2018.07.14

【芝居】「ブロウクン・コンソート」パラドックス定数

2018.7.1 14:00 [CoRich]

2010年初演作。 7月1日までシアター風姿花伝。

知恵遅れの兄(小野)を支え、町工場で拳銃を密造する弟。出入りしていたヤクザが逮捕されて13年が経ち、出所してきた。13年を支えてきたのは弟分、警察とうまくやってきた。殺し屋だという非常勤講師(生津=素人)も出入りしている。

何人かでまわしていた工場も今は兄弟二人、一人にはしておけず面倒をみなければいけない状態の兄との二人暮らし。精度の高い加工技術を持つ職人が生きていくため、しかしそれが面白くて銃の加工をする。兄も手伝うが主導する弟は銃の精度を左右する銃身を削る加工は自分でやっていて。ヤクザ社会の兄貴と弟分のシノギの考え方の違いが混乱を持ち込んでいて。警察もこの工場で何が起きているかは分かっていて時に利己として、時にもっと大きなヤマのために利用している。この小さな工場に出入りする男たちの濃密な物語なのです。

それもこれも、この場所にある圧倒的な職人の技術が人を集め、それは時に良くないことを起こしつつ、暮らしていくこと。

二人の刑事の正義に対する姿勢、二人のヤクザのパワーバランス、二人の兄弟の葛藤。それぞれの関係が変化しながら、死と隣り合わせで、その生き方しかないこと、そのバランスの中で追い越されることの恐れが見え隠れするのです。いわゆる知恵遅れ、止められていたけれど銃身を削ってしまうこと、その精度の高さ。あるいは兄貴分が一挙に広げ大儲けしようとするのに対して弟は目立たずに続けることを選んでいたり、13年前も何かを企んでいたり。ヤクザに繋がる刑事たちの正義と腐敗のせめぎ合い。何かの大きな物語と云うよりは、そういって生きている人々を濃密に描き出すことが本当に居るかもしれない人が立ち現れるのです。

そういえば初演は渋谷、青山学院の大学生という設定で少々チャラい感じだった自称殺し屋は、再演の場所に合わせてか、目白駅前の大学の教員と変化。少々地味に見えて冷静でフラットにあり続ける造型に変化しているなんてのも、再演の楽しみ。

兄貴分を演じた渡辺芳博は粗雑さを、弟分を演じた今里真はサラリーマンのような細やかさの二面、年上の刑事を演じた森田ガンツは裏も表も知り尽くしたタヌキ、若い刑事を演じた加藤敦は正義が悪貨に駆逐されていくさまを絶妙に。大学教員を演じた生津徹はしゅっとしてカッコイイ。弟を演じた井内勇希は全てを背負って懸命に生きる男、いわゆる知恵遅れの兄を演じた小野ゆたかは一歩間違えればかなりよくない演出になりかねないところを、きちんと踏みとどまる確かな力。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.13

【芝居】「D51-651」ウォーキング・スタッフP

2018.6.30 17:00 [CoRich]

2012年初演作をプロデュース公演として上演。 7月1日までシアター711。

初演は観ているのですが、パイプ組のイントラに組まれた舞台、という印象が強烈で、下山事件だとは記憶していても物語を殆ど覚えてない(まあ、たいていの芝居がそう、な)ワタシです。今作は、きっちりD51、正面からのいわばファザード、あるいは回転する機関室などという形で、具象的に作りました。これはこれで印象的。

改めて噛みしめてみると、国鉄のリストラ、謎めいた総裁の死。共産主義の脅威がいわれるようになった時代を背景に、雲の上のトップの悪口を仲間内で言い合う、あるいは職場の環境を改善したいという要求を口にすることすらも、反社会的だととらわれる息苦しさ。戦時中のそれとは違う、また一つの時代の閉塞感。今とは違うけれど、決して良くはない時代な雰囲気に共通点を見いだすワタシです。

