« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012.08.31

速報→「メルセデス・アイス」TCアルプ

2012.8.30 19:00 [CoRich]

劇場レジテントカンパニーが今年3月から「TCアルプ」に名前を変えての二回目公演。アタシはカンパニーを初めて拝見します。フィリップ・リドリー1989年の児童文学「メルセデス・アイス」を白井晃演出で、ほろ苦さも楽しさも詰め込んだ110分。9月2日まで、まつもと市民芸術館・小ホール。

その街には35階建て高層アパートの建設が始まった。背の高さゆえに影ができ、いつしかシャドウポイントと呼ばれるようになる。建設が始まった年に生まれた女の子、隣で同じ頃に生まれた男の子、高くなっていくタワーを見上げながら育ち、そのタワーの最上階に住みたいと憧れを持つようになる。二人は恋をして、結婚をする。真新しい最上階の家はキラキラしている。
が、二人で暮らし始めればそれは日常となり、建物も色あせたりする。二人は太り、かっこよくはなくなっていく。その夫婦に男の子が生まれるが、それを見届けぬまま、夫は死んでしまう。夫が欲しかったメルセデスと子供を名付け、母となって、息子に望むものを何もかも与え、薄汚れてはいるがこのタワーという城の王子にするののだと決心し、その通りに育てる。何もかも持っている男の子に、近所の女の子は憧れて、好きになる。
ある日、雪が降って世界が白と黒だけで覆い尽くされると、色が欲しいとわがままを言ってベッドに入ったまま出てこない。近所の女の子は好きになって欲しい一心で、飼っている鳥の羽根を渡す。

ほぼ平らな舞台、そこに役者たちが小さな家を持って現れ、街が徐々にできあがって開演します。舞台奥に徐々に高くなっていくタワー。そこから差してくる影の長さ。人々が働き、日常を暮らしていく街の姿の序盤。なるほど、どちらかというとイーストエンドを感じさせるイギリスの作家。タワーが建っていく高揚感なのです。そこから始まる物語は生まれた女の子、そこに住むことに憧れ、多少の打算とともに恋をして、結婚して、ちょっと色あせた日常だけれど子供を産んで、その愛情故にわがままに育ち、それに従順な女の子、という三世代にわたる物語。

恋する気持ち、あこがれる気持ち、子を持つ母の気持ちという児童文学の枠組みを持ちつつも、歳をとれば色あせていくこと、些細な理由で仲違いすること、持っている者と持っていない者、あるいは友達との関係のめんどくささなど、さまざまな要因がぎゅっと詰め込まれています。

実際のところ、これは女と女の子たちの物語。メルセデスと名付けられた男の子の傍若無人な理不尽さには一ミリも共感できませんが、それでも好きだという気持ちの女の子の気持ちは切なくて、けなげなのです。女の子が自分の好きな蜘蛛の糸で作ったマントを羽織って男の子に会いに行くと、(それを持ってない)男の子が不機嫌になる、それで女の子が「そうか、彼は自分が一番でないと嫌なのだ」と気づく流れの鋭さが、実に凄くて。

或いは終盤のどんでん返しもまた楽しく、終幕のある種の爽快感も確かに女たちのものがたりなのだと思うのです。

たとえば女性を演じる男性の俳優(内藤栄一・担いで運ぶのが楽しい)、たとえばワガママで引きこもりがちで巧くコミュニケーションできない男の子(佐藤卓・ヒール過ぎて気の毒な役ではありますが)、そこかしこに白井晃の演じた役が懐かしく思い出されたりもしますが、たとえば恋する女の子、たとえば色あせた日々。遊◎機械全自動シアターの頃のような、ちょっとしたほろ苦さもきちんと編み込まれているのが見応えなのです。

娘から母になる女を演じた直原薫、可愛らしい女の子、少女、女性と成長していく前半の美しさに見惚れ、一転後半の母は強し、なコミカル(発声も変わってるのが芸が細かい)をきちんと通して支えます。序盤でちょっと怪しい近所の母親を演じた佐藤友は前半のコミカルを一手に引き受けるようで楽しく。 後半での主役、理不尽な責めにけなげに振る舞う少女を演じた竹井学美が実に可愛らしくて。終幕に至るまで目が離せないのです。

初めて入った小ホール。松本の民間劇場、ピカデリーホールと信濃ギャラリーの間を埋めるような規模と使い勝手。アタシが好きな感じよりは少し広いけれどさまざまに使えそうないい劇場でした。平日、木曜初日というのも嬉しい(月-木の夜だといいよなあ)。なによりこれが2000円。税金納めてるんだから観なきゃねと。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.08.27

速報→「ゴミくずちゃん可愛い 」ぬいぐるみハンター

2012.8.26 14:30 [CoRich]

疾走感溢れる物語の運び、135分飽きさせません。途中入場が難しい客席配置なので時間厳守で(開演1分前にたどり着いたアタシは人のこといえませんが)27日まで王子小劇場。

ゴミ谷と呼ばれる、ゴミの山。ここで暮らしている人々。ここで生まれる赤ん坊、あるいはここにゴミと一緒に落ちてきた赤ん坊も居て、医者、ポルノ女優、ミュージシャンなど世間から逃げてきた人々人々が育ててる。
それから14年、二人の赤ん坊は少年と少女になり、ゴミを拾って「小銭」を稼いで暮らしている。少女は肺を患い年に一度人工臓器を取り替えなければならない。少年は勉強がしたくて、学校に行くのが夢だ。少女と少年は、将来どうしようかと話し合ったりしている。
ゴミは毎日降ってくる。時には人間が混じっていて、戦場カメラマン、兵士、恋人を探す旅人などもここにやってくる。
いっぽう、画期的な建築工法で大金持ちになった男は本社の前に一人座り込んでデモを続ける男を招き入れ、損得感情ではない友人になってほしいと頼む。男はゴミ谷のキングと呼ばれた男で、数ヶ月ぶりに戻ったところに、あの大金持ちの男と秘書、用心棒が訪ねてくる。会社を辞めて、デモに参加したいのだという。

ぬいハンでは定番となった、舞台奥に客席を作る舞台は数あれど、二つの扉を開け放ち、ロビーを袖のように使う舞台の作り。ロビーと舞台を回転するように走り回ったりということが効果的に機能します。舞台はほぼ何もありませんが、真ん中に小高く丘のように地球を模した球面。

子供を描くことが巧い作家ですが、今作ではそれはほんの少し(それでもアイスクリームを金持ちにねだるランドセル少女の圧巻の造型があったりしますが)。主役となる幼なじみの男女ふたり、どちらかというとジュブナイルな世代、14歳に設定されていますが、それを単にボーイミーツガールにしないで(ま、そもそも幼なじみなのだけど)恋に至らない、もっともっとずっと淡いところの二人として描きます。

ここから先、世界がどうなっていくのかということについて、空想にしたってSFにしたってそうそう無邪気に先のことを描きづらくなった昨今、ゴミの山で暮らす人々の対立項として、建築資材の大金持ちという設定はちょっと面白い感じがします。いわゆるケイタイだのネットだのというのが出てこないというのも、ちゃんとこの世界を徹底して作っていて、何ヶ月も帰ってこないキング、というようなのが成立しているのは、「ちゃんとしている」よなぁと思うのです。 ほぼ出突っ張りで、少女を演じた浅利ねこの可愛らしさ、時にやさぐれたり、時に怖がったりとさまざまな表情は、彼女にとっての代表作になったのではないかと思います。医者を演じた江幡朋子はクールビューティの中に時折可愛らしさ。パンクミュージシャンを演じた佐賀モトキ、見た目にもあっているし、その中にある情も含めてかっこよくて、(カラダで稼いだと無邪気に報告する少女を無言で殴るところのかっこよさは痺れるし、そのあとの仲直りの茶番ぽいやりとりも楽しい)。ポルノ女優を演じた富山恵理子は、もう一役のランドセル姿のからみっぷりもあわせて、パワフルと繊細さが同居するバランスが楽しい。キングを演じた石黒淳士は、その適当っぽさが実に合ってるけれど、その芯の強さが見え隠れする感じもあっています。秘書を演じた工藤史子は、ちょっとおもちゃのような造型で役を作るけれど、細々突っ込んだり、自由に暴走したりする感じは目が離せないのです。

たとえば「柿喰う客」がメキメキと観客を伸ばしていったときのような、イキオイとそれに味方する役者たちが集ってくること、そういう感じがするのです。芝居もパワ−、スピードという感じの下敷きという点で似ていなくもないけれど、語られる物語ははっきり違っていて、また別の魅力なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「浮遊」monophonic orchestra

2012.8.25 18:00 [CoRich]

