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2012.03.26

速報→「どっからが愛」第6ボタン

2012.3.25 19:30 [CoRich]

十条の居酒屋「うまいもんや」の一室での公演。ちゃんとした食べ物もドリンクもついて2000円というお値打ち90分。しかもそれをシステマチックにちゃんと楽しい時間。

ある女。バイトの面接に来てる店で忘れられて、いつのまにか店員出された酒を呑んでいる。もうけっこう酔いつぶれつつ、どこに居てもこんな扱いと云いながら、中学校の入学式の頃からの男遍歴をかがり出す。恋人、キス、初体験に同級生はずんずん進んでいるのに、自分はまだ。専門学校に行ってOLになって、それでもまだ一歩を踏み出していなかったが、同窓会で会った久しぶりの男とホテルに行き、そのままなし崩しに女の家に転がり込んでくる。

晩熟(おくて)でダメんずな女性の酔っ払いな自分語り。中学校に入ったときは人並みに男子も女子も友達が居たけれど、学年が進むにつれて徐々に乗り遅れていく感じ。友達は恋、キス、その先へと進んでいるのに、自分は、という焦る気持ち。同窓会の見栄を張った会話もちょっと楽しい前半。後半は、その焦りと幼なじみに許した気持ちからか、あっという間に初体験、同棲、金まで貸したりしてのダメんず一直線。終盤はまるでサスペンスドラマかという意表を突く着地点。荒唐無稽といえばそうだけれど、そうでもなきゃ断ち切れないほどのズブズブな感じなのだということかとも思います。

どこまでが作家にとってのリアルなのかはよくわかりません。もちろん作家にとってのリアルである必要はないのだけれど、なんか前半の焦る感じやら行き後れ感を笑い一杯に描きながらも、なんかその彼女は実に可愛らしい。見た目は悪くないのに幸薄い感じに惹かれてしまう物語と人物の造型は、アタシの感覚にも直球ど真ん中なので、出演もしている作家に勝手に重ねてしまうアタシなのです。いかんいかん。

部分部分は、実はステロタイプな「幸薄い女」像ともいえますが、見せるテンポが実によくて、場面の切り替わりも詰めに詰めていて、見やすく、大笑いして、しかもアタシにど真ん中で実に楽しい。「絶対浮気しているけれど必ず私のところに帰ってくる」とか「食べさしのチョコレートだけれど貰えたことが本当に嬉しい」のちょっとイタくて、でもまっすぐなところが結構好き。 好きといえば、女子三人の同窓会での会話のシーンがはもちろんアタシの好みの感じだけれど、それぞれに自分の人生とか、結婚したり、初体験のこととかの様々を並べ、それを聞いていても主人公はまだ体験していなくてという焦り気味な気持ちにきゅんときて。

主人公の女、さきを二人の女優に割り振ります。若い頃とかそういうのではなくて、入れ替わりながらさまざまにしながら、縫い上げる感じ。演じた青木裕美子はダメんずっぽく見えて素朴さもあって素敵(ほめ言葉)。もう一人の内山唯美はさらに終盤でトラック運転手という役でまったく違う感じになっていてびっくりします。作演を兼ねるながみねひとみ、怖い感じとかもリアルに。「女子」というざっくりした役を演じた河上泰子は、それだけの説得力を持つ可愛らしく、ガーリーでしかもかっこいい。

それにしても、 バイトの面接に合格する、というのが幸せというのは、若い彼女たちのリアルな感じなのか、そりゃそうかもしれないけれど、あんまりといえばあんまりだよな、という現実も感じたりして。

料金に含まれるドリンクは上演前に貰うこともできるけれど、同じく含まれる一品は、上演前に注文し終演後にあっという間に受け取れて、そのまま店で呑み会になだれ込みます。追加注文も大丈夫、主宰は一見で知り合いでもないアタシにも、というか客の総てに会話をしようとします。芝居の世界での繋がりはまだ浅いのだといいますが、劇場であることよりも、こういう場を作っていきたいという心意気にちょっと惚れ込むのです。戯曲だって500円、DVDだって徹底して手作りして500円という、きっと自分たちの地に足のついた経済感覚が実にいいな、信用できるなとおもってしまうのです。

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速報→「Kon-Kon、昔話」世田谷シルク

2013.3.25 14:00 [CoRich]

世田谷シルクが福岡で行った公演を加筆改訂した100分で凱旋公演。25日までpit北/区域。狐の物語を王子で、というのがいいじゃありませんか。

いつものように目覚めた男、階下に降りトーストを頬張り「おいしい」と声をかけた妻は狐だった。飛び出した男は自分以外の人々が皆、狐だということに気づく。逃げ回るうち、狐の一匹に呼び止められるが観に覚えはない。さらに逃げ回るうち、穴に落ちてしまう。上の穴にはどうしても戻れそうにない。通れそうにない小さなドアがあるが、勧められた薬を飲むと体は小さくなり、その向こう側へ。
出てきた場所は、藁葺きの屋根の古い家。妻らしい女も居る。まだ冬で食料もギリギリだというのに、餌をせがむ狐に男は餌を与え、果ては自分たちが食べるものまで与えてしまう。ある夜、尋ねる少女が居て、彼女は恩返しにきたのだという。いよいよ食べるモノに困る夜、妻は少女を吉原へ、と云い出す。