1949年の下山事件、さらには国鉄がなくなり何十年も経っていて、その時代もかなり昔のこと。リストラや慢性的な赤字などの背景を実に丁寧に。戦後、満州鉄道から帰還してきた人々で人数が増え、機関士など職種の多様さゆえに転換も容易ではなく、戦後すぐで稼がなければいけない人々。膨れ上がった人員ではもう乗り切れず、リストラを断行しなければいけない背景が、事件に関わった機関士、機関助手、車掌、あるいは刑事や弁護士、役人という人々の会話を通して描き出されます。

一度姿を消し行方不明となったあとの礫死という事件なのに捜査が打ち切られ未解決事件となっているミステリー。国鉄トップの怪死。行き詰まる捜査と閉塞感の中から「犯人を仕立て上げる」ように矛先を共産主義の弾圧に梶を切るのもまた時代の背景なのです。組合員とトップの間での攻防はあっても、葬儀で弔辞というのはある種の人間のつながり、しかしその中身が体制批判が書かれていて読まれなかった、というあたりもぴりりと辛いのです。

帰らぬ人となっている筈の下山総裁本人を思わせる人物は、役人とクレジットされた福本伸一が二役で演じます。心穏やかな人間とそこにかかる重責を細やかに描きます。機関士を演じた俵木藤汰は実によくて、職人気質で情に篤く、社会の裏表も観てきた年輪をしっかり。若い機関助手を演じた大薮丘は木訥さが混じるようにイノセント。車掌を演じた伊達暁はインテリっぽさ、労働組合に入ってるようなインテリっぽさ。警官を演じた石田佳央は権力を自覚しつつもエキセントリックで短気な人物像★、 弁護士を演じた谷山知宏は木訥に見えて内にたぎる正義の想いがちょっとかっこいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.11

【芝居】「ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ」二兎社

2018.6.30 14:00  [CoRich]

政治と既存メディアの距離感を描く105分。9月2日まで東京芸術劇場シアターイースト。そのあと全国ツアー(埼玉・三重・愛知・長野・岩手・山形・山口・福岡・兵庫・愛知・滋賀)へ。

国会議事堂を望む、国会記者会館の屋上。本来は加盟社以外には許されないが、ネットメディアの記者がデモの撮影のために忍び込むことに成功する。
総理が答えられるよう会見の想定問答の原稿を共用コピー機で見つけた若い記者は保守寄りの自分の社では記事にできないと知人の他社の記者と屋上で相談しているところに居合わせる。

何かということは明らかにされないけれど、政権に不利な証拠が出てきて開くざるをえなくなった記者会見、ここを乗り切れば国民は忘れ政権のマイナスは無かったことになるだろうという正念場。 記者会見で国民に代わって追求する役割を持っているはずのマスコミが想定問答を提供し、無事に記者会見を乗り切り政権を積極的に支えよう、ということをしている事件。世間にそれがバレたらまずいという自覚はあるけれど、バレない限りはそうすること自体は悪いことだとみじんも感じてない人々と、それに取り込まれる若者、批判的な立場ではあるけれどこれも既存メディアで記者クラブ加盟の雑誌社、そこには入ることもできず明確に取材の機械を奪われる新進のメディア。

保守と革新、右と左といった立ち位置ばかりではなく、政治を監視するという役割を果たすべき報道が、記者クラブという既得権益と一種の利益供与ゆえに切っ先が鈍るどころが政権にすりよりなれ合う構図になっていること。今作は少々青臭い理想を抱くネットメディアを切り口に、しかし過去には既存のメディアもまた理想を体現していた筈なのだという時間軸を背景に。あるいは、海外のメディアならそれを突破してくれるかもしれないという外圧頼みの頼りなさもまた、#MeTooムーブメントとBBCの番組を想起させる絶妙のタイミングなのです。

背景こそ今の政治の誠意のない会見のあり方やマスコミの状況という少々深刻な話ではあるけれど、芝居という目で見ると芸達者の役者そろい、時にオーバーアクションでコミカルに進められる物語は軽快で、爆笑が続く気楽に観られる物語に仕上がっています。 が、それはかつてテレビの演芸やコントという形でも広く行われていたことで、そんなことはありえないコントであったり、あるいは直接的で鋭く軽快な「風刺」は今やテレビで目にすることはほとんどなくなっているという事実を明らかにすることでもあって、これもまたマスメディアの層の薄さを痛感させられ、絶望的な気持ちにすらなるのです。