リーディングの翌週に同じ役者、同じギャラリーの違う部屋で同じ90分。物語の骨子はかわりませんが、印象の違いも楽しいのです。25日まで新宿眼科画廊地下。

リーディングの時とはすこし違う印象。舞台にはテーブル、椅子、奥にはミニコンポや電話。劇場のトイレなどの導線もそのまま使います。

行方のわからなくなった女、探す探偵、依頼した同居人の男、という物語。リーディングではぼんやりとしか感じられなかったのだけれど、今作では、「浮遊」という言葉がそこかしこに感じられます。たとえば別れを告げられたけれどちょっと諦められないこと、たとえば行方不明になったまま12年たった姉のこと、幼なじみで何となく同居しているけれどどうしていくかきめなければいけない男女のこと。ふわふわと、ゆるやかに決めずに誤魔化していたことをはっきりしなくてはいけない時期がくる、ということ。作家自身にそう考える何かがあったのかどうかは知る由もありませんが、四十代も後半にさしかかろうかというアタシがそういうものがたりに魅入られてしまうというのもまあどうかと思ったりもするのですが。

奥にある壁を使って、主に探偵を演じた安川まりをキメるようにつくったシーン。開幕直後のヘッドホン、終盤での電話、ひとりで構図にいる、というのは物語の運びからすれば少々突飛ではあるのですが、写真のヒトコマの構図のように、実に決まる感じで印象に残るのです。

リーディングよりは導線が整理されたり、キメるシーンの美しさなど、見やすくなりました。反面、リーディングではあった、須貝英っぽい、ちょっとした笑いは、セリフは変わらないのに薄くなる感じなのは痛し痒し(けっこう好きだったりする)。こういう物語を見たことがあるわけではないのだけれど、たとえば自主映画、たとえば邦画の小品に合いそうな雰囲気が感じられたり、たとえば他の役者や演出がどう作るのかということを見たくなる感じではあるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「山高帽の深すぎるかぶり方」オックスフォードパイレーツ

2012.8.25 15:00 [CoRich]

オックスフォード・パイレーツとしての二回目の公演、50分。26日まで中野RAFT。

すべての始まりというこの場所を訪れた流れの者が、あちこちで聞いてきた物語を語る。
「悪魔」は魂を喰らい、その人は死んでしまう。端で老夫婦が若者ばかり死んでしまうのを嘆く。始まりの場所、人間の神は生まれたが、草の名前を付ける試練は果たせなかった。遠くにいく人がそれぞれ、この草に名前をつけていくのだ「王冠草のはなし」
ヤアと現れた酔った男、女を恋しく想って聞いてほしい話。ずっと同性で双子だった神様に、ある日男と女の組み合わせが現れた。二人は触りたい、と思って奇跡が起きて、そして離ればなれに散って「双子の神のはなし」
もう読めなくなってる母に向けての手紙、ごめんなさいそれでも私は帰らない。...空と陸と海の神様の時代、海の神だけが生き物を育んで、他の神は羨んで、そこから出て行く生き物も居たりして、しかしここが帰る場所で「全ての母親のはなし」
あなたなくしては、この世界は成り立たない。感謝する、最後まで一言一句漏らさずに読んでください、と。悪魔の化身と云われても、私はいつまでも、どこまでも歩き続ける「黒衣の少年のはなし」

今回は原田優理子が書いた(芝居を意識しない)原作をもとに小川拓也が脚色、共同で演出というスタイルのようです。童話のような神話のようなスタイルだけれど、四つの物語は、流れ者が聞いてきた話を語っている体裁なので、神話だという以外につながりがあるわけではないのが、少々見やすさに欠ける感じ。アタシの友人が云う、笑わせたいのか感じ入りさせたいのか、どこに落ち着かせたいのかが観客からは見えづらい、というのも同感なのです。

スミカに通じる作家なりの世界の見え方というものは感じられたりするので、たとえば、もとにかかれた四つの物語をごく短い感じでもいいから書いたものがあってくれると嬉しいなと思ったりもするのです。(トリのマーク終演後に配ったりする「~のお話」という感じのあれ)

死者への想いに溢れる「王冠草」、双子から発想して恋しい男女たちに着地する「双子」、母なるもの・帰る場所についての「母親」、生まれた子供への想いに感じられる「少年」。確かにそれぞれに脈略はいし、見やすいつくりでもありません。たとえば作家の中にある整理しきれない想いのようなもの、という発想に面白く感じられるかどうか、ということだと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.08.21

速報→「教文短編演劇祭 2012(決勝)」

2012.8.19 14:00 [CoRich]

決勝。芝居自体は全体で120分ほど、そのあとに開票や審査員の講評が30分ほど。

女子校から共学になったばかりだと云われて期待しまくって入学したのに、卒業まであと半年を残すばかりなのに女子とすれ違ったことすらないと生徒たちが教師に訴える。教師は女子生徒を見かけたことはあるというが要領を得ないし何かを隠しているのとも違うようだ。高くそびえる壁の向こう側に女子生徒は居るらしいが、それを乗り越えるには音楽、合唱しかないということになって「音」(オイスターズ、愛知)
「ふつうに愛、」(予選A勝者、劇団アトリエ、札幌)
「愛のテーマ」(予選B勝者、TBGS、札幌)
浮気する男たちを叩き直すために開設された「浮気防止道場」。何度も入ってくる男も居るが、恋人とその親が不安がるので安心させるために入ってくる人もいる。道場の卒業生、つまり更正プログラムに成功した男を呼んで一週間のワークショップが開かれる。厳しい訓練で一週間が過ぎ、最後の試験が行われる。この試験に合格した男の元に恋人が走り寄るが、男は素っ気なく「架空のイキモノ」(イレブン☆ナイン)

「音」は共学なのに女子に全く出会えないというアイディア、テンションで走りきる中盤、そこから合唱を各々が一音ずつ担当して一曲という無茶ぶり芸も含め、役者の高いテンションと構成の妙で飽きずに見続けてしまいます。

「ふつうに〜」は、二回目ということもあって新鮮な驚きを欠いてしまうのは否めず、父親のキレ芸が引っ張るような感じに見えたりもします。もっとも、娘も恋人もボケ倒す感じなので、20分を乗り切る作戦としてはこれはこれで正しいのだとも思います。服を少しずつ意味なく脱ぐというのもなんかちょっと面白い。

そういう意味では、「愛の〜」は二回目に見てもリピートに合わせた答え合わせのようなおもしろさが残るので、予選決勝というシステムの中ではうまく機能しています。終幕で綺麗にまとまりすぎてしまってるというところがないわけではないのですが、ちょっと泣きそうになるというのは決勝の中では唯一な感じでした。

前回の覇者による「架空の〜」は、浮気防止道場なる架空の更正施設を舞台にした悲喜こもごも。いわゆるアル中の更正プログラムのようなワークショップ(定例会)的なものがあったり、ブートキャンプよろしくな体を動かしての体力勝負のようなものもありの、という感じ。卒業試験として胸をはだけた女の前に動じないかどうか試してみたり、そこに動じなかったのが本当に幸福なのかといったぐあいにバラエティに富んでいます。ブートキャンプ画面では映像も使っています。

優勝したのは「イレブン☆ナイン」。二位には愛知からの「オイスターズ」。覇者の代表が舞台上でコメントしていたように、客席の盛り上がりを見ても、自分の劇団のファンを多く呼べたところが優位になるわけで、予選組は予選に客を呼ぶ算段はつけられても、決勝についてはどうしても予選通過後の呼びかけなのに、シード組は最初から決勝にねらいを定めて集客できますから、防衛側が有利という感じの流れになるのだと思います。終演後設定された参加自由の交流会によれば、これはお祭りで、盛り上げるというイキオイを作り出すことが目的になっているようなので、そういう意味では成功しているのだろうと思います。この不利な状況の中での下克上なら盛り上がるということもあるだろうとも思うのです。

短編の常として笑いをとる方向に持って行ったほうが有利に働くのもまた事実。決勝はそういう流れになりました。あります。それにしても決勝4劇団のうち、道内の3劇団はそろって不倫や浮気をネタにしていた、というのは、札幌がそういうトレンドなのか、ということはたぶんないとは思うのですが。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

速報→「教文短編演劇祭 2012(予選Bブロック)」

2012.8.18 18:00 [CoRich]

短編演劇祭の予選Bブロック。120分。

男女がテーブルを挟んで座っている。女はずっと泣いている。別れ話をしているのだ「愛のテーマ」(TBGS:THE BIRDiAN GONE STAZZIC.)
恋人がいない私には男友達はたくさんいて、男は顔と財力だと思っている。恋人がいない私は消極的すぎて、男は性格だと思っている。久しぶりにあった二人は、サークルの先輩後輩で、男に求めるものが正反対。でも別れてから相手の考えかたもアリかも、と思ってちょっと変えてみた「ゴッドブレス」(パセリス)
降り続く雨、人間に連れてこられたのはイヌ、ネコ、部屋に居たのはステゴだという。一匹ずつ雨がやむまでは出られない。「N(エヌ)」(大人の事情協議会)
将軍様、労働歌を歌いながら働く人々。報告のために録音している。時折間違えては厳しく訂正するが、実は歌いにくいので少し変えよう、という提案が来る「さけびつづけるえれじい」(words of hearts)

