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2012.09.24

【芝居】「雷鳴」青年座

2012.9.23 13:30 [CoRich]

梁石日の原作を舞台化。休憩15分を含み180分。コの字型に設えられた客席、できれば正面をねらいたいところ。30日まで青年座劇場。

朝鮮全土が日本の統治下に置かれた1910年代、済州島。上流階級の娘は18歳で名家に嫁ぐが、夫はまだ10歳だった。姑には召使い同然に虐げられ、幼いまま粗暴な夫のなか従属することはなく暮らしていく。日本軍と国策会社が島に乗り込んできて土地収奪のための事業が進められ、土地を増やしたりのし上がったり、あるいは土地を失い飢餓に苦しむ。農民の怒りは頂点に達し暴動が起きる中、逃げ延びた首謀者の一人が姿を現す。

コの字型に設えられた客席、客席中央部分を出捌けに使い、客席をその家の「外側」と意識した配置の芝居。サイドだから見えないということはないのだけれど、全体に正面を想定した芝居が多いように想います。 当日パンフによれば、韓国や中国との関係が揺れる今に合わせた上演ではないといいます。このご時世ですから、意識しないわけにはいかないのですが、時代に翻弄され、社会にもまれながら懸命に生きる一人の女性の見応えのある物語であって、イデオロギーとか主張とかというこことは違うことを描こうとしています。物語の舞台となるこの時代の描き方、統治下に置いていた日本軍はもちろん恐怖と、この悲劇的な状況の原因として描かれますが、物語のフォーカスがあたるのは、そういう状況の中での韓国人同士。富める者、貧しいものあるいは地主階級同士ですらも、変化していく力関係が生まれてしまう時代をダイナミックに描くことにあるように感じられます。

嫁いだ娘を演じた椿真由美はほぼ出ずっぱり。けなげに、しかし強く生きる女の姿、終盤での愛する心の解放される一瞬が魅力にあふれます。下女を演じた佐野美幸、下男を演じた小豆畑雅一が時にコミカルに庶民をきっちりと描き出し印象を残します。巡査を演じた田中耕二は日本になびく現地の巡査を演じ、かなりヒールな役ですが、その奥行き。

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【芝居】「煙草と私たちの害について」踊れ場

2012.9.22 19:30 [CoRich]

ぬいぐるみハンターの作演・池亀三太が、他の原作からの上演をするユニットとしての「踊れ場」。アタシは初見です。みっちり会話も詰まっている105分。25日まで、ひつじ座。

漁師町、田舎の国道沿いのイメクラ控え室に集まる女たち。それぞれの女たちはコスプレが決められている。ナンバーワンの海女イメクラ嬢だけが忙しい。ある日店長代理の男が控え室を禁煙にする、と言い出す。普段からか、間が持たなくなったからか、女たちの噂話は止まらない。 地元の殺人事件の被害者の父らしい男が通ってきたり、あの女には子供が居るらしいという噂があったり、東京で女優になるのを夢みていたり、逃げてしまった店長を待ち続ける女がいたり。

くっつけられた机に広げられたお菓子や煙草などの私物の数々。地方の国道沿いの風俗店で働く女たち控え室での本音と生き様、といった風情で物語が進みます。スピード感とかグルーヴ感が目一杯の「ぬいぐるみハンター」の作家の全く別の一面を見るようで新鮮でたのしいのです。

原作とされているチェーホフ「煙草の害について」は、煙草の害についての公演を語るはずが妻への愚痴で尽くされてしまうという荒唐無稽な名作(柄本明による上演が有名かな)ですが、劇中ほんの少し物語と関係なく引用されるものの、それ以外には明確には現れてきません。

作家が原作に据えた意図も、いわゆる「吸えないつらさ」みたいな気持ちも今一つわからないのですが、煙草が吸えないために少しいらつく気持ち、あるいは持たない間を埋めるように出てくる会話。それも波風立てないような「埋め草」がぴったりくるような、他人の噂話にあふれるというシチュエーションをねらったのかなという気はします。

昔の夫、東京から夢やぶれて戻ってきたことなど、触れられたくないことはあるわけですが、そこから逃げ出すことも出来ない閉塞感、それなのに廻りにはあっと言うまに知られてしまうという小さな世界は、実は本作の地方の、ということに限ったことではない気はしますが、そんな小さく閉塞した社会を巧く作り出している感じ。