狐遊女、という昔話をもとにしているとのことだけれど、恩返しとか、竜宮城とかを交えつつ、全体としては「不思議の国のおじさん」というような感じ。子供がいない夫婦、妻との関係だったり、どうにも(妻も含めた)世間が全体に騙し騙され生き馬の目を抜くような違和感を感じているような話をベースにして、可愛らしい娘を見る目、貧困ゆえに娘を吉原に送るという無力感とその後の脱力感などさまざまにないまぜ。もともとイベントの一部として構成されたらしく、実にわかりやすく雄弁でしかもラップだったりダンスだったりと盛りだくさんで実に楽しいのです。

空中を浮かぶようだったり穴から落ちてくる感じだったり、亀に連れられて海中を進むようなさまざまの「空間の仕掛け」が楽しい。しかもそれをセットとかワイヤーとかではなく、役者だけで作り上げるのは山の手事情舎譲りのような楽しさがあります。

あるいは維新派というか、「ままごと」というか、ラップ調のリズムに乗せるというのも、ただそれに頼らず、しっかりとしたダンスだったり、拍子木を交えたりと「あがる」感じが見ていて楽しい。こういう楽しさって重要な要素で、それがこの濃密な空間を飽きずに見続けさせる一つの要因なのです。

ベースにしっかりとした物語を古典から引用し、役者の動きやリズム、構成の力で仕上げる力の確かさ。いくつもの物語を盛り込んだって無理矢理感もなく、濃密な空間を作り出すのです。見慣れない古典で作るのもまた楽しいけれど、既になじんでいるシンプルな物語をベースにして、これだけ大人が楽しい感じなのは実に楽しい。

遊郭を後半の舞台にしながらも、とりわけの色っぽさに走らないのもまたいい感じ。こんなにも親しみやすい物語だから、こういうバランスがいいのかもしれません。

堀越涼は前説、落語で客席を暖めつつも、女形(やり手ババアだけど)からドアノブに至るまでの活躍、そのどれもが目を離せないぐらいに圧巻で印象に残ります。岩田裕耳はきっちり主役、若いけれどおじさん代表な疲れ具合から娘(じゃないけど)に目を細める感じまでアタシの視座にもっとも近く。少女を演じた大日向裕実は可愛らしさ全面で、いたいけ、という言葉がぴったりくる感じで走りきります。子供や遊女の一人を演じた前園あかりは、可愛らしさ、元気の良さ、ちょっとやさぐれたり、ナンバーワンから転落したりとさまざまをしっかりと。遊女の一人を演じた小林真梨恵はダンスの体の切れ、堀越涼と並んでも遜色ない背丈と、美しい。堀川炎は台詞を排して、動きだけで子供を演じるのはさすが。 作家が当日パンフに書いた「おじさん」の話はちょっともの悲しいけれど、もしかしたら今の日本の姿、というのは大げさで、どちらかというといつでも「あちら側」に落ちてもおかしくないアタシだから身に沁みたということかもしれませんが。

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2012.03.25

速報→「春風」年年有魚

2012.3.24 19:30 [CoRich]

年年有魚の新作。「がんばって」という言葉を素直に受け止められなくなった今にこそ描くがんばる人、頑張れない人の話90分。25日まで駅前劇場。

地元の店がモデルになった連ドラの新番組のヒロインをゲストに呼ぶ桜祭りは市長以下気合いが入っている。会場近くの喫茶店が控え室代わりにあてられ、放送局の広報やスタイリスト、マネージャなども大挙して押し寄せる。母親と兄が切り盛りしている店、小学校教諭の妹は学校に行けなくなって半年ほど経つがまだ誰にも話せていない。祖母は行動や記憶が怪しくなっているが、その祖母を若い男が尋ねてやってくる。

駅前劇場を幅いっぱいに、落ち着いた喫茶店をしつらえます。窓の向こうに桜、時折り花びらが散り、まさに祭りの季節のやわらかな日差しを舞台上に。

低学年児童ではうまくできていたのに高学年になって馴染めなくなって学校にいけなくなった小学校教諭。「正義とはどういうことか」を先輩教師に尋ねたりはしますが、彼女の悩みがどういうところにあるのかということは明確には語られません。 何かに足がすくんで、その中に飛び込んでいけないこと、心因性の何かという感じもするけれど治療を受けている感じではなく、しかし「頑張る」という言葉を不用意にかけられない、という感じ。

体調がすぐれない新人女優がそれでも無理を押してがんばるということが対比として描かれます。なぜそこまで頑張るのか、ということに対しては「代わりなんていくらでもいる」から、「今頑張らないと明日はない」という、しごく真っ当な答えが示されます。「ナンバーワンよりオンリーワン」なんていうのは耳に心地いい言葉だけれど、代わりのいない、ということがいかに難しいことなのか、ということをいわゆる芸能人を仲介として描くのはちょっと巧い感じがします。

メインの二つの物語、それに寄り添う祖母の話、あるいはタレントスタッフたちの話。微妙な間合いだったり、くすり笑いだったりはするものの、春風のようにそれはそよいでいて、大きなパワーという感じではありません。正直にいえば、脇のさまざまは物語を持たないわりには、(音量という意味ではなく)わりと煩い感じではあって、メインの物語の対比がみえづらくなっている感じはします。見慣れた役者のさまざまという楽しみ方をするアタシはともかく、初めて観るひとにとってはちょっと厳しいとおもうのです。