とりわけ、政権とべったりの新聞・論説主幹を演じた松尾貴史は、モノマネの巧さが圧巻で、口調ばかりでなく皆が嘘だと判っていても認めない、あるいは質問に答えない今時の国会答弁を想起させて本当に腹立たしいほどのリアリティ(誉めています)で描き出します。

あるいは政権べったりな公共放送の女性記者、といえばの彼女を思い起こさせる馬渕英里何は、「首相を育て上げた」とまでいう痛々しいほどに激しく首相に思い入れたキャラクタを印象的に。 お花畑とまでいわれる青臭い理想に向かう弱小ネットメディアのカメラマン兼記者を演じる安田成美は、私たちの生活の延長線上のような雰囲気もまとい私たちの視線に寄り添います。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.09

【芝居】「ワタナベの自伝」あひるなんちゃら関村個人企画

2018.6.24 17:00 [CoRich]

55分。24日までlive space anima。

余命を宣告された男は思い立って自伝を書くことにする。妹は兄にセンスがないと知っていて懸念を抱くが兄の決心は変わらない。さらに本人が見つけてきた編集者は頼りない。

自伝を書くなんて恥ずかしいことをやりたくて行動に移す兄、余命限られるからそれを応援したい気持ちはあるけどつっこまずには居られない妹、本人がつれてきたけどどうにも使えないし自覚もない編集者の三人で描かれる、自伝をめぐる物語。

宇宙飛行士だった兄、打ち上げを見に行ったけど忘れているといった今までのシリーズ (1, 2, 3) の物語にゆるやかにつながりながら、宇宙飛行士だった男のちょっとネジが外れて抜けた感じに、輪を掛けてめちゃくちゃな編集者がかき混ぜていきます。余命幾ばくもないとか宇宙飛行士、自伝を書くといった非日常な話ではあるのだけれど、ダメ兄としっかり者の妹とか、やらなきゃ行けない原稿書きが一文字も進まないとか、仕事出来ないけど調子の良さだけで乗り切るような、日常の延長線上にありそうな小さな会話をデフォルメして描きます。

宇宙から地球を見ても美しいとは思わないし、かけがえのない、というわけでもないけれど、見たことないものを見ると広がる世界、というのは、あひるなんちゃら「ピッピピがいた宇宙」のテーマ曲(pdf)にある歌詞「宇宙の話をしよう、小さな僕を知る」が根幹で繋がっていて、一つのユニバースを作り出すのです。

兄が書いた自伝を読まないと言い張ってた妹が終幕でちょっとだけ読むというラストシーン、感動に落とし込まず軽く終わるのもよいのです。 このシリーズは今まで二人芝居だったけれど、この小さな空間での三人芝居。そういう意味ではシリーズの新しい局面だったりもします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【芝居】「Next Move」serial number(ex 風琴工房)

2018.6.23 18:00 [CoRich]

風琴工房(検索しやすい名前で有り難かったのだけれど)が名前をserial numberと変えての再出発。いちどクローズドで試演されたものを同じ役者で三本の連続上演。26日まで。60分。The Fleming House

子供の頃から頭角を現し、棋士になることを夢ではなく現実のゴールとしてとらえる若者。中学生になってプロの階段を上るべく入った奨励会からの日々、26歳までに四段に昇格しなければプロになれないという厳しい世界を舞台にして、奨励会に入った頃は天才と呼ばれスムーズに進むし未来は大きく広がっているけれど、それぞれが壁に突き当たり、ペースを崩しタイムリミットギリギリまでかかってしまうのです。

現実の世界ではハイペースで駆け上がる華やかな棋士が世間を沸かせているけれど、それとは対照的に血を吐くやっとの想いでたどりつく、「凡人」の姿。もっともそれは奨励会という場所に居るだけで相当にハイレベルなわけで、そこの中での順位に過ぎないのだけれど、中学生から将棋だけの人生を26歳まで続け、「26歳の無職を作り出す」ということの現実の残酷さという舞台でもがく若者二人の崖っぷちの攻防に手に汗を握るのです。