「愛の〜」は男女の別れ話、長い沈黙と泣きじゃくる時間のシーンを見せたあとに、内面の声を被せながら繰り返す、という感じ。どこかで見たことあるような、という感じではありますが、内面の声を二人にやらせてボケたり酷いこといったり突っ込んだりという会話の体裁するというのはちょっと目新しい。突然ちょっと笑ったり、という細々した仕草の裏で何を考えていたかというのが見えるのが楽しく。男がわ→女がわの順番で繰り返すのだけれど、泣かれていてうんざりしてる男と、泣いてはいるけど割と醒めている女の対比が面白い。終盤であっと驚くかなり卑怯な展開があるのも印象を強くします。

「ゴッド〜」は、恋愛観の全く異なる二人の女、ちょっと晩生で積極的になれず男は性格だというようなことをいう後輩(青い服)と、男友達は沢山いて、わりと活発でパーティに通って、わりと軽く寝てしまう華やかな先輩(赤い服)という性格付けを二人に独白でそれぞれ対比しながら語らせて二人の会話、そこでこのままじゃいけないと思った二人はそれぞれ相手の性格をまねしてみようと考えて、そこから広がる感じ。違和感もあるし、そこからサークルの時の気になってた男の子たちと久しぶりにあって合コンしよう、という感じの楽しげ、展開の楽しさが見ていて楽しい。

「N」は全体にインスタレーションっぽく、女の子らしくう、可愛らしくを前面に押し出したような体裁。物語はノアの箱船、の話なのだけれど、「つがい」では個体が増えてしまって名前を付けるざるをえなくなる、それは個を分離してひとりぼっちにするのだ、という感覚がちょっと独特で面白い。その失敗から個体を一つづつにすれば個別の名前は不要で「イヌ」とか「ネコ」とかでいいじゃないか、という展開はしかし、あるしゅの絶望的な感じでもあります。舞台は終幕含めてわりとポップに仕上げていますが、その闇っぽい部分が興味深いのです。ほぼ唯一、笑いに走らなかったというのも印象を残します。

「さけびつづける〜」は、誰もが思い浮かべる将軍様と労働者の話。律するための労働歌が、ちょっと綻んでいくほんの一瞬を見逃していくとどうなるかという流れ。わりとキャッチーだけれど深刻な現実にリンクさせなくてもこの感じは伝わるんじゃないかとは思ったりします。

アタシが丸をつけたのは「TBGS」。点数はTBGSが55票、パセリスが43票、大人の事情協議会が34票、word of heartsが40票。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「教文短編演劇祭 2012(予選Aブロック)」

2012.8.18 14:00 [CoRich]

札幌市教育文化会館が主催する教文演劇フェスティバルのトリを飾る企画。20分の短編作品を上演し、観客の投票によって一位を選出します。1日目は4団体ずつの予選。公演、投票、集計、発表、コメントを含めて120分。

女はずっとたった一人で待っていた。男が全速力で息急き切って現れ、自分は一番か、と訪ねる。女は面接をしようと言い出し、愛しているのか、と訪ねる。男は面白くない、これはうまくいかないと帰ろうとするが、女は引き留める「ストラーイクッ」(オパンポン創造社・大阪)
ラブホテル、トラブルがあるのでロビーで20分ほど待つように云われた男女、あとからもう一人、中年の男がやってくる。中年の男は女の父親で「ふつうに、愛」(劇団アトリエ・札幌)
真に猛き者を選ぶためにお触れが出る戦国の世。男女も身分も問わず、この場所で勝ち残ったもの一人に何でも好きな褒美を取らせるのだという。「真猛者(マコトタケキモノ)」(Bee Hive・札幌)
宝くじの当たった老夫婦、妻は老人ホームに入ることを決心し、認知症の夫を思い出の海に誘う。宝くじが当たってからというもの、娘もヘルパーたちもみんな手のひらを返したように。ゆっくりとボケながら、上手な終局の生き方は「最後の夏」(劇団 風蝕異人街・札幌)

客席360人の公共ホール、それでもほぼ満員。客席には子供も老人も混じります。公式MCなる人も登場し、システムの紹介、幕間には劇団の紹介などもしつつ盛り上げます。なるほど、一種のお祭りなのです。終演後にはすぐに投票用紙を回収、集計結果の発表まで120分の間に納めて、後日発表とかにしなスピード感がお祭りとしてまったく正しいのです。

「ストラーイクッ」は出落ちっぽく裸で走り込む男からの序盤、5分でランシ・セイシと名乗ってしまいますから構造はあっという間にわかります。そこからその本人たちの想い(のある、なしも含めて)語ったり、スーツ姿にダメだししたり、言い合ったり。一人で待ち続ける女(35歳・ネットアイドル)の寂しさが見えたり、男(26歳・フリーター)の何も考えてなさ加減があからさまになったり。巧いなと思わせるのは序盤でノリのいい男に喋るだけ喋らせておいて、女が反撃に出るタイミングのおもしろさ。そこからは攻守がぐるぐると入れ替わり終幕にもつれ込むのです。そこで希望が費えたかにみえて、再びの希望が嬉しい。

「ふつう〜」は、ラブホテルで娘と恋人と、父親と、母親じゃない女という、まあよくあるコントの体裁なのですがただではすみません。「超高級・ラブ・ホテル」を「I Love You」にはめ込んで「超高級がホテルを愛する」というくだらない会話をやや翻訳劇のようにまわりくどく話す序盤で持って行かれるアタシ。そこから父親、女と現れ細かく笑いを刻みながら今風のちょっと軽い男女たちの話をまわしながら、ちゃんと着地すべきところに落ち着くのがたいしたもの。ボケ倒す人々にオヤジが巻き込まれ翻弄されるドタバタ感が楽しいのです。

「真猛者」はアクションが特徴だという劇団、初めてのオリジナルだといいます。いわゆる天下一的な武闘会。リングのなかでという枠をはめつつ、沢山の見せ場スピーディに作り出します。迫力があったり美しかったり、あるいは小狡さがあったりという流れ。最後に笑うのは誰か、というオチは想像の範囲内といえばそうですが、ここまでの迫力がありますから、それがすとんと落とし込まれるように腑に落ちるのは、短編でのダイナミックレンジの広さをとることの重要さ。

「最後の夏」、普段はアングラ劇を上演するという彼らの初めてのオリジナルだといいます。水着姿の若い女性が至り、ちょっと豊満な女性が西瓜を丸かじりしたりビールを飲み干したりという海辺の風景。実際のところ、ものがたりとしては、終局近い老夫婦、惚けてしまった夫に対する妻の想いがめいっぱいに溢れる、というだけのことなのだけれど、時にペーソス、時にはちゃめちゃ、という振り幅が楽しい。終幕に至っては物語をうっちゃって、ダンスで逃げ去ってしまうという思い切りも短編っぽいのです。

短編演劇といえばたとえば15minutes madeが有名ですが、こちらは劇王的なトーナメントな対バン形式。そこで優劣を付けるというのは個人的にはどうかと思いながらも、劇団が動員を増やせば投票が増える(もちろん浮気もOK)というシステムは昨今の感じでちょっと楽しいし、スピーディに開票してその場で発表してしまうという後腐れの無さもまた楽しいのです。それぞれの劇団がちゃんと20分で楽しめるもの、という作戦を練っていますが、どうしても笑いをとる方向に行きがちなのは、短編で、しかも勝負で知らない観客も巻き込むのだということを考えれば至極当然ともいえます。わかりやすいエンタメが好きなアタシはその方向は結構好きだったりするわけですが。

アタシが丸をつけたのは劇団アトリエ。オパンポン創造社は40票、劇団アトリエは72票、Bee Hiveは65票、風蝕異人街は46票で、劇団アトリエが決勝に進みます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「明日を落としても」ピンク地底人

2012.8.17 19:30 [CoRich]

老女が病院を抜け出す。なぜか密着取材のカメラとレポーターがついていたりする。自宅にあわてて戻る。息子は引きこもっているのだ、いや息子は行方不明なのだ、いや息子は映画監督になるために留学したのだ。女の記憶は混濁していて若い頃に起きたことがわかるような、わからないような。

舞台には斜めに天井から床に向かって据え付けられた鉄パイプ。舞台を囲むようにステージっぽい場所とスタンドに載ったマイクが据え付けられています。芝居の中で、雑踏やさまざまな環境音をいわば役者たちの口三味線で仕上げて世界を作ります。

終幕に至ると、女が若い頃に堕ろした息子のことをずっとずっと思い悩んでいて、街で見かけた他人の出来事と混濁していたのだということが、すうーっとわかるのです。行方不明の息子を捜すビラを配る他人とか、留学するという誰かのこととか、引きこもっているという誰かのこととか。

