速報→「終わりなき将来を思い、18歳の剛は空に向かってむせび泣いた。オンオンと。」青年団若手自主企画 だて企画
2011.1.14 19:00
ガレキの太鼓の舘そらみが、青年団演出部名義で上演する若手自主企画。毎回30名に限定されたの観客は40名の高校学級の一員として組み入れられて水曜日の朝から一時限分を体感する90分。春風舎で25日まで。受付・客入れすらもその一部なので早めに劇場へ。観劇というよりは体験とでもいうべき本公演は好き嫌いが別れるかもしれません。
高校の教室の朝。じょじょに登校してくる生徒たち。クラスは学年で成績もイベントもわりと最下位クラス。若い女性の担任は数学担当だが、毎日出される宿題プリントもほとんど誰もやってこない。その朝、担任は出席せず男の体育教師が現れる。
40人学級にしつらえられた劇場。受付は女子高生姿でタメ口から雰囲気いっぱい。名前を読み仮名も含めて付箋に書いて提出して出席簿を作りながら。客入れは客入れ中の役者やスタッフの誘導に従って自分で席を選んで座ります。指名されたり、まわってくるメモに従ったり、と教室の中で自分自身も何かを答えたり何かをしたり。チラシにあるような「お客様にも出演者の一人になって」というのはまさにそのとおり。配られる数学の因数分解のプリントを解くかどうか迷ったり、どこかの悪ふざけ、廊下での痴話喧嘩、なんてものに眼も耳も奪われてしまうのです。
全体には学園ドラマでよく使われる濃密なエピソードをぎゅっと圧縮した感じ。先生の喋ることがいちいち正論だったり、セイシュンめいたりしていて、ベタと云えばベタなのだけれど、そこの場所で傍観ではなく、巻き込まれたりしながら体感していくなかで、自分のまわりで起きた事件だと感じられるのです。じっさいのところ、たぶんリアルな高校生がここにいても、ハリボテに感じるかもしれません。 子ども向けのキッザニアがそうであるのと同様に、大人が追体験する高校生活、という意味では 高校卒業した年齢から遙かにダブルスコアになったアタシには、価値があるように思います。
受付の女子高生っぽさは、タメ口から始まるのも含めてラブプラスからラブを抜いた(それは意味があるのかどうかわからないけれど)ぐらいにはアイコンとしての高校生活。出演者と観客である自分がしゃべるときの言葉の距離をぐっと縮めるために重要な装置として働きます。
個人的には 海老根と伊藤、二人のシーンを映像にするのは惜しい感じ。観客であるアタシには知るべき情報だけれど、出演者で教室に居つづけているアタシには知るべきじゃない情報で、そこの折り合いを映像という形にしたのだと思うのですが、そこはライブでがんばってほしいと思うのです。いっぽう、オープニングでざっと映像でクラスの属性というか置かれた位置を共有させるのは、音楽のノリのよさと相まって、参加する気持ちを高揚させるのです。 ネタバレかも
教室の喧噪はいくら観客参加でも観客から自然にできることはないわけで、結局のところ役者に頼るしかないところはあります。教室が静まりかえるような大きな事件でこそ、この体験というのは強い機能を発揮します。静まりかえった教室の中で先生が喋る正論や、むずがゆくなるような熱い言葉だったりというのに乗れるかどうかが本作の評価を決めるような気がしますが、あたしはそこにうまく乗れたのだなと思うのです。
途中で何人かに聞かれる「自分は将来何になるのか」というのは、自分が本当に高校生だったころには深く考えなかった質問で、40歳すぎたいま、将来をどうにでも選択できる18歳として考えて答えるというのは少し甘酸っぱい。実際に選んだ道を答えるべきなのか、選ばなかった、あるいは選べなかった道を答える、というのも一種の「ごっこ遊び」のようで、アタシの気持ちを揺らします。
学校の日常のクラスの中での大事件といえば、何らかの死にまつわることだったり、転校での人の出入りだったり、あるいは幼いながらも恋人がどうこうということだったり、あるいは恋人が居ないと云っている先生をおちょくることだったりします。それがぎゅっと詰め込まれているこの体験はとてもいとおしいのです。
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