彼女たちの日常のシーンではあるけれど、「禁煙」が宣言されたこの1時間半という「非日常」ゆえに見えてくる彼女たちの生き様だったり、思いだったりがぎゅっと詰め込まれていてむせかえるよう。 東京に行こうと夢いっぱいの未成年を演じた、あやかの元気いっぱいな感じ、後半でまわりにしつこく台詞の相手を頼むウザったい感じは実に凄い。結局コスプレはしないものの保母のイメクラ嬢を演じた吉原小百合は圧巻のコミュニケーション能力でどの会話にも突っ込んでいく感じがおもしろいけれど稽古場ブログの紹介を読むとそれが彼女自身の特性だというのもいい感じ。海女イメクラ嬢を演じた背能じゅんは物語に絡むと云うよりはこの店がなんとか回っているというアリバイのような感じは否めませんが、意味の分からないテンションが時折挟まるおかげでで不思議なリズム感が生まれるようで強烈な印象を残します。ナースのイメクラ嬢を演じた山田麻子のボーイッシュでクールな感じなのに影と不器用さのような不思議な魅力。女子高生のイメクラ嬢を演じた井上千裕もまた隠している過去の影だけれど、店長代理との幼なじみという設定がまた違うベクトルの不器用さを味付けしていて魅力的。その店長代理を演じた作家・池亀三太の軽さとへたれっぷりと、幼なじみへの優しさと、ちょっとした下心というのが実は魅力に溢れていたりして役者としても魅力あるなと思ったりもするのです。

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【芝居】「和いろいろ(C)」桃唄309+だるめしあん

2012.9.22 17:30 [CoRich]

桃唄309がカフェ公演として続けている他劇団との短編コラボ企画。本編60分、アタシの観た回にはおまけとして佐藤達による紙芝居企画が+約10分。

月に3人の女を抱くというノルマを自ら課している男。今日も授業をサボりクラスメイトの友達という女をバイクに乗せて連れ出す。海辺で戯れ濡れて砂だらけになった女は、男の家に行き料理を作ると提案する。が、女は男をその気にさせておいて、すんでのところで振る、ということを月に3人に男にすることをノルマとして課している伝説の女だった「ムラサメ」(劇団だるめしあん/作・演出 坂本鈴)
スナックの飲み仲間、年も誕生日も一緒の40になる男たち三人がコテージのキャンプのため田舎にやってくる。一人は少し派手な仕事で忙しい日々、一人は妻とうまくいっていない、一人はいい奴だけでどうにもモテない。そこにスナックの女の子が合流する。男三人のキャンプだったはずなのに、空気を読まずに口説く気満々でつれてきたのだ。「ザ・キャンプ40」(劇団桃唄309/作・演出 長谷基弘)

僕の名前「佐藤達」の由来とか聞いてみたけれど「おまけの紙芝居」

カフェの飲食が可能な雰囲気のまま、他の劇団と1編ずつの短編というスタイルも早くも春・夏に続いて秋の三回目。

「ムラサメ」は、○人斬りを自慢するようなモテ男と、そんな男を手玉に取ことが生き甲斐な女の対決、という、ある意味身も蓋もない下世話な話を骨格にしながらも、「血を吸って強くなる威力を増す妖刀」といったまるで新感線かという活劇っぽい物語を被せて、無理矢理にでも迫力ある活劇にという力業。単なる駆け引きの相手だったはずなのに気になる存在にまでなってしまうかと見せての終幕は、まあそういう結末になるだろうなと思いつつ、途中で見せた女の心配する気持ちは何だったのだろう、というあたりが置き去りになってしまっているのが惜しい気がしないでもありません。

「ザ・キャンプ40」はスナックの常連客3人でキャンプというのが無理矢理な感じはあれど、ある種「のび太」的なキャラクタである一人のサバイバル能力の高さが、キャンプという場所だから魅力的だという、まあよくある物語なのだけれど、それが40男たちだ、という、いくつになっても変わらない感が楽しい。そのサバイバル能力高い男を演じた佐藤達のほんわかした雰囲気ゆえに成立しているという感あれど、その対立軸となる小ずるい大人側を演じた浦壁詔一の雰囲気がまた実にぴったりあっていたりして楽しい。飲み屋の女の子といい仲になりそうだということも、狡さはあっても飲み仲間の幸せを願うという気持ちというのも、オジサンに向けてのファンタジーっぽく、どこかラッパ屋な雰囲気が漂い始めるというのも、なんか作家も年齢を重ねたよなぁと思ったり思わなかったり。

おまけとなる紙芝居は、佐藤達のほんわかしたしゃべり口と、絵の雰囲気が実にいいライフワーク (1, 2, 3, 4) 。もはや、これが付いている回をねらって行っているといっても過言ではありません。名前の由来を母親に訊いたらテレビに映ってたなんとかというあたりから、晩ご飯のモロヘイヤ入りカレー、そのモロヘイヤのキャラクタも実にほんわか、可愛らしいし、なんか古代にまで時間さかのぼったりという圧巻の広がりが楽しくてならないのです。

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2012.09.23

【芝居】「無差別」柿喰う客

2012.922 14:00 [CoRich]

中屋敷法仁の久しぶりの劇団新作。劇団員の出入りもあり、柿喰う客の新しい一ページとなる90分。24日まで東京芸術劇場・シアターイースト。

日本のある村、食用として珍重されている赤犬だが、捕まえ捌く人々は穢れたものとして人間として扱われなかった。生まれてきた妹を穢れさせまいと肉からは遠ざけた生活を送らせる兄。戦争が激化し国の為に働きたいと思う兄だが村人は認めず、それを受け入れさせるために山の神である大楠の神木から大枝を切り取ってくる。が、山の神は倒され、替わって手の無いカタワのモグラが山の神となっており、大楠は恨みを抱きながらもキノコに群生されるようになって...