見た瞬間の印象としては、どうにもなじめない感じは残ったのです。わりと地味な繰り返し、どこに行くのかわからないように感じる話。環境音を口でやるというのも、手法としてのおもしろさはあっても、それを全編にわたってという違和感。が、一晩寝かして考えてみると、なんかアタマの中が整理されたのか、すっきりと物語が見えてきて、面白かったんじゃないか、と思ったりする不思議な体験なのです。それでも、たとえば少年王者館がかつて盛んにやっていたリピートがどうしても感覚的に耐えられなかったり、というようなのと同じ種類の違和感を感じたところはあって、この手法がこれから先、アタシにとって腑に落ちるのか、それとも違和感が残ったままとなるのかは、微妙なところだったりするのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「緑の指」世田谷シルク

2012.8.17 14:00 [CoRich]

戦場に桜を送る運動をしている緑化団体「緑の指」。彼氏に別れを告げられた直後にトラックが突っ込んできたところから間一髪逃げた女は、行きつけのイタトマで声をかけられ、衣食住のついたこの団体に入ることを決める。季節はずれで手に入らない桜の苗木を父親が運転手として働く邸宅から手に入れることに成功し、足りない活動資金も個人的になんとか手当していく実力が認められ地位をあげ、さらに植物を指さすだけで緑化してしまうという「緑の指」の能力を手に入れ、団体の中での地位を確固たるものにしていく。

道成寺といっても、どこにその痕跡があるのかまったくわからない感じ。女の恋心、裏切られたときの怨念といったことかな、と思う野です。主人公となる女の恋人との甘い時間、一番だよといって貰ううれしさ、そこから甘えるとウザがられ去る感じ、また団体のなかでそういって貰うことのうれしさ。 あるいはこの団体のリーダーを使って、その男らしさに彫れたのに恋人に甘えてくるようなことに幻滅する感じ。あるいは落とした携帯電話をもとに海外まで追いかけてなんとしても取り入ろうとする女。時に男に翻弄され、時に自立する女たちのさまざまな姿を描きだしているのです。

世田谷シルクらしく、ダンスは実に格好いい小劇場の役者でこれを成立させるのは結構大変だと思うのですが、きっちり空間を作っているのです。

暗転から、時間を退行、自分が生まれ、生命が生まれるところまでさかのぼり、さらに、この店にアルバイトの電話をかけてくるところで物語は終わります。暗転の中の音という終幕は少々唐突な感じは否めません。物語の着地点がどこにあるのか、実はまだ計りかねているアタシなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.08.17

速報→「富裕」monophonic orchestra

2012.8.14 19:00 [CoRich]

須貝英の個人ユニット、monophonic orchestraのリーディング公演。来週の別公演の元となるリーディングと、いくつかの短編を日替わりで組み合わせて上演。15日まで新宿眼科画廊スペースO。各編の間に休憩を挟みつつ、150分。

同居している幼なじみで作家の女が姿を消したと相談してきた男。探偵の仕事として請け負った女とは以前恋人同士だった。ほどなくして作家はみつかった。探偵は依頼者への報告の前に作家と話すことにするが、作家はいったんは戻るが、やがて男との同居をやめるつもりであることを告げ、それまでは探偵の女と三人での同居生活をしたいと依頼し、探偵はそれを受けることにした。「浮遊」(90分)
長男の結婚式のスピーチに遅れてきた次男。義姉に最初に会ったときのことをコミカルに話しはじめる。遅れてきたのは式の数日前に長男がどうしても謝りたいことがあると言い出したことに始まって..「僕の兄の幸福な結婚」(永島敬三/西川康太郎)(20分)
同級生の女子高生二人。何の束縛も受けない自由落下に憧れるのだとすぐにいいだす友達に、それをしたら死ぬよ、と諭すのがお約束の毎日の二人だった。「フリーフォール」(20分)

来週に迫る公演に対して、上演回ごとに演出などいろいろ試しながら上演しているようすの「浮遊」。時折コミカルを挟みながらも、静かな語り口で、奇妙な三角関係(とはちょっと違うか)を描き出します。関係はないのに同居している男女、突然の失踪、同居をやめる意志とそれをどう伝えるかの迷い。登場人物たちはみな少々臆病な感じでもあって、自分の強い意志をそのまま伝えることに躊躇する感じが物語の静かな流れを生み出しているように思います。何でもかんでも言葉にすべきだとは思いませんが、たとえば後半で探偵の女の云うことが唐突に変わるようにみえる感じがあるのはちょっともったいない感じ。

あるいは失踪した姉を巡る妹の想い、居るべき人が居なくなる欠損感を和音のように重ねます。正直に云うと、そういう「重ねた音」に過ぎない感じはあって、やけに思わせぶりなわりに物語に直接からむ感じではないという肩すかしをくらった感じがないわけではないのですが、あとから思い出してみるとそれほど問題だというわけでもない気はします。

恋人が恋人だった時期、同居を始めるとき、現在などいくつかのシーンを行きつ戻りつ、セリフを共有してそこを軸にして切り替える感じで、スムーズなシーン転換に寄与しているものの、映像と違ってカットを割るわけにもいかず、少々わかりにくい感じがしないでもありません。 物語が静かにゆったりという語り口でもあるので、この違和感がなくせると、随分と手触りのいい物語になりそうな気がします。 安川まり、表情の伸びやかで豊かな感じ、独特の声質が気持ちをからめ取られるようでもあって印象に残ります。伊佐千明は大きな瞳、ちょっとクールな感じでもあるけれど、ちょっといたずらっぽい表情をするときのギャップ。大石憲はどこまでも女二人に翻弄されちゃう感じでちょっと可愛らしく。

「僕の兄〜」はコミカルを強く打ち出す感じ。次男一人の語りを俳優二人が演じ、その語りの中で長男になったりと役を分化するように演じるのは少々面食らいますが、ちょっとおもしろい。障がい者(劇中でのセリフに敬意を表してこの表記にしてみます)の周りの人々の想い、少々意地悪にとらえれば兄は自分を納得させたい一心で、相手のことなどお構いなし、という行動ということもできると思うのです。いい話っぽい着地だし、正直ちょっとうるっと来かけたりもするけれど、実はとても微妙なバランスの上に成立させようとしているという意味であやうい感じは残ります。

「フリー〜」はどちらかというと、佐賀モトキ演じる友人の視点で語られる、「ちょっと危うい友人について」の(作家が語る)詩のよう。自由落下について時に憧れうっとりするように喋る女を演じた安川まりはここでもその声質がプラスに働いた印象で。アタシの口の悪い友人は北京蝶々「オーシャンズカジノ」でのチャイナドレスの彼女に注目しなかった(名前は書いてるのに記憶してない..)のはどうなんだ、と云うけれど、そこ(=見た目の色っぽさや印象)とは別に、しっかりとした芝居、振り幅の豊かさが印象に残るのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.08.16

速報→「頑張ってるところ、涙もろいところ、あと全部。」ホントに、月刊根本宗子

2012.8.14 18:00 [CoRich]

「ホントに」と銘打ちながら、週末休日を中心に飛び石で毎月コンパクトな公演を打っていくという企画の2ヶ月目。40分弱。アタシの観たのは何回か設定されている根本宗子出演バージョン。26日までバー夢。これを元にしたほぼおなじ設定の動画が配信されています。

昼休みの公園、OLと待ち合わせる劇団員。二人はアイドルのライブで知り合い、話が合って、CDの発売日にお互いに買ってアイドルとのイベントに行ける抽選券を確かめるために待ち合わせている。が、OLは約束通り5枚のCDを買ったが、劇団員は1枚しか買えず。果たして一枚だけが当たる。

女性ふたリのごくごく短いコントのような物語。OLと(いわゆる)劇団員の繋がるようで繋がれない格差をコミカルに描きます。小劇場役者の貧乏と小劇場作家の書けないを描く芝居は飽きるほどあるわけですが、それをOL(というか社会人)との対比いっぽんやりで描ききる思い切りの良さがプラスに働いて楽しめる一本になっています。

テレビにでるくらいにはメジャーで、CD購入でイチゴ狩りツアーに同行できる程度にはマイナーというアイドルの追っかけという共通点を軸にしながら、片や麻布十番に勤めて阿佐ヶ谷と下北沢の区別もつかない(山手線の外側が生活圏じゃない)OLと、30過ぎてセリフも一つぐらい、スナックのバイトで生活するような小劇場女優、という、まあある種の格差。デフォルメが過ぎるという向きもあるでしょうが、この短編のこのワンアイディアで押し切ったおかげで、シンプルに。

