムスリムとして婚期を逃した女性だったり、まだそういう世代にさしかかる前の若くしかし想いの熱い娘であったり。

正直にいうと、イスラムにおける女性たちを、日本の女性たちが演じるということの本当の意味と効果はピンと来ない感はあるのです。が、それはこの物語の中で語られる、男にはこの規範の厳しさが本当にはわからないのだ、ということは、おそらく今の日本のアタシの立場でもまた、種類は違っても同じことなのでしょう。その気持ちに寄り添いたいとは想っているつもりだけれど、常識だと思いこんでいるジェンダーによって強いられている差が、やはり今の彼女たちにもある、ということを敏感に感じたからこそ、オノマリコはこの原作で舞台を作りたい、と考えたのではないかと思うのです。

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【芝居】「リバーサル」日本劇団協議会

2013.1.19 19:00 [CoRich]

北京蝶々の大塩哲史の作を新進芸術家育成事業とした公演。小林七緒の演出、コンゲーム満載でエンタテインメントとして楽しい80分。29日までSpace早稲田。

恨みを持つ4人は家電メーカの社長の娘を誘拐して身代金を誘拐する。身代金を出す、という社長からの返事は来たが、娘はそんな筈は無い、という。この誘拐、このままでは失敗するといい、成功に協力するという。リスクの多い現金の受け渡しや振り込みよりは確実に手に入るものを提案する。果たしてそれは成功するのか。

家電メーカーに勤める身としてはギョーカイの厳しさ、あるいは本当の資産は何なのか、というあたりの目の付け所(ごくシンプルな切り口だけど)、気づいていたとしても芝居に織り込める作家はそう多くはありません。そういう意味でなるほど、大塩哲史の語り口だな、と思うのです。小劇場の芝居でありそうで意外に少ない、今の私たちの立ち位置を見回しつつ、見たくないこと、見えてしまうことを交えつつ、エンタメとして見やすい感じでしっかりと語る物語。場所の謎解き、現金受渡のリスクなどステロタイプだけれど、ちゃんと書き込んでいるのはいい感じ。

やむにやまれず犯罪を起こす人々、誘拐されたのに徐々にリーダーシップを取っていく娘、それが経営工学なのかはわからないけれど、グループを一つの目的遂行のため、時には人をコマにしつつも動かしていく、ということ。これを冷たいと感じる向きもありましょうが、まあ云っていることは正しくて(頭でわかっていても、それが実際にできればアタシも違う生き方もできましょうが:-)、実際のところどこかの研修にありそうにどんどん積み上がっていく感じ。景気が悪くなったって、この手の人心掌握は確かに正しく、武器となるのです。まあ少々反則なやりかたも混じりますが、まあそのあとの豹変がコミカルで人間くさい感じがまた楽しい。

まあ、これもファンタジーだとは思うのです。それでも、チラシによれば「ディストピアの近未来」を描く作家だけれど、やるせない現実の私たちの身近な感じに寄り添い、人々をしっかりと描くことの力を再確認するのです。幅広い年齢の役者を集められることもあいまって、ぐんと奥行きが出る感じ。

敏腕秘書を時にコミカルに、時に色っぽく演じる田島真弓の表情にやられ、誘拐されたのに「リバーサル」する娘を演じた今村美乃も可愛らしく格好良く持って行かれ、しかし怖くもあって。糖尿という設定の刑事を演じた岡本篤、コミカルだけれども終盤の格好良さちょっとしびれる感じ。堀越涼は可愛らしく優しく、しかし真剣さがきっちり。この役者、こういう気弱な優男なのにそれがちょっと格好良く見えちゃうのは痛し痒しではあるけれど。社長を演じた中原和宏のタヌキオヤジぶり、いいなぁ。

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2013.01.20

【芝居】「めくるめくセックス 発酵版」シンクロ少女

2013.1.19 14:30 [CoRich]

2009年初演作の再演。男子なら下手よりは中央か上手側を。この芝居について一晩中語り明かせる女友達が欲しくなる大幅増量135分。21日まで王子小劇場。

原因不明のまま眠り続けている妻と見守っている夫。よく出入りするようになっている弟の彼女との関係はずるずると続いている。弟と彼女の関係は冷めかけている。夫と妻の友人夫婦も訪れるが、もうずいぶんセックスレスが長い。弟のバイト先の友人の一人は未だ童貞で、その部屋に入り浸っている男は少々横暴で。
ある日、妻は目覚めるが、彼女が見たものは。

初演と同じように舞台を三分割。童貞男の部屋、眠り続けているベッド、リビングルーム。

2年以上眠り続けている妻、寂しさ故に浮気している夫、気持ちが本気になりかけている浮気相手の若い女、大好きでたまらないけれどどうにもセックスが弱いその恋人、もうずいぶんセックスレスな夫婦は風俗だったり、あるいは夢想でやはり求めるものはあって。あるいはセックスや愛に対して過剰な期待を持ってしまう童貞男、先輩風どころかジャイアン風にかきまわす男。

シンクロ少女らしい、というと言い過ぎかも知れないけれど、ある種のセックス至上主義というファンタジーだという気はするのです。実体が伴わない哀しさは脇に置くとして、なんかその作家の感覚は私の肌感覚にとても合う感じがします。その対局にあるようにみえて、恋とかセックスと云うことに対して過剰な期待を抱く童貞男も、実はセックス至上なファンタジーの裏返しの表現として巧く効いています。その感覚がまた、どこか他人とは思えない感じだったりもするのです。

若い恋人を演じた墨井鯨子、アタシ的には彼女史上、もっとも可愛らしく印象的なのだけれど、その後物語の中ではとんでもないビッチな落差も楽しく、片や実は片思い、片や無関心になりつつあるという振り幅。セックスレスな妻を演じた坊園初菜は、序盤で童貞男をもてあそんでみたり(喜んで、しかしあっさり帰るのがカッコイイ)、一人懺悔のように夢のこと、その後に自分でした、ということを語るシーンの雰囲気の厚みもすてき。その夫を演じた奥村拓の飄々とした軽さのバランス(妻のオナニーについて語るシーンなんてコメディだけれど)も実にいい。若い恋人を演じた中田麦平のまっすぐな感じは眩しさすら感じてしまうのです。
何より圧巻なのは、理不尽なバイトの先輩を演じた用松亮なのです。他の役がほぼフラットなのに比べて、ほぼジャイアンな理不尽さなのだけれど、実際のところ物語をかきまわすというよりは、弱い童貞男にしてもあるいは眠りから覚めて悩み相談めいた妻にしても、その望みを受け入れる懐の深さがベースに合って、実に愛すべきキャラクタとして造型されています。もっとも、こういう友人が居たら真っ先に切りますけれど、アタシは(笑)。それぐらいウザい男をしっかりと。