文語っぽいしゃべり方に、山の神をまつる人々という日本古来を感じさせる舞台。食肉の屠殺に携わる人々、障碍をもつ人々、原爆による被爆者たちとさまざまに「差別されてきた」人々を濃密に組み合わせ編み上げて物語を運びます。赤犬を捌くだのと、アングラ的でもあって、いままでの柿喰う客が、薄っぺらい言葉を詰め込めるだけ詰め込むことで厚みを作ってきたのとは対照的に、一つ一つがわりとヘビーなセリフをゆっくりと語り、積み上げていくよう。

もっとも、「差別」にまつわるさまざまを取り上げ、それが現実にどこかリンクしていたとしても、それを主張はおろか問題として描くのではなく、あくまでもフィクションの世界を作る背景として使っている、という感じはします。そういう意味ではなにかのイデオロギーとは何の関係もなくて、ひたすらにフィクションを作るための道具立て。たとえば大昔の古典がたとえ現実に根ざして描かれたとしても私たちにはフィクションであるようなことだと思うのです。が、現実にリンクするとなると、なかなかそのフィクションという気持ちだけで観ることができないというのもまた観客の現実。それはなかなか難しいことだと思ったりもするのです。

重い現実を背景に据えながらも、舞台で起きることはひたすらにエンタテインメント。言葉のリズムや語感にこだわることうや身体能力に優れた役者をもっているというこれまでの特徴に加え、こういう物語を紡ぐことが、どこか野田秀樹っぽさを感じさせるという声もよくわかる気がするのです。

舞台中央に据えられた7本の柱とそれを繋ぐ横棒。ごくシンプルな装置ながら、身体能力に優れた役者たちがスピード感ではなく、どこかゆっくりとふくよかな厚みをもって時に鉄棒、時にジャングルジムといった感じで動き回り舞台の空間をきっちりと埋めていくのです。

犬殺しの兄を演じた玉置玲央、やってることの陰惨さと、妹への深い深い情愛の念が渾然となった姿きっちりと。その妹を演じた七味まゆ味の感情を感じさせない表情はどこか掘り続けている仏像を感じさせる不思議な奥行き。モグラの姫神を演じた深谷由梨香は甲高い圧倒的な声量が人ならぬ何かなのだけれど、その中の一抹の寂しがりな感じもまた魅力的に。全体に陰鬱に描かれた物語ですが、大村わたる演じるクスノキは、どこかコミカルに息を抜く緩急をつけます。

劇団員勢ぞろいとはいっても、いままで看板といってもいい役者だった役者が抜けたということの穴を感じないわけではありません。が、この役者でしかも、新しい雰囲気の新作で出発するのだという新たな船出となる一本の濃密さは相当なものだと思うのです。

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【芝居】「外食王オムレット」ギンギラ太陽's

2012.9.16 12:30 [CoRich]

今までの主力メンバーではなく、プロデュース方式での「新しい座組」での公演。外食店をめぐる物語を、ハムレットの断片に乗せて90分。開演前にはミニ公演として大型家電量販店流通戦争と、恒例の撮影会があります。17日まで西鉄ホール。

天神の一等地に店を構える小さな洋食屋という王国。業務用大型冷蔵庫の国王で小さいながらもやってきた王国だったが、食中毒事故により引退しスクラップにされてしまう。後を継いだ業務用ガスコンロ・オムレット王子。夢枕に父親が立ち金の亡者にコンセントを抜かれ陥れられたのだと訴える。天神の一等地という場所ゆえに、大国のマクドナルドの王子・バーガー王子はオフィーリアにぞっこんで、この店を手に入れたいと考えている。店の危機を感じたオムレットは、国の外に出て、外食を巡る飲食店・コンビニを交えたすさまじい状況を知る。古い王の親友だった・ロイヤルホストは大国だったが、各店舗に調理師を置いているロイヤル魂は昔のままだった。いったい、父を亡き者にした金の亡者は誰なのか。

個人店を想定したと思われる天神の小さな洋食屋と、ファストフード、ファミレス、コンビニ、ホカ弁という大手外食・中食チェーンの間で、天神という一等地とその店の看板メニューというオムレット姫をめぐる物語。ロイヤルホストこそ福岡発祥(今でも単なる暖め直しではなくて、各店で調理師が調理を行っているというネタが嬉しい)ですし、福岡では生活に根ざした「ウエスト」も少しばかり登場しますが、今作は福岡色はやや薄め。個人店をキーにしながらも、大手チェーン互いの陣取り合戦やその業態の特色を描き、「カノッサの屈辱」やら「マーケティング天国」といったテレビ番組(例が古くて申し訳ない)のような、「90分でわかる外食産業」というような仕上がりになっています。たとえばファストフードはセットメニューのポテトで利益を確保する構造になっている、なんていうのは知識としては知っていても、こういう流れで見せるのはもしかしたら、子供向けの食育にも使えそう。