芝居なんか観たことない、友達でもなきゃ絶対に行かないし面白かったとすら云わないという序盤のOLの切り込みがスピーディで楽しく。対してのいわゆる劇団員の方のダメさ加減は突出していて、せっかく紹介して貰ったバイトはデータ入力も、立ち仕事も受信専門のテレアポも条件は破格にいいのにことごとくできないといい、そのくせ当たり券がほしいと当然のように要求し、屈してあげるといってもまた絡む。昼休み時間でOL側には時間の制限があるのに対して、時間だけは無尽蔵にある劇団員というシチュエーションの設定もうまい。沢山買っても当たらないかもしれないCDなんかに頼るより金に物言わせて確実に入手できるオクの方が、とか20過ぎて何かを追っかけるなんてのはダメなんですよとか冴えるセリフも。

絶望的な格差だけれど、そういう生活を選んだのは彼女自身なのだ、ということがすっぽり抜け落ちているのは意図的なものなのでしょう。それを言い出したら双方切っ先が鈍って面白くなくなっちゃう気もします。

OLを演じた根本宗子は可愛らしいOLルック、巻き込まれる側のややアイドル追っかけながらも、普通の人だけれど果敢に対峙する感じがちょっとカッコイイ。対して巻き込む側の無茶ぶり劇団員を演じる梨木智香は、わがままし放題、引きずりし放題の無茶な役を高いテンションと、時空がゆがんだようにそれが正しいんじゃないかと一瞬思わせてしまう訳の分からない説得力できっちり。なんか凄い。

もっとも、OLと劇団員みたいな対比を枠にしながらも、実はなんかちょっと歪んでる人たちの罵り合いをコミカルに楽しむってことなのかもしれません。狭い世界の中で知り合うひとたち、みんなこんななのですか、みたいな感覚は多かれ少なかれあって、そこにズブズブと行くのもよし、違和感感じながらもやめられないのもよし、我慢ならないからやめるもよし、それが趣味ってものですからねぇ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「進化とみなしていいでしょう(2回目)」クロムリブデン

2012.8.14 13:00 [CoRich]

おまけにとリピート割引に釣られての二回目。(1) びっくりするほど印象はかわらず、もはや物語を追いかけるということからも解放されてしまっていて、目の前に広がる役者たちの姿、声、爆音に心をゆだねてしまうような感覚。メタがメタを呼ぶ構造ゆえかいちいちの台詞を追いかけることすらもどうでもよくなって、でもそれが全然嫌じゃなくて、というのは役者が見慣れているからということもあるかもしれませんが、それだけじゃなくて、そのなかに漂うような気持ちのいい感覚すら覚えます。物語と眼福至上主義で観ちゃってるアタシには希有な体験だったりするのです。

アタシは、例外はあるにせよ一つの公演を何度もリピートする観客ではありませんし、むしろロングランを狙って複数バージョンでリピートを強いたり、アドリブに依存するような公演の作り方には、コマ不足もあって批判的な立場です。間をあけて観ても、不思議とアタシは印象が変わらないのですが、裏を返せば高い完成度。それを繰り返し観たいというのは、ライブゆえの不安定さ(一種のばくち)とは違って、むしろ高い精度ので作られたポップな絵を繰り返し観て感じたいという意味でなんか一枚の絵を見ているような感じがするのが不思議なのです。

もっとも、一時期のキャラメルボックスだとか、第三舞台にあった度を外れた熱狂というのとも違っています。観客とか時代の差ということもあるのでしょう。いまのところなら、公演期間中ならふらりと見に行けば行ける、旬のイキのいい劇団のひとつにあげられるのだろうと思うのです。もっとも劇場で出会った友人と話していて、ここはもう若手でもないでしょ、というのももっともで、着実に中堅の一角だよなぁ。と思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.08.15

速報→「父母姉僕弟君」ロロ

2012.8.13 19:30 [CoRich]

ロロの新作。14日まで王子小劇場。125分。

先の長くない妻を車に乗せて思いでの大きな木の下に向かう夫、だが願いむなしく妻は道中亡くなってしまう。妻は早く次の女性を見つけてほしい、でも私のことは忘れないでいてほしいと言葉を残す。
ヒッチハイクの女に結婚を申し込みむ。さらに道中、埋められた弟の手を握ったまま待ち続ける兄を、チャペルで花嫁の手を引く父親にでっち上げて結婚式を挙げる。その様子を見ていた別の親子三人は、野球チームを作れる家族にしたいとおもっていて、この結婚するカップルを仲間に引き入れたいと考える。それでも夫は、亡き妻との思い出の地、大きな木に向かって車を走らせる。

想いを胸に車を走らせる男、ロードムービー風にさまざまな人が関わっていきます。人生ゲームのコマよろしく乗る人が増えていく道行き。確かにロードムービー風なのだけれど、少々未整理に過ぎる感はあって、思わせぶりにいくつにも分岐したり傍系の物語が提示されたり、あるいは唐突に通りすがりを父親にしたりと、特に中盤は決して見やすい感じではありません。もっとも、終演後のトークショーで初めて拝見した作家の姿を見ると、今まで見てきたさまざまなコンテンツの引用や、やけに恋愛経験が少ないと強調する(や、これで仲間だと思ったわけではないのだけれど)「こじらせた」感じ、作家の中では何か絵が見えているのだろうという気はします。それはアタシにはあまりに印象の悪かった旗揚げの戯曲を見て劇場が取り上げると決めたとの同じ何かなのでしょう。見せ方だったり技術だったりというあたりの慣れという気がしています。

あるいは誰か他の演出で観られたりすると違う印象になる気もします。それでも、昨今確かにずっと見やすくなっていますし、荒削りながら素敵な瞬間はいくつもあるのもまた事実。たとえば椅子を並べて車を模して、それを二台分並べて真ん中にレッドカーペットでチャペルに変化してみたり、終幕の大がかりな舞台装置の転換で現れるゴール、We are the worldの無茶ぶり感など、ところどころが面白く見せるようなパーツはいくつも存在しているのです。

ボーイミーツガールを描くということの一本槍でやってきている彼らで、トークショーによればそれはいったん区切りがついたので今作では少しそこからシフトしているのだといいますが、アタシには今作、結局のところやはりボーイミーツガール的なものに着地してると感じられるのです。

関西生まれのアタシの友人たちは、芝居の中で多用されるエセ関西弁が我慢ならないといいます。アタシはそれほど気にはならないし、関西弁圏の人々は言葉に対して厳しすぎるんじゃないかと思わなくはないものの、物語の上で必須になった「突っ込む」ことを、関西弁という記号に安易に結びつけたりしなくてもちゃんと成立させられるという例はいくらでもある、という気はします。

妻を演じた島田桃子が本当にハンパなく「天使」を体現していて、この無茶な物語で背骨になっている感じ。時折挟まれるコミカルなシーンでのおかしさといい、魅力的な女優です。ヒッチハイクの女を演じた望月綾乃も、高いテンションだったり色っぽさだったり、さまざまに変化して楽しい。

ネタバレかも

続きを読む "速報→「父母姉僕弟君」ロロ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「そうか、君は先に行くのか(やぶからし編)」カムヰヤッセン

2012.8.13 15:00 [CoRich]

75分。共通の登場人物を含む二バージョン「やぶからし編」「はたたがみ編」を交互上演。20日まで雑遊。

小学生の頃は貧しく母親の虐待の日々だった男、父親が抗争に巻き込まれて死んだため、今の組長に養子として育てられたが、冷徹になりきれず後継者としての地位は固まっていない。若頭が撃たれ代理に取り立てられるが、抜かれた形の兄貴分はおもしろくない。若頭代理となった男はふとしたきっかけで小学生の頃学級委員だった同級生と再会するが、彼は刑事になっている。今度は組長が撃たれ、兄貴分が組長代理として取り仕切ることになる。抗争劇の黒幕、若頭代理の数奇な運命を握る人物 おそらくは共通の登場人物、ヤクザと刑事、それぞれを主軸に置いて同じタイムラインを流れる裏表の物語と、過去の小学生の頃の同級生だった女の子を巡る物語という体裁。それぞれの人物の物語という点では完結しているものの、やはり両方を観た方が、という感じ。ロングランを実現するためという事情もあるのでしょうが、せいぜい75分程度にはなっているのだから、なんとか一つのステージで両方の物語をきっちり見せてほしい気はするのです。群像劇にしたいのだろうと想像しますが、それならなおのこと、それぞれの人物をきっちり描き込むためにも。一本にしてフルサイズで描いて欲しいところ。

正直に云うと、この題材を作家が描こうとしていることのモチベーションというか動機がアタシにはわからないのが、戸惑うところ。 この作家がヤクザの抗争劇というような物語を描こうと思ったことの必然は何なのだろうと思うのです。親子、子供の記憶ということを濃密に、 少々過剰に描こうという意志を感じますが、アタシ自身だってリアルを感じられない、こういう世界を描き出すのはかえってハードルが高い気がしてなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「三谷文楽 「其礼成心中」」パルコプロデュース

2012.8.12 19:00 [CoRich]