ネタバレかも。

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2013.01.15

【芝居】「東京ノート」東京デスロック

2013.1.14 14:00 [CoRich]

青年団のマスターピースを、東京デスロックの東京REBIRTH公演として。140分。アタシの観た14日昼は、大雪に加えて観客の靴を脱がせるという客入れが災いして、20分押しの開演、終演後も混雑。(おかげで次の一本が観られず、まあ自業自得)、20日までこまばアゴラ劇場。四つあるベンチも含め、観客はどこに座ってもいいことになっています。

それぞれの生まれ、それぞれの上京を役者達が語りつつの東京ノート。

もふもふなファーの感じで覆われた劇場内部、大型モニタと鏡もあちこちに。東京ノートで象徴的なベンチシートも含め、観客はどこに座ってもいいし移動してもいいということになっています。アタシは友人の勧めもあって一番奥のベンチの音響ブース端、身体を回せるような場所。ほかの観客からも目立ってしまうけれど、確かに見やすいし、俳優の胸元ぐらいの高さから見上げるようなシーンも多くて結果的には正解だった気がします。

役者たちの生まれ、育ちから東京という距離感を描く冒頭部分。もちろん物語では兄弟たちは東京に出てきていて、次女だけが未婚のまま、親の面倒を見ながら地元に残っているということが物語の強い骨格になっていること、東京を離れていた劇団自身も強く意識しているのでしょう。いくつかある物語の柱、遠く離れた戦争とか、絵と父親とかはそれに比べるとコントラストが弱められているように感じる気がするのです。

もっとも、それはアタシ自身が東京を離れてから初めて観る東京ノート( 1, 2, 3) ということが作用しているのかもしれません。やはりアタシにとっては、東京ノートは長女と義妹の物語。見たいところだけを切り取って見ていくカメラオブスキュラ、二人のつながりのシーンは何度見ても泣いてしまいそうになるのです。それはこの演出においても変化がありません。

自分の生活の変化は、それでも見え方にずいぶん影を落としています。兄弟のだれよりも長女に近い気持ち、一人のままで、もう地方で一人で生きていくということも覚悟していてという感じは、いままでよりももっともっと強く感じているということはあるかもしれません。もっとも、親の面倒を、ということはアタシにはまだ現実のものではないし、むしろ親の面倒なら地方から戻ってこなければいけないわけですが。

どこに座ってもよく、移動してもいい観客の中で芝居をする、という演出の真意はわからないけれど、東京に出てきた(東京生まれだとしても)私たち自身の、あるいはすぐ隣で起きている人々の物語なのだ、ということに感じられます。セミパブリックな場所、という意識で書かれた(それは物語の構造として、さまざまな人のこと、あるいは私的なことが表出する場としての)戯曲を、もっともっと観客自身の物語に沈殿させる試みなのだろう、という風に思うのです。

正直にいえば、やはり青年団版の東京ノートは繰り返し見ていることもあって、印象は強烈で、義妹(=次男の妻)は山村崇子だし(とはいえ、大川潤子の目力の凄さは印象的)、学芸員は志賀廣太郎とひらたよーこだし、絵を寄付するのは辻美奈子だし、という風に重ねて見えてしまうのです。今回の演出ではビートが強く重なる音楽に一瞬でも違和感を感じてしまうとそれがノイズになってしまうというのも、記憶って面倒くさい。

そうなのです、音楽にしてもVJ風の映像にしても、確かに心地よい時間を作り出します。芝居というよりはインスタレーションに近い感じで、これは物語の強度ゆえに遊べる感じではあっても、物語に寄り添ったものかというとそうはなっていない感じがするのが、アタシの違和感なのです。初日の感想を見る限りの絶賛の嵐もよくわかるけれど、そうするには、この物語はアタシにとっては青年団版の印象が強すぎて、その細やかさがサンプリングによってすべて欠落したものになっているという気持ちが強いのです。

成田亜佑美は表情が実に豊かで、可愛らしく。座った席の間近での表情にぼおっとしてしまうのです。 松田弘子は、東京ノートの本当の要だということが今作をみても明らかに。その表情のひとつひとつが本当に印象に残ります。学芸員の長野海もちょこまかと動いて可愛らしいのです。内田淳子もまた学芸員ですが、こちらは演出が行き過ぎな感すこしばかり。(というか、なんだこのオールスター。)

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【芝居】「自決女」てらりすと

2013.1.13 17:00 [CoRich]

台詞と歌詞と演出を中屋敷法仁、てらりすとが曲を付け、演じるという「一人妄想ミュージカル」。 50分を11曲に仕上げた本編に、レコ発ライブの3曲を足して全体で100分ほど。USTREAMライブも入っていました。25日にもう一ステージ。TwinBox AKIHABARA(関係ないけれど、T-ZONEやらキッチンジローやらチチブ電気やらの一角に!)

