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2011.02.28

速報→「3月の注意事項/コッペリア」ワワフラミンゴ

2011.2.26 17:00

ワワフラミンゴの新作。50分、銀座の喫茶店・凛イーストプラス、不連続で26日まで6ステージ。

喫茶店らしい場所、吸血鬼が住み着いてしまい、店主らしき女はことあるごとに血を吸われてしまう。赤い服を着ているからだという指摘を受けて着替えたりもするけれど。

いつものように変わらず、物語のあるようなないようなゆるやかな空間。カフェ公演ではどちらかというとほんわりした雰囲気の場所を選んできた感じがするのだけれど、ルデコに近い、どちらかというとかっちりと硬い感じの場所。 自分が美人だと軽くとぼけて見せたり、何かの拘りだったり、慰めて見せたり。しかし会話の温度はあくまでも低く、騒いでみせてもやはりどこかおとなしい女の子たちの会話というベースは崩しません。物語そのものを見せるよりは、そういう女の子たちの平熱感の範囲に収まる起伏の会話。こういう会話に聞き耳をたて、会話を理解するよりもその雰囲気に浸ることが好きなアタシはその中に漂うかんじがいつものとおり気持ちいいのです。

結婚式に呼ばれなかったのは何でだろう、と話し合ったり、生活ってのは誰でもつらいですよ、としたり顔っぽく茶目っ気で語ってみたり、女子高生に会いたいってのはオヤジの云うことだなんて笑い会ったり、チューは洒落だからそれ以上はだめよ、なんてことを云ってみたりというのがアタシの感じる日常の会話、だと思ってるんだけど、どうなんだろうなぁとおもいつつ。

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速報→「サラミの会」ピンズ・ログ

2011.2.26 14:00

ピンズ・ログの旗揚げ作を6年ぶりに再演。27日まで、110分。テアトルBONBON。

郊外への移転を控えた大学、映画研究会の部室。移転のための片づけも佳境を迎えて、OBの結婚式で集まったOBたち。「サラミの会」という映画、映写機もなく、そのままになっていた。 就職、恋愛、これは踏み台、使えるものは、許せない気持ち、将来のこと、あのころを引きずっている

大学生のほんのひととき、気楽に見えたって、 せっぱ詰まった就職活動という未来が見えない不安と、一年生がカメラを抱えてまっすぐにものをつくろうとする気持ちと、サークルで作ったものが賞をとり、監督ばかりが脚光を浴びて残されたような気持ちを持つ人々と、少しばかりの悪意と。

軽い気持ちで始めたのに引き込まれたドキュメンタリの撮影、それが洒落にならない事態になっても、撮影することを止めることができない気持ち。暴走とは違う引っ張られる気持ちとそれを続けてはいけない気持ちとの狭間。せめてもの償いの気持ちは、発表しないという約束だったけれど、それを試したいという気持ちを抑えきれない。

あるいは、うまくいかない就職活動のいらつき、「要領のよさ」への対比。まじめにやっているということだけが評価を生むわけではない、ということを就職と映画という物作り、という二面で描き出します。そんないろんなことが起きても不思議ではない大学のこの時期を選んでいるのは秀逸で、この時期のおかげで、もうひとつままならない、恋愛という要素にも説得力があります。

物語として観ると、じっさいのところ何かが解決しているわけではなくて、大学生の一時期とその数年後の姿をすぱんと断面を並べて見せる感じの手法と盛り込んだエピソードの程良さのバランスなのだと思います。

ドキュメンタリーが直面した洒落にならない現実を心の隅で「ラッキー」と思ってしまうメディアというものの悪魔の声、そのままではいけない、というのは本当はメディアを操るものたちの矜持(プライドとうよりは責任を伴った誇りという意味合いの)だと思うのだけれど、昨今のメディアに見えるアタシたちの絶望的なきもちを重ねると、その対比は、今だからこそ生きてくるという感はあります。

初演のときも思ったけれど、ナイロン「カメラ≠万年筆」という名作があって、じつは物語や構図というより、キャラクタとしてナイロンに出てきそうな感じの人々という気もするのです。それは決してオリジナリティの欠如などではなくて、ある種の安心感すらアタシは感じるのです。