助成金削減なんて話題が聞こえる文楽を、三谷幸喜が現代版としてアレンジ上演する企画、三谷文楽。かの市長が言い出したから、というわけではなくて数年来の企画のようです。ともかく爆笑編な120分。22日までパルコ劇場。

曽根崎心中が大当たりした直後、舞台となった露天神社は心中の名所となり、後追いで心中を試みる男女が後を絶たなくなる。その横で饅頭屋を営む店主は、ただでさえ少ない客足が心中が続くことでいっそう減ってしまったため、夜回りをして心中する男女を止める毎夜となった。
今日もある男女が心中しようとするところをすんでのところで止めるが、すぐ近くでまた心中しようとするので仕方なく、自分の饅頭屋に連れてきて話を聞くことにする。油屋の店員と、店主の娘が引き合うが、親の縁談で引き裂かれそうだという。店主はあまり巧く相談に乗れたとはいえなかったが、店主の妻の、今は親の言いつけを守り生きなさい、いつかは一緒になれる日が来るかもしれないのだから、という言葉に二人は諭されて戻っていく。
それを見て店主はひらめく。相談にのって心中を思いとどまらせて、饅頭買わせればいいじゃないか。果たしてその目論見は当たり、大繁盛となる。が、近くに天ぷら屋が店を出して競合し、近松の新作が別の場所での心中物だったために、再び店は傾いてしまう。近松のもとへ、再び曽根崎を舞台にした心中物を書いてほしいと懇願にいくが、「それなりにおもしろい心中の事件が起きたら書いてもいい」と袖にされる。
もう打つ手はない、饅頭屋店主夫妻はこのまま心中して娘に店を任せればま娘だけは生きていけると考え淀川に身を投げるが死にきれない。そこを通りかかる娘と天ぷらやの息子。

三谷幸喜ゆえのシチュエーションコメディっぽく、現代的で見やすい。いわゆる世話物ですから、それを今風にアレンジしながら、 いわばメディアの流行に乗せられて人の迷惑顧みず突き進んでしまう人々やら、あるいは売れるとわかれば創作をせっつき、なんとしても書いて貰おうという浅ましさ。おそらくは作家の個人的な視点から見えている「今」の人々なのだけれど、それは時代が変わってもあまり変わらないのだろうな、というのも腑に落ちる感じで楽しいのです。曽根崎心中を下敷きにするからこそ、文楽という表現を使うことに意味があるというのも巧い選び方だなと思います。

文楽自体が初体験ですから、他と比べることができないのですが、人形を生き生きと動かす技術には確かに目を見張ります。見ている最中に思っていたのは、たとえばこういうものを見慣れた私たちだから、人型のロボット、鉄腕アトムからアシモに至る未来を夢見てこれたのだろう、ということの一翼を担ってきたのだろうと思うのです。それはずいぶんとローテクだけれど、それを支える技術は途絶えたらそれきりだろうな、ということは思うのです。新しい物語ということはあっても、それを支える技術は丁寧に、しかし地味に受け継がれてきたものであって、その上澄みを使っているということは、たとえばコクーン歌舞伎などでも同じことが云えると思うのです。

とはいえ世知辛い昨今ですから湯水のようにカネをつぎ込むというわけにはいかなくなってきてるとは思うのです。もっともそれを訳の分からない一刀両断という件の市長の物言いは我慢なりませんが、流れとしてはそう間違ったことを言ってるわけではない気もしていて。

実際のところ、この技術には目を見張りますし、2,3回ぐらいならば行ってみたい気もします。そういえば昔つきあった人が好きだったのに連れてってはくれなかったなと今更思ったりする甘酸っぱい話はべつにしても、アタシが通うようになるかといわれれれば、いまはまだ、他に観たいモノがたくさんあるわけで、そこまでは至らないというのもまた事実で、そこに税金を今まで通りにつぎ込んでいいかといわれれば、またアタシは迷ってしまうわけですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.08.14

速報→「アルジャーノンに花束を」キャラメルボックス

2012.8.12 14:00 [CoRich]

ダニエル・キイスによるSFの名作を舞台化。12日までサンシャイン劇場、そのあと新神戸オリエンタル劇場。125分。

精神の遅れの障害を持つチャーリーは、パン工場で働きながら公共の学習施設に通っている。他人を疑わず笑顔で暮らしている毎日だが、もっと賢くなればみんなから愛されるようになるのだと信じている。
ハツカネズミ「アルジャーノン」を手術によって迷路実験で飛躍的な結果が見えてきた研究者は、人間もまた手術によって知能を上げられると考え、チャーリーを最初の被験者として選ぶ。
手術は成功、知能指数は上昇し、天才となったが、同時にチャーリーは自分の周りの人々が自分をバカにしていたことに気づいてしまい、自分の振りかざす正義から孤立していく。アルジャーノンの異変をきっかけにして自分を手術した研究者たちの手術に欠陥があったとことを突き止めてしまう。この手術による知能の発達は一時的なもので、やがて退行していくことが明白になって。

人間の知能をコントロールする、という技術をめぐるSF王道な一本。知能の飛躍的な向上と感情や社会性のアンバランスと、その知能の向上自体も「太く短く」いもので退行してしまうのだという悲劇。原作がかかれた1960年代に比べると、いわゆる知恵遅れの社会でのとらえられ方も描き方だって変化していて一歩間違えば思慮無いものになりかねないところを、絶妙のバランスで描きます。難しい題材に対して単に古典だからということに逃げず、医科学監修をつけたり、現場で学ぶということをしてみたりと、現在の視点でできる努力を最大限似払っていることが当日パンフからも読み取れるのです。その作品と社会と観客に対する敬意の細やかさこそがキャラメルの魅力でもあるし、ここしばらく続く外部作家の物語を上演できることに繋がっていると思うのです。

当日パンフといえば、知能と身体能力という翻案はあれど彼らの名作「ヒトミ」(1)の元ネタなのだといいます。当パンには知能の向上を身体のそれに置き換えた翻案をしたのは悩みなどが綴られています。もちろん知能の遅れを舞台で役者に演じさせるということがエンタテインメントとして成立させられるのかという問題はあるにせよ、そこに通底するもの、つまり人間の技術がいったんは人々を幸福に導くかに見えて、隠れた副作用ゆえにまだ人間には御しきれない技術があるのだ、ということ。それが2012年の日本に住むアタシには別の響きをもってすら感じられるのです。

うまく説明できないのだけれど、 記憶や知性といったものに対する劣等感、アタシも感じるのですといって今作の中で語られているものとはもちろん意味もレベルもぜんぜん違うのだけど、なんていうんだろう、いわゆるも「ものを知ってること」とか「ものを覚えること」がダメだなと感じることの多い昨今。今作での退行の扱いはいわば老化を加速的にとらえたものだとも感じ取られて、ピークを過ぎるということに対する漠然とした恐怖という風にアタシは感じているのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「フローズン・ビーチ」柿喰う客

2012.8.11 18:45 [CoRich]

ケラリーノ・サンドロビッチの岸田國士戯曲賞受賞作を中屋敷法仁の選出で、生に波の音が聴こえる海辺のライブハウスで。95分。この一回限りのステージ。逗子・音霊シースタジオ。

1987年、カリブあたりの島、海辺の家のリビング。好景気に沸き、羽振りのいい父親と、その双子の娘が暮らしている。父親は盲目の女と再婚したばかり。ある日、妹は恋人の女を招くが、恋の関係はもつれていて仕返しをするために共謀しようと少々エキセントリックな友人も連れてきている。計画通りではなかったが、結局妹はベランダから突き落とされる。いっぽう、姉も義理の母と二人きりのあいだに心臓麻痺で死んでしまうが、軽い諍いを起こしていた母親は自分が殺したものと思いこむが、間一髪助かった妹は姉と服を入れ替えて混乱のなか、二人の友人は帰国する。
8年後、同じ場所。母親と妹は仲良く暮らしているが、バブルは崩壊しており、この家から出て行かなければならなくなっているが、再び友人二人が訪れている。8年前の事件から3年もの間自分が犯人だと思わされていたという恨みと、結婚相手の逃走の手助けの場所に奪おうと恋人だった女は母娘に毒を盛る。
さらに8年後、島はほぼ全域が水没しており、すべてを失っている妹。3階建ての3階にあるこのリビングだけがまだ水没していないが時間の問題になっている。四人が再会する。

JR逗子駅から商店街と住宅街を抜けて徒歩15分。夕方に向かうと、海で遊んだあとの人々とすれ違い、それでもまだ砂浜には水着の若者が溢れています。芝居とかじゃなくて、生の普通の人々の水着姿なんてものは見慣れていないので、そこから妙にテンションが上がるアタシです(笑)。

ナイロンの初演を観ていますが、例によって記憶は結構曖昧です。シリアスコメディー、と銘打たれているもののコミカルはちょっと少な目に戸惑ったような記憶。それでも当時の看板女優4人(松永玲子、峯村リエ、犬山犬子、今江冬子)の芸達者ぶりが濃密な一本でした。