辻川幸代という役者はずいぶん観ている気がしますが、今作での母親というのはベストアクトなんじゃないかと思うぐらいに。母たる強さとある種のカジュアルさのバランスが実によくて印象に残ります。トツカユミコは今までどうしてもあくが強くてちょっと苦手な役者でしたが今作のナチュラルさはちょっといい感じ。同僚を演じた安東桂吾はいままでにないさわやかでまっとうさ。巻き込まれ、笑いをとり、静かに進む物語の中でリズムを刻みます。祖母を演じた岩堀美紀は若い女優が演じるステロタイプな老人になっている感はあるものの、見続けているうちに味わいのようなものがじわっとくる感じになじんでしまって終演後にメイクを落としてロビーに現れたときにちょっとびっくりするアタシです。松下知世の心ない感じはじつにいいバランス。ADを演じる今城文恵はあまりといえばあまりな造型ですが、ならばいっそもっと突き抜けられる感も。 前有佳はしごく真っ当に、しっかりと物語の世界を支えます。

明らかに消耗しきってる女優はともかく、小学校教諭の方は悩みが何なのか、ということの原因を描いた方がきっと人物はもっと明確に浮かび上がってくる気はします。が、作家は「そうなってしまった人がここにいる」ということ、もっといえばその人にどう寄り添えるか、どうやって前に進んでいくのか、ということが作家の描きたいことだと思うのです。

その彼女がボケはじめてしまった祖母を守ろうとすること、「死んだ目」という容赦ない言葉に反抗するだけの力がまだ残っていること、を描くのは弱り切った人の中に、種火のように残るエネルギーを表すよう。あるいはその祖母が呉れる飴玉に込められた気持ち、貰うことでわき起こる気持ちもまた、人の心の中にある種火なのだよな、と思うのです。

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速報→「INTIMACY」オーストラマコンドー(岡田あがさ) +

2012.3.24 15:00 [CoRich]

映画監督の三宅伸行が構成、オーストラマコンドーの倉本朋幸が演出という、岡田あがさ一人の出演によるリーディング企画。25日までCCAAランプ坂ギャラリー3。本編40分。全公演にオーストラマコンドーの次回作「くちづけ」のプレリーディングを佐藤みゆきで30分と、トーク10分ほどがつきます。

妻を置いて家を出ていこうとする男。今日が最後の夜。妻の寝る寝室に足を踏み入れる。語る、映画の話。郵便局に勤める男は隣家の女が男を毎晩のように連れ込んでいるのを覗いている、ある日、郵便局にやってきた女を呼び止める。(「愛に関する短いフィルム」)

妻を置いていく男が吐く独白から端を発して、愛をめぐるさまざまについて思いを巡らすよう。その中に魅惑的な女とのぞき見ている郵便局員の別の愛を巡る話を挟んでの二重構造。ベースは小説、中盤は映画からの引用のようで、よってテキストは書かれたのではなくて引用し構成したようです。確かに愛をめぐる二つの話ではあるのだけれど、正直に云ってそれ以上のつながりはなく、その二つが少々唐突に独立して置かれている、という感じです。 ベースの物語はテキストを持ちリーディング然としています。演じる岡田あがさは男の役として。そこから映画を引用する部分はテキストを持たず、一人芝居のような体裁になりますが、こちらは基本的に女性の視点。この部分、最初のところは男の視点なのに唐突に女性の視点に変わったりして戸惑います。

物語そのものを楽しむというよりは、岡田あがさという女優のダイナミックレンジの広さを観て感じる、というのが正しい楽しみ方だと思います。正直にいえば、どうしてこの部分を引用し、こういう構成にしたのかは、きっと構成担当の中では繋がっているのでしょうが、観客のアタシのたちばではその手がかりがないままなので、よくわかりません。が、それが唐突な断片だとしても、そういう人物たちの造型だったり、愛情というものの存在だったりを感じさせる確かなちからが、この女優にはあるのです。

アフターイベントとして設定されているのは、オーストラマコンドーの次回作「くちづけ」のプレリーディング、という企画。佐藤みゆき自身は本公演では出演しないのだけれど、劇団の作家の新作なら、という心意気なのか、彼女ひとりでしっかりと演じるのです。

ものがたりは、 マッチを売っている少女に声をかける7人の小人。世界で一番美しいといい、鏡を与え何でもかなえるという。王国はシンデレラに娘がいて、その娘の美しさに芽を奪われる小人たち。という感じ。成島秀和 が得意な既存の童話から立ち上げ、もうすこしほろ苦い物語に着地させるというフォーマットがあることがしっかりとわかるのです。

マッチ売りの少女、シンデレラ、白雪姫をクロスオーバーした物語を女優は 左右に視線を切り、小道具もふんだんにつかって、少々コミカルでカジュアルな仕上がりで圧倒的に見やすく作ります。リーディングというよりは講談か落語か、という感じででもあります。同じ劇団らしく、作家の世界をしっかりと伝えようという心意気がいいじゃありませんか。