「ハムレット」を所々にスパイスのように効かせているというのがちょっと面白い。ファミレスの目玉である三人の魔女(ドリンク婆、サラダ婆、スープ婆)が客を取り込んでみたり、オフィーリアに向かい、大手にとりこまれるべく「セントラルキッチン(尼寺)に行け」なんてのも遊びとして楽しい。(もっとも物語としては少々唐突なのはご愛敬)

他のチェーン店は実名なのだけれど、まるで黒魔術のごとき妖しさをかもしだし、物語として結果的にヒールなコンビニだけは特定の名称を出さないというのは、扱われ方として仕方ない気はしますが、そのおかげで、物語の着地点が早々にみえてしまうというのは痛し痒し。もっとも、青い看板やほっとステーションという単語から、ほぼ特定のチェーンには見えてしまうのはご愛敬。

そのコンビニを演じた中村雪絵は、西鉄ホールの最後列端からでも登場すればその表情だけで彼女だとわかる圧巻の存在感。被り物から顔だけ出すスタイルだけに、その表情のコントラストは大きな強みです。オフィーリアを演じた三坂恵美は、可愛らしく可憐でお姫様、というポジションをしっかりと。執事・しゃもじいを演じた宗真樹子のキャラクタはコミカルながらも奥行きを感じさせるしっかりとしたちから。次回はなんと正月期間。うあー、宿取れるかなー、交通機関高そうだな...

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2012.09.17

速報→「広くてすてきな宇宙じゃないか」キャラメルボックス

2012.9.15 19:00 [CoRich]

サポーターズクラブ結成20周年で劇団代表作を上演する「お祭り」企画。65分。17日までサンシャイン劇場。そのあと、大阪。

三連休を入れているとはいえ、たった一週末を10人のキャストで3バージョン。物語で語られる、FRS(Family Rental Service)になぞられたF(orest)/R(iver)/S(lope)と名付けられています。

アタシは一つのバージョンしか観られませんでした。3バージョン全体配役をみると、若い役者もベテランも中堅もシャッフルされていて、ベテランがこの役という具合に固定しないのがキャラメルボックスの役者の厚みを感じさせます。

ほかを知りませんが、お祭り感が満載で芸達者がそろったという印象のSlopeキャスト。大森美紀子・西川弘幸でずっと演じられてきた「おばあちゃん」と「柿本」を坂口理恵・阿部丈二に。とくに「おばあちゃん」は時に怖くなるほどにはじけてふざけてみたり、という軽やかさが面白いなと思うのです。あるいはアナウンサーと教師を演じた前田綾のふざけっぷりが実に楽しく。末っ子を演じた渡邊安理は強情っぱりが全面にでる感じなのがまた、楽しく。

ラストの曲はオリジナルになっていたりするけれど、雰囲気はそのままに、何度観たって、クリコとおばあちゃんのラストは涙しちゃうのです。それはあまりにわかりやすく泣かせる話ではあるけれど、たぶん初めて観たときよりも、ずっと「一人で生きていく」ということの行き先が身近に感じられるようになってきたからこそ、身に沁みて、そして涙してしまうのです。

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速報→「りんご」快快(faifai)

2012.9.15 13:00 [CoRich]

faifaiを支えてきた多くのメンバーが脱退したり休止をするという意味でターニングポイントともなる公演を見届けたい気持ちの110分(休憩10分)。

これは作家の母親が死ぬときに吐いた小さな血反吐の物語、これはエレベータに乗ってる僕の物語。

作家の実体験、というセリフが混じりながら、生きていること、親の死に目にまつわる物語を淡々と描き続けます。その事実はわりと陰惨な気もするのですが、こうやって表現のカタチにする事は、ずっと一緒だったこのメンバーだからこそさらけ出せる物語なのだという気もするのです。

正直に云えば、前半といわれる60分強は、着地点もわからないままにあちこちにとばされる感じ。それは徐々に時に重苦しい物語だけれど、たとえば裸、たとえばドリフっぽいくだらなさ(オオゼキ君と が絶妙)。きっとアタシが過去に払ったであろう住民税は、劇場の椅子を止めるねじ一本ぐらいのものかもしれないけれど、KAATのスタジオという、税金使いまくって建てた劇場の、楽屋口通路やらをわざわざ通して見せ(てくれ)たり、おそらくは仕込みに使われるリフト、大量のモニタを吊るバトン、三層構造の舞台やエレベータの表現など、たしかに通常の公演では使わないぐらいの物量に任せた表現が多数。が、たとえば文化祭が学校の施設をいかに見立てて、使い尽くすかという腕の見せ所という意味では、この劇場という場所をとことん遊び尽くす、というのが、大学からずっと一緒に表現してきた彼らが一緒に作る最後の新作、という雰囲気を存分に感じられるのです。

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速報→「仏にイナズマ」ハリケーンディスコ

2012.9.14 19:30 [CoRich]