その子は学級委員だった、たまたまクラスメートの自殺を止めた、それで担任に名前を呼んでくれたこと、先生にその子を守るように云われて、頑張って止め続ける。が、担任もクラスも、そのいじめられっ子ばかりが注目を集めることが、彼女にはどうしても我慢ならなくて。

自殺、女子高生、一人芝居といえば、おなじ作家の手による「いきなりベッドシーン」( 1, 2) をプロトタイプに持つような物語。一人の女子高生の想い、それは決して幸せな物語ではないけれど、きっちりと歌いあげる濃密な時間なのです。どこまでも前向きだったはずの少女の歯車が本人の意図は関係なくいつの間にか狂ってしまった「いきなり〜」とは少々異なります。歯車の狂い方が、もっと自覚的で恋する心、なぜ自分ではなくて彼女が注目を浴びているのかということへの微妙なやっかみ、という意味でもっと病んでいる気もしますし、単に間違った前向きさ、捉えることも出来そうです。

曲は十分にポップで口ずさんでしまいそう。が、歌詞の方は後半にかけて(曲はポップでも)どんどん悲惨な感じでもあって、ミュージカルの明るさのようなものとは対局で、そういう意味では相当に癖があるナンバー揃いです。

  1. 毎日階段駆け上がり、私はあの子が屋上に居ないことを担任に報告する「酸欠女」
  2. あの子はいじめられている「不潔女」
  3. あの子の自殺をあの手この手で止める「対決女」
  4. 担任は何も手を打たない、クラスメイトたちはあの子をそそのかす「団結女」
  5. 最初に自殺未遂が発覚したとき、先生は私の名前を呼んでくれた。あの子のことを私経由で担任に伝えらればいい「吸血女」
  6. あの子は何もかもがむかついて注目を浴びる、どうして彼女はそこまでできる「墓穴女」
  7. 遺書がみつかったといって、私は先生の家に行くけれど先生はあの子の筆跡はわかるのに「解決女」
  8. 何でも知ってるしトラウマも何もないけれど、私はまだ恋をしてない「清潔女」
  9. 私は決心する、屋上へ「豪傑女」
  10. 屋上の風は強い、私は前へ前へと進む「自決女」
  11. 私は落ちていく、私はもう居なくなる「完結女」

たとえば1で階段を上っていく音と9のそれ、あるいは3.のさまざまな止め方に対して7.でアタシならこう突破する、といった具合に歌詞やリズムが対になっているような構成になっていたり、と、相当な企み。歌詞を書いたのも作家自身で、そういう意味では(少々悪趣味だったり楽しい感じではないけれど)

ライブですから、歌が中心になります。が、台詞の部分はあらかじめ録音した形というのが少々残念といえば残念なのですが、実際にみてみると、歌のボリュームや迫力に、これを一人きりで演じ続けるわけにはいかない、ということもよくわかるのです。

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【芝居】「罪を喰らう」elePHANTMoon

2013.1.13 19:30 [CoRich]

エレファントムーンの新作。90分。14日までサンモールスタジオ。

その島では人の罪を食べて無かったことにしてくれる「罪喰い人」が伝承されてきた。その罪喰い人が亡くなり、長男は嫁を残したまま島から姿を消す。東京にでていた次男は葬式には間に合わなかったが戻ってきた。やはり東京に居る三男は仕事を失い、嫁と共に戻ってきていて、罪喰い人を引き継ぎたいと考えている。ここにずっと住んでいる四男はそれが少し気に入らない。湖にあった釣り船は村長の娘が事故で亡くなったあと、産廃処理施設の工事が始まっているが、釣り船をやっていた男はこっそりその湖に立ち入ろうとして止められている。

罪を食べれば、被害に遭った側も含めて「諦める」という伝承、かなり立派に作り込まれた社の一室や、わりとちゃんとしている和服や巫女姿で、完全に創作(だとおもう)のわりには厚みのある雰囲気のある世界(=家)をきちんと作り上げます。

そういう伝承がある、そういう人々が居る、そういうことが起きる、ということが点描されつつも、全体で物語が描こうとしていることが今一つ見えない感じはあって、世界にはある種の気持ち悪さはあっても、誰かが成長するでもなく、コミュニティが変質するでもなく、という意味でもう一歩踏み出してほしいという感じはあります。

罪を食べれば、被害に遭った側も含めて「諦めてきた」という伝承と、そういう伝承はあっても、それで被害者も本当に諦めきれるのかという疑問を呈するあたり、その世界がそうなのだから、というところから見ている側の疑問に引き寄せる萌芽があるのだけれどそこ止まりなのは惜しい感じがします。

役者達はそれぞれの雰囲気によくあった登場人物をしっかり。次男の三男の嫁を演じた鈴木アメリは大人の女性をしっかりと。長男の嫁を演じた中野麻衣は全体を貫くように、しっかりとこの場を守る印象。

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【芝居】「茶番劇」味わい堂々

2013.1.13 14:00 [CoRich]

13日までSPACE雑遊。110分。

戦争から逃げてきた女の先生。怪我をして気を失い、家に匿われている。医師の父親、その愛人、娘、息子、叔父が暮らすその家は毎日バカ笑いが絶えないが、戦争から逃げてきた先生はまったく笑う気にならない。笑うしなかいのだ、と父親は云い、先生の気持ちも解けていく。
すっかり全員でトランプをするようになった日常、娘が書きためた漫画を出版社に持ち込みたい、という。が、父親は頑として許さない。

友人の評価が分かれた感想も聞きつつ、すこし緊張して観始めました。戦争から逃げて生き残った女教師が、匿われた家のバカ笑いにまったく打ち解けられず、笑う気にもならない日々、つまりはこれが日常なのです。笑って、ここれが幸せなことだいう着地にするかと思えば更に物語は続き、娘の漫画好きから始まるほころびが、この暖かな繭の中の外側にある現実の厳しさを思い起こさせてしまうのです。

なるほど、出て行きたくない場所だったり、あるいは現実のことは薄々判っていても、見ない振りをして、やりすごそうか、というということ。戦争のはなしではありますが、これは今の私たちと原発の姿の写し絵だと思うのです。あるいは、仕事とかプライベートでもなんか、そういうスパイラルになることもあったりするのです。

宮本奈津美は実にきりりとしていて、中盤でのぎこちない笑顔が印象に残ります。尺八子は、頑固でしかし笑いの絶えない家を守る大黒柱の説得力。浅野千鶴はかわいらしく、これもまた頑固に出て行こうという雰囲気に説得力があります。

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2013.01.13

【芝居】「ゴリラと最終バス」ぬいぐるみハンター

2013.1.12 19:30 [CoRich]

ぬいぐるみハンターの新作。115分。14日まで駅前劇場。

地方都市の中心部からバスで1時間ほどの郊外の町。 子供二人はバス停の前の公園で「ゴリラ」を拾ってきたが、母親は飼うことを許さず捨ててくるように命じる。父親は社長直々の特命を受けるが、家族にはまだ言い出せずにいる。 ゴリラを捨ててくるように云われた兄妹だったが、兄は突然思い出してバス停に走る。残された妹は家がわからずゴリラと共に家を目指すことにするが、案の定迷子になる。兄はやたらに小競り合いを仕掛けてくる隣家の息子とともに、この街を離れるクラスメイトを見送りにいこうと考える。

舞台を囲む壁にひと工夫それは芝居の間ずっと効果的に使われますが、初っぱな、一瞬の暗転で役者達全員が舞台に現れるというだけで、驚き、ウキウキしてしまうアタシです。この舞台の構造ゆえか、 いままでずっと疾走感が持ち味だったぬいハンは、今作では走ってはいても疾走感ではなくて、「走っている体(てい)」に変化しています。それは確かに本当に走るのに比べるとずっと見やすくなっています。それをツクリモノへの堕落とみることもできるけれど、「型」への昇華と感じるアタシなのです。あの疾走感も捨てがたい魅力はあるのだけれど。

母親と子供たち、父親の仕事と家族が物語の骨格。どこまでも子供たちと家庭を守り、飼いたいという動物を許さず、だだをこねる子供を叱りという母親の姿が物語をしっかりと支えます。演じた片桐はづきはほぼ唯一「ふつう」の視座で、ほぼ動物園のようなキャラクタたちを相手に細い身体の一人で支えきるのです。父親が辞令に悩む姿は、現実で云えば単身赴任するかどうか、というような話で、アタシの周りではたくさん存在するリアルな感じなのです。

動物を飼うことを許されず捨てにいく子供たち、というのもあるいは家庭と仕事ということも、どこか昭和の家族の姿という匂いがあります。子供が一人で淋しげに夕暮れ時に歩くというような、どこかモノ悲しげなモチーフが多い、というよりは、そういうことを描き続けているぬいハンは、今作においてもその雰囲気が印象的なのです。ゴリラと女の子が二人で迷子になり家に戻れない、というシーンが切なく、かわいらしく印象に残ります。対比するようにこの街を去るはずの女の子が母親に決別を宣言するというのもまた、家族というものを描き出すのです。

あるいは去っていくクラスメートを止めたいとは思っても、自分だって子供だから止めることはできないと半ばあきらめつつも、しかし、バス停に走るしかないのだということの切ない感じもまた、子供の心象風景としておそらく誰にでもフックしそうな風景でちょっと涙してしまうのです。

押入なんかにとどまらないぞ、というラップ(のライム風)は、サイタマノラッパーを三本(DVDだけど)観たアタシには、実に楽しい。その部分はヘナヘナだけれど、途中で挟まるフリースタイルバトル風の神戸アキコは実にかっこいいというのもそういう感じ。浅見紘至も頑張るけれど、途中で流れちゃう感じなのが惜しい。

国松と小結という前作からのキャラクタを継いだ工藤史子と橋口克哉はなんか実に楽しい。街を訪れたジャージ姿のな二人もちょっとすごみがあります。男を演じた村上誠基は今までになかったヤンキー風味の気勢と弱気の同居が楽しく、その恋人と娘を演じた黒木絵美花は方言(意図的にツクリモノにしてる感じがする)丸出しで田舎を嫌う感じの女も、静かに力強い娘もしっかりと演じるのです。

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【芝居】「パブリック・リレーションズ」JACROW

2013.1.12 14:00 [CoRich]

JACROWの新作は、TV局とPR企画会社(というのかよくわからないけれど)をめぐる人々の物語を105分。14日までOFF OFFシアター。

4人の社員と共にPR企画会社を立ち上げた男は熱い思いを語り営業を開始する。企業を情報バラエティの制作スタッフに売り込み、番組で取り上げてもらう仕事はまわりはじめているが、苦戦を強いられている。人気の出始めたカフェチェーンの仕事は接待で絶対勝てると云っていたにもかかわらず、コンペで敗れてしまったのに、営業担当者は悪びれるでもない。ある肉まんの番組への売り込みに成功したが、すでに番組の反響を前提に在庫を増やしているのに、テレビ局は番組の都合で取りやめを通告してくる。担当営業はもう無理だと思っているが、社員の一人が自分がもう一度再検討を依頼するといってテレビ局に向かう。

特定の商品を取り上げるタイプの情報バラエティと、そこに取り上げられる企業をつなぐ、という地味なんだか派手なんだかわからないけれど、しかし確かに今の日本をよく表している感じの「仕事場」を少しばかりドラマチックに、しっかりと熱量を持って描きます。

新しくやりがいのある仕事だと熱い想いで邁進する人々や、発想のおもしろさが絶対である企画という仕事への思い、あるいは旧来の接待や談合めいた仕事の割り振り、疲弊する現場の姿、あるいは「女」を武器にした営業の姿など、業界ゆえという感じはあれど、営業成果とクリエイティビティの狭間な仕事ならば多かれ少なかれありそうな要素をめいっぱいに詰め込んで描きます。

物語の斬新さというよりは、類型的かもしれないけれど仕事の現場でありそうな人々、キャラクタをしっかりと設定して箱庭のように描いていて、人数が絞られていることもあって、過不足のない登場人物のぴったりな感じが気持ちいいのです。登場人物たちをしっかりと、特に悪者にされがちな人々にすら、そう行動している美学だったり理由だったり丁寧に描くのは作家のある種の実直さ、誠実さを感じますし、いわゆる会社組織の仲で仕事をしたことがあるのだろうな、というリアリティがしっかりと。

接待や袖の下を駆使した古い営業スタイルがはっきり負けと描かれ、肉まんの最初の売り込みにせよ、復活をねらった売り込みにせよ、あるいはテレビ局の番組企画の若者にせよ、仕事のクオリティが優れているもの(少なくともクオリティを上げる努力)が結局勝つのだというのは、相当にファンタジーではありますが、そうありたいと思うし、作家の熱さというかいい意味での青さがすてきなのです。

ネタバレかも

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【芝居】「祭 ~カーニバル~」ユニットニット

2013.1.11 20:00 [CoRich]

一度解散を決めたものの、もう一回だけ、という最終公演。70分。平日20時開演がうれしい。12日まで信濃ギャラリー。

ウエディングドレス姿の女が廃屋に忍び込み、自殺を図る。家族も恋人もいないままの人生にもう絶望しているのだ。そこに現れたのはおネエな落ち武者と日本のテレビ俳優に憧れて来日したのに、その夢かなわず死んでしまったドレッドヘアの外国人という、二人の幽霊だった。

人生に絶望し死のうとする女と、不本意な死に方をした二人のどたばたを出落ち感満載の三人のキャラクタが作ります。ずっと一人というだけではなく不治の病で余命いくばくもない、というダブルパンチ。死のうとする女がどうしてそう考えるに至ったかとか、死んだ二人はどうしてこうなったかを取り混ぜ描きます。正直にいえば、出落ち感が強いわりに、物語がごちゃごちゃして強度も今一つな感じがあって、着地点がわからないままにうろうろとしているような、不安な感じが拭えません。

終幕に至り、これらは女一人の脳内で起きていることにすぎない、というオチは実に鮮やかで、しかし狂気が見え隠れするようでちょっと怖さもあって印象的です。花嫁を演じた青柳孝子は世をはかなむ気持ちめいっぱい、視界が狭そうな、一直線な感じのキャラクタによくあってます。表情も突っ込み具合も、実にヒロインで印象に残ります。

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2013.01.10

【芝居】「最後の晩餐」サンモールスタジオP

2013.1.6 17:00 [CoRich]

櫻井智也をメインに据えるからこそ成立だけれど、賑々しく楽しい90分。7日までサンモールスタジオ。90分。

15年前、道頓堀あたり、街で唄う女は「オペラ座の道化師」を名乗っている。見物人の一人の男を呼ぶ。(Episode 1)
5年前、男はお笑いのオーディションのために上京し、その帰り、閉店間際のバーに入り、ママと意気投合したりする(Episode 2)
3年前、女の処に転がり込んだ男、そのアパートの向かいの団地の深夜のゴミ捨て場に不法投棄しているところを巡回中の制服姿の女に見つかり(Episode 3)
2年前、看護師の女のマンションに住んでいる男、男はコントの相方に借りた金を返せと迫られるがさらさら払う気は無い。チャイムがなり、隣の部屋への宅配便を預かる。好奇心から開けてしまった箱の中には札束と拳銃と、同じマンションに住む男を殺すように指示が書かれていて。

櫻井智也をヒモ体質なダメ男としてメインに据え、それをとりまく女たちをオムニバス風に。その男の死によって集う女たちのあれこれ。ヒモ男が連なるということ以外にはそれぞれの話しに繋がりはあまりなくて、最後に至っても、それぞれの女たちがダメ男のことがまだ好きだという雰囲気を残すようなゆるい感じ。その物語の外側に、女たちをつなぐ秘密が設定されていたりはするのですが、その謎解きのワクワクというよりは、櫻井智也とそれぞれの女たちのキャラクタの面白さを楽しむのが吉、という気がします。

最後の晩餐でのタレントにしても、最後に出てくる歌い手にしても、何の説明もないままに「誰?」という感じで出てくるのはちょっと面食らいますが、実際の処このつくりであればあまり問題ではありません。

中でも圧巻の印象を残すのが、「オペラ座の道化師」なる大道芸っぽいオペラを見せたみぎわ。役者と云うよりは面白い喋りの出来るおばちゃんキャラで、しかししっかりとオペラを歌いあげるというギャップの凄さで、圧倒的な印象を残します。終盤の「最後の晩餐」においても、おばちゃんキャラで徹底しつつも、最後の最後にしっかりと歌いあげてかっさらい、そういう意味ではお正月らしい賑々しさが楽しいのです。

バーのママを演じた松葉祥子はバーのシーンでの清楚さと、最後の晩餐でのどちらかというと色っぽさの勝る雰囲気のギャップに目が離せません。ポリスルックでゴミ監視員という川添美和は、一瞬頭おかしい感じで突っ走るのと、可愛らしさ(チラシでは目にしていても、実物の方がずっと可愛らしい)のギャップで印象に残ります。

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【芝居】「4Q」SCARLET LABEL

2013.1.6 14:00 [CoRich]

葛木英の過去の短編3作に新作ひとつを加え、成島秀和、山本高という二人の演出家の手による140分。 タイトルが一文字というもかつてのメタリック農家の雰囲気。7日まで711。

人魚と住んでいる人間。好き合って同棲のように暮らしていて働けない人魚のために日夜と働いているが、その外出の間、人魚は秘密を見つけてしまう。「泡」(1,2)
男は少女の人形と暮らしている。家では楽しい毎日だけれど、働きに出れば辛いことばかり。その想いが人形に伝わって「型」(1)
死のうという人を眺めるサークルのために集まった男女。その過程で死体を解体した犯罪の時効を祝って集まるパーティ。自身が自殺志願だったのに観察する側にまわった男「廻」(再演・未見)
津波が襲った町、建物は残ったものの、子供を亡くした母親は絵本を出版社に売り込んだ。編集者が訪れる。母親が描きたかったのは子供が好きだったものが溢れる絵本だったが、編集者はその母親が関わった、ひまわりを植える運動を描いて欲しいと思っていて「花」(新作)

「泡」は、三回目の上演。再演でも感じたけれど、初演で「ダメ人魚男」という希有なキャラクタを演じた板倉チヒロがこの物語をはっきりと支えていたのをはっきりと覚えています。昨日観た芝居だって怪しいアタシにしては、この印象は強烈です。猪股和磨はヤワな感じではあってもダメ人魚男には少々優しげなのが惜しい。健気な女を演じた小園茉奈は、真面目さまっすぐさが勝り、いままでのどれとも違う印象です。
正直にいえば、演出に違和感。時折はさまる音楽、タイミングも音量も違和感が強くて物語をぶつ切りにするように感じるのと、少々長くなっている印象も惜しい。

「型」もまた、初演でも板倉チヒロの印象が勝ってしまいます。それでも、櫻井竜はアキバ系に寄った造型で、これはまた違う印象。小山まりあの可愛らしさもいい。これもなぜか演出の違和感が残ります。決して初演の演出の記憶が強いわけではないのだけれどなんだろう。理由が整理できずにいます。