もっとも、これ、二つ並べた時に印象に残ってしまうのはどうしても後者のような感じがあって、そういう意味ではバランスが難しいな、とは思います。

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2012.03.19

速報→「小田急線で会わせに行きます」ジェットラグ

2012.3.18 17:00 [CoRich]

コンパクトな劇場での音楽あり、しんみりありの4人芝居、80分。19日までゴールデン街劇場。

バンドのベースと同居している女。何年も戻っていない実家からの電話に出ると、仲の悪い姉からで、母親が死んだという。小田急線で新宿から1時間ぐらいの実家に、彼を連れて戻る。姉は相変わらず機嫌が悪く喧嘩寸前だが、そこに母親に介護ボランティアで付き添っていた大学生が焼香しにやってくる。うまくいかない彼女のについて話を聞いたりしたその夜、酒の入った大学生は姉の布団へ。姉はまだ処女なのだ。

仲の悪い姉と妹。モテる妹と彼氏の話、ずっとそういうこととは無縁だった姉の物語として進みます。物語の語り口はちょっと不思議な感じで、台詞を語るように何カ所かに歌がはいっていたりします。あるいは吊革を釣ってみたり、ドリフよろしく寝ている姿を上から見たように布団をたててみたり、コントっぽい感じも満載な仕立て。

奥手だった姉が舞い上がる気持ちの楽しさ、可愛らしさが実にいいのです。終盤の泣き崩れ、恋愛に臆病になる姿は気持ちに重なります。 つきあった人々が今の自分を作っているのが「深いい話」なのかということにピンとこないという姉の造型もちょっと巧いなぁと思います。 酔った勢いで、という男の造型はあんまりといえばあんまりですが、これを声高に非難できるほど自分が清廉潔白かというと、まあそれは怪しいわけですが。

姉を演じた金沢涼恵はメガネの真面目さ、奥手さ、舞い上がる感じとさまざまに変化が楽しい。ありそうでなさそうなカーディガンにスカートなんて格好もなかなか珍しく。妹を演じた富田麻紗子は跳ねっ返りだけれど、やはり最後の肉親となればの人情っぽさの説得力。恋人を演じた吉田能はとことんいい男すぎて少々物足りない気もするけれど、親しみやすくかっこいい。佐々木光弘演じた大学生はあんまりな役の造型だけれどヒールとしてきっちり。

それにしても、姉の感情はあたしの気持ちを揺らします。それはここまでの人生の経験の浅さのようなものの後悔だったり、些細なことで舞い上がる気持ちだったり、それを失ったときにもう一生一人でいいんだとあきらめちゃう気持ちだったり、誰か人が隣で寝てくれるということがどれだけ寂しさが埋められるのかということだったり。その断片のウエットな描き方は女性の作家らしくて結構好きなのです。もっとも、それが実感として感じられなくなってしまうほどになりつつあるアタシもどうなんだと思いますが(泣)。

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速報→「囁く夜と飴玉のいくつか」スミカ

2012.3.18 [CoRich]

2012.3.18 14:00 原田優理子のユニット、スミカの新作公演は小さな小さなギャラリーでの小さな二人芝居を四編で構成する65分。19日まで百想。

病に伏せり療養している女、ベッドの耳元で囁くのは、城を抜け出してきた姉だった。一緒にいよう、帰ろうとよびかけるが「音楽の聞こえない部屋」
朝ベッドで目覚める女、部屋に居る彼は、また毛糸をどこからか拾ってきていて「毛糸のある部屋」
暗く沈んだ男のところに現れた女の子は、亡くしてしまった娘だった「遠く春を待つ部屋」
久しぶりに放りっぱなしにしていた部屋を訪れた男、この部屋の主となっている祖父に、この部屋をどうするかについて告げる「番人を抱く部屋」

ベッドが一つ、生成りっぽい衣装、薄手のカーテン。物語それぞれはまったくつながりはありません。部屋と二人の人、ということぐらいが共通点。もちろんすべてが作家自身を投影しているということはないと思うのですが、女性の作家らしい、優しい視線とふんわりした気持ちが全体を包みます。

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速報→「再/生」多田淳之介+渡辺源四郎商店

2012.3.17 15:00 [CoRich]

各地で現地の団体とコラボしているのと同様に、2006年版の「再生」をベースとしたもの。青森だけで上演の「渡辺源四郎商店(なべげん)バージョン」はアナウンスは80分ですが実際には75分。18日までアトリエ・グリーンパーク。

こちらは2006年版の「再生」(あたしは未見ですが、YouTubeに動画があります)がベース。卒業したばかりの高校生を含む役者9名、うち8名が女優という布陣。真ん中に丸いちゃぶ台。酒、鍋、座布団。

YouTubeの印象ではもっと際限なく踊り続ける乱痴気騒ぎという感じなのですが、今作では、それよりはもっと隙間の時間があってのんびりしていて乱痴気というわけではなく、有り余るパワーの発散という感じがします。そのせいかどうか、初演では血糊を吐いたりして強く死を意識させていたようですが、今作ではそれをせず、薬瓶を回して錠剤を飲むことは死を強く予兆させます。あえていえば、終幕一人残った女(の子)が微笑んで倒れ込むというのもそういう感じがありますが、むしろ死んだか死なないかわからない終わり方に「緩和」したのは、311を経て変わったことのようです。