福岡発のクソ熱い芝居を90分。17日まで参宮橋トランスミッション。

ワークショップ開催している劇団に、「仕事」の「売場」だと勘違いしてやってきたヤクザ崩れの男とその友達。福岡のチンピラが東京で改造拳銃を流しているのを看過できない東京のヤクザ。改造拳銃の仕事を任されたヤクザ崩れは姿を消してしまう。

チンピラたちの熱い想い。雰囲気もその暑苦しい想いも昭和の香りがめいっぱい。長い髪なびかせ失踪するバイクのかっこよさに痺れ、無理筋な代理戦争(というにも悲しい、小競り合い)に涙したり(は大げさか)。

物語そのものは、ヤクザ物の王道のレプリカというか、よくある感じではありますし、物語の上での仕掛けとかか構造が面白いというたぐいの話ではありません。それでも、ばかばかしいほどに濃く描き、劇場の規模に対して過剰に装置というか舞台を作り込んだりと、どう考えたって効率の悪い芝居ということ、その存在が愛おしささえ感じさせるのです。

作・演出・出演に加えて、音響オペまで担当してしまう江崎穣の実直に芝居に向き合う感じがカッコイイ。東京のヤクザを演じた竹岡真悟は終始高いテンションで、むしろ劇画のように圧巻の説得力をこの嘘くさい物語の世界に。その女を演じた津波恵の存在感。ヤクザ崩れを演じた渡辺裕也やその友達を演じた山内一生、もうこの年齢に至り、若い頃に根拠もなく持っていた万能感が消え、先々どこまで行けそうかということに希望を失った中年の香り。会社員だったとしても、アタシにはむしろ近い感覚でそのどん詰まり感が身に沁みるのです。

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2012.09.12

速報→「フリル」アマヤドリ(ex. ひょっとこ乱舞)

2012.9.9 14:00 [CoRich]

17日まで王子小劇場110分。

本を読む若い男に通りがかりのオジサンが話しかける「クレープってのはどこの料理だろうね」。オジサンは時に面倒くさく絡んでくるが、巻き込まれていく。オジサンは、別れた女と久しぶりに再会するのだという。
王子小劇場を横に使い、舞台を長辺方向斜めにカーテンのようなもので区切ります。序盤こそ時にダンス、時に笑いという感じの運びですが、全体はほぼ薄暗い中での平坦な会話劇と、その横でのインスタレーションのような動きという体裁で進みます。なるほど、チラシを後から観てみれば物語の骨格(というよりは、公式設定という感じですが)は書いてあるわけですが、それを読まずに見に行くと、物語のつなぎ目もつながり方もわからずに往生します。チラシは読まなかったクセに、当日パンフに織り込まれた、作家の「わかりにくいものがたりってのがあるのだ」というのだけは読んでしまったがために、前半は腹立たしいぐらいになにもわからず伝わらず、という気持ちでぼんやりしていたのです。

ぼんやり見ていると、これはどうも失った何かへの猛烈な後悔とそのときの想いとでドライブされているのだ、という気がするのです。それがなにかはよく分からないのですが、 アタシは勝手に「ひょっとこ乱舞」を断ち切り「アマヤドリ」を始めるにあたっての過去のさまざまの精算をしていたのだ、と勝手に誤読します。これはこれで繋がる感じが面白かったりもするけれど。

これが0回公演、ということならば、次はこれこそが「アマヤドリ」の物語、ということになると思うのです。

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2012.09.10

速報→「清水宏のジャパニーズ・ターミネータる! ~こうなりゃヤッタる、アバレタる!~」落語王

2012.9.8 19:30 [CoRich]

清水宏が、イギリス・エジンバラのフリンジフェスティバルへの参加の凱旋ライブ。休憩なしの3時間。9日までシアター711。

数千人のパフォーマーがしのぎを削る中、メインの通りから遠く離れて人通りのないところのライブハウス。チラシを配り、メディアに攻勢をかけて。

愛知のオバさんという風情の前説から、スタート。ずっとその格好だったという、スポンサーのワッペンが縫いつけられたオレンジ色のジャージ姿に身を包んで登場。 ネタというよりは、この不利な状況のなかでいかに七転八倒していったかを語る、報告というかセルフルポのような語り口。店の場所がいかに人通りがないか、チラシがいかに捨てられているか、フェスティバルのオフィスに乗り込み人の集め方のレクチャーを聴き、プレスルームに入り込んで嫌がられ、チラシを渡した相手の名前を聞き呼びかけること、ライブが始まったら始まったで出現する正体不明になった酔っぱらいへの対処、同宿の意味不明な男の怖さ、開演に間に合うかわからないぐらい遠くへのショーケース参加などさまざま。マイクもない素舞台を狭しと飛び回りながら語り切ります。

