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2011.08.01

速報→「ペッジ・パードン」シスカンパニー

2011.7.31 13:00

2011.7.31 13:00

三谷幸喜作・演出、2ヶ月にわたる長期公演の千秋楽は作家自身のカメオ出演のサプライズありで、休憩15分を挟んで3時間10分ほど。世田谷パブリックシアター。31日まで。

ロンドンの下宿屋に移り住んで来た日本人・金之助。もと英語教師で留学で滞在しているにもかかわらず、自尊心とコンプレックスとから英語がどうにも苦痛で、なかなか社交的になれずにいて、イギリス人は誰もが同じ顔にみえてしまうほどだが、下宿屋に住むイーストエンド育ちのコックニー(wikipedia)の女中と階下住むもう一人の日本人とは気兼ねなく話すことができた。女中はそれは、自分より下に観ているものには緊張せずにはなせるのだと鋭く見抜く。
ロンドン滞在の日々はすぎていくが、ほとんどロンドンの人々と話すこともなく、英語の先生に紹介されたロンドンの上流社会の人々と会ったりもするが、それは物珍しさだけで自分と会おうとする人々に嫌気がさし、どんどん閉じこもってしまう。

夏目漱石のロンドン留学、日本人と英語の問題から始まって、当時の英国の自覚なき差別意識のようなものを、日本人を差別される側として描くというのが新鮮な感じがします。全体は笑いに包まれ物語は進むけれど、先進側だと思う人々の自覚のない差別の存在を描き続ける前半。が、その日本人側にしても、女中やその兄たちに対して劣等感がないという意味で、人に貴賤をつける感覚の存在。後半、日本に残してきた妻からの手紙の返事がないことを理由に女中とともに暮らそうと決める男が、妻の変わらぬ愛情を知ったとたんに、何事もなかったかのように女を捨ててしまうこと、しかし失った女の存在が創作に必要だと考え落ちぶれていくさま。

支えてきた女の存在を失った作家、というのを本編の作者に重ねたりして考えるのはワイドショーに毒されたあたしの感覚かもしれませんが、何か大切なものを失う、という普遍的なものとしてかんがえるべきなのかもしれません。

正直に言うと、物語の力点が、その差別意識だったり嫉妬だったりという部分にある感じがして、作者の語りたいことの中心がどこにあるのか、判断しかねる感じはあります。後半の愛情と創作の物語の部分よりも、その差別が根っこにあることを描いている部分の方が断然おもしろく感じてしまうのです。どうも執筆中に震災というタイミングだとパンフにあるといいます(ああ、しまった、震災への寄付金になる当日パンフ買い損なった)。もともとはもっと暗い内容を明るいコメディに転換したのだといいますが、アタシの感じる違和感はそこに起因している感じがします。

深津絵里は、「Hを発音しない」という設定で無茶ぶりされている感のある台詞を越えて、がさつさも含めて愛らしくて観客すべての愛情を一身に集めるよう。彼女のかわいらしさが存分にでていて魅力的です。後半の「する?」という台詞が色っぽくならないのは痛し痒しだけれど、まあそういう芝居ではないのでこれが正解なのでしょう。

ものを知らないアタシがしゃべっても誰にも笑われない、それが昨日みた夢をしゃべることだというアニー(ベッジ)の台詞は切なくて、実にいい台詞だと思うのです。これはそのあとがあって、「夢はわたしのものだから」なるほど。この台詞が終盤のあれ果てた下宿のシーンに効いてきます。

浅野和之は、いったい何役やってるのだろうというぐらいのすごさ。それもこれも「イギリス人がみんな同じ顔に見える」という一点のためなのだけれど、どれもこれも違う人物に造形されているし、みんなが魅力的でちょっとすごい。野村萬斎はストレートプレイで観たことがあるのはあっただろうかと思うけれど、翻弄され心身が衰弱していくさまをくっきりと。大泉洋はある意味ヒールだけれど、軽い感じが実にいいのです。浦井健治はミュージカル畑なのだそうだけれど、軽い身のこなしと若者らしいかんじに。それにしても、存在するだけで輝く人ってのは居るわけで、それが芸能人というものだということを存分に感じる舞台なのです。

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