海辺の家というロケーション設定、波の音のSEが指定されているようですが、なんせ海辺のライブハウス、生音で何の問題もなく。物語とは関係なく外の嬌声・叫声が聞こえたりするのはご愛敬。ナイロン版では舞台奥にベランダ、わりときっちり作り込まれたセットだった気がしますが、音霊版はベランダは手前に設定(飛び降りたあとの捌けがコミカルでちょっと可笑しい)、素舞台。かわりにト書きを語ったり、物になったりと、役者を一人追加(永島敬三)して構成。なるほど、やる方法ってのはいくらでもあるもんだ、と思います。

海辺というロケーションにしても劇団としても一回限りのお祭り感。正直にいえば、そのお祭りの雰囲気に対して海辺という共通点と、キャストをミニマムに絞れるという利点はあるにせよ、少しばかり題材がハードっぽいのは、祝祭の雰囲気にはなりずらくて難しいところ。もっとも、四人の女優の水着姿がっつり、というのは十分祝祭に感じるオヤジなアタシなのですが。

双子の姉妹を一人二役で演じた深谷由梨香の両極端に振りきった二役が楽しい。もちろん眼福もいっぱい。ナイロン版での松永玲子よりはもう少しデフォルメが強く感じます。 エキセントリックな、と名付けられた役を演じた七味まゆみ、ナイロン版では犬山イヌ子が演じた役ですが、エキセントリックも、とぼけた感じの振り幅も意外なほどにしっくりとしていても新たな魅力。 招かれた友人を演じた水野小論はおそらくはじめて拝見します。雰囲気ではナイロン版の峯村リエともっとも異なる印象ですが、きまじめさが8年後にそうなっていそうなという、線の細さゆえの説得力。 盲目の義母を演じた新良エツ子、ナイロン版の今江冬子にもっとも近い印象だったのは彼女でした。見ための印象は随分違うのだけれど、なんだろ、自らの障碍を笑い飛ばす深みと軽やかさのバランスということかもしれません。

演劇(まあ、舞台芸術か)のみで固まったイベントのお得感というのももちろんあるのだけれど、かっこよく云えばアウトリーチを目指す劇場外でのイベントってのはたまにみると楽しいものです。平日観劇場難しい昨今のアタシでは、なかなかそれに付き合っていけるだけの余裕がないのが悲しいところだけれど、そういうお祭りに載っかるのは、キライじゃないなぁと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「荒野1/7」鵺的

2012.8.11 14:30 [CoRich]

リーディングのような不思議なフォーマットの75分。12日までルデコ5。

滅多に顔を合わせることのない7人の兄弟。長男が声をかけ、別れてから初めて一同に会した。彼らの父親は、かつて母親に暴力を振るい、はては殺してしまった。7人の子供たちは別々の家に養子として引き取られていった。中には幼く、長男は服役後の父親と会っていたのだが、その父親が倒れたのだという。その治療を自分たちが負うかどうかの相談をもちかける。そんな父親の面倒を見ることはないという兄弟たちだったが、長男は、真実がどうだったのか見極めたいといい。

客席に向かい一列に並べられた丸椅子。役者たちは一列に座りほぼ場所も入れ替わらず正面を向いて話します。基本的に正面を向いて首を動かさないのですが、互いの位置関係がわからないのはおそらく意図的にそうしているのでしょう。

父親の暴力と妻殺し、その後の兄弟たちは養子として各々ここまで生きてきたし、父親はもちろん、兄弟たちとも積極的に会いたいとは思わないということ、自分たちの認識は果たして正しいものだったのかと必死につなぎ止めようとする長男。末っ子の三女のように親の記憶も薄く、今の生活は満ち足りていてもう関わり合いたくない、次女がもっている密かな秘密。立場は随分違っているようだけれど、だれもがまだ子供を持っていないという、家族に一歩踏み出すのが怖くて、子供のままなのだ、という未熟感。

こういう強烈な背景があるかどうかは別にしても、いい歳して独り者で、子供も居ないということ、誰に責められるかどうかは別にして、自分は未熟なのだという気持ちに苛まれる、というあたりにアタシの気持ちはシンクロします。

正直に云うと、題材そのものに対して、対等な立場の人々だけ7人という構成は少々人数が多すぎる感はあります。実話をもとにしていて、それが7人だったのだからということはあると思うのですが、このフォーマットでこの人数を生かすには立場や生き様といったものがもっと明確に塗り分けられてほしいところ。一列に並んで動かない、というのも、座る席によってずいぶん印象が異なってしまいそうな気がします。視界を遮られることを嫌って最前列に座りがちなアタシで、今回も最前列に陣取ったりしましたが、視界が確保できるなら、むしろ後ろ側のほうがいいような気がします。

三女を演じたハマカワフミエは少しのブランクのあと、久々に舞台で拝見。か弱さをみせつつも、芯にある強さを見せる雰囲気が彼女の魅力で、その武器を存分にみせつける役。長男を演じた成川知也は苦悩しながらもまっすぐな信念、年齢を重ねたなりの意志の強さという役は意外に少ない気がしますが、なかなかどうして、きっちり。四男を演じた小西耕一のどこか自分とは関係ないことなのだという感じは、軽さというのとは違っていて、長男との温度差を表現する雰囲気がちょっといい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.08.08

速報→「進化とみなしていいでしょう」クロムモリブデン

2012.8.5 15:00 [CoRich]

85分。14日までRED/THEATER。 父親を亡くして感情を失ってしまった少年は医者から日記を書くように云われる。書くことがない少年は嘘の日記からはじめ、小説めいた物を書きはじめる。感情がない男と彼を匿う女の二人暮らしの物語。少年の母親はそれを目にして作家先生を連れてきて読んで欲しいと頼む。
警察は感情のない人々を採用し、情に流されない警察組織を作ろうとしているが、それ以前に低下する捜査能力はいかんともしがたく、犯人をでっちあげて事件を解決しているありさま。それを妄想している女は、脳内で刑事たちが事件を解決できないと、混乱して何をしでかすかわからない。実はむかし一度だけ解決できないことがあったのだ。

上手にステージ、中央から下手側にかけて立つのは五本の柱。あえて舞台を狭く使います。隠れたり行き来したりと空間が広がるようで楽しい。この動きの緻密さ、悪く云えばダンドリなのだろうけれど、リズムに乗り、物語に乗りながら観ていくうちに取り込まれる不思議な感覚があります。

不思議な感覚と云えば、「誰かの書いている物語の中の人々」という入れ子、それが美しい入れ子になっているのが完成度が高い、ということなのだろうけれど、今作その入れ子がぐちゃぐちゃになっている感があるのに、それを瑕疵とは思えないのはなぜなのだろう。もいちど行けるかなぁ。ロングラン、しかもアタシの夏休みにかかってるという幸運もあるから確かめたい気もするのです。

ネタバレかも

続きを読む "速報→「進化とみなしていいでしょう」クロムモリブデン"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「国民の生活」ミナモザ

2012.8.5 13:00 [CoRich]

社会派といえば社会派なのだけれど、論旨の正確さよりも、作家自身が地に足つけて、彼女自身の感覚としてどう感じているのか、ということにこそ価値を感じる90分。二人芝居4本建て。6日までSPACE雑遊。

テーブルに飲み物を置いて男が二人。広告代理店に勤める男、そろそろヤバいんじゃないかと思って、FXに申し込むかどうか迷っている。FXの口座開設を勧める男、どういう仕組みなのかを説明して、練習用のバーチャルトレードの画面を見せて「おばけの市」
ベッドを後にする女に男は金を渡そうとする。そういう場所で出会ったのに、女は金は要らないのだという「わたしの値段」
男はバイトに行かなかったのだという。代わりに私のために詩を書いてくれて読んでくれて嬉しい。でも、どう考えても私を養ってくれるとは思えなくて「この世にうたがあるかぎり」
暑いさなか、開始を待っている女ふたりは知り合いではない。一人はもう慣れていて、遠くから来ていて、自前でグッズまで作ったりしている。もう一人はこのまえこれを目にして、じゃあ来てみようかなと一人でやってきた。そうこれが一歩なのだ「崖から飛び降りる」

真ん中に広々とした舞台。その向こう側には作家自身の部屋から引っ越し屋に頼んで冷蔵庫からベッドから本棚机に至るまで運び込んだという家財道具の数々。これらが芝居で使われる訳ではないのですが、作家の部屋で作家自身が思索した物語、ということが感じられるのです。

「おばけの市」は、越後屋を題材に金融業の成り立ちっぽい話の序盤(これはこれでちょっと読みたい感じでおもしろかった)から、二つの為替の差益で稼ぐのだというFX、さらに射倖心を煽るためとしか思えないレバレッジ(これを「おばけの市」と名付けるのはおもしろい。たしかにそうだ。)への流れをコンパクトに説明しつつ、それに巻き込まれちゃう感じを客観的に描くのです。作家自身にとってはたとえば射的とか、あるいはコンプガチャと同じように巻き込まれてしまむ人々を描いているという感じなのでしょう。描き方に少し「男の子」への大人の女の目線のようなものを感じます。題材はFXだけれども、ある種のバブルともいえるわけで、過去に起きたことに対する違和感のようなものを描いているようにも思えるのです。