さすがに3時間出ずっぱりではなく引っ込んだりするけれど、語っていたその光景を撮った映像が幕間を埋めていきます。語るだけでも十分爆笑編なのに、まさかそんなことが、というのが語るだけではなくてちゃんと映像として抑えられているので、テンションが下がらずに続けられるのです。たとえば、店の前がいかに人通りがないか、というのは映像で見せればそれでおしまいのところ、映像がない状態でその説明を語りだけで臨場感たっぷりに成立させてしまうのです。そういう意味では昔からやってる体験ネタのようではあるのだけれど、濃密な一ヶ月ゆえに濃さも凄いのです。

身ひとつでの語りという意味では落語的なのだけれども、答え合わせのような映像でまた爆笑し、最後にそのネタのダイジェストで見せることで、追体験させるかのよう。実によく練り込まれていて、ほんとうに目が離せなくて、「清水宏」というジャンルなのだ、というtwitterで云う人が居るのも、納得なのです。

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速報→「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。」マームとジプシー

2012.9.8 14:00 [CoRich]

17日まで三鷹市芸術文化センター・星のホール。ともかく早めに行って、舞台を正面から見る席を確保が必須の110分。

8月20日の午前8時。100年経った古い家が取り壊される。長女は結婚して家をでていて、その弟は地元に居て最後まで住んでいた祖母の面倒もみていたりして。末っ子の次女も東京で友達と同居していて。取り壊されるその日の朝。
解体がはじまった電話で会話をする三人。壊される現場に居るのは長男だけだったけれど、それぞれに思い浮かべる風景は、古い家が嫌だったことを話す朝だったり、友達が遊びに来た晩ご飯だったり。子供居るしな、行くのもなと会話したり、そんな時だって同居の友人との話、取り壊している家の近所の人の会話、もう別れるであろう恋人との会話があったり。

古い家の取り壊し、それをめぐる三兄弟たちを中心、近所の人、恋人、同居人などを配して、ノスタルジーを細かな繰り返しで描き出します。

前後に長細い舞台、奥は家の骨組み、小さなステージのようになっています。その手前には古い家を象徴するようにテレビが置いてあるようですが、遅く着いてしまったあたしが座った下手側一番奥からは見えません。正面から見れば、いくつか重なっている配置が効果的になるように作られているのでしょう。たとえば近所のコンビニ的な近所の人が客席に最も近くて他人の視点、少し遠いところで起きているその家の後継と後半でのズーム感、その向こう側という奥行きを効果的に作っているのだと想像するのだろうけれど、アタシが座った場所からは、そういう感じには見えずに、四つの椅子をくるくる廻る兄弟+恋人のシーケンスのダンドリ感だけが強く印象に残ります。そういう悪条件で、しかもシーケンスの繰り返しという表現が大嫌いなあたしにとってだって、後半に向かって面白い感じには思えるのだから、きっと正面からみればずいぶん印象は違うのではないかと思うのです。もっとも、たとえば序盤での語りで左右奥に顔を向ける表情、あるいは長女の後半での表情といったこの席でしか、というシーンがないわけではないのですがおまけな感は免れません。まあ、きっと増席されたおかげで観ることができたアタシは(劇団に対して)元々そういう位置だったのだ、という気もしますが。

姉妹たちの風景の朝、次女が別れると決めている恋人を演じた尾野島慎太朗の暴走する感じや、その先の物語が実に楽しい。次女を演じた吉田聡子がちょっと振り回す感じなのも嬉しい。団地に住んでてこの家が楽しい女の子を演じた召田実子とか、コンビニ的な店の嫁を演じた荻原綾の心の中の毒づきもくすりとします。場所のせいもあって、一番印象的なのは涙声のような不思議な声色を駆使して長女を演じた成田亜佑美なのです(という人は多そうですが)。

じっさいのところ、父親が倒れてもうこの玄関に戻ってこなかったこと、一人で暮らしている祖母を引き取ること、など親や祖母たちはセリフの端々には登場するものの、物語の上では登場人物たちの思い出の風景のきっかけに過ぎない感じではあります。父親が亡くなったタイミングは長女が出る前なのか後なのか、ほんの一年前に長女が引き取ると云った祖母は同居している風でもなくという具合で、シーンを描くことは重要視しても、彼らがどうなってしまったのかは描かないことの違和感があります。もっとも「おばあちゃんは、今どこに居るんだろう」という近所の人の台詞を混ぜていたりするあたり、意図的なのでしょう。背景をぼかすが如くメリハリをつけて描くということ、なのかなぁ。 真ん中あたり、また朝の風景に戻るところで、そこまでの風景をぎゅっと圧縮してみせるシーンの音がちょっと凄い。これもまた背景をぼかすような効果。

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2012.09.04

速報→「劇団劇場 ~Act In Rule~ vol.5」劇団劇場製作委員会

2012.9.2 13:30 [CoRich]

渋谷のライブハウスを舞台に、ルールを課した5団体の対バン形式のショーケースイベント。38mmなぐりーずのMCで、休憩を挟みつつ本編120分、エキシビジョンとライブで+30分。2日まで、Glad。ワンドリンク(¥500)が必須。