一年生の監督、この場所を記録に残そうというまっすぐな気持ちを清水葉月が好演、印象に残ります。就職活動がうまくいかない女、まじめさとそのいらつきを説得力を持って竹原千恵。10代の役をリアルにこなす牛水里美は、ちょっと凄い。

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2011.02.21

速報→「投げられやすい石」ハイバイ

2011.2.20 14:00

ジェットラグ名義での初演をハイバイとして再演。大野城まどかぴあ大ホールという大劇場だけれど、その舞台上に客席もしつらえるという「狭く使う」ことで、東京での上演と規模感としては変わらないと想像します。20日まで。85分。

新進気鋭の画家として注目を集めていた男。あこがれを持っていた僕は彼にどこか気に入られていて、持ち上げてもらうような感じだった。しかし、彼はある日突然姿を消す。2年たったある日。すでに僕は当時の彼の彼女と結婚して絵を描かなくなっていた。突然連絡をよこした彼と待ち合わせたコンビニでは万引きのふりを見とがめた店員に理不尽な目に合わされたりもするが、彼自身もやせこけ、頭髪もまだらに抜けたという見た目ばかりでなく、激高しやすく、絵を描いているというプライドは高く、突然姿を消したにもかかわらず、彼女に言い寄ろうとして、あまりにも変わり果てていた。

初演の時は、ともかくコンビニ店員の理不尽な暴力、みたいなところが強烈な印象が残っていて、軽く扱われる私たち、みたいなとらえかたをしていたのだと思い出すのです。 じっさいのところ、そのあとに描かれる彼の変わり果て具合、のようなところは物語は思い出すものの、相対的な印象としては薄かった感があります。

が、芝居が変わったのか、それともアタシが歳を取ったのか、今作での印象はもう少し違っていて、もっと 才能というのとは違うけれど、ある種の「むかしの栄光」とそのプライド、一方でほかにはあてがなくなってしまって「昔の彼女に言い寄る」という情けなさのないまぜだったりというところの苦みが、アタシの心に深く刺さります。

あきらかに狂人の領域に足を踏み込みかけている、かつては輝いていた近しい人、というフォーマットで世間に広く認知されているのは、機動戦士ガンダムの最初のシリーズのアムロと父親というのが思い浮かびます。ガンダムの設計者だったけれど、その改良と称して作っている箸にも棒にもかからないような小さな装置ともいえないようなガラクタを「こんなもの」といって投げ捨てるシーンの強烈な印象。それが、友人であり恋人でありという関係の中で、同じ年代の友人として見えることの悲しさ、みたいなものはより強く気持ちにひっかかります。

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速報→「地上最大の作戦 地下鉄軍団大逆襲ー2011年最新改訂版ー」ギンギラ太陽's

2011.2.19 19:00

公演の少なかった去年でしたが、博多という街が大きく変わる今年はがっつりこの街の物語を作り上げていくベースとなる120分。20日までキャナルシティ劇場(元・福岡シティ劇場)。

新博多駅ビル開業に沸く博多の街だが、駅ビルに客が囲い込まれると危惧している天神のデパートたちは結束を固めて戦い抜こうと考える。大丸・エルガーラに淡い恋心を抱く地下鉄・七隈線だったが、西鉄バスと鉄道の強大な力に太刀打ちできず、優しいだけではだめだと冷たくされたことをきっかけに、密かに覇権をねらうネットショップによって不正なプログラムを流し込まれ操られて、やがて天神の覇者、西鉄ソラリアビルもその手に落ちる。
いっぽう、新人として配属されてきた地下鉄車両、1522形は、周囲の目が特別なものをみるかのようであることに気がつく。だれもその理由を語らないが、貝塚駅での待ち合わせをしている西鉄・貝塚線の老車両との会話から、かつて直通運転のJR筑肥線の踏切事故で大破した同名の先代が居ることを知る。先代の魂は天国にいくことも叶わず漂っているが、その存在を知るのは、死の近づいたものだけの目に見えるのだった。
先代の1522形は、ある日、七隈線と改造されたソラリアの企みを知ることになるが、皆に伝えることができない。1522の存在を伝えられるのは、中州の老舗デパート・玉屋の後を継いで華々しくデビューしたものの、テナント不足に喘ぐ、商業ビルのゲイツだった。