「わたしの値段」は、いわゆる出会い系なのに金を払わないという一言がもたらす混乱のワンアイディア。病気でもないし性癖の問題でもないと逃げ道をふさぎつつ進める物語は理詰めにいくかと思いきや、じっさいのところ物語の語り口に混乱というか考えのまとまらなさがとっちらかった感じで、正直云えば物語自体の完成度はあまり高くない気はします。それでも登場人物の女が混乱しながらも一生懸命に何かを考えているのだということにリアルを感じてしまうのです。それを作家に重ねて読んでしまうというのは、もちろんアタシの勝手な妄想なのですが。
議論が成立する根幹というかきっかけとして必須な、二人の対立が少々無茶な感じは残るのです。金を払わなくていいといわれた男が単にラッキーとは思わず、愚直なほどにそれではいけないのだ、と云うのは、いくらなんでもファンタジーに過ぎる気はします(もしかして、アタシがダメ人間ってだけですかそうですか)。話をまじめに聞いてくれる人がいる、ということの嬉しさをこの物語のレバレッジにするのは少々弱い気もしますが、そう感じるのだ、ということは腑に落ちてしまうのです。
女を演じた志水衿子が実に可愛らしい。もうこれだったらアタシだったら(←ダメ人間)

生活、という意味ではもっとも切実な感じがする「この世~」は、まあ、ひらたくいえば「ダメんず」の話。(金にならない自称)クリエータをきっぱりと切って落とすのは地に足がついた感じ。月々の収入と支出がまったくバランスしてないということを聞き取りながらメモしていくというのがちょっとおもしろい。油断すると明日は我が身になりかねない、という少々の切実をアタシは勝手に感じたりもして。 いわゆる現金を稼ぐというだけじゃなくて、もし無人島に二人で流されて、魚を捕ったりしてくれるか、という女の問いかけの絶妙、それに当然と答えながらも、でも第一に詩だな、ということの溝の深さ。それでも女が逃げな理由は明確に台詞で表したりはしないけれど、「殴られると思った」と云う女の台詞で腑に落ちるのです。それに対比するように、男が女の言葉に傷ついたというのだけれど、その切実さに欠けた、薄っぺらい感じが面白いなと思うのです。
いままでアタシが見てきたのは薄倖な感じばかりだった外山弥生が(まあ、これも全面的に幸福かというと微妙なんだけど)、なんだろう生活者というかしっかり生きているのだという感じで心なしか顔色だって明るくて。頑張って「生きている人」を演じたときの素敵さが漲ります。

ミナモザでデモといえば「日曜日の戦争」(客席を囲んでぐるぐる回る演出が秀逸でした)ですが、あのときはたぶん作家にとっては絵空事だったデモの現場が、ずっと身近で切実になってきたのだと感じさせる一本。山梨で電気を使わない生活をしているという女、実際のところ電車で来てるだろうしアルミの鍋だって電気だよね、とつっこみどころは満載ですが、たぶん作家は電気を使わない生活をことさらに強調したいのだとは思えないのです。なんだろう、もしかしたら身の丈にあった生活、したいこと、できることをして生活していくということの憧れのようなものを感じる語り口だなと思うです。そういう生活に一足跳びに行けるとは思わないけれど、たとえばデモだって、たとえば生活の仕方を変えるということだって、一歩を踏み出すことが勇気で、それは床に映された窓から飛び降りるように一歩を踏み出すのだ、というのは彼女自身の決意なのか、あるいはアジテーションなのか。
「ホットパーティクル」での作家自身が混乱していたように感じたことから比べると、もっともっと地に足が着いた彼女自身の生活の感覚から紡がれた物語なのだと勝手に深読みしてしまうのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

速報→「ニアニアフューチャ」あひるなんちゃら

2012.8.4 19:00 [CoRich]

あひるなんちゃらの新作。75分。アタシの観た土曜夜は、オリンピックサッカー中継の影響か街も飲み屋もがらがらな下北沢、観客も薄めらしく、客が椅子を好きな場所に置いて座っていいというホントの自由席という回。7日まで駅前劇場。常連出演者だった篠本美帆が劇団に加入し、主役としてフィーチャー。

2017年の近未来、人々は実はあんまり変わっていなかったりしている。友達どうし二人で住んでいる女たち。一人はほとんど働かずずっと家にいる。隣に住んでいる男がゴハンを食べに寄っていたり、同棲している上階のカップルが結婚をめぐるもめ事を持ち込んだりと、他人をどんどん招き入れている。実家は都内なのに、もう何年も帰っていないが、店を継いで欲しいと姉が訪ねたりしてきている。もう一人は、会社つとめはしているが、街でスカウトされて映画の主演が決まっている。同居人にはまだそれを伝えていない。

近未来になっても私たちの生活はあんまり変わらなかったり携帯にどうでもいい機能がついたりしてるけれど、この生活がずっと変わらなかったらいいのにと夢見る女の子、という感じが全編を包みます。震災にしたって経済にしたって、ずいぶん長いこと普通のことだと思っていた、「変わらない」ことがこんなにも愛おしく感じるようになったのだ、という読み方も出来ましょうが、登場人物の女の子はそういうことはおくびにもださずに、変わらないでいたい、ということをずっと思っているピュアな感じ。庭をスコップで掘って石油王(もしくは温泉)になるのだという荒唐無稽をホントに信じていそうにすら感じるというのは実はスゴいことなんじゃないかと思うのですが、篠本美帆が好演。彼女をこういう可愛らしさいっぱいの役で初めて拝見したのは、あひるなんちゃらだった気がしますので、劇団加入故かどうかフィーチャーされた今作では魅力がいっぱい。

物語に直接絡まず、舞台の外の存在として人を固定して置くのはいままでにない感じがします。観客のように突っ込む役(今作では三瓶大介)というのは数あれど、ナレータと思わせて実際のところ、そのつっこみに対する返答(つまりは作家から観客への返信)まで織り込んでいるというのはそうそうない気がします。看板・黒岩三佳を舞台上に固定し続け、いわば神の視点のようにつっこませるというのはこれはこれで冒険だと思うのですが、なんせ充実のキャストなので、実際のところこのぜいたくな布陣だってまったく問題がないのです。

ぼけ倒す役の多い物語の中で突っ込む、という役割の多くの担うのは異儀田夏葉で、時に可愛らしく、時に男らしくと魅力的。当日パンフの今後の予定のそこら中に名前があるのもうなづけるのです。カップル女を演じた松木美路子の間違ったマリッジブルーとか、混乱する感じも可愛らしく、それを受けてばかばかしいほどに真っ直ぐ向き合う根津茂尚もそれっぽい。初登場となる松本哲也、女性宅に日常のように上がり込むという怖さが目一杯。強面っぽさはあってもあくまで普通の人だからこそ怖く見えるという気もします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.08.07

速報→「東京裁判」パラドックス定数

2012.8.4 15:00 [CoRich]

劇団人気作の三演め。 (1, 2) 時間は大幅増量の110分。12日までpit北/区域。

劇団のマスターピースのひとつ、濃密な迫力が魅力だった初演から、二演、三演と進むにつれて、この緊張の中に笑いを織り交ぜた軽やかさをもっと感じさせるようになっています。時間は長くなっているんだけれど、その迫力が持続できてしまうのです。たとえばCoRichを見ていると、始めて観た人が悉く興奮しているということが見て取れるよう。

台本を買ってみれば初演に比べて、発言を拒み続ける男の描写にもうひとつ織り込んでいるようです。 野木萌葱という作家の戯曲は少々癖があって、作家の登場人物たちとの掛け合いという様相が楽しいのですが、今作、そういう癖は抑えめで普通の戯曲のスタイルに。 アタシはあの登場人物の心情を書き殴るようなスタイルも好きだったので、ちょっと残念といえば残念。

膨大な情報がある東京裁判ゆえに史実をどこまで織り込んでいるかということは今までもあまり深く考えたことはありません。今作に至り人物の背景がかわっている、ということはずいぶん自由に発想してエンタメとしとして物語を紡いでいるということがよくわかります。

問題といえば問題なのは、この迫力の物語、ついついこういうドラマが実際にあったことだと感じてしまいがちなところ。史実から少し距離を置いた記録に残ってない「隙間」を描くと実に巧い作家ですから、今作に於いても史実から借景してはいるものの、これ自体が史実ではないのでしょう。後の時代から、たとえばwikipediaに記されたような、この裁判の捉え方のようなものを物語として描くということが今作の特徴で、それゆえに濃密がより強く感じられるのかも知れません。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »