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2011.01.31

速報→「Prism」*rism(アスタリズム)

2011.1.29 13:00

堀奈津美たちのユニット、*rism(アスタリズム)の写真集「Prism」の発売記念公演。90分。30日までルデコ3。

自分の部屋で大人になりたい、と呟いた女の子が開いた童話集。
町の中心、塔のてっぺんにある像の足下で羽を休めたツバメ、像に語りかけられ町の幸せでない人々に像に埋め込まれた宝石を届ける「幸福の王子」(オスカー・ワイルド , 吉田小夏)。
決して豊かではない家、小間使いのように使われている末の娘、しかし朝は寝坊するし。昨晩の舞踏会に招かれた娘、しかし王子の関心を引くことはできなかったのに、あの灰かぶりはうまいこと「ドリゼラの憂鬱」(「シンデレラ」, 谷賢一)
二人の子供を流行病で亡くした母親は甘いお菓子を作り続けて。家を追い出された姉弟がたどりついたのは、その母親の住む「おかしのいえ」(グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」, 成島秀和)
神様はほとんどの生物を作った。最後から二番目につくった狼を手に入れたくて、交換のために悪魔は羊を作るがその可愛らしさに交換を躊躇ううちに、たくさんの失敗作を作る。その失敗作の最後にできたのは人間で「神様のけだものと悪魔のけだもの」 (グリム童話, 小栗剛)

白いコットンの、という風情の「可愛らしい」で統一された雰囲気。少女から大人の階段、とはいいながら特に女性という視点だけに拘泥することなく、貫く信念の切なさ、閉塞した中でも生き続けるということ、母親と子供の成長、人間というもの、といういくつかの物語。一つ一つの物語にはつながりは薄く、それぞれの作家の語り口を楽しむ趣向。

「幸福の〜」はどこかの国での物語じたいも、語っていることも、基本的には原作となったものがたりをストレートに。貧しい母親と娘の会話や、あるいはツバメが声をかけるスズメの「トランジスタグラマーちゃん」なんていうという言葉の選び方に現代の作家らしさを感じます。全体のバランスの中では少々長めに感じるところで、筋肉質にそぎ落とした感じで観たいなとも。

「ドリゼラ〜」は古典的なシンデレラを、ふつうなら悪役側の継母や姉たちからの視点で描くことでシンデレラを悪役に仕立てる視点の転換が絶妙。「坊ちゃん」を視点転換で描くあの名作「赤シャツ」(青年座、マキノノゾミ) と同じ手法だけれどぎゅっと凝縮15分で圧巻。今回の4本の中では凝縮感も高くてもっとも印象に残ります。

「おかしの〜」はヘンゼルとグレーテルの、そのおかしの家側の事情を厚くふくらませて描きます。子供を亡くした母親が他人の子供を迎え入れる愛情の囲い込みはやがて強い拘束となり、独立したい、本当の家に戻りたいという気持ちをもつ姉弟の決心の残酷さ。短い時間の中で唐突な感じもあるけれど、まあ童話ってのはそういうものだよなとも想います。駄々をこねた弟のために女が買ってきた(甘くない)「ポテトチップス」という小道具が効いていて、叱りながらも愛情をもつ母親の姿は、そこに居なくなっているがためによりいっそう強調されるのです。

「神様の〜」は、けだものの最悪のものが人間、という視点を。カミを食べる山羊を神が嫌うというのは少々ダジャレ感も漂いますが、それは大きな問題ではありません。悪魔を演じた百花亜希はどちらかというと可愛いタイプの顔立ちなのに、こんな感じの意地悪な視線を投げるときには強い印象を残すのだということを久しぶりに思い出したりも。

可愛らしさ、オンナノコ全面押しの写真集に比べると、舞台の雰囲気はその雰囲気を継ぎつつも、物語はそのコットン・オフホワイトの向こう側に見える残酷さやもの悲しさが強く印象に残る、という物語で構成。なるほど、オンナノコの裏側ってのは写真集では出てこないわけで、それが見え隠れするというのは立体としての奥行きが出てくる感じなのです。

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