「廻」は初見です。自殺する人を観察するという、かなり悪趣味なサークルの人々の中に開いた一点のウィークポイント。堰が弱くなった場所から崩れていくのを防ぐように、弱い一人をどうにかしようと考えたのかどうか、しかし明らかに間違った方法でその弱い場所に礫を投げるような居心地の悪さ、理解出来ない人と友人になってしまって、しかもそこからは逃れられないということの絶望。正直にいえば、この居心地の悪さが、複数回の嫌がらせも含め延々続くというアタシも絶望しそうになります。時間も長い感じなのは、演出の意図なのか。アタシの疲労を考えれば、それは成功しているわけですが。

「花」は新作らしく、まさに、今の物語。津波に襲われたという町、居なくなった人と残された人と、それを巡る人と。花を植えること、あるいは仕事が出来るということだって、心を癒やすという、ごく当たり前のことを、丁寧に描いた印象。前の3作に比べれば、あきらかに穏やかな物語は作家の成長なのか、あるいはなにかの心境の変化なのか。
母親を演じた、ゆにばは、クロムモリブデンでの強烈な印象とはうってかわって、「生きている」母親の姿。そこまで泣かなくても、というのは演出の意図なのか。井上みなみが演じた妹はしっかり支える力強さが印象に残ります。

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【芝居】「スーパーマーケット三国志 決定版」ギンギラ太陽's

2013.1.5 14:00 [CoRich]

2006年初演の「スーパーマーケット三国志」の改訂再演。アタシは初見です。ダイエーに代表される流通革命を「モノ語り」で描く150分。6日までキャナルシティ劇場。

メーカーが設定した定価を、問屋・系列店という体系の中で価格を守らせていた時代。赤札党なる少しばかり怪しい安売り店はあったが、正しく仕入れ、適正な利益を乗せて「正しい安売り」に立ち上がった店たち。

今の福岡の姿、というよりはスーパーマーケットが誕生し、消費者、という買い手の姿がみえるようになってきた時代、ダイエー・ベスト電器・壽屋・渕上百貨店・丸和など、福岡で馴染みの店舗を織り交ぜ、系列からの支配と戦う流通の姿を描きます。

今の私たちからみれば、「売ってやる」というメーカー・問屋主導の時代から「買っていただく」という消費者の主導への変化という昔のことを描いているので、このあたり少々牧歌的に感じないことはありません。博多駅にから渕上百貨店を追い出した岩田屋が博多シティに入れなかったことや、ベスト電器が買収される将来など、今の私たちだから見える(舞台の時間にとっては未来の)ネタは仕込んであって、それはそれで笑いもとれているのだけれど、全体としては今の話しではなくて、観客のあるあるな気持ちに訴えるという点でも少々もったいない感じはいなめません。もっとも、名作「翼をください」 (1, 2)だって昔の話しだけれどそこまでは感じないというのは、なにか物語の強度といったものの違いなのかも知れません。 正直に云えば、アタシとしては「いま語り」が欲しい気持ちはあって(それはギンギラに求めるべきことじゃないのかもしれないけれど) 小劇場なのだから、その先にある、お客様はどこまでも神様なのか(モンスターカスタマー)とか強大な力を持つようになったメガ量販店とメーカーの関係、製造業が成立しないほどに進んだデフレなどを描いてほしいなと思わなくもないのですが、人々の想いをモノに託して描く(消費者を「しゃもじ」にするのは少々苦しいけれど、モノで通したのは正しい)こと、という意味ではここまでの時代で止めておくのが正しい選択だとも思うのです。

いくつか、気になることがないではありません。カラーテレビならジェットの色がわかるという鉄腕アトムのアニメーションは(描かれている時代の最初のシリーズは)白黒放送だったのではないか、とか、6桁の計算機(カシオミニ)はエキショー(液晶)ではなくて蛍光表示管だったのではないか、とか。まあ、大した問題ではありませんが(笑)。

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2013.01.04

【芝居】「初雪の味」(会津編) 青☆組

2013.1.3 19:00 [CoRich]

新たなバリエーションの会津編。方言に書き換えてはいるけれど、台詞はほぼ変えていません。100分。会津編は6日までアゴラ劇場。

アタシとしては会津編の方がおもしろかったのです。理由はいくつかある気がします。青組としては見慣れない役者たちが演じることの化学変化のようなもの。方言もまた(たとえば青森の芝居に比べると圧倒的に「普通」の方言ですが)、両方に出ている羽場睦子や大西玲子のキャラクタすら変えてしまうような力(たぶん演出の違いもあると思うのです)。

こちらの方が、アタシには男性たちのキャラクタの輪郭が鮮やかで見やすいのです。たとえば叔父を演じた鈴木歩己は鎌倉編の家とともに枯れていきそうな雰囲気に比べると、移り住むアパートにまた、この兄弟たちが毎年訪れそうな雰囲気があります。そういう意味で家はなくなっても未来を感じさせるということの明るさがアタシは好きなのかもしれないのです。

あるいは長女は鎌倉編では福寿奈央のどこまでも明るい妹キャラ(お節を勝手にカレーに作り替えてしまうことの説得力)に対して、何かを抱えていそうな会津編の木暮智美は、母親に何かを聞いてほしくて訪れるシーンが実によくて。

両方に出ている羽場睦子は鎌倉編では上品で、母親なのに娘のままという色っぽさ。対して、会津ではきっちり母親、ここに居て、子供たちの活躍だって悩みだって受け止める力強さを感じるのです。あるいは近所の医院に勤める女を演じた大西玲子は優しさが勝る鎌倉に対して、次男に対してのちょっとばかり意地悪してやろう、という目線の強さが印象的なのです。こんなにもキャラクタが変わる、という意味で女優ってのは怖いなと、思うのです(笑)。

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【芝居】「新年工場見学会2013」五反田団

2013.1.3 14:00 [CoRich]

毎年正月恒例の見学会。まわりのビルはずいぶん変わりましたが、劇場の建物はそのまま。とはいえ、トイレもホールも綺麗になっていて、劇場も眠くなるぐらい暖かくなっていいます。 アタシが拝見した3日昼は主演だったはずの黒田大輔が声が出なくて降板、という回。バンド・ポリスキルも出ないわりにはほぼ時間通り(つまり休憩が長い)の210分。4日までアトリエヘリコプター。

演劇を封印していた男、日本が負けてマッカーサーがあばずれを連れて歩いて、初台の貧民窟に新国立劇場を造るということになって。男は封印を解いた「黒田(金子)演劇やめるってよ」(五反田団)
休憩を挟んで(恒例のホットワインが嬉しい)、獅子舞にかじって貰ったりする。
プーチンズのライブ、いつものとおりのテルミンが嬉しく
大学でアスカは明らかにちがうタイプの暗い男に逢ってお笑いを始める。オーディションで来た人々に暗黒面を聞くようなワークショップになっていて。たとえばバイトをサボる口実、あるいは彼の気を引くために別の男とぶらぶらする感じだったり。「大作映画のニセモノ~たぶんスターウォーズ」(ハイバイ)

五反田団は、キャストを玉突きに変えて演出家を岩井秀人、黒田を金子岳憲、岳憲を前田司郎という布陣。もともとの「黒田」で台詞が作られているから、役者が役名の変更に対応出来なくて急に金子、といえない感じ。映画の「桐島、部活やめるってよ」かと思えばそういう感じではない気がします(映画観てないので)。

立蔵葉子と木引優子という美人二人が「あばずれ」という役なのはちょっとおもしろい。中川幸子の妹感、内田慈をこの距離の劇場ではそうそう観られませんから、これも春から縁起がいいや、って思うのです。

正直に云えば、キャストの交代を木戸銭払って入ってから発表というのは誠意に欠ける感じは否めません。キャスト自身というよりは制作側の役割だと思います。おかげで一演目減ってるのに料金一緒、とか。

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【芝居】「初雪の味」(鎌倉編) 青☆組

2013.1.2 16:00 [CoRich]

青☆組の年またぎの公演。鎌倉編は5日までアゴラ劇場。100分。

別れてから母親と叔父、次男が暮らしている家。家を出て関西に行っているいる長男が帰ってくる、家を出ている長女は連絡も寄越さずふらりと訪れる。母親は入院していてお節の味が男たちだけでは決まらない。翌年は、退院して居て。

初演(未見)では45分ほどだったと聞きます。アタシは再演を観ています。エピソードを足して、もっとゆっくり流れる時間を作ったのでしょう。

兄弟の誰に知らせて、誰に知らせないということの偏りな感じ、あるいは叔父と母親の関係など気になるところはいくつもあります。鎌倉編の印象は全体にフラットで、それを洗練と云うことも出来ましょうが、若い作家が老練な感じ(いや、薄々感じてはいるけれど)で、そこに安住してしまうのはまだ早い感じはするのです。役者陣は鉄板の布陣の鎌倉編。叔父を演じた藤川修二、長男を演じた荒井志郎、長女を演じた福寿奈央、次男を演じた林竜三、すべてが安定しているのです。安心ではあるのだけれど、いままでの青組、どこかで見たことがある感じ、という感じも正直にいえば否めません。

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2013.01.02

【芝居】「バナナ学園大大大大大卒業式」(年越しイベント)バナナ学園純情乙女組

2012.12.31 23:15 [CoRich]

年越しイベントは、ライブは織り交ぜつつも、観客もカッパ不要な安心できる60分。

観客全てに名前入りの卒業証書を手渡し、「(観客が、バナナという)支配からの卒業」、カウントダウン、二階堂瞳子を真ん中に据えたライブ、式辞という流れ。もう水かぶったりとかそういうよりも、この方がアタシは好きだったりするのです。きちんと作り込まれた群舞がちゃんと見ることができてほんとによかったなと思うのです。

40公演だったとのことだけれど、アタシは半分ぐらいしか観ていないようです。最初の頃は物語もあったけれど、カオスというのはその当初から確かにありました。正直に云うと、シンプルな物語とそのカオスのミクスチャが好きだったアタシなので、昨今のライブ主体になってからは、ちょっと残念だったのです。しかし、二階堂瞳子という統制が作り出す舞台をまた観たいと思うのは正直な気持ちなのです。

MCの中で語られた、解散を決めてから打診した劇場や演劇フェスの類いのうち、公演を打つことに対して応えたのは王子小劇場だけだった、というのは本当だろうか。もちろん解散のきっかけではあるのだからその責任ということもあるのだろうけれど、あれだけバナナを持ち上げていた、税金使いまくってるあの劇場もあの団体も断ったということだよな、ということをしっかりと記憶していきたい、と思うのです。

今までの感想は以下の通り。他イベントへの出演も混じっています。 (1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19, 20)

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【芝居】「バナナ学園大大大大大卒業式」バナナ学園純情乙女組

2012.12.31 21:00 [CoRich]

2012年末を最後に解散するバナ学の最終公演。その最終回。31日まで王子小劇場。

ここ数本のバナ学は、物語というか芝居の部分がほぼそぎ落とされていて、「おはぎライブ」と呼ばれるヲタ芸だったり、迫力あるダンスだったりでの圧巻な60分。統制の取れたダンスというより群舞、さまざまなリミックス。物語はとうになくなっていて、卒業式的だったり、ヲタ芸だったり、あるいは学生運動的だったりと、「人間が大量に集まり統制をとって動くこと」の迫力を感じさせます。そういう統制と動きというものの、力強さと怖さが入り交じるある種の異様さが舞台を埋めつくし、客席のアタシたちですら安全ではなく、巻き込まれる感じ。

演じている彼らはぶれず、人と人が繋がるということの表現なのだろうとおもうのだけれど、アタシたちが生きている時代というか雰囲気がどんどん危なく、危うくなっていると、同じ舞台が全く違って見えるようになってきていて、アタシには観ているのがどんどん怖くなっていて、このスタイルの舞台を見続けるのが辛くすら感じるようになっているのです。これが最後ということは残念でもあり、少し安心でもあり。

とはいえ、二階堂瞳子というクリエーターが作り出す舞台の精度の凄さ。もちろん迫力やカオスというのはずっとそうなのだけれど、それを緻密な精度で作り出すこと「しか」許されないという最終公演のなかで、奇跡的なバランスを生み出しているという気はするのです。正直に云うと、物語を失い、「おはぎライブ」主体になってからのバナ学を積極的に観る意思はじっさいのところ、どんどん薄くなってきていたのですが、最後まできっちり走りきったクリエータの意地を観る思いなのです。