奔放で「うるさい」将棋を指す男を演じた田島亮は、ひたすらに明るく社交的、ブレザー姿のイケてる感じもらしい感じ。対照的に本当に将棋だけの人生という投資商品、だから荒れた生活で挫折を見せる男を演じた佐野功、冷静沈着な男が時折みせるほころびの可愛らしさが愛おしく。

短い時間の中にテンポ良く、友情と努力と勝利と挫折をぎゅっと詰め込んだ軽快な一本なのです。Next moveというタイトルがまた、この劇団の「次の一歩」とのダブルミーニングににもなって、船出を祝いたいと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.06

【芝居】「海越えの花たち」てがみ座

2018.6.23 14:00 [CoRich]

130分。6月26日まで紀伊國屋ホール。

太平洋戦争の終盤から戦後の長い時間、朝鮮と呼ばれていた南北分断前から半島の南側に取り残され、あるいは自分の意志で残った女たちの長い物語。朝鮮の名家に嫁いだ女、終戦とともに支配階級でなくなった日本人への風当たりは強くなっていても不在となった家長に変わり家を守る。あるいは恋人とともに大陸に渡ったが終戦とともに捨てられた女、終戦後に原爆被害に遭った夫とともに大陸に来たり、夫について大陸に渡ったが朝鮮戦争の混乱の中、夫や子供を離れていた女たちは、この家に偶然集うようになり、暮らしている。 朝鮮戦争は朝鮮の男たちを生活の場から奪うが、ナザレ園として教会の機能と女たちの生活の場であり続けたこの場所で女たちは暮らしている。

日本の敗戦、半島の独立の時代を通して、困難な状況の中でも力強く「暮らす」女たち。それは直接の戦闘ではないけれど、マッコリ作りや駅の物売りで稼ぎ、守り、生活を成り立たせていくこと。 現実にあるナザレ園をモチーフにしながら、生まれ育った国とは断絶された国交の中で生きていく人々、女性の立場を主眼に描くのです。

4人の女たちはみな同じ国の国民として朝鮮人と結婚し大陸に渡ります。あるものは自分の意志で残り、あるものは帰りたかったがその手段がなく、あるものは日本の敗戦後にそれぞれの考えて大陸に渡り、と、この場所にいる立場はそれぞれ。それまでは支配する側だった日本人の立場はくるりと変わり、マイノリティで見下される側に変化するなかで凛として生き抜く人々の美しさ。描き方として少々理想に過ぎる感はあるものの、大きな問題ではありません。 さらには被爆した外国人の立場を交えながら、朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て朝鮮という半島のありかたも大きく変わってくるけれど、それでもなお彼らは共生しているのです。

時代を経て国交が回復しても、かならずしも一筋縄とはいかない終盤。結果は望ましいとはいえないけれど、役人を含めた現場の誠意はあり、記録ゆえに祖国には戻れないけれど、残された記録で戻れる人もいて。当時の時代のすべてではないだろうけれど、時代のありかたの矜持のようなものは、地続きであるはずの私たちの時代では望めなくなってしまったかもしれない、と絶望な気持ちにもなるのです。

終幕、あのにぎやかな時代を駆け抜けた女の死、周りの学生運動の大きな音にかき消されながら孤独に亡くなっていくことのどうにもやりきれなさはワタシの気持ちを大きくかき乱すのです。

この家を守り続ける妻を演じた石村みかの凛とした美しさ。戻れずマッコリ作りで力強く生きる女を演じた桑原裕子のがらっぱちな雰囲気、しかし恋心もあったりする可愛らしさ。夫や子供と別れた女を演じた西山水木、原爆に遭った男に寄り添う女を演じた内田慈もまた、きちんと造型。使用人で笑いを取りながら、この場所を守り続けた男を演じた半海一晃は本当に格好良く印象に残るのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.07.02

【芝居】「ボーダーリング」やみ・あがりシアター

2018.6.9 15:00 [CoRich]