ここしばらく続いていた、天神・博多の歴史を下敷きにした実話ベースの物語から、現在のビルや交通機関を 登場人物に据えながらも、少々荒唐無稽ともいえるようなSF風味の活劇の様相を加えたエンタテインメントに。JRがすすめる「駅ナカ囲い込み」をちくりと揶揄しながら今までのギンギラのレギュラーの天神デパートたちの結束、そこに地下鉄や西鉄、バスたちを加えた一大流通戦争のものがたり。 同じ車番の先代車両の存在ということを物語のポイントに、 集客やテナントという点で苦戦の続く七隈線やゲイツを物語に大きく取り上げたのはちょっと珍しい感じもします。ここまで揶揄することの前半での違和感はあるのだけれど、それが後半の大活躍に効いてくると、そりゃ楽しいわけです。

とはいえ、福岡に育ったわけでも、生活をしているわけでもないアタシが、その微妙なネタを実感として知っているわけではありません。福岡という街を歩き、ビルの外観の特徴を目にしたり、確かにトンネルが小さくてローコスト・エコな車両だという七隈線に乗ったり、ずっと地下を走り続けている地下鉄が川底よりもっと下から地上にあがるという光景を目にしたり、あるいは貝塚駅で地下鉄と接続を取りながらも西鉄のほかの路線と接続することもなく投資もされないまま、路線の部分廃止が進んで線名すら変わってしまって駅の表示に上からシールが貼られている、ということを目にするというような、芝居を見た後のある種のフィールドワークで、いまそこにあるものを検証できる、ということの楽しさ。観光地というのとは違う、人々の生活を浴びるような楽しさがそこにはあるのです。 天王洲劇場よりは少しばかりこぶりに見えるとはいえ、劇団四季の常設劇場だったキャナルシティ劇場という規模はやはり少々大きすぎる感はあります。「天国の入り口」という美しいシーンはこの規模ゆえのというところはあるのだけれど、今作で多用される「客席をいじる」ということは劇団の特性にはよくあっているものの、二階席から見えないばかりでなく、盛り上がりという点で分断されてしまうのは、ワンプライスの客席設定としては少々厳しい感じもします。

とはいえ、人々の生活の「今」を切り取る、というスタイルはこの劇団に限らず小劇場に求めることの大きな一つなので、タイムリーな街ネタで春・夏・秋と連続上演するという今年はどれだけ通えるかはわからないけれど(やはり松本からは遠い)、楽しみでしかたないのです。

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2011.02.17

速報→「さめるお湯」あひるなんちゃら

2011.2.14 15:00

あひるなんちゃらの新作。80分。14日までOFF OFFシアター。

発明家を名乗る男の家。大雪で帰れなくなった高校の同級生夫婦が卒業以来初めて訪れる。何のために出てきたかと聞くと、同窓会なのだといい。あるいは不思議なことが起きてしまった妹を連れて男が訪れたり。

いつもどおりといえばいつもどおりの、気楽に楽しめる会話、ずるずるに見えて緻密に作り込まれた間とテンポ。 突然三ツ目と不思議な能力だったり、ミカンの皮を絞って目に振りかける修行だったり、昼ご飯といってサッカーボールを買ってくる理不尽な妹だったり、久しぶりに泊まった高校の同級生の家でコトに及ぶ夫婦だったり、怒りの余り殺人に及ぼうと画策する女だったり。むちゃなキャラクタのオンパレード。

3D映画は片目だと観られないとか、第三の目だったらどうなるとか、あるいは野球拳をやってるのに二人が完全に全裸なのはおかしいとか、遺伝子レベルの労働拒否とか、絶妙な感じの突っ込みが楽しいのです。

劇場の特性もあってほとんどのシーンが3人程度で構成されていて、小さくて少しばかり妙な会話の積み重ねで見せるあひる節がめいっぱい。もっとも、3人の芝居の連鎖故におかしい感じが拡大・連鎖していくという類の面白さではなくて、微妙なおかしさの温度のお湯の中に浸かっているような不思議な脱力感があるのです。

川村紗也を可愛らしさそのままに、あひるに取り込んじゃ強さ、異儀田夏葉の強靱なぼけ倒しが印象に残ります。

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2011.02.14

速報→「怪物」ブラジル

2011.2.13 18:00

ブラジルの新作。少し長い上演時間だけれど、物語の起伏で飽きない130分。20日まで駅前劇場。

離婚した姉は妊娠しているが、お腹はやけに早く大きくなっている。その子供の父親になろうという男たちが押し寄せるが、断る。同じ家に住んでいる妹はストリートで演奏している、その彼は薬が手放せず働いていない。

母親の意志で中絶できるかという時期の少し前、果たして女はその家で出産するが、産まれてきたのはまさに「怪物」だった。

母親と子供、母親と父親を軸にしたさまざまなものがたりをきちんと描きます。エログロナンセンスをキャッチフレーズにしていた頃とは打って変わって、苦笑系ともちょっとちがう、むしろ、若い母親から若くない母親だったひとたちすべてにリーチするようないい話。微妙に不思議が混じり家族とか親子を丁寧に描く今作は、映画というフォーマットにもマッチしそうに思うのです。

父親はわかっているとはいいながら、物語の中ではそれは明確には示されません。冗談めかして言う宇宙人の、という無茶ぶり設定もこの座組ならばそれを納得させてしまう力があります。役者の力ということをさしおいても、産まれた子供がどうであれ全力で守る母親や出産までの不安で揺れ動く気持ちを描き込む作家の書く物語を楽しむのです。

たとえばある種のSFクライムムービーのような風合いがあって、産まれ出た子供を全力で守ろうという母親の話を、それを迫害しようという人物は医師以外にはでてこない、ごく小さなアパートの中でだけ描き出すのがエンゲキ的でもあるし、物語にわくわくするのです。出落ちのような「怪物の登場」の圧巻のおもしろさはあるのだけれど、そのあとのレンタカーの話、意図せず犯してしまった規範に対する母親の諭しと、二転三転する物語と、そこに織り込まれた母親の愛情と迷いがアタシのこころをつかんではなさず、130分という時間があっと言う間なのです。

辰巳智秋あってのこの芝居だけれど、そこに甘んじることなく、かわいらしさと無邪気ゆえの怖さとを丁寧に描き分ける確かな力が存分に。桑原裕子はあたしの知る限り初の母親役だけれど、強がって見せつつの内面の悩みという厚みを感じさせます。羽鳥名美子は美しくて息を呑む瞬間、堀川炎は前作につながるようなところもあるけれど、デザイナーという役に説得感があります。さまざま入れ替わり立ち替わり現れる男たちの中での中川智明の冷たく見えて友情に厚い元同僚、あきらかに怪しいタクシー運転手という本井博之どこかくたびれた中年風で説得力があります。

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速報→「ゾウガメのソニックライフ」チェルフィッチュ

2011.2.13 14:00

神奈川芸術劇場のオープニングシリーズの一本。チェルフィッチュの新作。90分。神奈川芸術劇場大スタジオ。

夢の中でみた彼女はすでに居なくて、でも現実にいる彼女はもちろんまだ生きていて、いろんなことを考えて動いている。旅にでたいできれば海外にというけれど、僕はそうしないで済む現実の日常を大切にしたいということを考えて、煮詰まってしまう。

ずいぶん久しぶりに拝見した気がします。ほとんどがモノローグで、旅に出たいという彼女と日常が大切だという彼氏の、前半は彼氏側の語り、終盤は彼女側の語りという感じ。モノローグで全体にゆっくり、しかもぽつりぽつりという感じで、せりふの数は多くありません。若者の言葉の騎手のように言われることもおおいけれど、会話はほとんどなくて、メタなとらえかたをした言葉が多く、作家はすでに日常の若者たちの会話、ということには興味が亡くなっているのではないかと感じます。

クラブらしい場所の三人の会話がほぼ唯一の会話らしい場面。ここでみせる山縣太一の誇張した若者っぽさが客席の笑いという反応を誘うほぼ唯一のパート。数少ないピースを、自分で大量に補完して作家の描きたいことを想像する、というのはたとえば短編の詩のような味わいといえばそうかもしれませんが、アタシが芝居に求めてるものからはさらに遠くなってしまった、という感じではあります。

かつてのチェルフィッチュでは会話があり、リアルな会話の無駄な反復やノイズ、所作の合わさったあたりが注目を集めたとおもうのです。物語としてみるとごくシンプルなささいな気持ちの動きを描くという感じなのは変わりません。が、言葉は二人の男女のかみ合わない会話の内面に拡散し、所作はまるで様式のように、その会話とは無関係に存在しているという風に感じてならないのです。