もうひとつ正直に云うと、身分証明を要求するライブのありかたは、少々やだな、と思わないでもないかったのです。前回公演での観客(というよりは被害にあったといわれる観客の友人なのでしょうが)からの告発というきっかけが、この劇団の解散を決定づけました。被害を受けたと思っている本人には強く同情しつつも、アタシはナマで観る以上、観客だって無事では居られないリスクはどんな芝居でも内包しているともおもうのです。解散公演にあたり、彼らが選んだのは、(最近の)バナ学の雰囲気はそのまま残しつつ、どの部分がリスクで、何が起こりうるかということを、観客と(販売にあたり長い文章で)どこまでは許容するか、そのために彼らは何をするかを提示するというやり方でした。もう、観客と作り手の間には深い溝ができてしまうこともあるのだ、空気を共有することができないのだ、互いのリスクを納得して公演を行うのだということは、悲しくてならないというのも、本心なのです。

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【芝居】「マボロシ兄妹・ふたりマクベス」俺とあがさと彬と酒と(DULL-COLORED POP番外公演)

2012.12.31 18:00 [CoRich]

DULL-COLORED POPの谷賢一と悪い芝居の山崎彬、女優・岡田あがさの三人で、二人芝居を50分ずつ二本の構成。12月31日までアトリエ春風舎。観バラシ(観て、そのあとバラシ手伝って)公演だったけれど、その次に予定を入れてしまったので、ゴミ一つひろって次へ、なアタシです。

その男のもとに妹と名乗る女優が走ってくる。男は、妹はいるがそんなには美しくはないという。その部屋の向こうには階段があって南京錠がかかっている。男は患者らしい。子供の頃の遊びのように、椅子は馬と成り、あるいはプロレスの相手になる。他人には見えないモノがみえてしまうのだ。馬の幻想はどんどん広がっていく。やっとできた友人は判ったふりをしないので話しやすく、その人に見えているモノは否定しないのだという。訊ねてきた女に、妹を紹介する「マボロシ兄妹」。
マクベス夫妻の寝室。戦に勝ち、どんどん偉くなっていく夫を嬉しくは思うけれど、また長い時間この部屋で一人の夜が続くと思うと切ない。女の元に予言が届く「ふたりマクベス」。

「マボロシ〜」は演劇の可能性が存分に。妹と名乗る女優は、妹になる、から始まって、兄は妹になり、妹は先生になり、という具合に役がどんどん変わってくのも演劇的で楽しいし、動かない椅子が馬になり、という演劇とかお話というのものの原点のさまざま。妄想の中で馬は牧場にいて、そこに済む老夫婦などこ会話がくるくると。あるいは女を口説く男。このあたりに至って、妹が椅子で見立てられていたりして、普通に跳んだりはねたり走ったりは出来ないんじゃないかと、いうことに気づくのです。それは台詞としては殆ど語られません。他には椅子を人間に見立てては居ませんから、これが物語としての特異点なのだと思うのです。その切なさ。濃密で食い入るように見てしまうのです。

「ふたり〜」は寝室という一室だけ、ベッドの上での会話を中心にして作り上げられたエンタメ。下着姿で現れた妻の色っぽさ、ちょっとやり過ぎなぐらいの吐息←アタシは喜んでますが。
マクベス夫人は夫を通して権力を手に入れたいと考える、というのが普通の解釈だと思っていたのだけれど、本作では「一人で寂しい」ことを解決したいがために、さらなる権力を手に入れて、王となれば二人きりで過ごせる夜も増えると考えて、という流れ。500円で読み応えたっぷりの当日パンフで作家はマクベス夫婦の夜の生活、という妄想を展開していて、「この二人の、権力への執着には、ちょっと異常なものがある」ということを、「クソみたいな妄想」で説明して見せるというのも、また芝居を楽しむ一つの形だよなぁと思うのです。

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【芝居】「ZIPANG PUNK ~五右衛門ロックⅢ」劇団☆新感線

2012.12.30 14:00 [CoRich]

石川五右衛門が死んでいなかったら、でスタートしたシリーズ公演の第三回。20分の休憩を挟み480分。1月27日までシアターオーブ。渋谷ヒカリエ11F)。

秀吉が天下統一を果たした時代。空海が開いたという寺に伝わる黄金の仏像を狙う若い女盗賊と石川五右衛門。盗賊目付との丁々発止のあげくに盗み出した黄金の仏像そのものはガラクタだったが、空海が持ち帰った大量の黄金のありか暗号で記しているのだという。
秀吉は朝鮮出兵のために必要としていた多くの資金を、貿易の権益と引き替えに商人たちから得ていたが、限度を超えてきていて不満がたまっていた。朝鮮出兵のタイミングを狙い、堺の豪商は南蛮人の貴族や商人たちと組んで反乱を起こす。南蛮人たちもまた、黄金の仏像を狙っている。

ミュージカル専用と謳われる劇場らしく、シンプルなストーリーに音楽めいっぱい。フライングや扇型に開閉する壁、舞台左右に設置された画面などを多用して見た目にも鮮やかで、気楽に楽しめる一本なのです。

遊び、と称して戦に明け暮れ、その費用を民間から搾り取ろうなんてあたりは薄っすらと今の日本の姿に重なって見えたりしないこともないのだけれど、まあ、そこに深入りするよりはおなかいっぱいになるほどに濃ゆいメンツの時に馬鹿馬鹿しく、明るく気楽な話しに乗っかるのが吉。

あくまで真ん中でどっしり、動かなくたって居るだけで大盛り上がりという古田新太がもちろん楽しく、キャンキャンと跳ね回るように元気目一杯な女盗賊を演じた蒼井優、作り物っぽいキメキャラという盗賊目付を演じた三浦春馬、反乱を企むヒールが新鮮な印象な村井国夫、どこまでも狡猾でしゃれっ気のある秀吉を演じた麿赤兒と行った具合に、バラエティがいっぱい。主演陣を支えているのは新感線の役者たちだけれど、それぞれにもしっかり唄も見せ場もあって、まるで顔見世興行のようでもあります。

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