婚活の現場デフォルメして悲喜こもごもに描く110分。10日まで高円寺ラビネスト。

忍者の跡取りの男は結婚して一人前になれと言われるが許嫁だったはずの女は断ってくる。結婚相談所に申し込み、婚活を始める。 ボーダー柄で声も大きくテンション高く一方的にしゃべりがちな男はパーティでもなかなかカップリングに成功しない。しのぶ、という名前の地味な女に惹かれる。式典会社に勤めているという女は、男の存在が薄いというが、それは鯨幕が見慣れているからで、むしろどんどん惹かれていく。
婚活パーティには何年もパーティに通い慣れた常連、高スペックを望もうありのままの自分を受け入れてほしいと思ってジャージ姿のすっぴんで現れる女が居たりする。
結婚を受けなかった許嫁の女もまた忍者で、この婚活パーティには、政治家の息子が出馬をねらい結婚相手を捜しにきていることを知り潜入している。

忍者などのファンタジーを交えつつも、婚活パーティの人々を点描するコメディ。恋愛よりも結婚のための相手を捜す場所、自分のスペックと望む相手のスペックのバランスの悲喜こもごも。そのために自分を変えることだったり、何に妥協しないかというこだわりことだったり。作家の経験から発せられたものかはわからないけれど、なるほどいわゆる適齢期の男女なら感じるかもしれないことを、いろんなタイプの人々を交え丁寧に描くのです。

同じ場面を何度か繰り返しますが、それは立場や視点が変わった描かれ方。慣れない婚活、慣れすぎて日常になっている婚活、政治家の息子、普通の人、化粧などで大きく変化して変わる周りの態度など、どの立場からその場を見ているかで微妙に印象が変わっていくおもしろさ。

収まるところに収まる雰囲気、ダンスホールな雰囲気は大団円ともいえますが、もしかしたら芝居と同様、婚活もまたたいていの人にとっては人生のほんの短い時間のから騒ぎでもあって、それは夢かもしれないことという印象をより強く感じさせるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【芝居】「ツヤマジケン」日本のラジオ

2018.6.8 20:00 [CoRich]

2014年の初演もそうでしたが、平日20時開演がありがたい。アゴラ劇場。100分。

初演と物語そのものは大きく変わらない印象で、合宿に訪れた女子校演劇部と、やる気のない顧問、何かを隠してる管理人と、ライフルと日本刀を携え隠れている男たちのリアルタイム。

教師に恋したり、他校の男子に恋したりはあっても、全体としては女子校の中、さらに演劇部の中だけの女子たちのないまぜな感情。モチーフとしての女子校、津山事件を借景にながらも、物語の中心となるのは、いろんな生徒たちが箱庭のように小さなコミュニティで関係をつくりながら、いろいろに感じ行動したことを「観察する」ようにゆるやかに描くこと。女子高生という属性で描くことである種の消費になってることは否めない、というのが昨今のワタシの感じ方だけれど、正直に白状すれば、まぶしくさえある彼女たちのさえずりが心地よく感じるのも本当のことで。

世界観という意味では今作は、制服をオリジナルで作るというスタイリッシュさは今回の特徴。

最初に気付く二年生を演じた藤本紗也香、イノセントで鋭くという重要なポジション、あくまでフラットにきっちりと造型。そとに恋人が居て携帯の電波を探し続ける二年生を演じた田中渚、スクールカースト上位っぽい感じ。おどおどした造型で部長を演じた鶴田理紗は美しく、きっちりとできる副部長を演じた久保瑠衣香の頼れる感じ。もう一人の三年生を演じた沈ゆうこは、楽しい筈の部活、何かを取られたようなちょっと息苦しい雰囲気が切ない。噂話が好きでしかし合コン的な交流会に呼んでもられえない二年生を演じた瀬戸ゆりかもまた、ある種のコミュニティにしがみつく必死さが印象的。隠れている男を演じた安東信助は異物感が凄くてしかし台詞から木訥な雰囲気もまた「現代的な」女子高生とのコントラストと狂気。何かを隠していた管理人を演じた野田慈伸はこの手の怪しい人物の説得力が抜群。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.06.26