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速報→「南へ」NODAMAP

2011.2.12 19:00

東京芸術劇場に本拠を移して初めての本公演、野田地図の新作。130分。東京芸術劇場中ホール。

微動が続く火山。噴火予知のための観測所があるが、300年間噴火がなかったために職員も噴火するとはみじんも考えず、火口に飛び込む自殺志願者や行方不明の観光客を確保したり、火口の観光の受け入れが主な仕事になっている。自殺志願と思われた女を確保するが、口八丁で職員は手玉に取られてしまう。ここに赴任してきた男は、データを一目見るなり噴火が近いことを読みとる。
山の麓には、古くから続く旅館を三姉妹が切り盛りするが、300年前に火山の噴火を予知したというふれこみで、噴火を予知してみせるという。
ある日、秘密裏に訪れた一行は、天皇の行幸の先触れなのだといい、それを知った地元は大いに盛り上がる。

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2011.02.13

速報→「サンポジウム2011(C)」散歩道楽

2011.2.12 16:00

サンポジウム短編集のCパート。19日まで楽園。75分。

寝床で眠りに落ちるまどろみの時間、しかし今夜はどうにも眠れない。高校の同級生の女の子への妄想が始まってしまうが、浮かぶのは別の男の同級生の顔ばかりだった「咲き誇る花、真夏の流星」
正月を迎えたばかり、こたつに入って過ごす40まわりの女たち。だが、彼女たちはこのあとの人生の行方を当然知らない「かたつむりん」

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速報→「サンポジウム2011(A)」散歩道楽

2011.2.12 13:30

散歩道楽の集中公演「サンポジウム」の短編集。 劇団員ふたりの芝居を核に、ゲストを一名足しての三人芝居を六編を二話ずつにまとめて公演。 (A)パートは気楽に楽しめる計70分。20日まで「楽園」。

スイミングスクールの女子更衣室らしい部屋。そろそろレッスンが始まろうという時間なのに少し遅れて部屋を出ようとしていた女。もうひとり後からやってきた女は、不穏に脅すオーラをまきちらしながら、でていく女を押しとどめようとする。その女のねらいは「グラマラスなロージー」
弱小プロレス団体の試合後。ヒールの"デス・エンジェル"の二人が決め技の練習やら試合の反省をしている。二人は実は兄弟で、タイガーマスクにあこがれてプロレスラーになった弟は若い女性のファンがいないこんなヒールは嫌だといいはじめ、口論になる。そこに逃げるように女が飛び込んできて、ファンなのだという「とっても☆デスマッチ」

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2011.02.12

速報→「恋する、プライオリティシート」磯川家

2011.2.11 14:00

アタシは初見です。120分。14日まで王子小劇場。

ピアノの演奏の入っているホテルの上のバー。カウンターの端はある常連の女の指定席になっているのだという。美しい彼女を口説く男たちを手玉に取る日々だが、そんな女にバーテンダーの男は好意を持っている。この店は常連が多く、準備万端なのにプロポーズができない男や身ごもったお祝いにきたカップルなどが引きも切らない。 口説く男たちを手痛いめにあわせてきた女だが、姉夫婦はその原因を治療しようと申し出るが、女は頑として聞かない。

バーカウンターの奥に酒瓶を並べる棚、窓があってピアノ。少し大きめの音楽が聴けるタイプのバー、というよりはラウンジっぽい体裁の店にカウンター。 口説く男たちを手痛い目にあわせる女は、単に嫌なやつというよりは自分ゆえにまわりが不幸になるのを良しとしないタイプ。固く閉ざした気持ちをゆるやかにときほぐしていく、という感じ。

大阪発の、というだけで勝手にもっと大爆笑編を期待してしまったあたしですが、本編はどちらかというとくすりという感じの笑いをまぶしながら、場所こそバーだけれどベタともいえる人情の物語として仕上げています。 正直にいえば、人情劇としてみるにしても、主役となる女の最初の悪い印象がそのまま終盤まで継続してしまう感じだったり、あるいはコメディとしてみると大団円となる終幕の回収のしかたをもう一歩、と思ったりもします。物語に対して人物が少し多い感じがするのももったいない。