なんせ高校生もまじっていたりして、若さ溌剌という感じがめいっぱい。フィジカル寄りにみてしまうからか、あるいは二十歳過ぎの(で、アタシには見慣れてるから見分けられる)なべげんの俳優と入り乱れてみえるからどうか、表情も体型も大人と子供の境界領域なんだよなぁと思いながら、観ているのは、おそらく表現したいものとはまったく違うところをみてるのだろうけど。

物語が語られない、という点において、ちゃんと面白いとか感動できるという感じにはやはりアタシはまだ至りません。が、これを自分の何か別のことに強く引きつけたり、あるいはそこで起きている事象に気持ちが揺さぶられる人が居る、ということはよくわかります。ただ、この「再生」という芝居が、一種アタシの中で様式化して、これから起こることがみんなわかった上で、それをなぞって楽しむことはできそうです。でも、同じような作られ方の芝居をいつでも楽しめるリテラシーが備わったか、というと甚だ怪しいところなのですが。

黒一点たる工藤良平は、場を緩める感じをしっかり。フォーマットがわかっているからか、その緩める感じが彼(の役)のナーバスさを際だたせる感じがします。柿崎彩香はスマートさ、下手奥で巫女にみえるような瞬間が面白い。若手だと思っていた三上晴佳は、この座組ではしっかり大人の女性、という感じがします。

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速報→「再/生」東京デスロック

2012.3.16 19:30 [CoRich]

実は去年観ているのですが、このバージョンであったことを、すっかり失念しておりました。(1)まいど情けないことです。90分。終演後にトークショーがつきます。YouTubeには10分に編集されたランスルーが載っています。

おおきく3回のリピートで構成されていた2006年版に比べて、 こちらは、細かな繰り返しのブロックを積み重ねていきます。役者たちはてんでバラバラに踊り、動きます。突然倒れたりするのはもとの「再生」と同じだけれど、互いが同期するようにみえることも、死を感じさせる要素は注意深く排除されています。

トークショーによれば、タイトルにスラッシュを入れたのは、個人個人が分断し、まじりあわないということと、(震災を意識して)時間的にもう元に戻れないという分断、ということの意味のようです。終幕で壁に映し出されたスラッシュは、それを強く意識させます。

最初と最後だけは、日常の、たとえば掃除や料理といった感じの動きですが、それ以外は、果たして何の意図の動きをしているのかすらもわかりません。これもトークショーによれば、役者それぞれの動きについては役者に任せ、位置が変わることによる衝突を回避したり、全体の構成をつくったりはしているようですが、基本的には何かを語たろう、というわけではないようです。

中盤で挟まれる焼き肉屋での会話。青森から関東に戻ってきた役者たちが、なべげんの人々について過去形で語ります。未来の時点を描いているわけで、未来に向かって連綿と続く時間は、将来への希望を感じさせます。このシーンは結構好きです。横浜版では単なる焼き肉屋での会話だったものが、ツアーの中で、今観客が居る時点より未来を感じさせるような台詞に変わったのだそうです。

正直に云えば、アタシ個人は言葉による物語を排している、こういう芝居が苦手だという意識は抜けません。でも、廃止直前の寝台特急「日本海」での旅に釣られて、旅先で観て、新鮮な気持ちの観客との質疑の場に居るということは、劇場に通いすぎるアタシですら非日常で、実に刺激的な体験でした。おもしろかった。もっとも、見終わっても横浜でこれ観たって思い出せなかった(笑)。それぐらい、観客の側の状況で変わる、というのはちょっとこじつけですが。

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2012.03.15

速報→「ガラスの動物園」シスカンパニー

2012.3.11 13:30 [CoRich]

2012.3.11 13:30

長塚圭史の演出は思ったよりも観やすい180分。4月3日までシアターコクーン。

極度に内気で、年頃だというのに男の子を連れてくることもないし、外で働くこともできない娘を心配する母親。父親は家を出たきり音信がない。母親は倉庫で働いて一家の家計を支える息子に、会社の男友達をつれてくるように頼む。ある日、その初めての来客を迎えることになる。

「ガラスの動物園」自体は他の上演やリーディングで観たことがあります。静かで淡々とした物語で、それを長塚圭史で3時間と聞いて、ちょっと手強いだろうなと思って多少の覚悟をもって臨んだのですが、これが存外に観やすかったのです。

理由として一番強く感じるのは、母親の造型です。南部生まれの「ザ・母親」という感じの押しつけがましさをベースに。 更に心底娘のことを思う気持ちは、そのために必要なことをめまぐるしく考え、行動して。母親ってものにアタシが感じる感じがふんだんにもりこまれていて、ああ、そういうもんだよねぇと感じることができるのが何より観やすさに繋がっている気がしますし、ところどころコミカルなのもプラスに働いています。

演出上の特徴はダンサーの存在でしょうか。背景にとけ込むような衣装(そういう意味で黒子だ)で、時に美術をセットし、時にたたずみ、時に舞い上がる空気のように舞うのです。上演時間の長さの一因ではあるので痛し痒しなところはあるのだけれど、広い舞台をちゃんと埋めるということには成功してると思うのです。

母親を演じた立石涼子はその母親像きっちりと演じていて説得力。娘を演じた深津絵里は、繊細さに目を奪われるよう。後半でみせるうっとりとした表情がとても印象的。息子を演じた瑛太は抑えた芝居に印象を残します。後半登場する来客の男を演じた鈴木浩介は劇中語られるとおり観客の視座に近い存在で、前向きに生きるアメリカ人っぽさに説得力があります。