15分の制限時間、5分おきに消える照明、10分で汽笛音、14分でBGMという時間の制限のほか、決められたシーンやセリフなど8つのルールで構成。

無人駅で電車を待つ男に話しかけてくるのは美少年だと言い張る男と、その知り合いと思われる女装した男だった「crpuscule〜俺とアイツの千秋楽」(鋼鉄村松)
死体や死に対しての恐れは獲得されるものではなく、遺伝するものなのだという説を唱える医者。同僚の医者はもちろん信じない。賭が提案され、死体と一晩をすごすことが出来るのかを実験してみることになる「A Watcher by the Dead」(声を出すと気持ちいいの会)
DJをする男、盛り上がっていこう、客席からも人を上げて、ダンスが始まる「BOOGIE BACK!!」(ランチョンfeat.木皮成)
(休憩)
彼女に浮気された男が幼なじみの女に相談する。浮気相手と別れさせると請け負うが、その浮気相手もまた、自分の彼氏だった。まったく反省する気のない二人、もうこれはどんな誘惑にも打ち勝つように相手を鍛え直そいうということになり。「恋に生きる人、ばかり。」(月刊「根本宗子」)
東京と呼ばれていた場所、山手線を銀色の鉄板で覆い、清潔で完璧な街になった。住む人々の行動は全て管理されるようになり、詩人は狩られるようになっている。発電所には赤い猫がいる。「赤猫の舌」

開演前、休憩、終演後に38mmなぐりーずのMCとライブ。既にでている「私を劇場につれてって」「KANGEKI☆おじさん」はライブハウス風にリミックス。あたしは初めて観る新曲「打ち上げ I misss you」と、カバー曲で構成。

5つの団体からそれぞれ一つのキャラクタを選んだエキシビジョンは、木皮成のもっているランチョンなるものを巡る物語。それぞれの物語のキャラクタの後日譚という体裁で、実に緩い芝居の作りで、エキシビジョンらしいといえばそういう感じ。

「crpuscule〜」は笑いいっぱい、おかしな人々がおかしなことをする、いわゆる「べろべろばあ」ですが、イキオイと妙な存在感で逃げきっったという感じ。

「A Watcher〜」は打って変わって、ホラー仕立てなのだといいます。開演前に役者の交代を告げて構造を作り、時間ごとのイベントを逆手にとって唐突に起こる怪奇現象的な出来事という感じ。正直にいえばオールスタンディングで舞台に寝ている人、座っている人というのは、それだけで見えない部分があって、効果は半減している感もあります。15分でホラーをやりきろうという意気やよし。

「ランチョン〜」はどこが演劇なんだ、という感はあります。ライブしているパフォーマーと観客自体を仕込んで、ライブのミニチュアを作っているという風情。観てて楽しいパフォーマンスではあるのだけれど、盛り上がる仕込みの観客と一般客の温度差が妙な感じになってしまうという感じはします。ボーイミーツガール風に乗せられたダンスの中の物語はちょっといい雰囲気。

「恋に〜」は、劇団の鉄板ネタ( 1, 2) を再び再構成して、ダブルの浮気相手を更正させるネタに。時間ゆえか、ちょっと薄味な感じは否めません。根本宗子と野田裕貴の二人のかわいらしさ、おしまいの一曲はお祭りらしくて楽しいしきっちり踊りきる二人も観てて楽しい。浮気している男を演じた加藤岳史の反省のなさ、女を演じた梨木智香の強気な出方が楽しい。ちゃんと着替えてきたりするっていうのも見た目の楽しさにプラスに働きます。

「赤猫〜」は、12名という大所帯。街を作り出そうという心意気。ここもオールスタンディングに対して、いいシーンほど座り込んだりして見えないというのがあまりに多くて、惜しい感じがします。生演奏を盛り込んだり、足踏みならしたりというライブらしい楽しさはあるのだけれど、見えなければ魅力は半減してしまうと思うのです。東澤有香と百花亜紀百花亜希(ご指摘感謝)の逃避行がスタイリッシュで美しく。ハマカワフミエは赤い猫というアイコンのような役で印象を残します。

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2012.09.03

速報→「都道府県パズル」北京蝶々

2012.9.1 19:30 [CoRich]

北京蝶々の新作。道州制の議論をする人々を通してこの国のありかたをコンパクトに描く80分。キリンバズウカの登米裕一の演出で 5日まで王子小劇場。

夏の一日、岐阜の公共施設の会議室に集められた人々。道州制に向けて一般にアピールするイベント、道州制フェスティバルのために各地から集められた人々。イベントで各地の名産を使った料理をアピールするということでこの会議はすぐに終わるはずだったのだが、そこにはデメリットはないのかという疑問や、このイベントへの想いはないのか、というコメントから早く終わるはずの会議は終わりが見えなくなってくる。