物語を生ピアノで盛り上げている雰囲気の良さが好き。それにとどまらず、ちゃんと出演者なのもよくて。いいシーンで音楽を入れようとしては寸断されてしまうのを繰り返している打ち、キレたピアニストが疾走して邪魔者を排除する、なんてシーンのセンスの良さ。

CoRichクチコミ投稿をすることで100円キャッシュバックというのはまあ露骨だけれど、こういう手を使ってでもきちんとリーチしていくどん欲さは重要だと思うのです。

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2011.02.07

速報→「コドモもももも、森んなか」マームとジプシー

2011.2.6 14:00

2009年作の再演。がっつり110分。STスポットで7日まで。前売りは完売しているようですが当日券も少数ながら用意しているようです。

三姉妹が住む団地の5階。小学校に通う長女、次女。末っ子は保育園。母親は一人で子供を育てていて、長女次女が保育園に迎えにいくまいにち。小学校の友達は時々遊びに来るし、遊びに行くし、団地のタイボク公園が見える。兄弟とも友達とも喧嘩するし、お金のある家もあるし、男子はうるさい。
水族館にお出かけした日曜の次の日、友達と喧嘩してからその次の日曜日まで。

ここ一年続けてきた子供のシリーズはこれでいったん打ち止めとか。子供の頃という枠組みを使うのはたしかに効果的で、自分の努力ではどうにもならない家族や親のお金のこと、子供だって悩みを全力で抱えているのです。友達がかってもらったものも買ってもらえないし習い事もさせてもらえないなんておことやあるいは、ちょっとした恋心、あるいは親の都合でこの町をでていくこと、かれらにとっては全身全霊の悩みが、ちょっとした箱庭のように凝縮されて詰められている感じ。

一週間のなかで時間軸は頻繁に行き来します。曜日はいわれるけれど、前後関係は終盤に至るまであいまいなままです。同じシーンの繰り返しってのはアタシは苦手な演出なのだけれど、マームのそれは多用されているのにまったく飽きないし楽しいのです。たった一週間のできごと、というのも効果的。子供の頃は一日のコマがたくさんあって、めまぐるしかったなぁとか。(なんせ時間割だって6限まであって、そこまでいってもまだ3時前だ)

一方で、子供たちの物語ではあるのだけれど、それに限らないと思うのです。毎日がめまぐるしいからこそ、大人だったら時間かけて流れる時間がたった一週間でも、いろんな人間関係の「変化」を描ききることができるのです。だから 仲良くなったり喧嘩して口もきかなくなったりの些細なこと、それが彼女ら彼らにとっての重大なことなのは変わらないけれど、それをあからまさに口にできるというのは、子供という世界を設定したからこそなのだとアタシは思うのです。

大人の女性が子供を演じるということはもちろんメイクや演技の技術というのもあるけれど、ある種の特権的な肉体ゆえということすら感じます。それを特に感じさせるのが三女を演じた召田実子。全身で暴れ渾身に泣くのです。笑いもとりながら、迫力すらあるのは圧巻なのです。

男性の演じる子供、実は若者に見えてしまうなぁとか思っていたけれど、中学生になっても大差ない、なるほど高校生でも大学生でも大差ないまま成長していくのだよなぁ男子ってのは、とおもいつつ。それに比べると女優の演じる子供、そのあとの中学生の違いが楽しいな、と観てておもうのです。

いっぽうで、中学生になっても、この先に何かありそうなワクワクする感じがない、というのはテン年代の作家の描く時代の閉塞なのかともおもうのです。

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2011.02.06

速報→「雨と猫といくつかの嘘.」青☆組

2011.2.5 19:30

「100万回生きたねこ」をモチーフにした作家の想いの深い2008年上演作品の再演。70分。8日までアトリエ春風舎。

一人で暮らしている初老の男。ひとりカップラーメンをすすすっていると玄関でノックの音。そこには母と名乗る女がたっている。数日後、娘と恋人が結婚の報告に訪れる。男の子供の頃の母親の風景、たまに居る父親の風景。あるいは男の家族の風景。息子が暮らしている家には同居人が居て。

情けない話しだけれど、本作に限らず芝居の記憶というのがびっくりするぐらいに覚えていないアタシです。観ながらリアルタイムで思い出していく感じ。台詞も美術も大きくは変えてないのだと思います。