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2012.03.12

速報→「素晴らしい一日」自転車キンクリーツカンパニー

2012.3.10 18:00 [CoRich]

50ページ弱の短編小説を原作にした軽快な語り口が実に気楽で楽しい100分。13日まで駅前劇場。

勤務先が倒産し恋人に逃げられ、貯金も心細くなった女。数年前に男友達に貸した20万円があるのを思いだし、やっとの思いでパチンコ屋にいる男を捕まえて返済を迫る。男はまったく金がなかったが、昔とまったくおなじように軽口を叩きながら、貸してくれそうな人に連絡を取りはじめる。他から借りて女に返済するという。果たして、貸してくれそうな人のもとを訪ねてまわる。

絵に描いたような調子のいい男、次々と女性たちを訪ねて借金を申し込み、なんだかんだいいながら、みんな貸してれる、という物語。こんな男に、しかも女性連れで彼女に返済するためだという男になぜ金を貸そうというのか、それからその女性たちそれぞれの金の持ちよう、生活というか背景を織り交ぜての。結局それは二人の珍道中、ロードムービーのような軽快でコミカルな語り口が楽しい。男の調子良さ、二十万を貸した女の生真面目さ、それぞれの女たちのさまざまな「女性の生き方」のようなものがテンポよく、実に楽しいのです。

会場で売られている原作本も購入(定価より少しディスカウントされているのが嬉しい)。原作は50ページに満たない短編で、しかも金を借りにいく先がいくつか変えられています。原作にはない弁当屋や婦人警官、女優といった人々がある反面、舞台では原作にある親戚がなくなり、女子大生やシングルマザーの造型はずいぶん異なります。原作では、もっと意地悪な人物観察というか、貸す側の優越感とか、まだ若くてちやほやされるお女といったものに対する作家の手厳しい視線が働きますが、舞台では、この男と女性たちの関係と、女の人生といったものを中心にすえて構成しているようです。

軽口を叩き、実際にとても軽いのだけれど、女たちに真っ直ぐに向き合い、時々鋭い男を演じた内浦純一の軽さと真摯さのバランスが素敵。こんな風なある種の軽さと真剣さの何分の一かでもあれば、アタシの人生ずいぶん変わるだろうなという意味でもちょっとなんかわくわくする感じ。 金を貸していた女を演じた伊勢佳世も、生真面目さで振り回される感じがなにか可愛らしく、しかし成長を見せるよう。女優を演じた歌川椎子の年齢を重ねたなりの悲哀と強く居きる力。シングルマザーの心の強さと、婦警の不器用さを二役で演じた浅野千鶴も印象に残ります。

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速報→「春待草 - ひとりでは淋しすぎて-」菅間馬鈴薯堂

2012.3.10 15:00 [CoRich]

売れない演歌歌手・影山ザザの旅回りを描く「一人では淋しすぎて」シリーズ。その初演を元にしているようですが、震災から一年という時期の東北・秋田という舞台に応じて手を加えているようです。13日まで王子小劇場。初稿決定稿も公演前にネットに無料で公開されています。

売れない演歌歌手がマネージャーや衣装係と東北を回る。訪れた秋田のひなびた温泉宿。10日間の寝泊まりは、ホステスの三人の若い女たちの部屋と相部屋だという。衣装係の女自身も歌手だが、彼女を含め、三十路半ばを過ぎた旅回りの歌手たち、どうにも芽が出ない。

かつて一念発起で出したセカンドデビュー作「春待草」にまつわるザザ自身の物語と、来るかどうかわからない春を待ち続けるような「売れない歌手」たちが交錯する物語。衣装持ちとして拾われるがおそらく芽が出ない出戻りだったり、弟子でありながら袂を分かつように出て行ったがそこでも苦労している二人だったりと、30を過ぎても夢を追っていること、その挫折を描きながら、60を過ぎていて、一目をおかれるのだけれど売れることなく、でも旅を続けるザザの物語。

ここまで続けばもう、まるで寅さんのようですらあって、この味わい深い話、「負け続けている」ことへの優しい作家の視線だけれど、厳しい現実は容赦なく。このトラックを走り続ける人、そこから降りる人ということの厚み。 ザザを演じた稲川美代子はもう云うことない安定。出戻り歌手を演じた舘智子は他ではあまりみられないポニーテールにミニスカート、なかなかどうして。たしかにこういう39歳(という設定)は居る感じ。旅館の主人を演じた吉川湖も、朴訥なまっすぐな感じが印象に残ります。女性たちが舞踊ると終盤のショーの場面は妙に華やかで場末感もあって楽しい。

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2012.03.08

速報→「スケベの話【バットとボール編】」ブルドッキングヘッドロック

2012.3.4 18:00 [CoRich]

セクシー寄りな話の二本立て、アタシが観られるのはその男性版と位置づけられる一本のみ。140分。11日まで、男性版・女性版を交互に上演。サンモールスタジオ。

夏の甲子園に参加するために宿泊する民宿。高校球児たち。女子マネージャーは母親が心配だと頻繁に家に電話する。試合まではまだ三日ある開会式前日。生真面目なキャプテンは、野球のために禁欲しようと宣言する。