まとまらないダメな会議の典型のように始まる序盤、この場の位置づけのようなものを少々もったい付けるかんじで物語は進みます。道州制のメリットをアピールするイベント、そこには税金がつぎ込まれるけれど、その予算はまるまる広告代理店に渡ってしまうのだということ、そこには地方をどうしていくかという真剣な想いなど微塵もなくて、利権なのだということ。あるいはそういう制度の導入によって困る公務員の雇用、あるいはこれを起死回生と考えなにが何でも導入に結びつけたいのだと考える人々。地方で暮らすということ、コミュニティーのありかた、一人で暮らしていけるかということ、税金のこと、さまざまを紡いでいくのです。

一つ一つの要素はニュースだったり、時にネットや週刊誌のネタだったりということだけれど、全てではないにせよ、道州制にまつわるさまざまを、あるいは作家の思索を全てテーブルの上に出している感じです。そういう意味では見せ方も話題も地味だけれど、作家・大塩哲史が紡ぐ北京蝶々らしい感じの仕上がりなのです。

ネタバレかも

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速報→「SUMMERTIME」TOKYO PLAYERS COLLECTION

2012.9.1 17:00 [CoRich]

上野友之による、競泳水着とは別のユニットの公演。2日まで早稲田・LIFT。60分弱

子供の頃夏休みに訪れた佐賀の村。学校がイヤで訪れたその家に住んでいたのは年上で中学生になったばかりの親戚の子。物静かで大人びていて、美しい彼女のことが大好きになった。夏休みを過ぎてもここに居たいという想いは叶えられず、また来年もといって東京にもどったが、15年も間があいてしまった。

同じ作家のユニットでも、競泳水着とは印象が異なるトープレ。地方と都会、若い頃の情景だったり気持ちの細やかな描写が強くなるという印象があります。その中でもとりわけ想いに寄り添う印象が強い今作。

東京に暮らす女性と、地方に暮らす年上の姪との間の15年を隔てた二回の夏休みの日々の物語。子供の頃と、現在の二十代に別の役者を当て、二人一役の計四人で演じるような形になっています。東京に住んでいる女、子供の頃を演じた李そじんと大人を演じた松本みゆき、あるいは佐賀に住んでいる女、の子供の頃を演じた相楽樹と大人を演じた冬月ちき、顔つきがなんとなく似てるように感じられるのはキャスティングの妙か、演出の力か。

大人の女優で、舌足らずと衣装だけでも、ずいぶんとお姉さんにあこがれる小学生の少女を演じた李そじんはコミカルに逃げることもなく、かといってイタい感じにもしないというのもたいしたもの。中学生を演じた相楽樹は実年齢もかなり若いのと、「大人びてみえる」ということが重要なわけでうまく機能しています。

闘う場である東京と、それに疲れたときに暖かく迎えてくれる場所である田舎、そこに逃げてもいいのだというのは実に優しい視線。いっぽうで、東京で暮らし、生活をしてる陽子と、田舎で暮らしている愛の対比。そんなに素敵なお姉さんだったはずなのに、この田舎にずっと住んでいてそれでいいのか、というのは東京の傲慢だし、それに対して「ここで結婚する、私は幸せだ」という地方の描き方もステロタイプではあります。が、それぞれの場所で生きている人々の生き方というものを、実際のところリアルに描くならこれは腑に落ちる感じがするのです。

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2012.09.02

速報→「世界の果て」unks

2012.9.1 14:00 [CoRich]

初めて拝見します。文学座系の四人の役者によるユニット、4回目の公演。2日までルデコ5。90分。

家に帰ると見知らぬ犬が死んでいた。捨てにいかなければならず、夜の街を自転車を押しながら徘徊する男は大木の下で泣く夫婦にあったり、敷地に捨てようとして怒られたり、警官にも怒られたり。ブルーシートにすむホームレスの女に呼び込まれる男。 樹海の近くの旅館に取材で訪れたライター。自殺しようという人がよく泊まるその宿に一泊して。

原作の物語は独立したいくつかの物語のようです。短編小説で、不条理っぽいし、元々の小説の構成を知らないまま見たアタシには決して見やすくはありません。おそらく原作も同じように物語の合間を繋ぐようなブリッジもなく、互いがゆるやかに繋がっているような構成なのではないかと想像します。予備知識なしでは多少混乱する感じ。

少々飲み込みづらい物語に対して、OHPを使った演出が圧倒的な存在感。舞台の奥に投影するように設置されたあのシンプルな機械のステージに字幕、水、砂糖(だと思う)。時にスリットでマンガのコマ割りのようにしたり、あるいは字幕をスクロールしたり、時に水の上に浮かべた字幕を浮遊させたりと、CGに頼らなくても印象的な映像の投影ができるという工夫のなせる技。あたしの友人はナイロンのような、云いましたがそれも言い得て妙、字幕や映像が存在感を持つのは確かなのです。

もちろんそれを裏打ちするように役者の確かなちから、ダンスのような動きも物語の世界をしっかりと紡ぎ出すのです。正直にいえば、物語の飲み込みづらさゆえにちょっと違和感があったりはするのですが、きっとさまざまな原作、さまざまな演出で変化していくという予感があります。

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