【芝居】「Last Night In The City」シンクロ少女

2018.6.3 13:30 [CoRich]

140分。3日までスズナリ。

かぼちゃが頭の上から落ちてきて父親が亡くなった。母親テツコと同棲している男・もりへーは結婚する気はなく、セフレだといっている。 息子は成長し、作家にはなるが売れていない。父親となり娘を儲け可愛がるが、アートとビジネスで成功した妻からはつまらなくなりスピードが落ちたと云われている。 作家として成功した男、成長した娘やかつての父親が時々会いに来ている。作品が好きな若い女が家を出入りしている。 アルバイトの女は人との関わりを極力減らして生きているが、会いたい人は居る。同僚の若い男がなぜか懐いてきていてそれを助けようとする。

子供の頃、大人になってから、もう少し歳をとってから、という三つの時代を小さく分けたピースで同時進行的に描きます。 それは、子供の頃の父親の死が母親を救うことになったこと、そのあとの新しい「父親」との下世話で貧しくとも心豊かな日々だったり、あるいは虚勢を張って生きている子供が大人から受ける理不尽な仕打ちだったりという子供の頃の起点から、成長し自分もまた親となり、そして老いの少し前、そろそろ下り坂という時代に至っての再会。

点描される三つの時代で成長につれ別の役者が演じていたりするので、序盤はつながりのないままの場面が積み上げられている感じがありますが、それはそう大きな問題にはなりません。それぞれの時代の小さな会話が積み上がり、それはやがて三つの時代をつなぎ合わせるようになっていき、二人の男女が重ねた年月と年齢の途方もない時間、それは「長く辛い戦い」を丁寧に、時に幸せを交えながら描き出すのです。

三つの時代のつながりが見えてきてもなお、作家はいろいろな仕掛けを盛り込みます。 男の人生は、 落ちてきたカボチャで死んだ父親、それが今は一緒に暮らす父親代わりの男が意図的に母親を救うために行ったこと、その後ろ暗さゆえ結婚はせずにセフレだと嘯いていたこと、成長し妻や娘との幸せな時間、とそれが失われることの絶望。大成し名声は受けたし若い女も何となく手には入った感じだけれど、過去に捕らわれ続けることという流れ。時系列を巧妙に隠したり入れ替えたりして、娘という過去や自分が子供だった頃の過去に捕らわれ続けている男の姿を丁寧に重層的に描くのです。

いっぽうの女の人生は優しい年上の兄のはずの男から受けた子供の頃の辛いこと、大人になってから冴えずくすんだ人生を歩んでいるけれど、彼女にとってのもしかしたら、再会したかったかもしれない子供のころの友達のことを思い出して再会したいこと。 ちょっとお調子者な感じの男にそそのかされるように、車に乗りロードムービー風に探し歩くところは軽快で楽しく。

作家はさらに、二人があえるかどうかを大団円しないあたり、映画モチーフは多くても、ハリウッド超大作なハッピーエンドな感じにはしなくて、ちょっとヒネたほろ苦く味わいのある物語を描き出すのです。ここ数作の若くない男女たちの、必ずしも恋愛感情というのとは違う「そう生きてくるしかなかったこと」と「しかしここまでの人生を振り返ってみること」を濃密に描き出す作家のマスターピースになると思うのです。

作家の子供時代を演じた細井準のイノセントさ、売れてない頃を演じた斉藤マッチュの子煩悩&愛妻家、大成してからを演じた泉政宏の軽さとちょっと影のある感じの時系列。あるいは娘を演じた浅野千鶴や祖母を演じた田中のり子は子供や若い頃と、その後の二つの時代を演じているのはこの二人だけ、仕掛けとして亡くなったからそのままの成長という役の当て方もいいバランスだし、観ていてたのしい。