シンプルに作られた舞台はほとんど初演と同じ。ゆったりと進むせりふ。一人の男を中心にして、初老の現在、子どもの頃、一家の大黒柱となる中年の時期と三つの世代を自在に行き来しながら描き出します。しかも中盤に至り、「お母さんは悪い人」とばかりにくるりとひっくり返るような視点の面白さなどがこのごく短い物語の中に満載なのです。 対峙する二人の女の緊張感がものすごい。今時ではたぶんあり得ない、でもどこかにあっただろう風景を紡ぐのです。

あるいは、さまざまに笑いをはさみながらもアタシの気持ちに深く沁みいる風景のかずかす。昭和の雰囲気一杯の家族の姿、あのカップラーメンをすする姿はアタシの未来にも見えるけれど、彼には家族が居るのだからアタシとは違って孤独じゃない、とは思うのだけど、むしろ誰かがいた暖かい時間を過ごしたからこその落差に寂しさなのだとも思うのです。

孤独だと感じていても、家族はそれぞれに暮らしていて。結婚の報告に訪れる娘と恋人の時間が長めなのは、作家の視点から見て一番近しい風景ということもあるかもしれません。アタシの実体験としてはないけれど、気遣いがうまくかみ合わないぎくしゃくする婚約者と男はステロタイプと言えるけれどほほえましく暖かい。

ビールのラベル、カフェラテを作る牛乳のパックなど、猫がらみの意匠に変えていくのはちょっとした遊び心。カップラーメンにまでそれを広げなかったのは、出てくるシーンの性質の違いもあって正しい気がします。

出オチに近い役所の林竜三はらしい感じ。リフレインされたシーンでの男気は少々レトロな感じではありますが、それがうまくはまります。福寿奈央の子ども、婚約した娘、訪ねてくる女という三つのステージをしっかりと。木下祐子演じる母親は物語の中心となるけれど、出しゃばらず、ずっと男を支えているような強い芯。辛いことがあっても心の強い女性の姿が美しい。

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速報→「ここは世界の果てっぽい。」バジリコFバジオ

2011.2.5 14:00

人形と人間の役者というコラボレーションが特色のバジリコ・F・バジオの2004年作の改訂再演。2008年の二本立てと(1)併せて三部作になるという構成のよう。 125分。7日までOFF OFFシアター。

北の果ての小さな町。町を出たきり10年も戻らなかった長女は、つとめていたキャバクラの店長とロシアに逃れるため、子供のころに聞いた密航の手助けをするという男を訪ねてこの町に戻ってくる。次女が看護婦とせ働く診療所にはウニの毒にやられた父親が入院している。末っ子の通う小学校はたった一人の同級生で男同士ととして生きてきたが、どうみても女性にしかみえなくなってきている。

北の果てに密航先に見え隠れするロシア、「三人姉妹」の登場人物をもじった感じとか、後半では不安と泣き声がたくさん、この町のことが嫌で出ていった長女と、出ていきたいけれど出遅れたままこの町で暮らし老いていく父親を看病しながらも旅人とのはかない恋に落ちる次女、オトコだと思いこみ無邪気なまま成長を迎える三女。 当日パンフにあるとおり、衰退していく地方の姿は明確には描かれなくても、この小さな診療所の一室でもそれを十分に感じさせる空気感。そんな町を舞台にして たしかに「三人姉妹」の「印象」。いくつもの物語の断片があるものの、物語の大きなうねりという感じではなくて、どちらかというと好きな役者の個人技が楽しい感じ。

本作に限りませんが、回想シーンや幻想を人形の芝居として見せるのは異なるものを明確にみせるのに効果的。独特の雰囲気で作り込まれていて、この劇団の強い印象のウリになっています。開演前の美輪明宏風の人形による前説は印象が強烈でヘタをすると本編より記憶に残ってしまいそうなのは善し悪し。

鈴木麻美は私の知る限りでは医者役はあっても、看護婦というのは珍しい。序盤の色っぽさや、中盤でみせる説得の声にやられてしまう感じ。吉田麻生は飛び道具感満載のこども役は卑怯なほどに圧巻。男と信じて生きてきたのに成長して女が見えてきて同級生は悶々とするのに無邪気なままという対比が、少々デフォルメがきついとは思うもののがっつりとして安定感。

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