まあ、馬鹿馬鹿しい高校生たち、同級生女子、年上の女を交えて悶々と持て余す性欲の固まり。しかし、野球に対しては皆真摯なのは甲子園出場校という感じのリアリティか。もっとも、そもそも高校生に見えないというのはご愛敬。

男子校の高校生たちがキャッキャ騒ぐのを評して「ホモソーシャル」と呼んだのはライムスターの宇多丸だったか。そういう感じもいっぱい。

女子マネージャを演じた川村紗也は、実に可愛らしくて、部員みんなが憧れることに説得力。全身で喋るという感じで印象的。部員たち誰からも距離を置いている、ということの種明かしは終盤で。民宿の従業員を演じた佐藤みゆきは、意外に少ない気がする、ほんわりゆるふわな天然キャラ、これも新しい魅力。この女性二人の会話が実にいいのです。 年上キラーを演じた松木大輔は達観したおやじキャラを怪演。

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2012.03.07

速報→「Turning Point 【分岐点】」KAKUTA

2012.3.4 14:00 [CoRich]

KAKUTAの15周年シリーズ。結成当時の作家・金井博文や、大きく関わってきた堤泰之を交えた三人の作家の連作の体裁で、二人の女性の15年を描く140分。4日までザ・スズナリ。

通りすがりの男とホテルに入って、財布を抜き取って逃げている貴和子、絵里。が、シャワーを浴びている男は死んでいた「1997年 出発」(OPENING/作・金井博文 演出・山崎総司)
美大の片隅、旧校舎の一室をアトリエとして持っている教員。学生たちがデッサンしたりゲームをしていたりする。貴和子はその教員とつきあっているが、7年生になる弟も気持ちを寄せている。絵里は劇団に学内の劇団に入っている。教員が大麻を所持しているという捜査員が学内に現れていて。「1999年 決別」(第一話/作・桑原裕子 演出・山崎総司)
同じ建物を借り受けたマクロビオティックと野菜の頒布団体の作業場。心酔しきっている代表は、和歌山で作られた農作物を仕入れているが、売り切ることが出来ず土に埋めている。その農家の男が久し振りに訪れる、一緒にヨガ教室をイベントにしようとするが。「2006年 迷路」(第二話/作演出・堤泰之)
同じ建物、取り壊しが予定されているが、中断したままになっている。久しぶりに貴和子は社長になっていて、青春の思い出のこの場所に本社オフィスを建てようと下見に訪れる。取り壊し途中の懐かしい状態だが、ここに不法滞在の外国人やホームレスが住んでいるのを見つけてしまい、その中に、親友・絵里が居る。「2011年 対峙」(第三話/作演出・桑原裕子)
いよいよ本当に取り壊そうという日。再び貴和子はこの場所を訪れ、絵里も呼び出して、二人で写真を撮る「2012年 覚悟」(ENDING/作・金井博文 演出・桑原裕子)

最初と最後に15年の歳月を経た女二人きりの短い場面、その間を繋ぐ三つの物語。実は結構波瀾万丈な女性二人、同じ場所での再会を描く、思えば遠くに来たもんだ、というロードムービー風な(でも場所は変わらない)仕上がり。徐々に登場人物が増えていき、きちんとつながり、積み重なっていくのはまさに歴史。二人は互いに相手を妬ましく思うこともあって、でもそれをわざわざ云ったりしないし、離れてしばらく連絡取らなくたって、やはり意識せざるを得なくてということを描くのだけれど、それがわかるのは物語がずいぶん進んでからです。

第一話は、大学のアトリエ、ちょっとはずれた場所、恋する心が渦巻く空間。教員の弟が想いを寄せている兄の恋人、社会人になってもサボって出入りする卒業生や、ちょっと気になっている後輩の女子とか、さまざまな。物語は全く違うけれど「カメラ≠万年筆」や「サラミの会」に近い味わい(芝居では実は結構少ない気がする)。妊娠のこと、というのは間違いなく女性の人生のターニングポイントになりうる要素を。 テンコと呼ばれる後輩女子を演じたヨウラマキが今までになく実に溌剌として可愛らしい造型。ツンデレちゃあそうだけど、そんな言葉のないあのころ。ヲタキャラの卒業生を演じた熊野善啓もなんか可愛らしい。

第二話、居場所を見つけるためにさまよう感じの話。しかしここでも、憧れる気持ちと愛情、小さなコミュニティの中の愛憎、信じることを信じるあまりの押しの強さ、それが愛情と混同される瞬間を鮮やかに。デフォルメされたキャラクタが一番強烈で破壊力があります。桑原裕子演じたGカップなヨガインストラクターは、オバサンキャラも目一杯。バストのあること無いことは実は小さなことだけど、それが重要なことになるということを小ネタ的に描くのも楽しい。整形を指して「こっちは顔が農薬まみれだよ」というのはいい台詞だし、終盤の「タネ、蒔いたんでしょ」というのはぞくっとします。 あるいはやたらに声の小さな関西弁の農家を演じた成清正紀は静かな魅力、パワフルな外国人を演じた高山奈央子はパワーでかき回し、がっつり笑いを取っていいテンション。