近所のお姉さん、成長してから愛想なく孤独にアルバイトとして働く女を演じた小野寺ずる、浅田直美は子供の頃のとがり続けているテンションの高さ、きっと睨んだような硬い表情の子供っぽさ、あるいは成長してから丸くなるのではなく諦めた雰囲気という厚み。 成長した女を唆して、人捜しの旅のバディとなる男を演じた横手慎太郎も軽口叩きながら人への敬意と支えたい気持ちを滲ませる人間臭さ。対照的に 義理の兄にあたる男を演じた中田麦平は序盤の礼儀正しさからの豹変の怖さ。

セフレと嘯く男を演じた用松亮は実に良くて、軽いどころか酷い感じなのに、終盤に向けてどんどん人間くさく、そして愛に溢れた人物をかたちづくっていきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018.06.18

【芝居】「無伴奏ソナタ」キャラメルボックス

2018.6.2 14:00 [CoRich]

2014年の再演と同様の、観客に会いにいく、というグリーティングシアター。 120分。東京、栃木、愛知を経て、長野県・中信地区での高校に向けての芸術鑑賞公演の合間に、まつもと市民芸術館の1ステージ。このあと大阪(地震がちょっと心配ではあります)。

ワタシがいっとき住んでいた長野県・松本市での上演に勝手に盛り上がるあたしです。移動と上演を繰り返すこのスタイルは座組にはつらいかもしれないけれど、芸術鑑賞という形態で初めて舞台に触れる高校生や大人たち、というスタイルはたとえば四季や青年座が巡回の演目を持っているのと同様です。 とはいえ、テレビドラマやアニメで普通に彼らが触れるのとは別の種類の物語で演劇というスタイルの上演に触れられるのは、そのときはつまらなくても体験するということの重要さ。

長野県での唯一の一般向けステージは、1800席のメインホールが満員とはもちろんいかなくて、一階席の半分という感じだけれど、かつて観ていたけれど移住してきたなどの小さな同窓会がロビーのそこかしこである楽しさ。若者だけではなくて、かつての観客へ逢いに行くというグリーティングシアターの姿。ちょっと住んでたワタシが偉そうに言うのはアレだけど、ここの土地柄、知らないモノに対する最初の警戒感みたいなものはけっこう高いけれど、定期的に触れることで良いものが受け入れられていく土地なので、スパンはあっても定期的に繋がるといいなと思うのです。

劇団員が町を歩き、twitterやblogを通じてその土地の事を語るのを眺めるのも楽しいのです。

物語の印象は前回の上演とそう大きくは変わりません。 誕生直後の父親と母親の前段、芸術家たるメイカーたちの森で他の音楽から断絶して暮らしている中で禁断のバッハに触れて転落してしまうまでの第一楽章までは物語の枠組み、それは実に静かで「クリーン」な環境として描かれます。このSFとして描かれる世界がどういうものか、という説明ですが、ここが重く、長く、テンポも良くはないので舞台の流れとしてはなかなか厳しいところ。

猥雑でコミカルで軽快な第二楽章、ダイナーのシーンはにぎやかなカントリー風でコミカルでもあって、見やすい。そのなかで諦められない人間の業によって繰り返されるある種の悲劇の序章で物語が転がります。 その悲劇を経ての第三楽章、工事現場は軽快というよりは人々が生きるための音楽。それはこの場所で生きる人々でもあるし、指を失ってもなお、それを諦められない業でもあって。その場も失ってしまうけれど、作り出した歌は残り、人々が歌い、それを目にするのはクリエイターにしかなし得ない救済なのです。

それぞれの場面の音楽は人類と音楽の歴史という流れというのはワタシには新しい発見。自然の音からクラシック、カントリーミュージックを経てフォークソングというかロック、小説とは異なる、音楽の付いた体験はなるほど、舞台だから、の魅力なのです。 ウォッチャーを演じた石橋徹郎が冷徹な美しさ、カーテンコールの笑顔のギャップ。アメリカに憬れる移民を演じたオレノグラフィ(なんせ大河ドラマ俳優だ)が軽やかで楽しい。ダイナーの主人を演じた岡田達也のコミカルさ、それまでの重苦しさから物語を転がし始める原動力。 現場主任を演じた岡田さつき、なかなか観られない役なのが楽しい。

» 続きを読む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«【芝居】「ケレン・ヘラー」くによし組