2004.11.7 18:30
三谷麻里子さん主宰の「つめきり」による公演。府中市市政50周年の記念事業として、府中市美術館のエントランスホールを使ってのたったふた夜の無料公演。芝居としてのできは厳しいところもあるけれど、あたしにとっちゃ大切な、大切な一本なのです。公演は終了。
50年後の府中市、市長が「くらやみを取り戻す」と言い出して、市民は懐中電灯を持って生活するようになったそんなとき、「たきお」と姉、整形で若返った母親、市長に物言いをつける野原と聾唖の「ふみ」、市長とその補佐の小さなものがたり。というとちょっと違うな。何か大きな物語があるというのとは違って、会話やせりふの断片を積み重ねていって、作家のつぶやきのような温度を醸し出す。これが三谷麻里子節だと、勝手に想うのです。そして、あたしゃこういうのが大好きです。
正直いって、美術館ホールという場所は芝居に向いている場所ではありません。青年団ですら手こずるような場所です。席も真っ平ら、語られるものがたりは、断片、というのもあまりいい条件ではありません。少し前の公演では語られてたような、いわゆるオンナノコの恋の話の語り口もあまりないというのも、あたしとしては少し寂しい。
それでも、あたしは好きだと言えるのです。それはいくつかの補助線を、自分の中で引いてるから、かもしれません。
当日パンフで語られている三つのきっかけ。「府中市民」であることは、「くらやみ祭り」(大國魂神社)や「浅間(せんげん、と読むのだそう)」や「東八道路」といった地名、あるいは美術館北側に広がる「肝試しのできる場所」(府中基地・住宅跡地)といったもので語られます。作家自身も住んでいるこの地を観光とは少し違う視点で描きます。
「団体を持っていたけど失った」というのは、公演サイトや劇団サイトで断片が語られている、劇団としての活動を休止したことなのでしょう。市長がいろいろ呟くせりふ、「集団を作っていくことは個人のことを聞いてられないこともある」とか「基準を作っていきたい」という言葉に色濃く。
みっつめの「これからもものをつくり続ける」ということは、「限界を知った上で、僕は生きていく」という終幕のことば、かな。どうも劇作に限らないと思うのだけど、そんな力強さ。
ものがたりそのものとは何の関係もない、時折かいま見せるせりふでの言葉の選び方が好きです。「オンナノコってすぐ『なんとなく』って言うよね」「『暗い』ってのは当たり前のことだ。」「縁起のいい物を缶詰にするのは、縁起じゃないよね」「リアクション薄くなるってのは環境がそうさせるんだと思ってたけどDNAなのね」などなど。
しばらく劇作しない、という言葉も上記サイトには見えてますけど、あたしゃ待ってる。こういう言葉を、もっと聞いていきたいと思うのです。
府中は、おばあちゃんの住んでる町。最近はめっきり来なくなってたけど、終演が少し早かったので、ビールを買って、呑みながら、甲州街道、府中駅、大國魂神社を抜けて府中本町駅までの散歩。街は変わってるけど、そこかしこに見える名残り。府中本町なんか、かなりそのままだものね。
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