第三話、思えばずいぶん立場の違いがあからさまになってしまった物語。いわゆる格差が二極化するというのも、この時代の空気の感じによくあっています。ため込んでいた想いは決していいことばかりじゃなくて、云うまでもないけれど、腹の奥でどす黒く渦巻いて、積み重なっていたことを表出できるようになったこと。互いに相手が妬ましく、自分のものを何でも取られてしまうと感じていたり、居場所を次々と見つけていけるということがうらやましかったりということがあからさまになる、いわゆる解決編になっています。

年齢を重ねた女性の物語、という方向に大きくシフトしている桑原裕子の最近の流れに沿っている物語、さまざまにぶつかり変わっていく女性二人のいわば大河ドラマなのだけど、その「分岐点」だけを抜き出し、バラエティに富んでいて楽しく、豊かな空間を作り出せるのは、15年の歴史を経て作り出したこの劇団の役者やスタッフの確かなちからの結実。それをお祭りとしてアタシは楽しむのです。

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2012.03.06

速報→「まあまあだったね」あひるなんちゃら

2012.3.3 19:00 [CoRich]

あひるなんちゃらの新作、男性の俳優ばかり10人で70分。6日までOFF OFFシアター。

バネをつくる工場の喫煙所。というか、昨日まで喫煙所だった場所になぜか、それでも集まってしまう人々。だらだらと会話してコーヒー飲んだり、普段会わない人と会ったり。で、その工場で働いていて、宇宙飛行士になった男が久し振りに訪れて。

男性ばかり、というのは珍しい布陣。結果、女性がわりと担っていたかき回したり理解できないファンタジーのような役を俳優たちに振りつつも、むしろ、(デフォルメされているとはいえ)居そうな人々という造型がリアリティを持ちます。突然宇宙とか何かに凝り出したり、延々同じことを繰り返してたり、巧いこと立ち回ったり、バランスオブパワーが崩れてるままで働いているチームとか。もしかしたらアタシが男だからそう感じるだけなのかもしれないけれど。もともと「ありそうな感じ」というのを描き出すと巧い作家なのだけれど、くすり笑いを越えてこんなにも爆笑編に仕立ててしまうということの勘の鋭さ。

ずっと居続ける人を演じた根津茂尚は、出づっぱりで少しばかり大変な感じもしますが、アタシたちの視座にもっとも近い感じで安心感。佐藤達は、いままでにないカッコいい役だけれど笑いが起きる客席は暖かく。渡辺裕也は、片隅に居る感じだったり貫禄の説得感。江崎穣はそのバランス、ちょっと若者感があったりして楽しい。堀靖明は、突っ込みをするという点で観客にとってのもう一つの視座。三瓶大介は、抑えと発散のダイナミックレンジが今までになく広くなっていてうまくなったな、と再確認するのです。

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速報→「あくびと風の威力」第0楽章

2012.3.3 14:00 [CoRich]

風の強い夜、明日は小学校の同窓会という日、友達が部屋に泊まる。明け方近くの午前五時、チャイムが鳴るとドアの外に居たのは同級生の姿だった。急速にあのころ、小学校六年生の時の思い出。合唱コンクール、アジトでの秘密の遊び、恋に恋して大切なモノを埋めたり、練習したり。

芝居屋坂道ストアの代表作。第0楽章としても2010年に上演したものを、再演プロジェクトの一環として再演。

さまざまな記憶。戦わず、流されるように生きてきた女。小さい頃に持っていた夢、それをあきらめてしまった。記憶が蘇るのは同窓会の前夜だからか。朝を迎えようかという時間によみがえる小学校の頃の光景。あきらめた夢と、その夢を共有していたあの時の友達と、死んでしまった彼女たちの想いがうずまく自分の中。夢のような内省のような不思議な空間を枠組みに、小学校のとき、子供と大人の境目のような日々のこと、毎日のふつうのことの繰り返しということが今振り返ると愛おしく大切だった日々だったのだと綴ります。それは確かに過去を振り返る後ろ向きの感覚だけれど、そこに不可抗力の断絶があることで、大切な日々を想うことの重みを感じるのです。

小学生の時のことをさまざまに切り取るシーンが楽しい。 一つぐらい賞を取りたいと云っていた先生とがんばっていた合唱コンクール、仲のいい友達3人で毎日通っていた「アジト」、恋に恋しておまじないめいたことをしてみること、ちょっと大人びた転校生、一気に仲間が増えたりするあの日。もちろんそれはアタシ自身の記憶とはなんのつながりもないけれど、いつしかその中に取り込まれるように見てしまうのです。

嵐の夜のことや、保健室の不思議な感じは、もうすこしファンタジーめいた感じで、実際のところアタシにはいまひとつぴんとこない感じはあるのです。実に内省的で、着地点だって決して無理に前向きにしたりしないので、一歩間違えばえらく暗くなってしまいそうなところなのだけれども、あくまでも軽やかに、等身大の女性という視点で描き出しています。 確かに阪神淡路大震災を友達を失ったことのきっかけとして使っているしそこで泣いてしまうアタシが居たりもするのだけれど、それは決して震災の話ではなくて、思い続けて居たはずの夢、それを思っていた時の記憶と現実の今の私の間のギャップの物語。その過去を大切に想いながらも、それでも生きていくのだ、と読み取るのが正しいのかはよくわからないのですが。

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